清沢満之先生

文久3年(1863)8月10日~明治36年(1903)6月6日

自己とは他なし、絶対無限の妙用に乗托して、任運に法爾に此の現前の境遇に落在せる者、即ち是なり。【  意訳     自己とは何であるか、他力の御力にささえられ、その御はからいのままに今此処にこうして生かされているもののことである。西方寺『清沢先生の言行』参照 

御遷化される一年前の明治35年6月10日に発行された冊子『精神界』に掲載された原稿 

絶対他力之大道

自己とは他なし、絶対無限の妙用に乗托して、任運に法爾にこの現前の境遇に落在せるもの、即ち是なり。

ただそれ絶対無限に乗託す、故に死生の事また憂うるに足らず。死生なおかつ憂うるに足らず、如何にいわんやこれより而下なる事項においてをや。追放可なり、獄牢甘んずべし。誹謗、擯斥、あまたの凌辱、あに意に介すべきものあらんや。我等はむしろひたすら絶対無限の我等に賦与せるものを楽しまんかな。

宇宙万有の千変万化は、皆これ一大不可思議の妙用に属す。而して我等はこれを当然通常の現象として、毫もこれを尊崇敬拝するの念を生ずることなし。我等にして智なく感なくば、すなわち止む。いやしくも智と感とを具備してこの如きは、けだし迷倒ならずとするを得んや。

一色の映ずるも、一香の薫ずるも、決して色香そのものの原起力に因るに非ず。皆彼の一大不可思議力の発動に基づくものならずばあらず。色香のみならず、我等自己そのものは如何。その従来するや、その趣向するや、一も我等の自ら意欲して左右し得る所のものにあらず。ただ生前死後の意の如くならざるのみならず、現前一念における心の起滅、また自在なるものにあらず。我等は絶対的に他力の掌中に在るものなり。

我等は死せざるべからず。我等は死するも、なお我等は滅せず。

生のみが我等にあらず、死もまた我等なり。我等は生死を並有するものなり。我等は生死に左右せらるべきものにあらざるなり。我等は生死以外に霊存するものなり。

しかれども、生死は我等の自由に指定し得るものにあらざるなり。生死は全く不可思議なる他力の妙用によるものなり。しかれば、我等は生死に対して悲喜すべからず。生死なおしかり、いわんやその他の転変においてをや。我等はむしろ宇宙万化の内において彼の無限他力の妙用を嘆賞せんのみ。

請うなかれ。求むるなかれ。なんじ何の不足かある。もし不足ありと思はば。これなんじの不信にあらずや。

如来はなんじがために必要なるものをなんじに賦与したるにあらずや。もしその賦与において不充分なるも、なんじは決してこれ以外に満足を得ること能はざるにあらやず。

けだし、なんじ自ら不足ありと思いて苦悩せば、なんじは愈々修養を進めて、如来の大命に安んずべきことを学ばざるべからず。これを人に請い、これを他に求むるが如きは卑なり、陋(ろう)なり。如来の大命を侮辱するものなり。如来は侮辱を受くることなきも、なんじの苦悩をいかんせん。

無限他力何れのところにかある。自分の禀受においてこれを見る。自分の禀受(ひんじゅ)は無限力の表顕なり。これを尊びこれを重んじ、もって如来の大恩を感謝せよ。

しかるに、自分の内に足るを求めずして、外物を追い、他人に従い、もって己を充たさんとす、顛倒にあらずや。

外物を追うは貪欲の源なり。他人に従うは瞋恚の源なり。

何をか修養の方法となす。曰く、すべからく自己を省察すべし、大道を知見すべし。大道を知見せば、自己にあるものに不足を感ずることなかるべし。自己に在るものに不足を感ぜざれば、他にあるものを求めざるべし。他にあるものを求めざれば、他と争うことなかるべし。自己に充足して、求めず、争わず、天下何のところにかこれより強勝なるものあらんや、何のところにかこれより広大なるものあらんや。かくして始めて、人界にありて独立自由の大義を発揚し得べきなり。

この如き自己は、外物他人のために傷害せらるるものに非ざるなり。傷害せらるべしと憂慮するは、妄念妄想なり。妄念妄想はこれを除却せざるぺからず。

独立者は常に生死巌頭に立在すべきなり。殺戮餓死、もとより覚悟の事たるべし。

すでに殺戮餓死を覚悟す。もし衣食あらば、これを受用すべし。尽くれば、従容(しょうよう)死に就くべきなり。

而してもし妻子眷属あるものは、先ず彼等の衣食を先にすべし。すなわち、我が有る所のものは、我をおいて先ず彼等に給与せよ。その残る所をもって我を被養すべきなり。ただ、我死せば彼等如何して被養を得ん、と苦慮することなかれ。これには絶対他力の大道を確信せば足れり。かく大道は決して彼等を捨てざるべし。彼等は如何にかして被養の道を得るに到るべし。もし彼等到底これを得ざらんか、これ大道彼等に死を命ずるなり。彼等これを甘受すべきなり。ソクラテス氏曰く、「我セラリーに行きて不在なりしとき、天、人の慈愛を用ゐて彼等を被養しき。いま我もし遠き邦に逝かんに、天あにまた彼等を被養せざらんや」と。

最晩年、明治36年4月1日東京真宗大学で勤修された親鸞聖人御誕生会への祝辞。

他力の救済

我、他力の救済を念ずる時は、我世に処するの道開け、

我、他力の救済を忘るる時は、我が世に処するの道閉づ。

我、他力の救済を念ずる時は、我物欲の為に迷わさるる事少く、

我、他力の救済を忘るる時は、我、物欲の為に迷わさるる事多し、

我、他力の救済を念ずる時は、我が処するところに光明照らし、

我、他力の救済を忘るる時は、我が処するところに黒闇覆う。

ああ、他力救済の念は、よく我をして迷倒苦悶の娑婆を脱して悟脱安楽の浄土に入らしむが如し。

我は実に此の念によりて、現に救済されつつあるを感ず。

もし世に他力救済の教なかりせば、我は終に迷乱と悶絶とを免れざるべし。

しかるに今や濁浪(だくろう)とうとうの暗黒世裡に在りて、つとに清風掃々の光明界中に遊ぶを得るもの、その大恩高徳あに区々(まちまち)たる感謝嘆美の及ぶ所ならんや。日本他力教の宗祖親鸞聖人の御誕生会を開き、一言以て祝辞に代う。
明治36年4月1日 三河大浜町西方寺に於て  清沢満之謹白 


大変興味深いことですが、「他力の救済」という言葉を「ミオヤ」に置き換えると、そのまま弁栄聖者の教となります。


三身即一にまします大ミオヤよ

我、ミオヤを念ずる時は、我世に処するの道開け、

我、ミオヤを忘るる時は、我が世に処するの道閉づ。

我、ミオヤを念ずる時は、我物欲の為に迷わさるる事少く、

我、ミオヤを忘るる時は、我、物欲の為に迷わさるる事多し、

我、ミオヤを念ずる時は、我が処するところに光明照らし、

我、ミオヤを忘るる時は、我が処するところに黒闇覆う。

ああ、ミオヤは、よく我をして迷倒苦悶の娑婆を脱して悟脱安楽の浄土に入らしむが如し。

我は実に此の念によりて、現に救済されつつあるを感ず

もし世にミオヤなかりせば、我は終に迷乱と悶絶とを免れざるべし。

しかるに今や濁浪(だくろう)とうとうの暗黒世裡に在りて、つとに清風掃々の光明界中に遊ぶを得るもの、その大恩高徳あに区々(まちまち)たる感謝嘆美の及ぶ所ならんや。