感謝の歌  / 朝日のいのり

 昭和三十六年五月十日から十二日までの三日間、光明会による弁栄聖者東海地方遺跡巡拝旅行が催されました。当山を巡拝された折、当時の法城寺世話人奥谷惣治郎氏のご案内があった様です。後に発刊された『光明』誌にその挨拶文が掲載されておりますので、ここに紹介させて頂きます。


― 名将の教訓を教えられて ―     『光明』東海聖跡巡拝特集号 (昭和36年8・9月号)

   奥谷惣治郎

 過ぐる日、弁栄上人の御徳を偲んで遠路を御参拝下さいまして有難うございました。皆様のお姿が如来様に向い整然として合掌、お念仏の様が身意柔軟に歓喜踊躍せられつつ、誠に尊く感ぜられました。

 兼て私子供の頃(十三・四才)でした。上人より、名将 毛利元就が三人の子息に教えられた「朝日に向い十度づつ 南無阿弥陀仏を称ふれば 後生は必ず極楽へ 此の世の祈祷も是なりと 授かりにし明日より 七十余才の此の日まで 大方忘れし事ぞなき 斯くも尊き大事をば 汝等三人勤めては 尚また人にも分けてよ」との教訓のお話を聞き、自分も明朝よりとりと、心に誓いて今日現在まで六十有余年間、洗顔後その場にて、東に向いては太陽に感謝し、皇室の御盛栄を祈り、諸天善人を敬い、歓喜に満ちております。

 人生、生者必滅 会者定離、いかなる高位顕官非人に至るまで、一人として逃れる事の出来得ない必然性を遠いもののように思うている中、臨終を迎え、後悔するともはや遅し、皆様と共に永遠の如来様の霊応をわが胸に宿したく思います。

 弁栄上人は碧南の法城寺に度々の巡錫の折、住職たちより法衣が新調され差し上げられし所、御自分の今まで着付せられしものはその場に置いて、新調の衣と着替えられ、敢えて古きものには執着されなかったと、なお御一代を通じて各所にご法話、講演と、真に御仏の化身かと、その尊い御姿、今更ながらその当時を思い浮かべます。また上人様は信者より多大な御法礼が参りましても、一切手を付けられず、施主の名義により上人のみ教えが印刷され、子供婦女子にもわかりやすく全部施本され、聖者の足跡のあるところ、高大なるお徳が偲ばれます。

 私どもは唯御仏を礼讃し、幸いなれば、御仏我を捨て給わず、不幸なれば、我に試練を賜うなりと、報恩感謝の念仏相続し、毎日を歓喜して送りたいと念仏する次第でございます。

 私は明治二十年生まれで、浅学、尚正直な草木を相手の百姓です。上人様のみ教えを受け、長年の有難さを偲びしのみ...。   ―碧南市天王町法城寺世話人―


 このお話は此の印刷施本「朝日のいのり」のお歌のことであります。聖者が近所の子供たちを集め、オルガンを弾かれながら共に聖歌を歌い、お念仏の種まきをしておられた、その御様子が目に浮かぶ様であります。奥谷惣治郎氏は、明治二十年生まれの方で、昭和四十二年八十歳でご往生なされました。平成二十八年、五十回忌をご自宅で勤めさせて頂いた折、この挨拶文のお話を致しましたところ、お孫さんに当たる現在の当主から、「爺さんは亡くなった日の朝も、いつもの様に太陽に向かって念仏しておりました。午前中に急に倒れ夕方帰らぬ人となったのですが、いつも俺はポックリ往くからなと言っていた、本当にその通りに往ってしまわれました」との述懐を頂き大変感激したことであります。三つ子の魂百までとは正にこのことであり、少なくとも五十年程前まで当地には聖者の薫陶が確かに残っていたのです。 

仏教唱歌

感謝の歌  /  朝日のいのり