弁栄庵の教

弁栄庵は、令和2年に弁栄聖者百回忌報恩念仏を勤めて以来聖者に住持の職を返上し、聖者の御指導の許、「如来の大悲招喚のみ声」のお導きのままに松並松五郎師と永井辰次郎尊者、そして善導大師、法然上人、山本空外上人の善知識六祖の菩薩様方のみ教えを頂いております。私訳ではありますが、そのお言葉を認めてみました。


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私訳  永井辰次郎尊者のお言葉

  「仏勅唯称」

 腹を立てるは地獄の罪業 

計らい心は輪廻の絆

自然の三途の業により

必堕無間の此の我に

南無阿弥陀が降り潅ぐ

南無阿弥陀仏

一声ごとに「見仏聞法」

迎えに来たぞの御勅命

南無阿弥陀仏

一声ごとの「即得往生」

吾を抱えて連れて行く

往生は信ずる者の功ならず

称える者の手柄にあらず

大悲願力の不思議ゆえ

機の善悪が不問なり

堕獄の凡夫、

南無阿弥陀仏に転ぜられ

現世に無量の霊化を受けて

今も浄土に生れては

真実まことの親元で

百千無量の楽しみに

三明六通無礙を得て

百千万に身を分ち

心のままに

有縁の衆生を済度する

ああ皆人よ

この仏恩深きを思いつつ

常に念仏相続すべし

これ弥陀「唯称」の

聖意(ほんい)なり

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私訳  元祖大師 法然上人

「一枚起請文」

ただミオヤ(あなた)の聖国(みくに)に生れる為には

南無阿弥陀仏と申して「疑いなく生まる」と

〈あなたに〉思いを取られて申す外には別の仔細そうろわず

但し三心四修と申すことの候も

皆〈あなたが〉決定した南無阿弥陀仏にて聖国(みくに)に生まると

〈あなたに〉に思い奪われる内に籠り候なり

此の外に奥深きことを存ぜば二尊のあわれみにはずれ本願にもれ候べし。

念仏《即ち  あなたが私を片時も離れず念々に念じて下さり、今ついに待ちきれず此処に、南無阿弥陀仏と迎えに来て下さったこと》を信ずる人は

一文不知の愚鈍の身になして

無知の輩に同じくして

知者の振る舞いをせずして、唯一向に念仏し、

あなたに心奪われて唯ひたすらに〈あなたの〉喚び声を聞くべし。

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私訳  「松並松五郎先生語録」


呼びづめ立ちづめ招きづめ弥陀は焦がれてあいに来た そのお姿が南無阿弥陀仏

見るに見かねて此処へ来て育てみちびく姿こそ 口に聞こえる南無阿弥陀仏

此の口に現れ給うナムアミダブツの親心 ただただ仰ぎ聞くばかり


大ミオヤが、片時も離れず念々に私を念じて下さっておられる、それを念仏といい、その大御心(おおみこころ)が口に現れて称名となる。阿弥陀さまが常に私を念じづめ、常に私を呼び続けておられる、それが今、此の口に聞こえる、活き仏のナムアミダブツ。私は唯々仰ぎ聞くだけ。仏のなさしめ給う御念仏ナムアミダブツ様が、私を待ちきれずに今遂にここに助けに来た、あいに来て下さった。私の方から出すものは一つもない、阿弥陀仏のなし業一つ、決して此方から手を出してはならぬ。念仏が出て下さるのも仏様の所作であります。

その一声一声のお念仏は、「迎えに来たぞ」「此処に居るぞ」「連れてゆくぞ」「間違わさんぞ」の声なれば、私の心の模様は算用済んだ、何の障りにもならぬ。動けば動けと捨て置いて、この呼び声聞くよりほかに何の用もない。ナムアミダブツ、ナムアミダブツ、それそれ、その声が弥陀じゃぞ。弥陀がナムアミダブツの声と成りきって、落ちると見込んで下された私に「お前を迎えに来た」「あいに来た」「連れに来た」、弥陀直々の迎えでも物足りぬかや。

私等の欣求浄土の思いは極々小さい。連れて往きたいと願う、念(おも)う仏さまの心の方が遥に大きい。信心とはこのナムアミダブツの親心にびっくりするだけのことである。この声聞く以外は、皆おまけですがなぁ。

ナムアミダブツのお助けの、仏さまの御出入りの邪魔をせぬことであります。此の口は私の物と思っているから要(い)らざる事を言う、南無阿弥陀仏さまがお出まし下さるからには、仏さまの所有物である。身も、口も、意も全部、南無阿弥陀仏さまにお返ししては如何ですか。 自分の計らいをさしはさまぬことです。仏さまの念(おも)い通りにさせてあげることであります。ナムアミダブツの法水を自分の籠の中へ入れようとするから水がこぼれる、水の中に籠を入れてしまえばよい。いつまでも籠の中にはナムアミダブツの法水がある。

今日も明日も阿弥陀さまが称えるナムアミダブツの説法を聞けよ、「わしがここにおるぞ、お前を連れてゆくぞ」という呼び声を。

私等は 念仏せんのです、よう称えぬから、念仏は阿弥陀さまにして頂けばいいのや。仏さまが直々に迎えに来て下さることがお念仏なのです。但し「念仏せよ」との仰せなるから、此の口を仏様にお返しして、常に呼声を、称えるまま聞いておればいいのです。そうなると念仏するとか、せねばならぬということを離れ、唯南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏と呼んでいただくばかり。口に現れ給うお念仏、それそれ其の南無阿弥陀仏に、助けられて往生ぞや。此の呼び声を命の限り聞きつつ、一代終わるのです。

呼んでいる 呼んでいる 呼んでいる 呼んでいる 

今の私を呼んでいる 返事もせぬのに呼んでいる それでも呼んでる聞こえ来る。 

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私訳  善導大師 発願文

「更生の誓願」

大ミオヤよ、あなたの願いが我ら衆生をして今此処に、肉我の命(まよいの心)を終わらせるに臨み 今当に南無阿弥陀仏が聖聚現前し給えり。既に心顛倒せず 錯乱せず失念せず、身心に諸々の苦痛なく快楽にして禅定に入るが如し、即ち仏(あなた)の本願に乗じて速やかに阿弥陀仏国(あなたのきよきみくに)に南無阿弥陀仏と上品往生せしめ給う。直ちに霊化され已(おわ)り六神通を得る故、願くは急ぎ十方界に還り苦の衆生を救済 (くしょう)す。虚空法界尽きるまで如来(あなた)の願いの尽きざるが如く、我が願いも亦尽きる事なし。 至心に阿弥陀仏(あなた)に帰命(すべてささげ)奉る 。

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私訳「山本空外上人のおことば」

ナムアミダブツ、ナムアミダブツと称える習慣がついてしまうと、呼吸そのものがナムアミダブツと聞こえるようになります、そうなることを不断念仏といいます。 

ナムアミダブツを称えるということは、ナムアミダブツの中身を生活の中に生かしていくことです。 一息ごとにナムアミダブツを称えて、大生命の根源に、自然に帰入してゆくのです。大自然の命のおかげを生きている、そこに自分の心のはまりがつくと、息がナムアミダブツになります。生きている自然の命そのものに直々に取り組んで命を通わせるのです。ナムアミダブツとは自分の命の根源に頭が下がり一つになることです。命の根源の光がナムアミダブツとなって私の口から飛び出しているのです。そのナムアミダブツを、ナムアミダブツと申し聞いて大自然の命のおかげそのものに還って往きます。 

万物の命の根源そのものがアミダさまですから、ナムアミダブツでアミダさまの御許(みもと)に還り、心の宝、命の宝であるアミダさまの智慧の光に照らされ、大宇宙の命を自分なりに生きられる、その命のおかげの深さを、清らかさを、悦びを、本当に心の底から無尽蔵に感じられるようになるのです。 

そして一人ひとりが、各人各様なりにその命の光を実らせてゆき、各々の生活の光が、互いに周囲を照らし合い、みんなが共に喜んで生きていく事を極楽というのです。 ただし、ナムアミダブツを不断に実行する生活をしてみなければ、ナムアミダブツでわかったとかサトッタという心は開けません。私たちの出来ることはナムアミダブツで転依することだけです。    

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私訳  「弁栄聖者お慈悲のたより」

大ミオヤよ、全てを大ミオヤ(あなた)にお任せ申し上げて、常に大ミオヤ(あなた)を念じ奉(たてまつ)る。大ミオヤ(あなた)はいつも離れず今現に私の真正面に南無阿弥陀仏と在(まし)まして、慈悲の面(みかお)を向けて母が子を想(おも)う如くまします。私はそれのみを想(おも)うて専らにして亦専らなり。大ミオヤ(あなた)の威神力(みちから)に依りて段々心奪われ統一されて、弥陀(あなた)のお慈悲の面(みかお)は私の心に 南無阿弥陀仏とうつり入り、私の心はお慈悲の面(みかお)に 南無阿弥陀仏とうつりすみ、それが段々深く入るに随い、私の心は合一(なくなり)て、唯残る処は如来(あなた)のお慈悲ばかりと成り候(そうろう)。

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