無量寿尊光明歎徳文

弁栄聖者が明治33年法城寺にて療養された時に萌芽した光明主義が、初めて形になった印行折本です。まだ『礼拝儀』の形態は出来上がっていませんが、明治35年に初めて『無量寿経』「光明歎徳文」を解説されました。ここでは無量寿仏の「十二光体系」と「こころの更生」の “方向性”  がすでに確立されています。

無量寿尊光明嘆徳文略解(明治35年1月印行 )

 仏阿難に告げたまわく ㈠ 無量寿仏の  ㈡ 威神  ㈢ 光明最尊第一にして諸仏の光明及ぶこと能わざる所なり ㈣ 是故に無量寿仏をば無量光仏 無辺光仏 無礙光仏 無対光仏 燄王光仏 清浄光仏 歓喜光仏 智慧光仏 不断光仏 無称光仏 超日月光仏と号したてまつる ㈤ 其れ衆生ありて斯光に遇うものは三苦消滅し身心柔軟に歓喜踴躍して善心生ぜむ 若三塗勤苦の処に在て此光明を見たてまつらば皆休息を得て亦苦悩なく寿終の後皆解脱を蒙らん ㈥ 無量寿仏の光明顕赫にして十方を照燿す 諸仏の国土に聞こえざることなし 但我今其光明を称するのみにあらず 一切の諸仏声聞縁覚諸の菩薩衆も悉く共に歎誉したまうこと亦復是の如し  ㈦ 若衆生ありて其光明の威神功徳を聞て日夜に称説して至心不断ならば 心の所願に随て  ㈧ 其国に生ずることを得て  ㈨ 諸の菩薩声聞大衆に共に歎誉して其功徳を称せられん 其然して後 仏道を得る時に至て普く十方の諸仏菩薩に其光明を歎ぜられんこと亦今の如くならん  ㈩ 仏の言く 我無量寿仏の光明威力の巍々殊妙なることを説んに昼夜一劫すとも尚いまだ尽すこと能わじ 


光明歎徳文略解

仏、世に出でたまう一大事因縁を以ての故、一大事因縁とは弥陀の恩寵(めぐみ)を縁(めあて)とし、衆生(ひとの)信仰を因(もと)とし、此関係に依って仏知見(しんこうのめ)を開き、仏正道(ほとけのみち)に入らしむ。牟尼(しゃか)出世の本懐此にあり、此文を解釈(ときわけ)て此旨を明さんがために節を分つ、下の如し。

第一節 客体(あなた)弥陀の徳 性徳光用

㈠「無量寿仏(あみだぶつ)威神光明」とは、

弥陀 体相用(たいそうゆう)三大の徳を具え、法界(よのなか)万有(すべてのもの)を摂護(ひきうく)る最上の実在者たることを示す。躰徳とは弥陀本体 無相(すがたなく)して、一切所に徧く実在し 無始(はじめなく)無終(おわりなく)にして、変易(かわる)なく 是諸仏本地万法(すべて)の淵源(みなもと) 是を体大とす。

㈡「威神」とは、

相大本体無相成るも 衆生(ひと)の為に 無比の妙相(ならびなきすぐれたすがた)を現じ、又神聖 公正 恩寵 全智 全能 不可思議霊徳を以て常に至真(まこと) 至善(よき) 至美(うつくし) 真理霊界 最高所(いとすぐれしところ)に儼臨(ましま)して衆生を摂化す。

㈢「光明」とは、

用大弥陀完全円満なる霊徳を以て衆生(ひと)を摂取し 自性(じぶん)の如くに神聖同化(よきこころにな)せる妙用(はたらき)に名く。斯玄妙不測(はかるべからざる)の弥陀性徳や得て説くべからず。

㈣而も衆生(ひとの) 信芽薫発(しんこうおこす)が為に 十二光名を以て徳を彰(あらわ)す。

「無量光」一切事理(あらゆること)知らざるなく、又人の無量の過患(あしき)を除き、聖徳(よき)を成す。

「無辺光」無限に光被(こうむ)らざるなく、又人惑業(こころのまどい)無辺の故に摂化(なおす)の光も無辺なり。

「無対光」独尊にして匹敵(ならぶもの)なく、人の無明(こころのやみ)を破り無上覚(さとり)を証せしむ。

「炎王光」無限の慈悲、人の惑障(すべてさわり)を滅す炎(ほのひ)の物を焼くが如し。

「清浄光」感覚即ち六塵(めやみみ)の垢を去り、六根清浄となす。

「歓喜光」人の感情に歓喜(よろこび)と平和(やすき)を与う。

「智慧光」智力の無明(こころのやみ)を破し、仏知見(さとり)を与う。

「不断光」意志の主我(がをはる)を転じて、聖霊菩提心と成す。

「難思光」不可思議甚深にして、作意(こころ)に超絶(およば)ず。

「無称光」言葉(ことば)に超絶(およば)ず、言は偏(へん)に 理は円(まどか)なればなり。

「超日月光」日光は世の闇を破り、万物(よろづ)を養う。仏光(みひかり)は精神界(こころ)を照して  聖徳(よきとく)を長養(やしなう)故に 超(こゆ)と云う。光用

㈤「其衆生有りて」よりは、

光用を示す。光とは弥陀の神聖公正恩寵より、衆生(ひとびと)に対する霊光(みひかり)也。人の信心(まごころ)斯光(みひかり)に感合(あう)時は、貪慾(むさぼり)瞋(いかり)無明(くらき)の三垢(こころのあか)自ら亡くし、至真(まこと)の光、惑(まどい)を破り、正知見(さとり)を開き、至美(うつくし)の徳、感情を柔(やわらげ)て平和の喜びを与え、至善の徳、意志(こころざし)を霊化(ほどよくな)す。此より弥陀観念(おもい)を指導(みちびき)として道徳的行為をなす。

㈥「光明顕赫」等は、

釈尊(しゃか)及び諸聖者(さとりびと)は弥陀の霊徳を自ら認識(みとむる)が故に、其徳を歎じて止まざる也。


第二節 主体(こなた)衆生(ひと)の信仰 信機開発 更生 結果

「若衆生有」の六句は信機開展(しんじんかいはつ)を明かす。

㈦「威神功徳を聞」とは信仰の素因(たね)、

前の弥陀の性徳を聞きて一心念仏し、弥陀欽慕(したう)の一念に凝神(こころこら)し、行住坐臥(ねてもさめても)至心不断ならば、或は頓速(とんそく)に、或は漸次(ぜんじ)に純熟し、豁然と弥陀の心光(みひかり)に感合(とけ)、是を得てよりは天然精神(ものとこころ)を超越(たちこえ)して、弥陀新生名に入り、爰(ここ)に至らば有為(かり)の穢身(からだ)は転(かわら)ざれども、神(こころ)は無為(きよき)の聖域(ところ)に栖(すみ)遊ぶ。是を往生又は更生と云う。此れに安立(あんりつ)せる精神(こころ)は世の毀誉(そしりほめなど)八風の為に動揺(もどか)せられず、志気寂静(しづか)なり。之を完全たる道徳的生活と為す。

「其国に生」より信仰結果

㈧「其国」とは、

極楽無為(きよきみくに)真理の霊界、「生」とは、更生、是又色心(かたちこころ)二種あり。従来天然(もとのこころ)生活を超えるは、心薀(こころ)の更生なり。此の依身(かりのみ)を脱し、正しく報土(じょうど)に入るは色蘊(かたち)の更生と為す。

㈨  彼に到れば其の徳 形容(かたち)に現われ虚無無極の体、無量聖徳と霊福に充たされ、普賢行願に住し、生死(しょうじ)の園、煩悩の林に遊んで法界衆生(あらゆるもの)を度(たすく)す乃至(のち)成仏の暁(とき)には、弥陀の如く、十方聖者の為に称歎(ほめ)らるるに至る。

㈩  願わくは行者等我ら現にこれ罪悪の凡夫、無限界中(かぎりなきなかの)一惑星(このちきゅう)に生(み)を禀(う)けり。今より一心弥陀に帰し、同じく無量光寿(ひかりといのち)と成り、未来際(かぎりなく)を尽くして普く一切(すべて)を度(たす)けん。


本文を毎日朝夕に、或は一たび、必ず諷誦(よみ)て聖徳(みとく)を称(たた)え奉れ

斯霊文は

我らに無上の(こよなき)霊光(ひかり)と無限(かぎりなき)の生命(いのち)とを与えたまう

無量寿尊光明歎徳文及略解

我らに心霊(こころ)の宝殿(すまい)と聖糧(かて)と霊服(きもの)とを与えたまう

我らが心の闇を照し、凡ての過患(あやまり)を除き聖徳(せいとく)と霊福(さいわい)を与えたまう

我らが心の垢穢(よごれ)を去り至真(まこと)と至善(よき)と至美(うつくし)との■に霊化(よくなす)したまう   聖協会印施

如来光明歎徳文


『無量寿経』「如来光明歎徳文」のみの印行折本ですが、印行日時が不明です。ただし「歎徳」の表記は、初期の『要理問答』では「歎徳」であり、それ以後の『礼拝儀』では「歎徳」表記なので、「文」の表記はそれら以前の印行であり、最初期のものと言えるかもしれません。また、冒頭「仏阿難に告げたまわく、無量寿仏の威神光明最尊第一」との表記は、『要理問答』以降は「無量寿如来の威神光明最尊第一」と如来となっておりますので、やはり最初期のものと言えるでしょう。

 それでは、初期の『如来光明歎徳文及び略解』とどちらが先かを比較してみますと、『歎徳文』に於ける  ①3行目の「諸仏の光明よく及ばざる所なり」との表記、➁5行目「王光仏」との表記、③9行目「善心生ぜん」の各表記は、それぞれ初期『歎徳文及び略解』に於いて  ①「諸仏の光明及ぶこと能わざる所なり」、➁「王光仏」、③「善心生ぜむ」と、すべて明治37年以降の『要理問答』『讃誦要偈』『如来光明礼拝式』『礼拝儀』などに共通する表記ですので、この『如来光明歎徳文』は、明治35年印行の『如来光明歎徳文及略解』以前に、最初に用いられた十二光の経文であることが解ります。

如来光明歎徳文

仏阿難に告たまわく、無量寿仏の威神光明最尊第一にして諸仏の光明よく及ばざる所なり、是故に無量寿仏をば無量光仏、無辺光仏、無碍光仏、無体光仏、炎王光仏、清浄光仏、歓喜光仏、智慧光仏、不断光仏、難思光仏、無称光仏、超日月光仏、と号したてまつる、それ衆生ありて斯光にあうものは三垢消滅し 身意柔軟に 歓喜踴躍して 善心生ぜん 若し三塗勤苦処に在て此光明を見たてまつらば  みな休息を得て 亦苦悩なく 寿終の後みな解脱を蒙むらん 無量寿仏の光明顕赫にして十方を照耀す 諸仏の国土

に聞えざることなし 但我今其光明を称するのみにあらず 一切の諸仏 声聞 縁覚 諸の菩薩衆も悉く共に歎誉したまうこと 亦また是の如し 若衆生ありて其光明の威神功徳を聞て日夜に称説して至心不断ならば意の所願に随て其国に生ずることをえて 諸のぼさつ 声聞 大衆に共に歎誉して其功徳を称せられん 其然して後仏道をうる時に至て普ねく十方の諸仏ぼさつに其光明を歎ぜられんことまた今の如くならん 仏の言わく 我無量寿仏の光明威神の巍々殊妙なることを説んに昼夜一劫すとも尚いまだ尽すこと能わじ