山本空外上人聯

「心数心王過塵刹 各具五智無際智」 

 弘法大師空海『即身成仏義』


『心の問題』

空外上人御法話

【昭和45年弘法大師降誕会-青葉まつり- 於多聞院 より抜粋】

心各各という原点

 聖徳太子は西暦六〇四年、今から一三七〇年前になりますが、日本人として初めて本を書いて下さったのです。それが『十七条憲法』で、それにもやはり心のことが重点におかれております。「第十条」に「忿(こころのいかり)を絶ち、瞋(おもてのいかり)を棄て、人の違うを怒らざれ」といわれて、人が間違いをしても、心の中でも、また顔色に出しても、腹を立ててはいけないということがいわれています。

 心のことでしょ。インド仏教に於いてもそうですが、腹を立てるということが一番困ったことだと書いてある。いったい腹を立てることを今日からでも止めたら、それだけ人間の生活は清らかになれると思います。腹を立てるから、身体の血液までみだれてくるのです。

 では何故腹を立てたらいけないかというと、次のように続けておられます。「人皆心あり、心各々執れることあり、...共にこれ凡夫のみ」と。人はみんな心がある。どいう心があるかというと、その心は各々考えるところがある。男子は男子の心があり、女子には女子の心があるから、男子の通りに女子をさすことも出来んが、又女子の通りに男子をさすことも出来ません。自分の通りにならねば気に食わんと腹を立てておったら、これはきりがありません。子供には子供の心があって、大人の通りにはできない、それを大人の通りにせんというので叱っても、そりゃ共倒れですよね。

 だからこの心という時に「各々」ということで腹を立てることを治める道を教えられた。これは大事なことですよ。それで私はこの心ということで、「各々」ということが分れば一つの花でも鳥でも、お互い人間は無論のこと、何十倍も何百倍も深い広い大きな繋がりが実ってくると思います。例えば食卓の魚一匹でも、それをお金で初めから作り出すということになれば何百億円どころじゃない、しかしそのお蔭を喜んで頂けば、手を合わせて頂く心の中に魚と自分との繋がりというものが深められると思います。花一輪を見ても今日この花に出会うという因縁を考えたら、皆さん、生れる前からそうなっておったのではないかと、これは誰にも分からんのです。

因縁の深さ広さ

 花一つでもそうですが、人間お互いも、こうして毎年弘法大師の降誕会をして下さるが、今日お会いする人は毎年同じように会うているわけではないですね。去年来ても今年は来れない人もあるし、去年来れなくても今年はみえた方もある。又来年この通りの人数でお会いするという事は出来ませんから、今日は今日だけの出会いですね。これだけの人でお会いさせて頂くことは、もう一生ないですよね。又仮にあっても今度は私や皆さんの互いの心持が幾分違いますから、今日のような出会いは今日しかない。又今日のような出会いは生れる前から決まっておったかもしれません。そういう因縁が無かったらとても出会う事は出来ませんよ。皆さんお寺の近くにおっても一回もお参りにならん人もあるんです。それはその人が不心得のようだが、そういう因縁に生れてきているのですから、そうばっかりは言えません。

 この間も大阪へお話に行った時、はじめてお寺へ参ったという奥様が話の後あいさつに見えました。「そりゃ結構でしたね」と申し上げたら、「いや、実は予備校へ通っていた一人息子がノイローゼになって自死したので、友達に勧められてお寺に参ったんです」と言われて、一時間位お話しいたしましたが、大変喜んで満足して帰られました。その時私は申上げましたのですが、それは「一人息子さんが、今日お寺へ参って私に出会わさして下さった様なものですね。もし息子さんが自死なさらなんだら無論お寺に参ってじゃないですよね。だから私とは死ぬまで出会わんか分からんです。亡くなった息子さんが参らせて、私に出会わした様なものでしょ。そうしてお母さんが悟って来なされば、息子さんも共に浮かぶようなものですね。もしお母さんが泣いて暮らして苦にしておったのでは、息子と一緒に共倒れになりますよね。だから人間は共に浮かぶか共に倒れるか、心がけ一つで別れるのです。平面的に考えれば息子は自死せん方がよいが、自死した子供のおかげでお寺へも参り、私の話にも出会うことが出来たのですから、どちらが良いかというような問題ではないでしょ」。

 因縁の深さ、広さというものをそこに見るのです。そこを「清らかな」というのです。お母さんが迷えば死んだ子は無論迷うて共倒れですね。私どもは何の為に生きておるかといえば、共倒れになる為ではない、共に浮かぶ為に生きなければいけませんですよね。

 その決め手が此の「心各々執れることあり」というのでありまして、文章は続けて「共にこれ凡夫のみ」と書いてあります。

 自分は偉いが人は馬鹿じゃと思うて居っても、実際にはどちらも吸う空気もこしらえることが出来ないし、飲む水も作るわけにいかない。皆さん、手も足もお陰で使わさして頂いておるので、まわる心臓を自分の力でまわすという訳にいかないでしょ。そこに、自分も他人も共に凡夫だというのは、大きな生命に生かされている、大きな生命を、無量寿を生きておるのだということです。

 で、こういう心の問題を色々まだ申し上げたいことがありますが、弘法大師のことに入って、その心の問題をお話しさせて頂きたいと思います。

「心数心王過塵刹 各具五智無際智」

 大師さまの大事な書物は色々ありますが、中に『即身成仏義』というのがありまして、この中に「心」のことが次のように書いてあります。「心数心王(しんずしんのう)塵刹(せつじん)に過ぎたり」、刹というのは「国」のこと、塵というのは「ちり」ですから、無数の国ですね。心の数、心の王はいくらあるか分からんというのです。これは聖徳太子さまが「心各々執れることあり」というのを拡げて考えればそういうことになる。続けて「各(かく)五智(ごち)無際智(むさいち)を具す」といいまして、この心の各々が五智無際智を具える、というのです。

 五智というのは五つの智慧で、智慧とは宇宙大自然の中にも花も開き、鳥も飛び、木も生えて、人間も生きられるようになっている働きですね。これが五通りありまして、総まとめが法界体性智(ほっかいたいしょうち)です。これを開いて大円鏡智、平等性智、妙観察智、成所作智の四智といたします。

 大円鏡智(だいえんきょうち)とは、大宇宙の中に花が咲いておっても、ミツバチなどが花の花粉をつけて飛ぶおかげで咲くのですから、花とミツバチとはどこまで分けられるかわかりません、今頃でこそ人工的なことをやりますが、自然の中に皆つながっておる。例えば梅の花といっても、実がなって、その実を私どもは頂きますよね。和歌山県の海岸の山の手に出来る梅が日本で一番いいのですが、それを沢山頂くものですから、毎日頂いております。皆さん、木になる梅ですよ、ミツバチや花が私どもの生きられるお陰に繋がっていくでしょ。そういうふうにして大きな円い鏡の中に生かされている智慧です。映り合ってゆくわけですね。

 それがまた、平等性智(びょうどうしょうち)といいまして平等なのです。梅の木も一本なら菜種も一本は一本です。人間も一人ならミツバチも一匹ですよ。みな一つという事で平等ですね。その一つということが分る智慧がある。それが科学というものを進歩させてもいく。ギリシャ人が一つと考えても、私どもが一つと考えても一つに違いない。どちらも一つと考える知恵がある。それが平等性智というのです。

 それから妙観察智(みょうかんさつち)、男子と女子で子供が出来るというのも妙観察智の智慧です。同じ私の心に梅の花が感じられるというのも、私と梅とは別々ですが、一つになる訳ですね。皆さんと私とは別々ですが、私の言う事も幾分わかって下さる。妙観察智なんです。二つが一つになる訳でです。そういう智慧です。

 成所作智(じょうしょさち)とは、作すところを成し遂げていく智慧で、この智慧で皆さんは世間の生活で作すところを成し遂げていくのです。成というのは成就するという事です。目が見える智も成所作智、耳が聞こえる智も成所作智です。耳が聞こえなければどんな災難が起きるか分からんですよ。耳が聞こえるので私らは作す所を成し遂げていくことが出来る、そういう智慧に恵まれているわけです。

 したがって、五智無際の智といいまして際限がない、どこまで繋がり合っているのか、考えれば不思議ですよね。小さい眼玉の中に向こうの大きな山が入って見えるわけですよね、この本堂の「遍照金剛」の額だっていい加減大きいけれども、私たちの小さい眼玉の中に入るでしょう。この本堂はまだ大きいけれども入りますね。なぜ入るか理屈では分からんですよ。だから妙というのです。山を眺めたり本堂を眺めたり観察しているでしょう。みな妙観察智です。それから男子と女子とですね、子供が出来るというのも、生理的に考えれば何でも無いようですが、あれもほんの一角しか分らないのです。智慧として考えたら妙観察智です。

「心が各々五智無際の智を具す」ということは、聖徳太子の「心各々」を開いたものですが、各々の心に大宇宙の生命の働きをすべて具えている事をいうのです。

 皆さん、花一輪でも取り組んでみればどこまで考えたらいいか、実に深いのです。牡丹の花でも、梅や桜の花でも植物学で分かるのは知れたものですね、大宇宙の生命がこの桜の花として咲いている、その生命に触れてきたら、世界の植物学者をみな集めても半分も分っておらんのです。我々はまだまだ大事なものを知らずにいる、まことに深いものがあります。

(吉祥山宝珠講発行『心の問題』参照 石川乗願 文責)