空外上人 十二光
空外語録『自然のくらし』78 「自分のすべてがアミダさま」より
無量寿経に曰く「無量寿佛を ➀無量光佛 ➁無辺光佛 ③無礙光佛 ④無対光佛 ⑤燄王光佛 ⑥清浄光佛 ⑦歓喜光佛 ⑧智慧光佛 ⑨不断光佛 ⑩難思光佛 ⑪無称光 佛 ⑫超日月光 と号し奉る」
山本空外上人「弁栄聖者十二光」解説
無量光、無辺光、無礙光、無対光、炎王光。
「十二光」の内の五光ですが、炎王光以外は、四つとも無で始まっています。無は、形や物の上ではつかまえられないという事です。心やいのちは、お金を払ってという訳にはいきません。物で考えてばかりでは、世の中が情けなくなっていけません。無ということを考えなければなりません。
無量光は、体・相・用(ゆう)の体です。体とはそのものということです。命そのもの、心そのものです。大自然のいのちを生きているのですから、お金には代えられはしません。
いのちそのものの体をサトッテいけば、大自然のいのちの根源に還ることが出来ます。その根源をアミダさまと言います。
仏さまが西の方におられて、悪いことをしていても、死ぬ時に南無阿弥陀仏と言えば迎えて下さると、今でも訳の分らないことを言っている方もおられる。
死んで来た者は一人もいない。死んで極楽へ往くと言っても、何処に証人がいるのか。訳の分からないことを口先で上手に言っても値打ちはありません。生きている証拠を握らなければなりません。わたくしは生きている証拠を握ったのが五十年余り前です。生きている証拠を握ってから、これが大事だということで、ずっとその証拠を深めています。
今まで、わたくしの話を聞いて、一心に念仏するようになって、証拠を握った方はたくさんおられます。
いのちそのものの体には姿があります。それが無辺光、智慧の姿(相)です。
それは学問する智慧ではありません。学問をしなくてもサトレル。そういう智慧の姿です。
無礙光は、障害がなくなることです。
悪口を言われても腹が立たなくなります。腹を立てると自分の身体が不自然になって、腸や胃がねじれます。自分で自分をぶち壊すことはない。
いくら悪口を言われても、ナムアミダブツを称えればよい。意気地がないのではありません。悪口を言われたぐらいで腹を立てるのは気が小さい。ナムアミダブツの本当のところが解っていないから悪口を言いますが、そういう方はかわいそうですよ。
悪口を言われても全く障害になりませんし、病気になってもつまらないと思わないのです。もちろん病気になりたいことはありませんが、病気になって初めて分かることをサトルとよいのです。無理をして仕事をするから、その時はたくさん仕事ができるかもしれませんが、病気になると寝ていなければなりません。つまらないことをするなと、病気が教えてくれているのです。だから教えてくれた病気を拝まなければ申し訳ないと思います。これから気をつけますと言えば、却って早く治りますよ。わたくしは戦争後、お医者さまにかかったことがありません。そういう気持ちになっているからです。
何事に出会っても障害にならない。そうすると無対光と言って対抗するものがない。お金以上学問以上だということになる。仏さまになれるのです。成仏です。
それには炎王光と言って、除障していかなければならない。除障、障りを除くとは、悪口を言われて腹を立てるのが障りですから、腹を立てないようにするのがよい。
病気になると苦にしますよね、それが障りです。病気になったおかげでわかることが色々あれば、障りにはならないのです。
戦争で負けたのが十の損でも、負けなければわからないことをサトルと、二十も三十もの得になります。戦争は腹を立てるから起こるのです。腹を立てさえしなければ戦争にはなりません。戦争がいけないと分かったなら、まず自分が腹を立てないようにしなければならない。平和運動をしている人たちは鉢巻きをまいて、広島の原爆の日の前に来てけんかをしています。それで平和平和と言っているのです。
わたくしは、第二次世界大戦で負けて、戦争はいけないと分かりました。だから自分の心の中で戦争をしません。腹を立てない、それがまず先です。腹が立たないようになると、体の為にも心の為にもよい。仕事は倍できるようになる。
宗教形而上論は、アリストテレスのメタフィジカを学問上の拠り所としています。師匠のプラトン(BC423~BC347)にも形而上学的な土台があります。カント(1724~1804)にもあります。形而上は西洋の学問の土台です。その土台にあたるところに橋を架けると、すぐに道が付き、心が倍にも三倍にも十倍にも二十倍にも大きく、深くなるから、ケンカしたりはしません。
人間の心に、念仏の橋を架けると、「十二光」が身につく。皆さまは、朝夕のお勤めで念仏を称えて下さっている。西洋の教育を受けた方には、宗教形而上論の橋を架けるという意味が解っています。橋が架かれば、今までよりも、心が変わらなければいけません。そこを宗教心理という。
清浄光とは感覚の美化です。歓喜光とは感情の融化です。
智慧光は知識の啓発です。不断光は意志の霊化です。
わたくしどもの心は西洋風に言えば感覚と感情と知識と意思、簡単に言うと知情意です。見たり聞いたりしなければ材料はありません。その材料になるのが感覚です。いくらその人が好きでも、その人を見なければ始まりません。見るのは感覚です。それが元です。
その感覚が美化されなければなりません。普通の感覚では、勝手なことを感覚するからダメです。感覚が美しくならなければなりません。
わたくしどもは花を見ると、その花のいのちを感じます。その花のいのちは、大自然のいのちが花になって咲いている。それを心にサトレないといけません。
花一輪に、大自然のいのちを感じる。それを感覚の美化と言います。
鳥が飛んでいるのは、勝手に飛んでいるのではありません。大自然のいのちが鳥として飛んでいる。
人間一人ひとりが生きているのは、勝手に生きている訳ではない。大自然のいのちがわたくしや皆さまとなって働いている。だから、世の中つまるもつまらないもありません。
皆さまお一人おひとりが、大自然のいのちを、皆さまなりに生きている。大自然のいのちと言っても、皆さまのいのちの他にはありません。花のいのちの他にはない。鳥のいのちの他にはない。そういう感覚の仕方が出来るようになるのが肝要です。
どの花に対しても、鳥に対しても、人さまに対しても、拝める気持ちが起こる。拝むのではありません。拝める気持ちが起こってくる時、まず自分がそういう気持ちになっているから浄らかになる。
仏さまを拝める気持ちに自分がなるのが、浄らかなのです。
人さまをバカにするのは、自分をバカにしているのと同じです。
何故か。他人をバカにするような気持ちに自分が先になっているからです。だから他人が見てもいやらしいです。浄らかということが大事です。浄らかな心持になるのが浄土です。
大自然のいのちが花になって咲いている。花の一輪一輪に、そういう花の見方が出来るようになると、鳥の見方も、人間の見方も変わる。それが感覚の美化です。
そうすると感情が悦びになります。
普通の楽しさとは違います。極楽といって、感情が楽しくなる。
他人の子が入試に落ちて泣いていても、自分の子さえ入学出来たら嬉しいのでしょうか。戦争に勝ってめでたい、楽しいという時、負けた国の人たちは途方に暮れているのです。大火事があって隣の家までは焼けたが、自分の家は焼けなかったから良かったと言って喜んでいるのはもう無茶苦茶です。
ソ連やアメリカは、ボタンを押すとみんなが死ぬようなものを作って威張っているのです。今さら原子爆弾や水素爆弾を作ってどうするのか。保管するだけでも大変です。ナチス・ドイツが毒ガスを箱に入れて海に沈めました。箱が腐るとどうなるか。それを今でも作っている国がある。共倒れになるのに止めようとしない。
世界中の原子爆弾や水素爆弾を作るお金をいくら出しても、花一輪作れません。それがいのちの智慧です。だから、いのちに対して手を合わせることが出来るのです。花のいのちに手を合わせることが出来ると、人間のいのちにも手が合せられます。自分が自分のいのちに手を合わせられると子供が拝める、近所の方も拝めます。そういう知識をもう少し啓発していかなければならない。そうすると意思は霊化されて、不断光といってどんな災難に遭っても腰を抜かすことはありません。勇気百倍です。
お医者さまがわたくしを診察して下さり胃ガンだと言われましたが、腰を抜かしはしません。腰を抜かしても治りません。わたくしにはガンが拝めるのです。今まで六十九年間、胃ガンで無く暮らせたのが有り難いと思ってが、実際は半分しか有り難いと思えていなかった。それが胃ガンだと言われて初めて、有り難かったということが充分にわかりました。それを教えてくれたのは胃ガンですから拝まずにはおられません。わたくしの知り合いは胃ガンを拝んで五年間生きられました。お医者さまから今年の夏は越せないと言われた方です。お医者さまは奇跡だと言われたそうですが、わたくしは当たり前だと思います。自然だからです。その方がいよいよ亡くなるという時、わたくしに形見をくださいました。ひと月先には亡くなるという事がわかっておられた。それを不断光といいます。心の問題です。
心理は西洋の学問で教えます。ところが、いのちのことは教ようがない。宗教心理という橋を架けて、清浄、歓喜、智慧、不断の四光仏を心にサトレルと、今までよりも何十倍も豊かな生活が出来るようになります。
お念仏するとどうなるかを、今まで説明した方はいませんでした。お念仏しろといって、死後はお浄土に往けるというだけでは説明になりません。また、宗教倫理を説明するだけの方は、倫理という名前の付いた本を読んで噂話が上手なだけです。それでは役に立ちません。初めて、念仏をするとこうなるんだと説明したのが、聖者の十二光です。
内と外とに橋を架けて、一人ひとり心に倫理の生活が出来なければなりません。それには、十二光仏の内、難思光、歓喜光、無称光、超日月光の四光仏です。
初めは難思光です。思議しがたいという意味です。親鸞聖人は「南無不可思議光」といわれましたが、難思とは不可思議のことです。
お念仏を喜びだすと、喜ぶ心の中にアミダさまの慈悲の華が開いてくる。それを無称光といいます。人間が知っている言葉では何とも称えようがないという意味です。「如来の慈光を蒙れば 七覚心の花開き」と『如来光明礼拝儀』が言う通り、七通りのサトリの華が開く。キリスト教などは死んでから天国に行けるという説明だけで、祈ると自分の心が浄らかに深まるとは説明できていないのです。お念仏は、正面から人間をつかまえて、ナムアミダブツで七通りのサトリが心の華として開くと説明します。
「念仏七覚支」の橋さえ架けると、一人ひとりの心に、サトリの華が咲く。ナムアミダブツで一人ひとりのいのちに華開いて実を結ぶ、生活に実ってゆくのです。