西山上人

治承元年(1177)11月9日~宝治元年(1247)11月26日 

浄土宗西山派 派祖  善慧房 証空上人

南無は迷いの衆生の体なり。覚りと云うは阿弥陀仏の体なり。此の二つが一つになりたる所を、仏に付けては正覚と云い、凡夫に付けては往生と云うなり。此のいわれを心得るを即便往生とも云い、機法一体とも云い、証得往生とも云うなり。

念仏は励むも喜ばし、正行増進の故に。励まざるも喜ばし、正因円満の故に。 いたずらに機の善悪を論じて、仏の強縁を忘るることなかれ 。なかなかに心を添えず、ただほれぼれと南無阿弥陀仏を唱うべし。

生きて身を 蓮(はちす)の上に宿さずば 念仏申す甲斐やなからん

鎮勧用心

眠りて一夜を明かすも報仏修徳の内にあかし、さめて一日を暮らすも弥陀内証の内に暮らす。機根つたなくとも卑下すべからず、仏に下根を摂する願まします。行業とぼしくとも疑うべからず、経に乃至十念の文あり。はげむも喜ばし、正行増進の故に。はげまざるも喜ばし、正因円満の故に。いたずらに機の善悪を論じて、仏の強縁(ごうえん)を忘るることなかれ。不信につきてもいよいよ本願を信じ、懈怠につけてもますます大悲を仰ぐべし。

白木の念佛

自力の人は念佛を色どるなり 或は大乗の悟りを以て色どり 或は深き領解を以て色どり 或は戒を以て色どり 或は身心を調うるを以て色どらんと思うなり 定散の色どりある念佛をば仕課(しおお)せたり 往生疑いなしと歓び 色どりなき念佛をば往生は得せぬと歎くなり

歎くも歓ぶも自力の迷いなり  大経の法滅百歳の念佛  観経の下三品の念佛は何の色どりもなき白木の念佛なり

本願の文の中の至心信楽に称我名号と釈し玉えるも白木になりかえる心なり

所謂(いわゆる)観経の下品下生の機は佛法世俗の二種の善根なき無善の凡夫なる故に何の色どりもなし 況や死苦に逼(せめ)られて忙然(ぼうぜん)となる上は三業ともに正体なき機なり 一期は悪人なるゆえに平生(へいぜい)の行の さりともと頼むべきもなし 臨終には死苦にせめらるるゆえに止悪修善の心も大小権実の悟りも曾(かつ)て心におかず 起立塔像(きりゅうとうぞう)の善も此の位には叶うべからず 捨家棄欲(しゃけきよく)の心も此の時は発(おこ)りがたし  実(まこと)に極重悪人なりと更に他の方便あることなし

若(も)し他力の領解もやある 名号の不思議をもや念じつべきやと教ふれども苦にせめられて次第に失念する間  転教口称(てんきょうくしょう)して「汝(なんじ)若し念ずること能わずば応に無量寿佛を称すべし」と云う時 意業(いごう)は忙然となりながら十声佛(ほとけ)を称すれば声々(しょうしょう)に八十億劫生死(しょうじ)の罪を滅して見金蓮華猶如日輪(けんこんれんげゆにょにちりん)の益(やく)にあづかるなり

此位には機の道心一(ひとつ)もなく 定散の色どり一(ひとつ)もなし  ただ智識の教へに随うばかりにて別のさかしき心もなくて白木に称えて往生するなり 譬えば幼少(いとけなき)ものの手を取て物を書(かか)せんが如し 豈(あ)に小兒(しょうに)の高名(こうみょう)ならんや  下々品の念佛もまた斯の如し 唯 知識と彌陀との御心にて 僅(わづか)に口に称えて往生を遂るなり 彌陀の本願は湧きて五逆深重の人の為に難行苦行せし願行なる故に 失念の位の白木の念佛に佛の五劫兆歳の願行つづまりいりて 無窮(むきゅう)の生死を一念につづめ僧祇(そうぎ)の苦行を一声(いっしょう)に成ずるなり

又大経の三宝滅盡(さんばうめつじん)の時の念佛も白木の念佛なり 其故は大小乗の経律論みな龍宮(りゅうぐう)に蔵(おさま)り三宝の盡(ことごと)く滅しなん 閻浮提(えんぶだい)にはただ冥々(みょうみょう)たる衆生の悪の外には善と云う名だにも更にあるべからず 戒行を教えたる律も滅しなば何れの教えに依りてか止悪修善の心もあるべき 菩提心を説ける経 若し先だちて滅せば何れの経に依りて菩提心をも発すべき 此理(このことわり)を知れる人も世になければ習いて知るべき道もなし 

故(かるがゆえ)に定散の色どりは皆失せ果たる白木の念佛六字の名号ばかり世には住すべきなり 其時(そのとき)聞きて一念せんもの皆まさに往生すべしと説けり 此の機の一念十念して往生するは佛法の外なる人のただ白木に名号の力にて往生すべきなり

然るに当時は大小の経論のさかりなれば彼時の衆生には殊の外にまされる機なりと云う人もあれども 下根の我等は三宝滅盡の時に人にかわることなく 世は猶(なお)佛法流布(ぶっぽうるふ)の世なれども身は独り三学無分(さんがくむぶん)の機なり 大小の経論あれども勤め学せんと思ふ志もなし 斯かる無道心の機は佛法にあえる甲斐のなき身なり 三宝滅盡の世ならば力及ばぬ方もあるべし 佛法流布の世に生れながら戒を持たず定恵(じょうえ)をも修行せざるにこそ機の拙く道心なき程も顕われぬれ 

斯かる愚かなる身ながら南無阿彌陀佛と唱うる所に佛の願力尽く円満する故に ここが白木の念佛のかたじけなきにてはあるなり 機に於いては安心(あんじん)も起行(きぎょう)も真(まこと)すくなく 前念も後念も皆愚かなり 妄想顚倒(もうぞうてんどう)の迷いは日を追うて深く 寝ても覚ても悪業煩悩(あくごふぼんのう)にのみほだされ居たる身の中よりいづる念佛は いとも煩悩にかわるべしとも覚えぬ上に定散の色どり一(ひとつ)もなき称名なれども 前念の名号に諸佛の万徳(まんとく)を摂する故に心水泥濁(しんすいでいじょく)に染まず無上功徳を生ずるなり なかなかに心を添えず申せば生まると信じてほれぼれと南無阿彌陀佛と唱うるが本願の念佛にてはあるなり これを白木の念佛とはいうなり

浄土宗西山深草派勤行式