『念仏的自覚』

西山上人の教え


菅田祐凖先生

我と弥陀 もとより一つのいのちにて

   南無阿弥陀仏と なるばかりなり


第四章 念仏的自覚

「自覚」ということは、その字が示すように「おのずから覚める」ということである。「おのずから覚める」ということは、理屈ではない、無条件である。無条件であるが、その「自覚」という心の作用を引き起こすのは、ある体験であったり、教えに触れてであったり、書物に導かれてであったりと、ある事を契機として発動するものである。例えば、ここに一輪の蓮の花が咲いていたとする。その蓮の花を観て、思わずその「浄らかな美しさ」に見惚れ感動したとする。実はこのことは、蓮の花そのものの「浄らかな美しさ」と同時に、蓮の花を観た人の心の中に「浄らかな美しさ」というものを感ずる心があったからでもある。その人は蓮の花を通してわが心に「浄らかな美しさ」というものを感ずる心を確認し、「自覚」したわけである。しかしその人が「浄らかな美しさ」というものを我が心に蔵していたとしても、もし蓮の花を見るということが無かったら「浄らかな美しさ」がわが心にあるということの「自覚」は出来なかったかもしれない。では、人間の究極の願い「救いの自覚」は何を契機として確認せられるのか。『涅槃経』の中に「一切衆生悉有仏性」とある。「一切の衆生悉く仏となる性質を有す」と。また、『梁塵秘抄』には、「仏も昔は人なりき、我等も終には仏なり、三身仏性具せる身と、知らざりけるこそあわれなれ」と詠われている。「救いに目覚める」、「仏性に目覚める」一つの契機として、ここに「南無阿弥陀仏」念仏を通してその「自覚」に導こうとするのが、本書の目的でもある。それが、標題そしてこの章に上げる「念仏的自覚」の意味である。

すべての苦は、「生まれる」ということに於てそもそも始まっている。また存在することになるのである。「生まれる」ということがなかったら、老も病も死も、愛別離苦も怨憎会苦も、求不得苦も、五蘊盛苦も三毒煩悩も起こりようにも起こりようがないのだから。われわれというこの「我れ」は、是非もなく、好もうが好むまいが、気がついてみたら「生まれていた」というこの「我れ」を確認するのである。「我れ(自己)」というものの存在に気付かされるのである。「我れ」というものが、何時、如何なるところで、如何なる両親のもとで、如何なる性格や気質や能力を以て、この世に存在することになるのか、それは我等の思惟を絶するものがある。これまで生まれたすべての人間、いや人間だけでなく、生きとし生けるあらゆる生命あるものが、そのようにしてこのように生まれ、生れされ、個有の心と身体を持った「我れ(自己)」というものと結びつき、或いは「出遇い」といってもいいだろう、生涯、命尽きるまで共に生きてきたのであって、生きているのであって、生きて行くということである。では、この「我れ」を存在たらしめているものは何か。「在る」ということは、如何なる場合であってもそれを在らしめているものがあって「在る」ということで、譬えばここにある原稿用紙一枚であっても、この原稿用紙が此処にあるためには、様々の必然的条件や要素など分析して分析しきれないものがある。ましてや、ここに今、鼓動を打ち続け呼吸している「我れ」ということになれば、とても量り尽くせない不可思議の縁起(重々無尽の繋がり、仕組み)があり時空を超えたエネルギーがあり、一つ一つ上げていって言い尽くせるものではない。したがって、ここに「生きている我れ」というものを客観的に見れば「我れ」を生かしている無量無辺の時空を超えた存在、「大いなる宇宙的いのち」によって「生かされて生きている我れ」ということに目覚めさせられるのである。ここに一個一個の人間をはじめ、現象界の生きとし生ける一つ一つの生命はその一つ一つの生命を生命たらしめている大いなる存在、「大いなる宇宙的いのち」と一つになっているのであり、我々のいのちは、まさに「宇宙的いのちそのもの」であり、「同体」であることに目覚めさせられるのである。この事実、この「我れ」と、「我れ」を存在させている「我を貫き包み込む大いなる宇宙的いのち」との一身同体の関係を、インドの言葉で「ナムアミダ」と言い、その音を感じで写して「南無阿弥陀」、そしてさらに人格的に示し「南無阿弥陀仏」と表現するのである。元来、アミダ(阿弥陀)とは、インド語のアミターバ(Amitabha)またはアミターユス(Amitayusu)を音訳してあてたものである。語源的には、アミターバが「無量光仏」(量り知れない光りの仏)、アミターユスが「無量寿仏」(量り知れない寿の仏)意味がるが、具体的に一言で言うとすれば、「我を貫き包み込む大いなる宇宙的いのち」ということだろう。

そして、ナム(南無)とは、インド語のナマス(namas)を語源としており、帰命、敬礼、信徒などの意味があるが、具体的にいえばこれまで語ってきた「我(自己)」ということに他ならない。すなわち、「我れ」というものが、「我れを貫き包み込む大いなる宇宙的いのち」阿弥陀と一身同体にあることに目覚める時、おのずから、それは命を帰する(帰命)南無の「我れ」であり、敬礼となる南無の「我れ」であり、信徒となる南無の「我」ということになろう。

したがって、「南無阿弥陀仏」とは「我れ」と「われを貫き包み込む大いなる宇宙的いのち」が一身同体にあることを表わした万全なる表現であり文字であるといえよう。また、「我れ」は阿弥陀の存在無くしてはあり得ない故に「我れ」が此処に存在すること自体「南無阿弥陀仏」ということでもある

さて、「我れを貫き包み込むお大いなる宇宙的いのち」阿弥陀とは、語源的には「無量寿仏」「無量光仏」の意味があるということを先に述べたが、更に具体的にはどう考えたらいいのだろうか。先ず「無量寿仏」とは、その文字から「量り知れない寿の仏」ということである。ここに一つの生命体「我れ」が存在するために、量り知れない寿のおかげ、つながり、支えがある。過去、現在、未来という三世を貫く大いなる宇宙の寿こそ無量寿仏である。この「我れ」といういのちをよく考えてみれば、無量寿仏から生れてきたというより外はない。勿論、両親があって、現在のこの「我れ」があるのだが、両親にもそれぞれ両親があり、その両親の両親、その両親の両親と際限もなく遡ってついには地球誕生以前ビッグバン(宇宙の始まりにあったとされる大爆発)にまで遡ることになろう。また一方この「我れ」は、違う時代に違う国に生れていたとしても何の不思議でもないし、人間として、この「我れ」として現にここに生れていることが不思議と言えばこんな不思議はないのである。両親があって生まれてきたことは事実であるが、何故にそれが「我れ」であったのか、あるのか、推し量りようもない。過去、現在、未来にわたって、生きとし生ける一切衆生がそうであり、一つ一つのいのちを突き詰めてゆげば、全く大いなる宇宙のいのち「無量寿仏」という寿より生まれ、生き、還ってゆくというより外はないのである。この「我れ」といういのちの心臓を動かしているのは何か、この「我れ」の生命を支えている目に見える光、目に見えない光り、気付かない光り、それらには量り知れないものがある。ここで云う「光」とは象徴的表現であることは言うまでもない。「我れ」という一個の生命を支えている自然の恵みは、まさに量り知れないものがある。一粒の米も、野菜も、魚や肉も、衣類も、住まいも、十方世界すなわち大宇宙よりもたらされ、賜わったものであり、量り知れないそれらの恵みに支えられ、育てられ、この「我れ」という生命が存在していることに気付かされる。「我がいのち」ということをいうけれど、よく振り返って考えて見れば、「我がもの」などというもの何一つなく、全く「無量寿仏」「無量光仏」のいのちそのもの、すなわち「阿弥陀」と云うより外はなくなるのである。

われわれには皆両親というものがある。直接的親は両親であるが、さらに「いのち」を突き詰めてゆくと、大いなる根元的親「阿弥陀」というものが現前としてあることに気付かされるのである。この「いのち」は阿弥陀の本性、無量寿仏、無量光仏によって生命たらしめられていることを寸分も否定できないのだから。表現を変えれば、「我れ」をはじめ生きとし生ける一切衆生悉く「阿弥陀」の子である。四六時中、はぐくみ、育て、心に懸け、見守り、不善を為せば叱り、嬉しいことがあれば心から共に喜び、心配なことがあれば大いなる胸で抱きとめて下さる、それがわれらの大いなる根元的「いのち」の親「阿弥陀」ということになるのだから。

ここに、仏陀釈尊の正覚を顕現せしめるために、「阿弥陀」と「我れ」との関係を、壮大なスケールの文学、飛躍とも言える構成を以て「いのちそのもの」を説き明かさんとした浄土経典の一群がある。いわゆる浄土三部経と称する『無量寿経』『観無量寿経』『阿弥陀経』である。経典の題名がそのまま語るように、いずれも「阿弥陀」の存在を「阿弥陀仏」(別称無量寿仏)という人格的表現を以て綴られたもので、我々が、この阿弥陀仏という(又無量寿仏という)人格的表現を通して「阿弥陀」に目覚める時、我々の「たましい」にせまってくるものがある。『無量寿経』には、阿弥陀の存在に至る経緯および阿弥陀の本性が人格化されて説かれている。大いなる宇宙の始まり、そして根元的その本性、秘められたそのメカニズム、「我れ」そして一切衆生との関係を、仏陀の正覚、直感的にとらえられた「宇宙的いのち」が説かれている。つまり、宇宙の始まり、今日的にはビッグバンがあって、銀河系宇宙の誕生、そして地球という惑星が誕生し、生物が誕生し、人間をはじめ生きとし生けるあらゆるいのちが救済されてゆくという途方もなく大きなメカニズムを、法蔵比丘(菩薩)という一人格体に置き換えて構成しているのである。

過去久遠- 具には経典を繙くほかはないが、-法蔵菩薩が修行を重ね、五劫という途方もなく長い長い時間をかけて思惟し、- 一劫という時間は因みに、四方十里の盤石があって、百年に一度天人が下りてきて、衣で一払いし、この盤石がやがて摩滅しても終わらない時間と喩えられる- 四十八願(本願)というものを建て「若しこの四十八のすべての願が成就しなかったら仏とはならない」という大誓願を起こした。以来、更に兆載永劫というとてつもない年月、幾宿世にもわたって修行を重ね功徳を積んで、ついに四十八の大誓願はすべて成就し、法蔵菩薩は阿弥陀仏となった。そして、一切衆生、生きとし生けるものを、限りない慈悲を以て救済するという構成を以て、一切衆生の救済原理を説くのである。

法蔵菩薩五劫思惟兆載永劫とは、釈尊の正覚に至る禅定の深さ、思惟の深さから到達し得た「宇宙のいのち」と、生きとし生ける一切衆生との関係である。此の関係こそ「南無阿弥陀仏」ということであり、浄土経典における人格的表現「南無阿弥陀仏」ということである。ここに「念仏的自覚」の目覚めがある。『観無量寿経』には、「諸仏如来は、法界身(真理そのものを身体としている仏)にして、一切衆生の心想に入り給う。この故に、汝らは心に仏を想う時、この心は即ちこれ三十二相八十随形好なり。この心が仏を作り、この心これ仏なり」と説かれている。

第五章 本願について

阿弥陀の存在と「我れ」との一身同体「南無阿弥陀仏」ということを明らかにしてきた。過去久遠未来永劫の宇宙のいのちが、「我れ」を貫き包み込み同体としてある、即ち「南無阿弥陀仏」と自覚し、「南無阿弥陀仏」と同化する ― すでに同化しているのだが - ところに、永遠絶対不退転の救済があるといえよう。この「南無阿弥陀仏的自覚即救済」という、その具体的裏付けとして、「宇宙的いのち」の救済的原理を法蔵菩薩の本願(本願は成就して「弥陀の本願」)として『無量寿経』は説いてゆくのである。「本願」とは、大いなる宇宙的いのち「阿弥陀」が「本性」として備えている永遠普遍的「願い」である。法蔵菩薩が一切衆生の「いのち」の親「阿弥陀仏」であるための、一切衆生への誓いである。約束である。「四十八の誓い(四十八願)が成就できなかったら私は仏とはならない」という誓いである。概して親の願いや心配をよそに子というものは成長してゆくようであるが、大人になって親の、育て、見守り、心配し、願い続けてくれていた心の幾分かを感ずるようになるのだが、同様に、一切衆生の「いのち」の親たる阿弥陀仏の、一切衆生を悉く救済せんとする願い(本願)には、その子であるわれわれは、悲しいかな気づき得ないのである。『無量寿経』は、われわれの気づき難い一切衆生の「いのち」の親たる阿弥陀仏の願いを四十八項目にわたって示してくれているのである。名称のみを記すと、1.無三悪趣の願 2.不更悪趣の願 3.悉皆金色の願 4.無有好醜の願 5.宿命通の願 6.天眼通の願 7.天耳通の願 8.他心通の願 9.神足通の願 10.漏尽通の願 11.必至滅度の願 12.光明無量の願 13.寿命無量の願 14.声聞無数の願 15.眷属長寿の願 16.無諸不善の願 17.諸仏称揚の願 18.念仏往生の願 19.臨終現前の願 20.植諸徳本の願 21.三十二相の願 22.必至補処の願 23.供養諸仏の願 24.供具如来の願 25.説一切智の願 26.那羅延身の願 27.所須厳浄の願 28.見道場樹の願 29.得弁才智の願 30.智弁無窮の願 31.国土清浄の願 32.宝香合成の願 33.触光柔軟の願 34.聞名得忍の願 35.女人往生の願 36.常修梵行の願 37.人天致敬の願 38.衣服隨念の願 39.受楽無染の願 40.見諸仏土の願 41.諸根具足の願 42.住定供仏の願 43.生尊貴家の願 44.具足徳本の願 45. .住定見仏の願 46.随意聞法の願 47.得不退転の願 48.得三法忍の願、四十八の本願を全体的に見渡せば、法蔵菩薩の阿弥陀仏となった時の誓いとして、光明無量(十二願)、寿命無量(十三願)を誓い、建設すべき阿弥陀仏の荘厳とその様相のすばらしさを誓い、阿弥陀仏の浄土に往生した人々の不退の安らぎ、更には他方国土の菩薩達にまでその功徳を及ぼすことを誓い、そしてその阿弥陀の浄土に十方の衆生が念仏を以て往生できることを誓う(十八願)という内容となっている。

『無量寿経』に於いて、法蔵菩薩の四十八の大誓願(本願)は、兆載永劫という果てしない年月の修行を重ね功徳を積んで成就し、法蔵菩薩は阿弥陀仏となったと説くのである。そして既にそれから十劫の年月を経たとある。一方、『阿弥陀経』には、その阿弥陀仏は「今、現に在しまして説法したもう」と説いている。これらのことは、佛陀釈尊の正覚、禅定思惟の深さから顕われたものである。法蔵菩薩も、四十八願も、五劫思惟兆載永劫ということも、阿弥陀仏も浄土の荘厳も。それは、一切衆生の「救いの原理」を説かんとするものであり、証明せんとするものである。浄土への想いは、「一切皆苦」の娑婆世界に喘ぐものにとって全く夢の如き理想の天地である。浄土というところが、如何に浄く、清々しく、美しく、心地よく、苦しみなく、ただ楽の身を受くるところであるか、浄土三部経それぞれの経典に微細にこんこんと説かれているのであるが、結局、その浄土に如何に往生するのか、如何にすれば往生できるのか、ただそのことのみが苦悩に喘ぐ、救に与からんとするものの唯一の願いであり知りたいところである。如何に浄土がすばらしいところであっても、叶わぬ往生であったら何の意味もないことで全ては詮ないことであるのだから。

ここに、第十八願、「念仏往生の願」がことのほか光リ輝いてくるのである。日本浄土教の祖法然上人が「四十八願の中に既に念仏往生の願を以て本願の中の王となすなり」と示してもおられるように、この第十八願を示さんが為の本願であったといっても過言ではない。その念仏往生の願は「もし、私(法蔵菩薩)が、仏(阿弥陀仏)となったら、十方の衆生が心から(至心)阿弥陀仏を信じて(信楽)、私の国(弥陀の浄土)に生れたいと願って(欲生)、念仏して往生できないなら、私は仏とはならない。ただし、五逆(極悪の重罪)と正法を誹謗するものを除く」というものであるが、この十八願中、いわゆる三心(至心、信楽、欲生)を発して念仏往生するということで、三心ということを一方でやかましくも言うのであるが、その三心そのものは何処から発って来るかということが現実的に問題であろう。三心を発せと言って発るものではないから。

ではそれは何かといえば、前章で述べた、「我を貫き包み込む大いなる宇宙的いのち」即ち阿弥陀の存在に目覚めるということが原点であろう。阿弥陀の存在に目覚めさえすれば言われなくても、勧められなくても、自ずから三心が発ってくる、そこにおのずからなる念仏ともなってゆくのだから。

第六章 この光に遇う

仏陀釈尊の深い禅定と思惟から目覚めた「宇宙的いのち」、十方衆生、生きとし生ける一切の生命を平等に救済せんとする「宇宙的いのちの本性」を、『無量寿経』では阿弥陀仏(無量寿仏)の「本願(四十八願)」で表わし、それは先に綴っても来たが、さらに「十二光仏」という象徴的表現を以て弥陀仏の「本性」を説くのである。すなわち、『無量寿経』に、「無量寿仏(阿弥陀仏)の威神光明(不可思議の偉大なる威力の光)は最尊第一にして諸仏の光明のよく及ばざるところなり。... この故に無量寿仏を無量光仏、無辺光仏、無礙光仏、無対光仏、燄王光仏、清浄光仏、歓喜光仏、智慧光仏、不断光仏、難思光仏、無称光仏、超日月光仏と号す」と。全くこれらの象徴的詩的表現の時空を超えた奥深さ、素晴らしさには驚く外はないが、ここにその一々の表現について味わってみることにする。

1、無量光仏 汲めども尽きることのない無量の光の仏

2、無辺光仏 際限無き広さにわたって届かないところはない光の仏

3、無礙光仏 さえぎるもののない全てを浸透し突き抜けてゆく光の仏

4、無対光仏 対比するものがないほど勝れた光の仏

5、燄王光仏 炎の中の王の如き素晴らしい輝きをもった光りの仏

6、清浄光仏 不浄の心を浄めてゆく光の仏

7、歓喜光仏 怒りの心を消し喜びをおこさせる光の仏

8、智慧光仏 一切衆生に心の眼を開かせる知恵の光の仏

9、不断光仏 四六時中絶えることのなく輝き続ける光の仏

10 難思光仏 思慮するに思慮し難いほど素晴らしい徳光の仏

11 無称光仏 説明し様がない、称え様が無い程素晴らしい光の仏

12 超日月光仏 日月の光を超え、一切衆生の苦悩の奥底に迄届き照らす光の仏

以上十二光仏の表現の一つ一つを味わう時、阿弥陀仏すなわち「宇宙的いのちの本性」の、一切衆生を悉く、光に包み、救い取って漏らさずの心を尽して余りあるものがある。故に『無量寿経』は次の一偈を更に続けて説くのである。すなわち、「それ衆生ありて、この光に遇う者は、三垢(貪・瞋・痴の三毒煩悩)消滅し、身も心も柔軟にして、歓喜踊躍して、善心生ず。もし三途勤苦の処(三悪道-地獄道・餓鬼道・畜生道-に堕ちて激しい苦しみを受ける)に在りて、この光を見たてまつれば、みな休息を得て、苦悩なく、寿終わりて後みな解脱を蒙る」と。「この光に遇う」とは、「南無阿弥陀仏」の目覚めに外ならない。「我れを貫き包み込む大いなる宇宙的いのち」に目覚め、その宇宙的いのちを予感する時、それが阿弥陀仏の顕現となり、実感となり、そしてそれが十二光仏となって自覚されてくるのである。故に、『観無量寿経』の次の一偈が力強く響いてくるのである。すなわち「(阿弥陀仏の大慈大悲の)一一の光明は、遍く十方世界の念仏衆生を照らして、摂取して捨てたまわず」と。この偈文の「念仏の衆生」というのは、「念仏を称える衆生」という限定されるものではなく、「南無阿弥陀仏の衆生」と解すべきである。何故ならば「念仏を称える衆生」と限定すれば、言語の不自由の人や重病人で発声困難な人は救いから漏れることになる。「南無阿弥陀仏の衆生」とは一切の衆生という意味である。生きとし生ける衆生が「生きている」ということそのことが即ち「南無阿弥陀仏」ということなのだから。阿弥陀仏の大慈大悲の光、十二光仏と讃える光の一一を深く戴く的、如何なる境遇のものがあろうとも、あらゆる次元を超えて一切衆生のいのちを貫き包み込む光である故に、「摂取して(救いとって)捨てたまわず」の力強い一偈となるのである。それでも、このことに頷けるか、頷けないかということが最後まで残ってしまうが、この疑問は衆生の側の疑問であって、仏の側からは既に十劫の昔に大慈大悲の本願が網羅されていて一切の衆生は救済されているのである。ここに一つの譬えを以て考えていたい。われわれは空気が無かったら片時も生きていることは出来ない。「生きている」ということは、空気の御蔭である。にも拘らず、平生「空気の御蔭で生きていられる」と思うことはめったとない。そう言われたり、自分でそう思った時だけは少なくとも「空気の御蔭だなぁ」とつくづくと空気の存在の有難さを思うのである。一方、われわれが平生空気の存在をすっかり忘れているからと言って空気がなくなるわけではない。空気は、われわれがその存在に気付こうが気付くまいが、われわれの「いのち」を支えているのである。同様に、阿弥陀仏の「本願」ということも「大慈大悲」ということも、われわれの気付く気付かないに関係なく、「宇宙的救済のいのち」が我々一人一人を貫き包み込んでいるとして、釈尊は禅定思惟の底に自覚され、このことを先の経典の偈文は示しているのである。

第七章 他力ということ

さて、「我れを貫き包み込む大いなる宇宙的いのち」阿弥陀仏の本願を、十二光仏という光の仏に喩えてあることは綴ってきたが、一方、阿弥陀仏の本願を「他力」という語で示すことがある。しかし、今日、日常的には「他力」の意味はほとんど誤解または曲解されているようで残念と言わざるを得ない。多くの場合、他力があれば自力があるというわけで、「自力とは自分の力、他力とは他人の力、あなたまかせ」ぐらいに解されて、「他力では物事は成就しない、自力に頼るほかはないのだ」などと使われたりする。文字面からいくとそう用いられても仕方がないといえばそうかも知れないが、浄土教的意味合いは時限的にも深いものがあり平面的なものではない。浄土教的立場で「自力、他力」ということを言う場合は、行為や現象そのものを指して言うのではなく、その行為や現象の受けとめ方、捉え方に於いて区別し言うのである。われわれの人生そのものは、様々の営みがあり、毎日、勉強に、仕事に、生活に、遊びに、趣味に‥‥といそしんでいる。一見、これらの毎日の営みは、自分の力で何事も出来ているように見え、また思えるが(自力)、果たしてそうであろうか。実はそれは平面的二次元的な見方であって、全体的な捉え方とは言えない。それは自分の力には違いないが、その「自分の力」と思っている(自力)、その力とは一体何か、何処から来たのか。このわれわれの毎日の生命のいとなみ、勉強し、仕事し、生活しているこの生命のいとなみの背後にある大いなる力、はたらきに目覚めねばならない。時間空間を越えて、全次元的にこの生命にはたらきかけている力こそ「他力」と呼ぶものである。すなわち、他力とは「阿弥陀仏のいのち」である。「我れを貫き包み込む大いなる宇宙的いのち」である。無量寿、無量光である。われわれの生命の心臓は、昼も夜も、この世に生まれて以来、片時も休むことなく、全身に血液を送り続けている、その源は何か、それを為さし続けているのは何か。同じく肺は呼吸を続け血液をきれいにし、消化器は食物を消化し、栄養を吸収し、体中のあらゆる臓器は、われわれの意識を越えて、それぞれに働き続け、骨を作り、血液を作り、筋肉を作り、皮膚を作りしている。何がそうさせているのか、その根源的エネルギーは何か。阿弥陀仏のいのち、「他力」と云うより外はない。また一方そのような我々の生命を支え、日々の営みをなさせてくれているその背後には無量無辺のつっかい棒がある。光、水、大地、雨、風、空気、また生命そのものは野菜や穀物や魚や肉のいのちを戴いて支えられている。日常生活は、様々の資源のエネルギーを戴き、様々のそれぞれの分野で働く人々の御蔭によりこの「我が生命」は支えられている。勉強に、仕事に、生活にと日々いそしむことが出来るのは、この大いなる力、大いなる支え(他力)あればこその生命であり、人生であることに気付かせていただきたい。努力する、頑張るなどということは自力だ、既に我々は阿弥陀仏の本願によって救われているのだから、他力を戴いているのだから何もしなくてもいい、好き勝手な悪いことをしても良いのだという人があるが、それは真の他力の目覚めではない。先に示した如き真の他力に目覚めれば、一生一度しかない此の人生を、一生一つしかない此の生命を、全力投球、力いっぱい、燃焼させずにはおれないのではあるまいか。元来、一切衆生、生きとし生ける生命は、すべて他力の世界に生かされて生きているのであって、自力という世界はあり得ない。自力とは、他力の世界に生かされてありながら他力に気が付かず「自分の力で生きている」と思うその心が自力ということである。気が付いている時も、気が付いてない時も、意識している時も、してない時も、生命は「大いなる宇宙的いのち」阿弥陀仏と共に一つにあり、阿弥陀仏の本願、他力に包まれ抱かれているのだから。ここに、「自力即他力」「他力即自力即他力」、われわれの生命そのもの、生命のいとなみそのもの、「南無阿弥陀仏」を「自力、他力」の語を通して更に深く確認させていただくのみである。

第八章 三業弥陀一体の念仏

念仏といえば、「南無阿弥陀仏を声に出して称えること」と解釈されることがほとんどだが、とすれば、これほど単純にして容易な信仰もないということになる。この単純さ容易さの故に、八百年前、法然上人がうというものと結びつき、或いは「出遇い」といってもいいだろう、生涯、命尽きるまで共に専修念仏を提唱されて以来、それまで特定の知識階級の人だけのものであった仏教が、一気に庶民の間にまで広がり浸透していったのでもあった。しかし、一方またその単純さ容易さの故にさまざまの誤解を生み、今日においてもなお正しい念仏の理解が為されず、真の念仏信仰の確立、真の念仏的救済を難しくもしているわけで残念と言わざるを得ない。まさに『無量寿経』に「易往而無人」(往生すること易きにもかかわらず人無し)と説くが如きである。ここに、念仏的救済に与かるための「実践としての念仏」ということを問い直してみたいと思うのである。先に「念仏的自覚」ということを綴ってきたわけであるが、如何なる実践を通し、また契機として「自覚」に導かれるのか。

すでに、「わたくし」をはじめ一切衆生の生命は「大いなる宇宙的いのち」阿弥陀のいのちに貫き包み込まれ一体となっているわけであるが、その実感、その自覚を確かな不動のものとするところに「念仏信仰」の実践ということもあるのだから。

念仏の実践ということで、先ず最も身近なものに「称名」ということがある。「南無阿弥陀仏」を声に出して称えるという実践である。称名念仏は、そのこと自体「ナムアミダブツ」という音声を口から発することである。「我れと、我れを貫き包み込む大いなる宇宙的いのちと一体」を顕わすインドの言葉を音声として発することであり、その音声は、宇宙の大気が人の生命体に入り再び音韻となって宇宙の大気に還ってゆくというものであり、「南無阿弥陀仏」そのものの実践的行為として全くすばらしいものである。

『観無量寿経』には、「仏名を称するが故に、念々の中に八十億劫の生死の罪を除く」と説かれている。ただ、「念仏を称える」ということは、一件容易そうで、実際にはやはり難しいと言わざるを得ない。意味も何も分からず、問うこともなく「ただ念仏を称える」ということは、一時的には出来たとしても、信仰として確立することは難しいことである。場合によって「何を無責任な」と反発さえ買いかねない。「称名念仏」が念仏信仰の実践となり得る場合は次の二つの時だろう。称名念仏を導き進める善知識を心から信頼する時、または「南無阿弥陀仏」の意味するもの、謂れを聞いてその功徳を「自覚」する時の何れかだろう。おまじないの如きものでは決してないのである。

『観無量寿経』において、五逆・十悪という極重の罪その他もろもろの不善を具す「愚人」が、絶体絶命の窮地、命終に臨んで、善知識の勧めるままに「ナムアミダブツ」と称え、一念の内に往生を得ることが説かれているが、ここで重要なことは「善知識」ということだろう。弥陀の本願、絶対なる弥陀の大慈大悲を信じ、かけらの疑いなき信心決定した「善知識」の「無量寿仏(阿弥陀仏)のみ名を称えよ」とすすめられるままに唱える念仏ゆえに、往生に与かってゆくといえよう。時に、「どんな罪深い人でも、念仏を称えることに依って救いに与かってゆく」という称名念仏の救済を逆に受け取って、「念仏を称えさえすれば、どんな罪深い人も救われるのだから、どんな勝手なこと、罪使いことをしてもいいのか」という暴論を投げかける人がある。罪を罪と知りながら、その事に対する懴悔もなく、ただ振り翳すだけの称名念仏がどうして信仰といえるだろうか、どうして「救いに与かる」ということが言えようか。浄土教は一面で「懴悔の宗教」とさえ言われる。罪を罪と知る時、罪深き身ながらに弥陀の本願大慈大悲の御心に抱かれていることに忝さ勿体なさを思うばかりである。そこからは謙虚な心こそ生まれ阿すれ、決して傲慢不遜の心の生れて来よう筈はない。「称名念仏」ということは、最も身近でしかも素晴らしい功徳がその中に込められているのだが、称えるその心を踏まえることが極めて大切な条件である。

次に、「聞名」という念仏の実践がある。耳に「ナムアミダブツ」という六字のみ名を聞く、それだけで、往生したいと願うものは皆悉く往生し不退転に致ると経典は説くのである。「南無阿弥陀仏」の六字に計り知れない功徳が具足円満しているからである。即ち『無量寿経』に、「其の仏(阿弥陀仏)の本願力により、(南無阿弥陀仏)のみ名を聞いて、往生せんと欲せば、皆悉く彼の国(浄土)に到りて、自ずから不退転に致らん」と。全く、ただ有難い、と云う外はない実線がここに示されている。が、この場合もなお制約が残る。聞くに聞くことの出来ない人、また耳の不自由な人はどうするのかと。なお実践として完璧とは言えないのである。

次に、「憶念」という念仏の実践がある。すなわち心に「南無阿弥陀仏」を憶(おも)い念ずるという実践である。我れと弥陀との一体「南無阿弥陀仏」を心に明記しいつも忘れない、という実践である。憶念が自ずからの「称名念仏」或いは弥陀と一体「合掌」の心を為さしめていく源ともなってゆく。しかし、実際四六時中「南無阿弥陀仏」を心に明記しておくということは、心の集中と訓練を要することで至難であると言わざるを得ない。

次に、「合掌」という念仏の実践がある。「合掌」の姿そのものは、正しくこの身体そのものが弥陀と一体となった姿を現わすものといえよう。弥陀と我れとの一体を「南無阿弥陀仏」と合掌の姿として実践してゆくことである。ここで「合掌」といっても、何も掌を合わすということだけをいうものではない。我々の日々は、生活があり、仕事があり、二十四時間掌を合せているわけにはいかない。二十四時間の行住坐臥、一挙手一投足を「合掌のこころ」で行い為してゆくということである。それにしても「合掌」ということも「憶念」ということと同様、その事のみを相続し続けてゆくことは至難なことである。「合掌」のみ、「憶念」のみを以て念仏実践の完璧と言う訳にはいかない。以上のように、念仏実践の方法として、「称名」、「聞名」、「憶念」、「合掌」と四つの仕方を述べてきたが、それぞれに条件や制約を免れない。実は、これらの実践は、元来分けるべきものでもなく、比較するものでもなく、一つに限定するものでもない。もっとも、その特色を強調しようとしたところに細かく流儀や宗派が分れて行ったのでもあろうが。これらの実践は、絶対的に捉えるものでなく、その人その人に応じ、また、その時その時に応じて最も実践しやすい方法で実践してゆくものだろう。要は、「南無阿弥陀仏」、大いなる宇宙のいのち「阿弥陀」と「我れ」と「一体にあるという自覚」に至るための一実践であり、一方、「念仏的自覚」より顕わてゆく実践のそれぞれの姿でもあるのだから。称名が最も自然にしやすい時は称名し、聞名が最も自然にしやすい時は聞名し、憶念が最も自然にしやすい時は憶念し、合掌が最も自然にしやすい時は合掌する。また、実際的には称名が、憶念、聞名、合掌を誘い、或いは憶念が、称名ともなり、合掌ともなり、或いは、聞名が称名、憶念、合掌を導く、...といった具合に顕われていくものである。そして、これらの実践と「念仏的自覚」との関係は相関関係にあるとも言える。すなわち、実践を契機として「念仏的自覚」の目覚めが深められてゆき、「念仏的自覚」の目覚めによって実践が「自ずからなる実践」となって顕われてゆくという関係である。

この生身の生命の働きは、身、口、意の三業である。して見れば「三業弥陀一体の念仏」こそ「念仏的自覚」に導かれ得る実践の念仏といえる。逆にまた「念仏的自覚」より顕われる念仏は、自ずから「三業弥陀一体の念仏」となるということである。すなわち、身業-「合掌」「聞名」、口業-「称名」、意業-「憶念」と。

ここにおいて、行住坐臥、一挙手一投足の所作そのものが「南無阿弥陀仏」と同化し、我が心も体もたましいも「南無阿弥陀仏」と同化し、怨みの心は怨みの心のままに、憎しみは憎しみのままに、怒りは怒りのままに、悲しみは悲しみのままに、憂いは憂いのままに、病気すれば病気ながらに、そして嬉しい時は嬉しいながらに、「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と、ある時は「合掌」する中に弥陀と一体となり、また「聞名」の中に弥陀と一体となり、またある時は「憶念」する中に弥陀と一体となり、正しく「三業弥陀一体の念仏」となるのである。

法然上人は、自らを「十悪の法然」「愚痴の法然」と述懐されながら、日に三万遍、六万遍の念仏を申されたという。静かに我が身を振り返れば、日々罪を重ねずしては生きてゆけぬことを恥じつつ、ままならぬ身を嘆きつつ、十悪の身、愚痴の身と懴悔され、十悪の身は十悪の身ながら、愚痴の身は愚痴の身ながら、弥陀の大慈大悲の本願、大いなる宇宙的いのち「阿弥陀のいのち」に摂取されていることを自覚され、「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と

一つ一つの所作、一念一念に、「三業弥陀一体の念仏」を称えつつ、また念いつつ、合掌され、「南無阿弥陀仏」そのものとなられたのではかろうか。

第十章 輝くいのち

これまで「南無阿弥陀仏」の救済の意、救済の原理について述べてきたが、実は「たましいの奥底から湧いてくる救い」の実感が感じられるためには、もう一つのことが同時に伴わなければならない。もっとも、このことも「念仏的自覚」の目覚めに於いておのずから湧いてくることでもあるが-、それは具体的には何か、「人生の生甲斐」ということである。いくら「救われている」とか「救われる」と言ったところで、「人生の生甲斐」を感ぜずして真の「救い」とは言えまい。「念仏的自覚」即「人生の生甲斐」となってこそ「救い」ということの真の実証ともなり得るのだから。

「生きがい」の本源は何か、如何なることにおいて人間は「生きがい」を感じ得るのか、それは、自己の存在意義、生きるべき値打ちを実感する時、或いは周囲によって実感させられる時に感じられてくるものではなかろうか。「生きていてよかった」「生きることは素晴らしい」と、今日から明日に向って生きる喜び、人生の充実を感じてこそ「生きがい」というものであり、「いのちの輝き」というものであろう。『阿弥陀経』に極楽の蓮池の様子が説かれている。「池中蓮華 大如車輪 青色青光 黄色黄光 赤色赤光 白色白光 微妙香潔」と。阿弥陀仏のみ国、極楽の池には、車輪の如き見事な蓮の華が咲いている。青色の蓮華は青い光を放って輝き、黄色の蓮華は黄色い光りを放って輝き、赤色の蓮華は赤い光を放って輝き、白色の蓮華は白い光りを放って輝き、あたりには、たとえようもない浄らかな香が馥郁と満ちている。この『阿弥陀経』における蓮池の蓮の輝きは、一切衆生の「いのちの輝き」を象徴せんとするものである。人間一人一人の尊さ、素晴らしさ、輝きを蓮に托して説いたものとして味わいたい。百人が百人、万人が万人、それぞれにそれぞれの「いのち」があり、顔があるように、それぞれにそれぞれの「光り輝くいのち」-仏性―のあることをここに示さんとしたものである。『涅槃経』には「一切衆生悉有仏性」、一切衆生は悉く仏性を有すとある。或いは、『大乗起信論』には「如来像」、一切衆生は如来(仏)となるべき種を蔵している、とも説かれている。また、「煩悩即菩提」とも言うように、人間は三毒煩悩の泥にまみれながら、その泥から、むしろ泥を養分としながら蓮の花が開くように、素晴らしい「光リ輝くいのち」が華開くのだと教えるのである。たった一つの、たった一回の人生を、「光リ輝くいのち」仏性を蔵していることを自ら知らず、また周囲も気がつかず終わらせてしまうとすればあまりにも勿体ないことである。さて、この「光リ輝くいのち」仏性に目覚めること、即ち「菩提心」は何処から発って来るのか。それは一言で言えば「念仏的自覚」から導かれてくるものと言えよう。「我れを貫き包み込む大いなる宇宙的いのち」「南無阿弥陀仏」と目覚める時、一つ一つの「いのち」が、一人一人の「いのち」が、それぞれの「いのち」として自他共に輝くものとしてあることを観るのではなかろうか。ちょうど暗闇の中では、一切の色彩の別を観ることは出来ないが、光に照らされることに依って、数限りない色彩が、本来持っている色彩の輝きをそれぞれに光はなって見せてくれるように。

様々の野菜や穀物や果物には、それぞれにそれぞれの形や色や味があり、それがそれぞれに与えられた「いのち」の尊さでありすばらしさであり値打ちである。樹木や野草にしても同じく、スミレの花はスミレの花、タンポポの花はたんぽぽの花、ツユクサの花はツユクサの花と、それぞれがおのずから与えられた「いのち」を、自らの「いのち」として花咲かせるところに、それぞれの花の美しさがあり、それぞれの花の良さがあるのである。人間から見て、好みはあるにしても、それは比較して「どちらが美しい」と言えるものでもないし、また競うべきものでもない。だからこそ、この母なる大地は、あらゆる種類の樹木や穀物や野菜の花々を分け隔てなく育て、光や雨は、彼らの「いのちの育み」に分け隔てなく注ぎかけるのである。人間には万人万様の苦悩があるが、一方には万人万様の「光リ輝くいのち」仏性のある事に気付かされたい。一切衆生、生きとし生けるいのちは、それぞれに尊き存在として、それぞれのいのちを貫き包み込む大いなる宇宙的いのち、阿弥陀仏のいのちと同体のいのちとして生まれ、ここに存在しているのだから。