永井辰次郎尊者

『浄土観見記』




永井辰次郎師の事

日向美則氏著作『愛の観想』より

第三章 永井尊者・浄土観見記

ここに三河岡崎市明大寺町〔現在は岡崎市明大寺川端十一番地〕に永井辰次郎という尊い信者あり。極貧の中より日課三万遍のお念仏を一日として怠りなく三十年を相続せられ、その上十善戒を一日に一善ずつ修せらる。大正三年二月十一日夜半、一旦極楽に往生されしも、娑婆に未だ七ヵ年十三日の余命ありとて同十二日の朝、蘇生しきたり、いとも有難き極楽の実見談をなすに付近の人々聞いて尋ねゆきて空しき人ぞなし。皆、菩提心を起こすこと不思議なり。

(中略)

大正八年秋の頃より尊者に会い、お浄土の実見談を直接に聞かんと志望燃ゆる如きも如何せん。多忙の実家意の如くならず、漸く都合致し、大正九年九月七日に北海道の自宅を出発、三河の岡崎駅に着きたるは九日午後七時なり。その夜は駅前旅館に一泊、夜明けを待ち朝の一番電車に乗車、殿橋停留所より十丁余りにして永井尊者宅に着。早朝なれば表戸閉ざし、ただ御家内の人台所にて高声念仏の声のみ。間もなく表開きければ「御免下さい」と呼ぶ。尊者は襖を開き給い、従前に手紙に紹介しあれば名刺を差出す程に、尊者は手を取り、大層御よろこびの御様子にて奥へ案内し給う。而して、初対面の挨拶終り、一見するに尊者の風采は御質素にして、御音声も低く、話して聞かすが如き態度なし。至極円満の御相好殊勝なり。早速、御内仏に相向いて坐し、私は来訪の事情、目的を語るに尊者の曰く。「前世に於て、逢うべき深き因縁を結びたる故今世に於て相逢うて、相語るを得るのじゃなー」と。合掌されて低声念仏暫時なれば当方言葉もなし。

尊者に申す。「願くは尊者青年時代にはじめて念仏門に帰依されし発端より、日課三万遍のお念仏を一日として怠りなく三十年を相続せられ、その上十善戒を毎日一善ずつ持たれし因縁の根本より、尚大正三年二月十一日、一旦極楽に往生なされし実見談等、今日迄の御消息承りたし」と。

このお願いに、尊者はあらまし次の如くお話あり。

「私の先祖は岡崎在城の時代は水野公の家臣で永井磯右衛門といい、私はその八代目の子孫。世の中の転変と共に昔の俤は消え失せ貧に生まれて学問の暇はなし。ボロ買いを家業として漸くその日暮しの境遇、文字も知らず智慧もなし。順を追うて話す事もできず、只私の成来たった事や、又お浄土を見させて戴いた事を思い出しては話しましょう。

私の檀那寺は浄土宗で父はよくお念仏された方。母は本願寺のお説教を好んで参られた。私の一家は菓子製造業をしていたが明治十七年、菓子職の規則が改正になって帳簿記入が仲々難しくなり、無学の私では出来なくなったので遂に廃業。その後ぐずぐずしている間に明治十九年に始めてボロ買いを始めたが近所では恥ずかしいので先ず一里位の所へ商いに行く事にした。それより、十五、六日過ぎて今度は二三里行くと池金という所の小さい草家に老母が一人みえて、これはこれはよい所へきて下された。お前さんに売るものがあると云い、奥から一枚の敷蒲団を持出してきた。私は如何程で買いましょうかとその蒲団を手に取ってみると驚いたのは、其蒲団にはっきりと人の形に焼け跡がある。わしはいやな気がして、お婆さん、これは一体どうしたのですかと聞いたら、本当の事を話すから決して人様に話すなと口止めされました。『実は此の家はもと独身のお爺さんが住んでいたが、先日病気で亡くなった。死ぬ十日程前から、ああ怖い怖い、鬼が火の車を持って迎えにきた。ああ熱い熱いと云い乍ら死なれたらとうとう黒こげの身となってしまった。この爺さんはこの世から地獄へ落ちて行ったに違いない。その爺さんの介抱を私がしていたが、実に今思い出してもあの悲鳴が忘れられん。この爺さんはそんなに悪人でもなかったが一生涯、仏法僧をそしってばかりいて一口のお念仏も称えなかった人やと聞きました』。さてこの蒲団は私の云い値で売ってくれましたが、布をとき、中の綿を見るとハッキリと人の形が通っているので、帰りに岡崎の伊賀町伊賀重という綿屋に売ってしまったがそれ以来、私は妙にその老婆の話が胸にきざみついて忘れられず、私はこれ迄未来往生は半信半疑でしたが、今その証拠を見たのでこの儘ではおられぬ、早くお寺へお参りしてお説教聞こうと思うても、何分にもその日その日の生活に追われる身。或日の事です。岡崎の伊賀町を通りかかった時、俄かに夕立に会い、浄土宗の晶光寺へ一寸雨宿り、寺の縁に坐っていたら、その時、浄土宗の大徳、志運和尚のお説教中であった。ああこれは天祐の夕立と私は感謝して一心にお説教を聞いていたましたら、支那の善導大師様のお話でした。阿弥陀如来様は、たとえお念仏一日に一声お称えしても十声お称えしてもお浄土にお助け下さるが、一日に三万遍以上日課お念仏つとめる人は、お浄土の一番上等の位に往生さして下さるというお説教でした。私は嬉しくて嬉しくて早速、我が家へ帰り、お仏壇の御仏様に必ずこれから三万遍のお念仏をお誓い致しますと、それから又、お観音様にもお誓いを立てました夜、不思議な夢相から、この夢が確かに石山のお観音様のお付添いの不思議な事もありましたが、長くなりますからこれは略します。

さて御仏様に日課念仏三万遍をお誓いしたが仏様に坐りながら数珠をくってお念仏申すという様なぜいたくな事はとてもできぬので、ボロ買い家業ゆえ荷をかついで街道や辻を歩き乍ら、あの松からこの松迄、或は村から村迄、茶屋から茶屋迄、何丁ある故に何百遍という様にして三万遍を称えていました。私は字は一字も読めませんのでした。この様な事で本当に赤貧でありました。今は九つになる男子がおる。娘は町の方へ行き家内は工場へ毎日行っている。まあ、お陰さまで日課念仏は一日三万遍ずつ三十年程つづけさして貰いましたが、不思議な事に一度死んでお浄土を拝みまして蘇生してからは、急に机を買うやら硯を買うやら三部経を買い、読まして頂いているが、私がお浄土で見てきたのと同じじゃで、このお経を見ては思い出して話すことです。私は元来、浄土宗だけしか知らない者であるが、真宗の方々は御果報なものと思います。云々」。

その殊勝なるお話は、私の胸に徹し、歓喜にあふれ、暫時が程は低声念仏に余念なかりし。尊者は老体を顧みず、恰も旧知の如く肉親の如く温和にして親しくお話し下され、また地獄の苦相語られし時は尊者自らふるえ、落涙し、声ふるわせて「私等がお念仏申すばかりで、毎日三塗(地獄、餓鬼、畜生)の悪業が切れてお浄土へ参らして下さるのじゃ。これは悪業よりも念仏の正定業が強い故じゃと思う」と。

尊者又曰く。「皆様は、こうして今日は無病で人間の果報がつきぬ故に地獄の苦相が見えず、罪人の叫ぶ声も聞こえぬが、この出入の一息が止まれば、その床下にはすぐに恐ろしい罪人の苦しみ居る世界がある。これはお経で見るより絵で見るよりも、その実況は絵にもかかれず又口でも云えぬ喩えようのない恐ろしさ。私が始めて罪人の叫ぶ声を聞いた時は実に気絶する程であった。私はこの生地獄の中で、顔に見覚えのある人幾十人も見たが、その中で不思議に思うたのは、この岡崎で私の商いに行く村にお栄さんという独身の老婆があった。私が地獄で見た時に、怖ろしい鬼が二鬼、この老婆の前に現れた。老婆は驚いて、両手を合わせてあやまっていた。すると、鬼はカラカラ打笑って、愚かな事を云うな、汝娑婆にいる時にお宮は無かったか、お寺は無かったか、ここは娑婆とは違うぞ、汝の云い分は聞かぬよと大声で叫び乍ら老婆の合わせた手をそのままにぎり、一鬼が押すが如く、一鬼が引くが如く、喩えば豪の糸に引かれてすべるが如くに向こうの鍋の間に姿はかくれてしまった。

私は蘇生後、その家を訪ねたが、地獄で見たその日に老婆は死なれたとの事であった。釈迦如来は地獄の苦相を詳しく説いたら、この世の中の人は血を吐いて死んでしまうとある。その絶叫を聞き、苦悶を今思い出すさえ腸を断つ思いがするのじゃが、いかに自業自得とはいえ焔々と燃え立つ猛火の中に幾百幾億万人とも知れぬ罪人がキャーキャーと泣き叫んでいるその声は、百千の雷を聞くよりも怖ろしかった。又、地獄の中でも殊更怖ろしいのは、沙門地獄(名利名聞の利用する僧分)の有様である。信仰心なくしてお金を出せ出せとお経様を売りものにしている僧侶は坊主地獄が三十五通りあるとお釈迦様はお示し下されてある。

この地獄は、皆熱鉄の法衣を着て、顔からは血煙りを立てて苦しんでござる。身に着ている法衣を脱ごうとして狂い廻れば廻る程、身を焼きしめて七転八倒して苦しんでござる。在家の裸体の苦しみよりも一層に苦しいのである。在家の者でも沙門地獄の罪を犯せし者はこの地獄に苦しんでいる。以下略します。

一体、お前さんは、僅か五時間位、一旦死して弥陀の浄土に往生したというに、色々の事を習ってきたとは実におかしい事やないかと申す人があったが、全くの事私も不思議でならぬが、もうもう凡智にしては悟られず、安養界に到りて証すべしとはこの事じゃ。不思議というより外はない。

それで、その当時の事を思い出しては、この様に書きしるして何冊も残し置き、それを見乍ら話すことや。

さて、私が地獄やらお浄土の有様を拝見して、娑婆に帰る時に観世音菩薩様が、汝は未だ娑婆に七年と十三日の余命がある故に、今一度帰すから唯称(お念仏を称えること)を人々にすすめてこい、お念仏はただ称えるだけで弥陀の浄土に往生さして頂けるのやから、只々それだけ唯称をすすめて又お浄土へ帰ってこい、娑婆へ帰って忘れぬように、この智慧の華を授ける、これは栴檀樹波羅華なりと教え下された。

私は、それを受取って御礼を申上げたかと思ったら、又元の汚い床の上にふと目がさめたものじゃ。もうもう実に不思議である。それで私はお浄土と申しても、また地獄というも遠方とは思われぬ。坐っている所にすぐあると思われます。まずまず夢の様なものじゃ。只境界が変るだけやと思う。何と申しても前に申した様にボロ買いの身にて豚小屋のような家にて、その日暮らしの赤貧であったが、私は一度も喧嘩など家内ともした事なかった。ただ善導大師の仰せの通りに心して、日課三万遍のお念仏を称えさせて貰い居る故に上品とやらのお浄土へ参らして頂けるそうだから、有難い有難いと思うて暮らしていたが、而しすっかり安心決定して居らなかったので報土往生でなく化土往生よりできなかった。一体こうして皆様のように第十八願の仏様の本当の親心そのままを正義と聞いてござる浄土宗や真宗の方々の前で知ったふりして化土往生のお話はどうでもよい。只々仏様のお慈悲の塊のお念仏だけが真実なのやから、どうかそれだけ覚えていて下さいよ。云々」。


◇永井尊者の御臨終とお浄土観見

「私は大正三年二月初旬より後頭に腫ものができたので病院で手術をして貰ったが、どうも具合が悪い。その日は、もういけないと町から娘もきていたが、別に死にもしないので娘も帰ってしまった。所が、その夜から苦しくてどうにもならぬ。薬を飲んでも効果なく、益々熱が出て苦しい。余り苦しいので今夜こそは愈々いとまごいや、身は持ち切れぬと云えば、家内がお念仏を称えなさい、少しは楽になるだろうというが、仲々念仏どころでない。身の置き所もない程の苦しみにて、とても口には云えぬ。熱は時間ごとに増し、病勢は益々重くなる。十時頃から夢中になって、段々一生涯に造った罪業は心の奥から思い出されてくる。常に忘れていた事迄思い出し、苦しい苦しいともがく。そのうちに異形の怖ろしいものが見え出したが、誰でもそうじゃそうな。業報ゆえ肉眼を閉じても心眼でみゆる。最早その時は、音声はつぶれ、舌は廻らず身体手足は動かず、平生父は念仏すれば臨終には二十五菩薩の御迎えを受けて極楽に往生すると申されたが、これは大変や、こう怖ろしいものが見えるのは地獄の相やと思いてもがき居る内に、ふいと楽になったかと思うたら、これは不思議と思う中に大層美しい花が咲いた広い広い原の様な所へきた。牡丹のような芍薬のような花が綺麗に咲いている。これは妙な所へ来たなーと不思議で、自分が死んだ事に気がつかなんだ。すると、二十歳ばかりの綺麗な方が現れた。そして、私に色々の事を聞かせたが皆忘れた。私は、一体ここは何処ですかと聞いたら、『ここは極楽の辺地界』と仰せられた。

私は、何も知らぬ時故、何が辺地界やら一寸もわけが分らぬが、その方が『我は無尽意菩薩。十三生前には汝の母となり、それ以来汝は生をかえるといえども、我はいつも汝を忘れた事はない。汝、仏の加護力によりて宿世の善根開け、仏名を称念したる故に今汝を迎接する』との御言葉でありました。

私はお礼の申上げようもなく、只地に伏して嬉し涙にむせんでいました。それから少し前に進むと幾百人とも知れない沢山の菩薩様方が綺麗な綺麗な冠やら光り輝くお姿でお迎えのようにみえる。私は余りの嬉しさに母菩薩に尋ねると、あれは汝を迎えに来られた菩薩様達であるとのこと。一口二口の中に、早、向こうの方々と一所になった。その時、確かに覚えているのは、何物も綺麗であったが、特に御蓮台の美しいのは、今でも目の前に見える様に思う。この世の金、銀等の光りと違いて、無量の光りがあって、その光明の為に菩薩様方の御身体迄が皆金色のようにみえて何とも云えぬ綺麗でありました。

沢山の菩薩さまから、善いかな善いかなと御讃めの御言葉を賜りました。この時、大勢至菩薩様が大きなお体にて、私に向いて合掌され、汝、善いかな善いかなと前の御蓮台を指して、これに乗れとの仰せやが、その時は自分の身の余りに汚れているので辞退していると、又御催促の御様子、私はおそれ入っていると御観音様が乗せて下さった。御蓮台に乗ったかと思うと同時に、この肉体は蓮台と等しく紫金色となり、早、三明六通を悟らして頂きまして、今迄知らぬ、あたりの菩薩様や五百体の御名前から皆分ってしまった。父も菩薩となってござる。大層、喜んでござる。あたりの菩薩方は皆、先祖代々の御方であった。

母がいないので地獄の方を見せて貰ったが、地獄にはいなくて安心した。やはり、人間界に戻られた母は、よく聴聞はされたが、お念仏は申さぬ人であった。その中に阿弥陀如来様の御説法が耳近くに聞えてくる。又お姿も明らかに拝まれる。それはそれはにこやかに在しまして、私を御収見なされて、善いかな善いかな本光よ、本光よ、と三度迄お呼びになり、汝よく辛抱して我名南無阿弥陀仏を称念してくれたと大層な御満足で、やはり合掌してござる。

数多の菩薩方の綺麗な衣服や宝冠をつけてござるを見て、殊の外およろこびの御様子。そして絶えずお説法で、実に有難く、尊さは口にも云い得ない。只々不思議不思議と驚くばかりじゃ。娑婆をはじめ、色々の国土で称えるお念仏が百雷の様に響きながら、皆光明となって大きな御体へ帰る。それは口の中で称える様なお念仏でも大きな雷のような音で、仏身に帰ります。それなら、お浄土はどんなにやかましくて、困るだろうと思うが、決してそうではない。お浄土は微妙の音声で満ち満ちてある。

阿弥陀様は無数の光りを放ちましまして、お説法が何とも云いようのない、三十二相、八十随形好を兼ね在しまして、三十六体の御分身がござる。娑婆へ御済度に御出まし下さるのは、この仏様方である。真宗の御開山、親鸞上人様は第十七番目の無辺音声菩薩でござった。阿弥陀如来様は、色々と娑婆世界の濁悪深重の苦しみの事をお話になり、お慰めを給いました。その時の嬉しさは、心も言葉も絶え果てて、うれし涙にむせんで覚えはないが、その時に驚いたのは、その浄土の広大なる東門である。その門の額に『専持名号以称名故、諸罪消滅即是多善根福徳因縁』とあった。三部経の大経、観経、阿弥陀経のお示しとみえる。

この御門は、九品浄土の内、参する所によって各別にみえるので、一様に云えないのじゃ。観経曼陀羅の蓮華は機の深信を釈いたものだから、ああ書かなければ信ぜられぬ。極楽の様に説いたら、花弁一つが二百五十里もある。阿弥陀経には、大車輪の如しと、車の輪ほどの大きさと説かれてあるが、喩である。観経には三十二相の事や八十随形好が説かれてあるが、仏の御体は、えんぶだん金の色、百千万億を合わせた如くである。極楽様で、大身を現せば、虚空一ぱいとなる。眉間の白毫は五須弥山の如く、御目は四大海水である。宮殿でお説法があるが、毛孔より放ち給うお光明は、光と光と照らし合いて、その美しい事、広い事というたら話しができぬ。一体、相と格との二つが在ます。随形好は小相である。小相にも各々八万四千の光明があって、念仏の衆生を摂取して捨て給わず。光明は阿弥陀経には光明無量とある。観経には八万四千と区別され、大経では十二の光明になって尚区別ができる念仏の衆生は、特別のお照らしを蒙っているのじゃ。

観経の第十観に、観音様は長さ八十一億那由他由旬と指して下さってある。肉髻の上に光明を放つ円光の中に、五百の化仏が在す。凡て仏菩薩は、色心二光を備うるものじゃが、この肉髻の光明を拝む者は千劫の罪業を滅すという。菩薩には天冠あり、天冠は透きとおってござる。すきとおる故に、肉髻も天冠の上から拝める。一体に、菩薩は天冠も裙も天幢も、皆仏様より綺麗な様じゃ。白毫相は七宝の色によりて飾られ、八万四千の光明を流出してある。我々初地の者は、仏と菩薩の区別がよく分らぬ。余りにも事が大きいので皆さんは疑いなさるやる。何しろ、阿弥陀様の威神力は、とても凡人には計られぬ。観経様の終りに、お念仏申す人は、人中の分陀利華なり、観音勢至が友となると説かれてある。

殊に驚くのは、極楽ではその美しい菩薩がみな、その裙や天冠の色が始終変わってござるのじゃ。大地の色は又、始終変わってござる故、曼陀羅等には、とても画けず、金色と光る事もあり、又瑠璃色となる時もある。又七宝の色となる時もある。それ故に、阿弥陀経には黄金を地となすと説かれ、大経、観経にはまた別にお説きである。

人間に対して、こう説くより外に仕方がないと思われる。又、驚くのは、第二十八願にある道場樹の有様や。根が金色で、四方へ拡がっている事は何百里とも喩えようがない。根本より末迄は輝いて、百千種の色がきらめく。実に無極珍妙の宝じゃ。それが風が吹く時は微妙の音声を出すことは、とても口にいえない。

それから又、八功徳水の池の岸の上にある栴檀樹である。これは又、目ざましく花と葉とがたれ布き、枝と枝があい組み合い、香気ふんぷんとして、黄金の山の如くである。

又、花と枝葉より無量の光りを放ち、水の上に輝いている。又、その宝池の波の音は、自然に微妙の快楽の音のみで、何に喩えようか、申し様がないのじゃ。

一善なしの我等が、只々南無阿弥陀仏の名号をお称えするばかりで、上善人倶会一処に往生成仏すること疑いなし、お釈迦様は、阿弥陀経に、我この利を見るが故にこの教えを説くと仰せである。

この阿弥陀経を拝見すると、今でもはっきりと思い浮かぶのじゃ。こうして、娑婆でお念仏を称うれば、お浄土にその影が現れて、或は蓮台となり、又或は菩薩の姿となり、光り輝いてござる。その綺麗な事は何とも喩えようがない」。

尊者は自己の記録を前に話されしも、お浄土実見談とは云えお念仏の尊き事の実感上よりのくり返してのお話は、只々私の心を射るのみ。

「私は、もとより無学文盲の者とて、一字も読めなかったが、いつこの様なお経等、拝読するようになたかと思うと、私が蘇生後に始めて竜海院〔名鉄電車東岡崎駅南側にあり、永井家のお墓がある〕のお寺に詣ると、御本尊様の裏に、大般若経六百巻が蓋を取ってあるので、何心なく第三百五巻を手にし、開いて読んでみると、棒読みでも又点読みでも読める。そして訳もわかるし、これは不思議な事もあるものだと思うと、外のを開いても皆読めます。私は、余程方丈様にお願いして、借りて家で謹んで拝見しようかと思うたが、私には、そんな暇はないのでやめた。その後、お経様を買って拝読したが、成程すらすら分る。勿体ない、忝じけない、これは私の力ではない。お浄土の聖観世音菩薩様より授けられた智慧華の御徳なる事を明らかに覚えました。それから後、これは仏智やなー、他力やなーと思う事が度々ありました。

それは、この岡崎から二里半ばかりの所に駒立という村がある。そこに産婆のお梅さんという人が住んでいた。私は、そこへ、いつも商いに行くのじゃが、大正四年の春、或日、商いに行ってみると、そのお梅さんが隠居所で病気で寝ている。私が行くと、蚊帳のつり手を一つはずして蒲団の上に坐り直して、私に来い来いと呼んでくれる。私はお梅さんを見て驚いた事には、丸で鬼の姿にみえるのや。私は逃げ出したがお梅さんは不思議に思うて、なぜ逃げなさる、来い来い云うが、私はどうも怖い。しかし、仕方がないから、そばへ行くと、本当に怖ろしい姿じゃ。私は顔も見ずに話していたが、余りに気の毒やで、お前さんも変な業報が現れているようじゃで話すが、実は私は去年一度死んでお浄土を見せて貰ったが、お慈悲のお念仏の尊い事を実際に見さして頂いて七ヵ年の命を与えるから娑婆へ帰って唯称〔只、南無阿弥陀仏と称えること〕を人々に伝えてこいとの仰せで又生き返ってきた。今迄、誰も云わんとったが、あんたの姿が余りに恐ろしくみえる故に申すが、お念仏を申しなされや。本当にお念仏は、広大な功徳やからと、少しばかり話した所が、お梅さんも驚いて、早速にお念仏をお称えになったが、その後、十二、三日して行った時には病気はますます重かったが、前の様に恐ろしい姿ではなかったから安心した。しかし、お梅さんは間もなく亡くなった。

お梅さんは、私のお浄土の話を始めて聞いた人やが浅間しい姿や等というて、自分へのみせしめであったか分かりません」。

次に尊者曰く。往生二十日前に「これで、今世の人には、もう会うべき人はない」と申されしが、正しくお言葉の通り、その後は一人も求法の人なかりしは誠に誠に不思議というほかはなし。大正十一年一月十二日、即ち命終の四日前、尊者は往生の日、時間を電報または書面にて、それぞれ案内せらる。かくして十四日迄に、遠近の人々大体参集せられけり。尊者は人々に向いて、音声も微かに「ああ嬉しい。往生も愈々間近に押しつまり、最早今世のお別れや。仏勅唯称を怠らず後を追うて参られよ」とおいとまごいの御挨拶。来集の一同は、お名残りを惜しみ、今世の形見として尊者様のお写真をとらして下さいと乞うに、尊者心よくお許しに相成る。

その後は、出る息、南無阿弥陀仏、入る息、南無阿弥陀仏ばかりにて一夜を過ごされ、明けて十五日、愈々お称名のお声も細くなられ、同日正午、遂に念仏称名裡に御往生遊ばされけり。時に大正十一年一月十五日。

同日、尊者御形見の写真出来上り、来集の一同拝見せしところ、不思議にも、そのお写真の頭部に輪光現じて見ゆ。人々奇異の思いにて、只々合掌唯称念仏して追慕の情に絶えざりけり。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。又、遺骨は奇妙な真白にして、その中に美なる色別あり。赤、黄、青、白に似たり。当時有縁の人々これを分与し、その徳を敬慕し奉る。南無阿弥陀仏。合掌」

うたがいて、南無阿弥陀仏申すさえ

辺地に生ると不思議なりけり

(註・辺地とは浄土の中の徳うすき所)

以上が蚊野智法尼より送られてきた永井尊者・浄土観見記の内容である。(註・原文中、重複及び誤文の個処に若干の訂正をほどこした。文責筆者)