一一の微塵の中に悉く見る 仏刹の海 

【昭和52年8月5日 出西窯創業30周年記念法話より抜粋】


一一微塵中見仏刹海

華厳経は、お経の中でも大事なお経でありまして、お経の全集みたいなものです。古いのを旧華厳といって六十巻ありますし、新しいのは八十巻あります。その旧華厳の第五十一巻にですね、「一一(いちいち)の微塵(みじん)の中に悉(ことごと)く見る仏刹(ぶっせつ)の海」とあります。

 一つ一つの微(かす)かな、ほんのちょっとの塵(ちり)、此処はちょうど土の仕事をしておられるから思い出すのですが、その一つ一つの塵の中にも仏さまの世界が皆備わっている、無いものはないのです。「仏刹」の刹とは国と言う意味ですから、仏さまの国には「海」、海というのは広く深いから、魚も、海の底にしか生えない草もどんなものでも海の底に行けばあるように、「一一の微塵の中に悉く見る仏刹の海」とは、どんな小さな塵の中にさえも仏さまの国の海が満ちていて、仏の智慧や慈悲の世界が皆備わっているというのです。

 これは東洋の思想にしかない思想で、西洋にはそれに類する句はないのです、類する思想がないのですね。

 西洋というのは、人間の理性というもので取り組む範囲だけで、それはもう立派な人、レオナルド・ダビンチというような、よくもああいう人が生れたものだというような人が近世初期のイタリアに出ました。古代にもプラトンなどが出ておりますし、また近世のドイツにゲーテというような、人間の知恵をみんな集めたような人も出ていますけれども、そういう人の仕事は豊かなものであっても、今私の目の前に咲いている、自然のこの一輪の花に及ばないと思います。

 何故かというと、この一輪の花の中には、太陽から受けた働きも納めているし、降った雨の、その潤いも宿しているのですね。地から吸った養分もみんなです。

 お日さまも、水分も、それから地球のこの養分も、そのほか人に踏みにじられれば訳もなく枯れてゆくのですけれど、踏みにじられずにここまで咲き続けてきたその自然のお護り、それらをみな宿しているのです。

 そういうようにして、一輪の花を目の前に、そのあふれるような自然の豊かさを感じていると、今申し上げたようなダビンチとかゲーテというのは、偉大な人だけれども、まあ知れたものだというような気がしますね。この花の何分の一も仕事をしていないのです。この一輪の花が咲くのに必要な自然の豊かさというものを、そんな偉大な人でも一輪の花の半分も発揮していないのですよ。

 だから人間の出来る仕事というものは、人間の力を出すだけ貧弱になってくる。

 この花がなぜ豊かかといえば、自然の力を思う存分に咲かせているからです。この花が一輪咲くのには、太陽の力なしには咲かないし、雨が降らねば咲かないし、地球の養分を吸わねば咲かないし、人が踏みにじっても咲かずに枯れるのだから、踏みにじらさない自然の護りというものの中に、この一輪の花は咲き得ているのです。

 そういう豊かさを感じると、人間の、まあ力いっぱいやった仕事でも、知れたものだというような気がします。

 ですから、人間のやる仕事に、この自然の豊かさを盛り切らなければ、花一輪にも及ばないという事になる。自然の豊かさを盛れば盛るほど、その仕事はまた人間でなければ実らされぬ尊さがあるのです。

 人間というものは生物進化の頂点ですから、地球が太陽の周りを廻っている、一回も欠かさずに何十億年廻り続けているのは何の為に廻っているのかというと、結局生物進化の極致としての人間の仕事が、こういう自然に咲いた花以上のものをつくり上げる為ではないでしょうか。

 レオナルド・ダビンチのような人の仕事でさえ、地球上に生れた人間の中で類が無いが、日本の弘法大師さまなどに喩える人もありますけれど、大師と並べるのはチョット筋が違うと思います。

 西洋人と東洋人の違いというのは、自然の豊かさを人間の力ではじめてそこまで押し出せるかというような、そういう文化を、東洋の文化というものは形に打ち出しているのではないかと思います。

 だから見かけは西洋に及ばぬけれども、中身はまた西洋も及ばぬような、例えば弘法大師が書かれた字は、これはもうゲーテやダビンチを何十人集めてもとてもそばにも寄れるような字では無いと思われるのです。

 大自然のいのちが、じかに動いているようなあの字ですからね。人間が力いっぱいを出した程度のものとは比べ物にならぬと思いますね。

 それでそういう意味の、人間としての本当の仕事が出来なければ、私は地球が太陽の周りを何十億年と廻り続けた意味がないと思うのです。

 一回も間違わずに廻っている、何十億年も廻っているのに、今からも廻り続けるでしょうけれども、その地球の上でね、ただ原子爆弾とか水素爆弾とかその類いの物をいくら造ってみたところで、これは子供の悪戯みたいな程度ではないでしょうかね。破壊には威力を出すけれども、中身を実らし切ってゆく人間の値打ちには関係ないと思います。

 実際私は原爆で死ぬところを助かって、はじめてお寺さんにしてもらう気持ちになって、お坊さんの生活をしているのですが、しかしなぜあの時お坊さんになったかというと、本当に人間というものは、まあ浅ましいものだと思いました。戦争をすること自身が情けないことですけれど、しかし勝つためには原爆でも投下してしまうのですね。

 原子爆弾を造るという事はすごいことで、日本でも造っておったら投げていたでしょうけれど、しかし勝っても負けてもそういうことしかできぬという事は、私はそれでも進化した人間のやることかどうか疑問だと思いますね。

 今日の世界の政治もみなその程度のことしかやっていないのです。もう駆け引きと間に合わせですね。人間がどういう方向に進んでいかねばならぬか、という事を分かっている政治家は私の見たところ無いに等しい。そんな政治家にまぜくられておったら、せっかくお釈迦様も出られ、弘法大師もお生まれになって、こうして後をついて行く我々としては、ちょっと頼りないと思いますですよ。

 阿弥陀さまの本願を説いた無量寿経を読むと、「善を作して善を得る」とある。

 善を作すといっても、人間の出来ることは本当は何もないのです。そう、破壊は出来ますですよ、この焼き物を落とせば割れますから、そういう破壊は出来ます。ところがこの焼き物だって火の力も借りなきゃ出来ませんからね。また水が無ければ土を捏ねることも出来ません。それから土をこねる手というものもこれまた百億円出しても此の手を買ってくるわけにはいかない、自然に付いている。本当に人間がここまで進化したから具わっている自然の手ですからね。そういうようにしたものが皆一緒になってこの焼き物の壺一つでも作られているのです。

 破壊する事は出来るが、「善を作す」という仕事は人間の力ではできませんよ。第一、手を自分で作る事は出来ない、水を一滴でも自分でこしらえることも出来ないのだから、そういう大自然のおかげを、生かせば生かすほど此の臺は値打ちがあるのじゃないでしょうか。

 だから、そういう意味で、善いことをするというと金を儲けたらみないいように思うけれど、善を作すとは金を儲ける事ではないのです。

 金が無くては出来ぬことも多いですけれど、「善を作す」の作すという事は、その自然の、例えば私なら私に宿された含蓄というものがあるのです。私にしかできない、私がさせてもらおうと思えば心がけ次第で出来る、その自然の含蓄を実らせてゆくことなのだと思いますね、「善を作す」という事は。

 ただ早く出世したとか大きな家が建ったという事ではなしに、それも悪い事ではないけれども、しかしそれは見かけであって、今申し上げているのはその中身のことです、心の含蓄のことです。

 「善を作す」というのは、人間として進化してきたその中身を実らせてゆくという事です。お経に「善を作して善を得る」とこう書いてありますが、そうして初めて善が身につくのですね。

 続けて「道を為して道を得る」とありますが、仏道も道ですし、皆さんのお仕事の芸道も道ですね。その「道を為して道を得る」、自分が実際に実行しておらぬと本当の自分が「もの」にならぬのではないかと思います。自分が「もの」にならないようにしていたのでは、自己破壊ですから不自然なことに終わるわけですよ。

 「善を作して善を得る」とか「道を為して道を得る」という言葉が無量寿経に出てくるけれど、自然の含蓄を自分なりに実らせてゆけるのは、またやはり自然のお蔭を受けないとできないわけです。自分がうまくやったとうぬぼれるほど、又うぬぼれることが出来なるような仕事はこれはもう、見かけは良いかもわからぬが中身はさっぱりのことです。

 人々が本当に敬服するような仕事をしている日本人はたとえ新聞に出なくても、人が騒がなくても、毎日毎日を一生懸命にやっている人はたくさんおります。そういう人の方が多いのです、それが日本を守っているのです。私は、千年たっても日本が光るというような仕事には、そのような仕事しかないと思います。

 今見かけが良いとか、人がなりたいというような事には残念ですけれど、本当のものが少ないのじゃないかと思いますです。そして、そういう意味の本当の仕事ならば誰でもできるのですよ。どんな方でもできるのです。

 体裁が良いとか、見かけがましだという仕事になると余程の才が無いと、間に合わせのきく人でないと出来ませんから、百人に一人もない。

 この頃日本は学歴社会で、変えなければいけない変えなければいけないと騒がしいけれども、騒ぐ人たちが一番学歴にとらわれている人です。

 例えば、私がこうしてお念仏をしますが、そのお念仏の会を始めた人は、弁栄上人と言いまして、今度五十周年の追恩別時念仏会記念に、『弁栄上人遺墨集』を出すのですが、弁栄上人は千葉県の人で六十二歳で遷化されましたが、最後の十年間は大半九州で宗教的な活動をなさりました。その為に晩年のご揮毫は九州のものが多いのです。

 明治以後名高いお坊さんはたくさん出ていますが、弁栄上人ほどの書画のすぐれた方はないようです。 

 弁栄上人は今私が上首をしている光明修養会を始めた人ですが、小学校を出られただけなのです。大学を出た人ではありませんですよ。それでも開祖として崇められて、京都の本山での五十周年記念講演でも千人余りの信徒の人が全国から集まりました。学歴社会というけれども、弁栄上人には学歴はないのです。ですから、学歴社会と言って騒ぐのはその程度のことで、ただ見かけの良いことを求める人が言ったり、競争したりしているだけではないでしょうか。弁栄上人のように、大学など出ていなさらなくても、大学を出た人が皆何十年たっても頭を下げるような、そういう生き方の出来た人だからこそ、書かれた文字や絵が抜群なのです。

 見かけや外形の世の中を、形式的に相手にしていても駄目で、我々の生き方というものは、一人一人が、自分が自然にこう恵まれて、こうして病気で寝込むこともなく、生き働けるとことができるというだけでも、どんなに喜んでよいのかわからないのですよ。

 また、死ぬまで養生しても良くなる見込みのない人で養生している人もあります。その養生の世話をしている人もある。若い人でも養生の為に半分手をとられて、録に、したいことも出来ずに生きている人もたくさんあります。しかしそんな中にあっても、自分の心の持ち方一つで、本当に前向きに生きて行けるような生き方もできるのです。そう思える健康状態と生活状態があるだけでも、どんなに喜んでよいかわかりませんですよ。たとえ養生が必要であっても、生きられることに無条件に手を合わせることが出来るほど、生かされているということは有難いのです。

 世の中には羨むことは、一つもないのです。 

 一輪の花でも、人間の文化史上最高の人と比べて遜色がない、此の咲き出でている花の見事さというものは、それが解らぬから、野末に咲いているだけの何でもない花だと思うだけで、人に踏みにじられもせず今目の前に見せて戴いている此の咲き方というのは、本当に素晴らしい事なのですよ。そういう咲き方ならね、生き方なら誰にでも出来るのです。

 誰でも出来るのにしないだけの事ですよ。めったに出来ない人を羨んで、そして学歴社会とか言っているけれど、実際に学歴社会で学歴に「もの」を言わせて得をしていると思われている人の仕事が、本当に得かと言ったら、まあ気の毒千万なのです。格好だけを見て中身を考えぬ人がうらやましがっているだけのものです。

 だから中身を考えたら、世界に類のない、自分で初めて出来るという、そういう生き方が誰でも出来るのです。男子にはできなくても、女子にしか出来ないことがいくらでもあるのです。反対に女子には出来ずとも男子にしかできないこともあるのです。自分で取り組む仕事の中身は、結局自分が決めるのです。その自分というものは、先ほど申し上げたように土一片でも、大自然のいのちの、そのいのちの根源を宿しているのです。

「一一の微塵の中に悉く見る仏刹の海」です。

 私どもは、太陽の周りを地球が何十億年と廻り続けているのは、ただ廻り続けているのじゃない。やがてそうしている内には、お釈迦様のような人が出てきて、今のような自然の深い生き方を悟るのですね。そうしてそのお話を聴いた人は、またそうした心になって人に出会っていく、そういう永遠に光る人間の文化が自然のいのちにつながる為に廻っているのですよ。

 だから、お釈迦様のような人が出て来なければ、地球は廻った甲斐が無いのです。

 だが、お釈迦さまが二千何百年前に出られた後はさっぱりというのでは、これもまたおしまいですが、しかし日本にも弘法大師さまとか、近くはこの弁栄上人のように、本当にお寺さんをみんな集めても足許にもよらんような、そういう生き方を出来る人が表れてくるでしょう。

 それなら誰にでもできるのです。しようと思えば、老人でも、青年でも、男子でも、女子でも、誰でも出来る。なぜ出来るかと言えば、初めに申し上げたように、「一一の土の中に、一片の土の中に、大自然のいのちの智慧も慈悲もみな宿している」のですから、それが実れば良いのです。持っているものが出てゆけば良いだけなのに、それを出さぬように邪魔する生き方ばっかりを自分がしているのです。

 格好ばかり考えたり、学歴ばかりに振り廻されているだけで、文句を社会に向かって言っておるような事では何にもならない。それじゃ、東大なんかつぶせば出来るかといっても、つぶしてもダメです、人間の心がそうしているのだから。心が直らねばダメです。どっちが元かと言えば心がもとです。

 そういう社会にあっても、格好など眼中におかないで、おしまいにならずにこうして生きることが出来るわけです。どちらが中身の値打ちがあるかと言えば、あと五百年千年たって人が決めてくれることでしょう。

 良寛和尚は、乞食の中の乞食で、その日の生活も難しかったほどに貧しい生活をした人ですが、今日良寛和尚の右に出るような書の書ける人は一人もおりません。だから後に決まることもあるのです、本当の中身の値打ちというものは。

 そういう中身の値打ちなら、南無阿弥陀仏で皆さんの誰もが出来るのですね、生きられるのです。どうか皆さん、そういう誰もが、すぐに世界最高の中身の実る生活が出来るとすれば、私はその方へ取り組むのが本当だろうと思います。それを取組んだ人だけが、文化史上の華です。

 それは生きている間は恵まれないかもしれませんですよ。でも死んでもその後でね、人類を照らすようになってくるのです。だから中には恵まれている人もありますが、しかし恵まれたからそうなったのではない、関係ないのです。その証拠に、良寛和尚のように一番恵まれぬ人でも、そうなっていますからね。

 だから外見は第二として、中身を第一に生きようという心だけ決まったら、もう見違えるような生活の道が開けると思います。それには南無阿弥陀仏です。

「つまらん」というのは、自分が勝手に迷うだけの事であって、つまらんものは一つもないのです。そのことを「一一の微塵の中に悉く見る仏刹の海」というので、それが南無阿弥陀仏によってわかるのです。

 またそう聴けば、眼前の花一輪でも、本当に尊いものではないかと思います。

どうか皆さん、お互いにそういう方向で、生きる精進をしたいと思います。ご清聴ありがとうございました。

南無阿弥陀仏 十念    (出西窯発行『無自性』参照 石川乗願 文責)