十二光 念珠
 




明治43年の5月に団参で長野善光寺に参詣された聖者は、その帰途、かねてから御縁のあった長野市静松寺を訪れ一ヶ月ほど逗留されました。その折、境内の桜の古木を素材として新発案の念珠を作られます。後に光明会員が常用するようになりますが、三身(法報応の三身)・四徳(一切知   一切能   智慧   慈悲)・十二光・三心(信 愛 欲)の二十二顆を配した一連の数珠に、衆生の心が如来に合一して救われていく意義が表現されています。

念珠の説き明かし


念珠の説きあかし

此の念珠は宗教の真理なる、ナムアミダ仏の要義(わけ)を表示(あらわ)したのである。ナムは己が一心を献(ささ)げて帰命信頼すること、アミダ仏は絶対的偉大なる力を以て救いたまう如来である。上の三顆は如来の三身、次の小なる両方のは法身の一切知と一切能とにて、次の両方の六顆づつは十二の光明、次の二の小顆は報仏の慈悲と智慧とにて、下の三顆は衆生 南無の三心 信と愛と欲との意(こころ)である、斯の一連に如来の聖心と衆生の心とが合一して救わるる意義(わけ)を表したのである。

 如来三身 アミダ仏は宇宙に最尊第一に在(まし)まし 本一体なれども 法身、報身、応身との三身に分かれて在(あり)ます。

法身は天地万有の本体にて 万法を統制(しはい)し万物を産出し 。全体を通じて其の体とす。故に宇宙は活(いき)る如来である。衆生は法身から分かれたる分子(こ)である故に 仏性と云う仏になり得る卵子である。然れども其のまま自然に仏に成ることはできぬ、衆生仏性の卵子を慈悲と智慧とにてあたため孵化(かえ)し仏として下さるのが報身仏である。報身仏は宇宙最高の光明永(とこ)しえに輝ける常楽世界に在(ましま)して 麗しき相好(すがた)を具え光明普く十方世界を照らして 帰命信頼(たのむ)衆生を摂(おさ)め取りて弥陀同体の身として下さる如来である。応身仏は報仏の分身にて 此の世に出でて人身(ひとのみ)を以て衆生を常楽に導きたまう教主釈尊である。教化畢(おわり)て八十歳にて本の光明界に還りたまう。斯く三身に分れたる本一体である。一切知一切能は 法身仏が天地万物を開発するに 秩序を整い生活活動せしむる自然の働きである。

 十二光 如来の霊徳無量なれどもこの十二の中に悉く摂して遺すことなし。無量無辺無礙の光は宇宙に充満する体相用の三大である。

 無量光 宇宙の本体諸仏の本地 万物はこの本体に本づきて存在す。此の本体を悟らざるを衆生と云う。この如来心を体得するを

諸仏と名づく。

 無辺光 相大 如来蔵に一切万法無辺の聖徳(せいとく)を具して欠くることない。而してこの光にて万法を照らす。此れを証(さと)るを諸仏一切智と云う。

 無礙光 如来の一大霊力(れいりき)である 一方には天地万物の造化の大用(はたらき)にて 一面には衆生を摂取の為に応報の仏身土を現じ 衆生を度したまうこの光が一切諸仏菩薩諸善万行の一大原動力である。この三大光が宇宙に遍く亘(わた)りて常に大活動を為し 天地万物を開展し また一切衆生を仏界に摂め取りて成仏せしむるのである。

 無対光 本覚の大ミオヤの許を迷い出し 真に背き妄(もう)に随い 光を失い闇(あん)にある衆生を憐れみ 絶対威力を以て衆生を摂めてミダ同体のさとりを得さしむ。如来に同化する時は 彼と我との相対でなく絶対的に同体不二の身と為して下さるから無体と云う。

 炎王光 喩えば大火炎を以て諸々の不浄物を焚(やき)尽くすが如く 如来大威神の光は衆生の煩悩と業と苦とを焚(やき)尽くして諸仏の功徳を与えたまう故に炎王光と云う。

清浄光の下四光は衆生の心を霊化する妙用(はたらき)である。

 清浄光 汚れの心を汚れの心を浄(きよ)めて美化(うつくしく)する光(こう) 私共の六根(ろっこん)は外界(そと)の色声香味触の六塵(ろくじん)の為に汚染(けが)され 六欲(ろくよく)の為に卑劣に流れ 肉欲に溺れ ついに悪しき習慣は其の性質までも汚すことになる。然るに六塵の汚れを浄めて日に新たにして六根清浄に快く潔くして下さるはこの光(こう)である。

 歓喜光 苦を抜き楽を与う 人生苦悩多し 生存競争の激しき世に種々の苦悶は逼り来る中に於ても春風駘蕩 ときわの春に心の花開き 身は此土(ここ)にありて神(こころ)は浄土に逍遥(すみあそぶ) 法喜禅悦(ほうきぜんえつ)の楽しみはこの賜(たまもの)である。

 智慧光 迷いを転じて悟りを開かしむ 無明癡闇(こころくらき)の凡夫 一寸先が闇である。然るにさかしき智は還りて己を欺きて断常二見(だんじょうにけん)の坑(あな)に陥り易い、喩えば日光出れば万境(すべて)一時に照らす如く、仏日(ぶつにち)の光明の下(もと)に真理にかなう智慧も生じて一切の仏法をさとることを 

うるはこの光(こう)である。

 不断光 私共の悪しき意(こころ)を転じて善き心に霊化(なお)して道徳的の行為(おこない)をなさしむるの光(こう)である 人間一日八億の念が私慾の悪意より衝(つ)き出だす念は悉く悪道に向って盲動(もうどう)するのである。若しこの光(こう)にて心意(こころ)一転して如来の聖意(みむね)より出づる心として 身と口意(くち)に於て作(な)す業(わざ)は皆自ずから仏身と相応し仏行となりて 日々に光明中の働きをなさせて下さる。

難思光の下三光は光明生活の三階位である。

 難思光 喚起の位 初心の輩(はい)は如来の光明とは何(いか)なる状態なるかは未だ経験せざることなれば 量り知ることができぬ故に難思と云う。若し光明の真理を聞きて専ら称名し または冥想 観念 讃美 祈祷を以て信念を養う時は早晩(いつか)機熟して微(かす)かに霊光に接して心の曙(あけ)となる、これを喚起の位とす。

 無称光 開発の位 信念稍(やや)進み 内に薫発(くんはつ)の因あり 如来慈愛の光(こう)に催されて歓喜の一念に如来心と融合し 信心花開きて光明を実感す。其の妙味(あじわい)は自ら証知(しょうち)するも他に説き詮(あら)わすことは能(あた)わぬ故に無称と云う。

 超日月光 体現の位 已(すで)に光明中の人となりてからは 日々(にちにち)三業に為すことは悉く光明を身の行為(おこない)に現わす故に体現とす。如来は心霊界の太陽なれば超日光(ちょうにちこう)と云う。霊光の下(もと)に生活活動することである。

智慧と慈悲とは報身仏が念仏衆生を摂(おさ)め取りたまう、左右の御手(みて)である。

衆生 南無の三心 如来の光明を得んと欲せば必ず三心を具うべし。即ち十八願の意(こころ)にて 至心に、信楽欲生の心(しん)である。至心は真実心にて如来の霊心(みこころ)と合する衆生心(しゅじょうしん)の形式にて信愛欲はその内容である。

信は如来の不可思議の霊力(ちから)を信じて 全心(ぜんしん)を献(ささ)げて信頼するので、信に三位あり。仰信(こうしん)は一心一向に不思議の力を信じて疑慮(ぎりょ)なき者は自ずから仏心と相応して救わる。解信(げしん)は如来大願の意義(わけ)を領解(りょうげ)して

信を立つ。証信は実習の功果として光明を実験して信を得。何れにしても実に信じて疑いなきを要す。

楽(ぎょう)は愛楽(あいぎょう) 感情の奥に仏心と融合し 全く如来を我が物となるは愛である。如来を愛するに三位あり、一に親の如くに愛慕し、二に異性に対する恋愛の如(よう)に一心に仏(ぶつ)を恋愛し、三に如来を大なる真の我として愛す、之(これ)を愛楽(あいぎょう)とす。

欲望 宗教心の欲望 真善美の極みなる霊国(みくに)に生じ、仏(ぶつ)とならんとの望みである。此(ここ)に三位あり、一 願作物心(がんさぶつしん)、仏の子とならんとの欲望(のぞみ)、二に正(まさ)しく更生(かわり)て仏子(ぶっし)と成し時と、三に聖子(みこ)の職(つとめ)たる衆生を度せんとの望みである、この三心は知と情と意とに於いて如来心(にょらいしん)と合すべき衆生の心である。

念珠の表示を略して明かしぬ。願わくは諸々の賢者(はらから)と共に大みおやの光明によりて今後世(いま・ごせ)を通じて安寧(やすき)を得んことを祈る。仏陀禅那 欽(つつ)しみ言(もう)す。