颯田本真 沙弥尼

弘化2年(1845)11月28日~昭和3年(1928)8月8日

  三昧発得の

布施の行者

徳雲寺所蔵  颯田本真尼 資料【抜粋】

坂上雅翁先生

本真尼は、明治24年(1891)から大正13年(1925)まで、北は北海道から南は鹿児島県までほぼ全国にわたって地震、津波、火山噴火、大火等で被災した人々へ、34年間にわたり念仏結縁に基づく慈善救済活動を行い、その布施戸数は全国23道府県、6万戸に及ぶ。

颯田本真尼(1845~1928)は、颯田清左衛門の長女として弘化2年 (1845)  11月28日に愛知縣幡豆郡吉田村で誕生、幼名は「りつ」といった。この地は忠臣蔵で有名な吉良上野介ゆかりの地であり、颯田姓を名乗る人も多く、現在でも念仏信仰の特に厚い地域として知られている。「颯田」という姓は、菩提薩の「薩埵」からの転訛といわれる。その名の通り仏教と縁が深く、出家している人の数も多い。現在の徳雲寺の檀家総代も総て颯田家の一族が勤めている。

本真尼は安政3年(1856)、12歳で三河碧南郡旭村の貞照院の高橋天然和上について得度、文久2年(1862)  に慈教庵 (後の徳雲寺)と云う庵を結ぶ。現在も徳雲寺の本寺は貞照院で、浄土律の流れを汲む律院として三河の中心的存在である。

徳雲寺の立地は渥美湾に近く、曽ては塩田が広がっていたあたりに位置する。塩田は豊かな富を生み出し、地元では吉良上野介は名君として讃えられ、忠臣蔵の話は赤穂と吉良の塩をめぐっての争いであったという。現在徳雲寺の最寄りの吉良吉田駅は、名古屋駅から名古屋電鉄吉良吉田駅行きの急行の終点となっているが、西尾市を過ぎたあたりから海まで続く平地が広がり、高潮・津波などの被害を受けやすい立地であることが解る。

明治23年(1890) に三河を襲った高潮で徳雲寺が被災する。これをきっかけとして明治24年(1891)から大正13年(1925) まで、北浄土律の流れを汲み、厳しい修行と清貧を基とし、多くの弟子も育成した。本真尼の葬儀の追悼文によれば、弟子の数は90余名でありは北海道から南は鹿児島県までほぼ全国にわたって地震、津波、火山噴火、大火等で被災した人々へ34年間にわたり念仏結縁に基づく慈善救済活動を行い、その布施戸数は全国23道府県、6万個に及ぶ。一方で、本真尼自身は浄土律の流れを汲み、厳しい修行と清貧を基とし、多くの弟子も育成した。本真尼の葬儀の追悼文によれば、弟子の数は90余名であり、本真尼の宴席の物や近隣の農家の娘も多かったが、後に遠方から弟子入りする者もあった(特に、細川家などの旧家の奥を預かるものや、公家の女中方の名も見える)。

明治23年(1890) に三河を襲った高潮で徳雲寺が被災した事が、本真尼を災害者への布施行を始める契機となった。翌24年に起こった濃尾大地震の際には、徳雲寺の所在する吉良町近辺は当時の震度表示で「烈」、現在の震度表示では震度6であり、徳雲寺の被害も甚大であったことが伺われる。その際に本真尼自身へ寄せられた信者の勧募に合わせ、当時岡崎の照光律寺にあった志運和上の信者を通じて勧募したものを罹災者へ施している。また明治27年 (1894) の酒田大震災や明治29年 (1896) の三陸大津波の際には、本真尼の受戒の師であった雲照律師をはじめ、目白僧園の夫人正法会の会員を通じて集められた施物を私財と共に被災地へ届けている。

本真尼の布施行に賛同した篤志家も、東京の細川家、京都の阪根家、山形の本間家、大阪の泉谷家を始め全国津々浦々へと増えて行った。雲照律師とは本真尼の実弟、颯田善苗師が弟子になったことから交流が始まったと考えられ、本信尼も自らの弟子と共に雲照律師より受戒している。雲照律師の戒律学校(後に目白僧園と改称) には、十善会と夫人摂受正法会(夫人正法会) があった。此の夫人正法会との関係が、後に本真尼の布施行が全国的な規模に発展するのに大きく影響した。雲照律師は、常々目白僧園夫人正法会の会員の夫人たちへ、「戒律については私の方が詳しいが、布施に就いては本真尼の方が上だ」と話していたという。この目白僧園での受戒を機に、皇族や華族の人々も多く名を連ねた夫人正法会との交流が始まったとみられ、これが被災地救援の規模拡大の契機となったとみることができる。

明治27年(1894)  10月22日午後5時37分、庄内地方は大きな地震に襲われた。被害はほぼ庄内全域にわたり、特に最上川の河口に位置する酒田は被害が大きく、家屋が密集している上に、夕食準備の時間であった為方々から火災が発生した。庄内地震とも酒田大地震とも呼ばれている。記録によれば当時庄内の全戸18,967戸のうち、全壊3,157戸、全焼12,118戸、死者718人、負傷者808人の被害となっている。

此の震災被害に際し本真尼は、雲照律師より受戒後に目白僧園夫人正法会の代理として、救援物資を携えて酒田に赴いている。石巻まで船を使い、それからは陸路で救援物資を山ほど荷車に積んで寺町へ行き、念仏信者だった老婆の居る梨屋漬物店に泊られた。これを縁として大正10年ごろ迄、本真尼は本間家を中心に酒田に招かれ、多い年は一年に7回訪れ念仏結縁の法話を行っている。滞在する期間の長く、一カ月に及ぶこともあったという。滞在したのは本間家のみならず、本真尼の舎利塔がある浄徳寺、脇寺の瑞相寺に酒田震災黄難横死霊供養塔の在る林昌寺をはじめ、在家の信者である斉藤家(梨屋漬物屋)、郷土史家の田村家などでる。本真尼の布施行は単に施物を届けることに終わらず、布施行を通じての念仏結縁を通じて、一人でも多くの同行を育てることにあった。

念仏結縁、布施行を一生涯貫いた本真尼は、久松真一師のことばから後世、「布施の行者」と呼ばれた。国家的な慈善救済事業の骨格が未熟な時代に於いて、戒律堅固で清貧な生活を送った浄土宗の一人の尼僧が、何のバックグラウウドも持たずに始めた被災地への布施行が、念仏結縁を通じて多くの篤信の方々の心をつかみ、全国的な広がりを見せた。颯田本真尼の念仏結縁を目的とした布施行は、本真尼自らの情熱と、その清貧・陰徳の姿に対して賛同した、昌光律寺の志運和上、目白僧園の雲照律師を夫人正法会の女性たち、そして細川家、阪根家、本間家、泉谷家をはじめとする篤志家の人々と、多くの弟子たちによって支えられてきたものであった。

颯田本真尼 逸話抄

藤吉慈海上人『颯田本尼の生涯』より

六字分明

お寺の門口から大きなお念仏の声がしてくる。これで老尼が帰られたことがわかる。六字分明な南無阿弥陀仏という高らかな声が老尼の居られる所にはいつも聞かれた。ある時、徳雲寺から一里も隔たった海岸で漁をしていた船頭が帰ってきて、「本真さん、あんたのお念仏が海岸まで聞こえるぞ」「そんな馬鹿なことがあるものか」「いや、確かにあんたのお念仏だ、私ははっきり聞いた」と不思議がって話をしたことがあった。老尼は、ナムアミダブツとはっきり称える六字分明のお念仏を勧められた。お弟子方に対してもお念仏が六字分明でないと、きつく叱られた。お念仏は六字分明でないと、有り難いどころか変な節がついたり、時には泣くが如く、時には訴えるが如く、またある時には唄うが如く聞こえて全く情けなく感ずることがある。元来、「万善の妙体は名号の六字に即し、恒沙の功徳は口称の一行に備う」といわれている。その様なお念仏が六字分明でなければならぬことは申すまでもない。

笑わぬ人の微笑み

法華経の中に、「戯笑(ぎしょう)の比丘尼に親近すること勿れ」と書いてあるが、老尼は決して笑わぬ人であった。お弟子たちがゲラゲラ笑ったりするときつく叱られた。そして次のようなお話をされた。昔あるところに少しも笑わぬ人がいた。ある人が「あなたはいったいなぜお笑いになりませぬか」と尋ねると「父親が大往生を遂げぬ先に何で笑えるか」と答えた。ところがその父親は立派な往生を遂げた。それでもその人は一向笑わないのでその訳を尋ねると、「父親はおかげさまで極楽浄土へ安らかに往生させて頂いたが、母親が救われぬ先に笑ってなどいられるものか」と言った。そしてその母親もまた安らかな大往生を遂げた。それでもその人は笑われぬので、その理由を聞くと、「父親も母親もおかげさまで大往生を遂げさせて頂いて有り難いことであるが、我が身の救われぬ前に何で笑えるものか」と言って一生懸命お念仏を申したそうである。「在家の人でもこうだ。まして出家した者が笑ってなどいられるものか」と言ってお弟子方を戒め励まされた。老尼はいつも「極重悪人 無他方便 唯称弥陀 得生極楽」と言って、「私のようなものが極楽浄土に生れさせて頂くなんて、こんな有り難いことがあるものか」と言って居られたそうである。そして「私にはどんなことでも出来ないことはない」と言って、普通の人ではとてもやりきれないような困難なことでも、いつも微笑みを以てなし遂げられた。「今日も一日人さまを喜ばす仕事が出来たかと思うと嬉しくてたまらぬ」とよく申されたそうである。西田幾多郎先生の歌に「わが心深き底あり 喜びも憂いの浪もとどかじと思ふ」というのがある。また「ほほえみはほほえみを生む春の風」という句があるが、本真尼の微笑もそのようなものであった。