自然は奢らず
自然・不奢
いのちの実りを全うする
『自然のくらし』「空外語録79」参照
お十夜法要でのお話は、自然の生活を一人ひとりが深めていこうということに重点があります。この世の中には自然が少ない。不自然になっていると、二千年近く前の『無量寿経』に書いてある。最近、公害が問題になていますが、それが書いてある。
自然とはどういうことか。東洋の文化は自然を基にします。人間も自然の一部分だから、なるべく殺生をしないように、道ばたの花も大事にして、自然を破壊してはいけないという考えです。西洋は人間が中心の考え方で、人間の思うように山も川もみな勝手にしていこうというのだから、地球は人間のものだと考えている。
公害をなくして自然の生活を深めるのにはどうするのがよいか。『無量寿経』には、大自然が秘める根本願望と云うべき本願が説いてあります。本願は、誰が考えても、その様に考えないと考えられないという人間が生きる上での根本的な願いを云います。根本的な願いとは、「大自然に活かされて、自然につつまれて生きている人間」が生活できる原点です。本願の基を仏道と云いますが、茶道で一番大事な文献は、盧同の『茶歌』で、中国の唐時代の文献です。お茶のことは『茶歌』を読まなければなりませんが、お茶の点前だけを知っていて、お茶のことは解らないようではいけない。『茶歌』には大事なことがいろいろ説いてありますあ、そのうちの一つに、「至精 至好 且不奢」とあります。
自然は、私共に空気を吸えるようにしてくれていますが、偉そうにはしていません。雨が降り、飲み水も豊富にありますが、自然は飲ませてやると恩に着せることはありません。奢らずとは、恩に着せない、自然のことです。お茶を作るには、お茶の木にカバーをして太陽があまり当たらないようにします。日光が当たりすぎると弱ってお茶の味が出ない。お茶を仕上げる時も、温度に気を付けなければいけません。お茶を仕上げるには精一杯やらねばならない、それを至精といいます。そうすると、至好、至ってよろしい。飲んで味がいいお茶になります。お茶には醤油を入れて辛くしたり、砂糖を入れて甘くしたりしません。自然そのままの味を生かす。それを奢らずと云います。お茶は自然そのままを味わいます。人間が勝手なことをしないで、自然生かしている、それを奢らずと云います。形式だけでは至精至好ではありません。
ナムアミダブツと称えるということは、簡単に言えば自然を生かす、精一杯のことです。だからナムアミダブツ、ナムアミダブツと称えるのです。他力本願といって自分は勝手なことをしておいて、極楽に行く時はアミダさまに迎えてもらうんだというのとは違います。自分が精一杯やらずにいると、アミダさまはどうすることも出来ないのです。自力とか他力などと勝手なことを考えてはいけません。自力も他力もない、私共は精いっぱいできるだけしなければなりません、そこが自然を生かすということになる、東洋の文化はそうなっています。
自分とアミダさまといっても二つではありません。木魚を打つのもその意味です。木魚は承応3年(1654)に日本に来ました。中国の隠元禅師がインゲン豆と木魚を持って来たのですが、道元禅師の『永平清規』に木魚のことが説明されています。「魚は昼夜常に覚む」、魚は昼も夜も常に目を開けています。「木に刻して形を象り、それを打つは昏惰を戒める所以なり」、昏惰は居眠りです。魚は昼も夜も眼をパッチリ開けているのに、人間ともあろうものが大事な話を聞く時に眠ってはいけません。この場合の居眠りとは横になって眠ることではありません。お金を貯めるとか、子供をよい大学に入れたいとか、大きな家を建てたい等という考え方そのもののことです。お金をたくさん貯めるても、大きな家を建てても、良い着物を着ても居眠りをしているようなもので中身はありません。それを昏惰といいます。
自然を活かす、無量寿を呼吸する。ナムアミダブツで頭の天辺から足の先までアミダさまのおかげだとサトル、これこそがいのちの宝なのです。自分の身体といのちは、お金に換えられない宝です。自分の命を拝む気持ちさえ決まれば何の心配もない。そういう気持ちで生きていかなければ四苦八苦ばかりです。魚が昼も夜も眼をパッチリ開けているとは覚醒のことです、仏教の仏のことです。阿弥陀仏の仏は覚という意味ですから、病気になっても人に騙されても悪口を言われても、いつでも、死ぬ時でも、人間は悟っていなければなりません。サトリとは実行する、行ずること、生活することです。
弁栄上人の十二光仏でも最後は超日月光仏でした。生活するということです。宗教倫理は生活すること、生活して実行していかなければなりません。木魚を打つのは昏惰を戒める生活をする為です。
先ずは自分の身体と心を大事にする、わたくしは、戦後26年間お医者さまに診てもらったことはありません。それは身体を大事にしているからです。いつも手や足を拝んで擦らずにはおられません。この身体はいくらお金をかけても出来ないのだから、自分の身体もいのちも大事にする、そこが居眠りをしない、昏惰を戒める所以なのです。それで木魚を打ちます。木魚の音は世界一です。わたくしは木魚の音を拝みたい気持ちになります。道を歩いている時、路傍の家で木魚を打っていると、その家の方を拝みたくなります。木魚の音を聞いて自分が拝めば、拝むような心持に先ず自分がなります。仏さまを拝めば、拝むような心持に自分が先ずなるのです。それが自分を拝むことであり、自分を大事にすることになるのです。それ以外ありません、威張っていると自分が狭苦しくなる。そういう罪なことをするものではありません。
ナムアミダブツは世界一の言葉です。人間は言う言葉の様な心持になりますから、ナムアミダブツと云えば、手足の先から心の底までアミダさまのようになり、その手や心でする仕事はどうしてもアミダさまの仕事になるのです。毎日お掃除をしても、お洗濯をなさっても、お炊事をされても、お商売をなさっても、何の仕事をしても、その仕事がアミダさまのよう仕事、即ち自分を生かすような仕事、そういう仕事をして下さい。それには別に難しいことをしなくても、ただナムアミダブツを称えるとよいのです。
自分のする仕事が、アミダさまに直結しなければ値打ちはありません。つまり、自然のいのちを生きるような仕事をしなければならない。そうするのには、ナムアミダブツという世界一の言葉を口で称えるとよい。
世界一の音に世界一の音を合せて、ナムアミダブツ、ナムアミダブツと称えることを、わたくしは50年余り続けていますが、止められません。木魚を打って念仏をしていると、知らない間にアミダさまのような心持ちが深くサトレて来ます。頭の天辺から足の先まで、アミダさまのお慈悲に生かされて、アミダさまのいのちを生きている味わいが深く感じられてくる。それを大自然のいのちの惠みといいます。そうなると、木魚を打たなくても、ナムアミダブツを称えなくても、道を歩いていても、花を見ても鳥を見ても、アミダさまのいのちが感じられます。それを極楽といいます。わたくしは、今すでに極楽にいますから、死ぬ時も、死んで後も極楽しかありません。極楽の道が生きている今から決まる。そのようになろうではありませんか。
念仏為先(判断中止)
世界で今一番流行している学問は現象学ですが、現象学を始めたのはドイツのフッセルです。フッセルは、現象学とは(カッコ)に入れなければいけないということだと云いました。(カッコ)に入れるとどうなるかというと、純粋意識に取り組めるのだという。これに当たるのが、お念仏をして自然を生きることです。今一番大事なことは、(カッコ)に入れることです。テレビを見たくても、その気持ちを(カッコ)に入れて、ナムアミダブツを称える。したいと思う事を(カッコ)に入れて純粋意識に取り組む。これは、「自然を生きるという根源的ないのち」と言っても良いでしょう。根源的ないのちに取り組むわけです。
アミダさまは、わたくしたちのいのちの親さまです。ナムアミダブツを称えると、その根源的ないのちにひとつながりになる。生きている時も、死ぬ時も、死んで後も、根源的ないのちしかありません。そういう気持ちを決めないといけません。
法然上人は世界で初めてナムアミダブツの中に仏教を全部入れた。全仏教を絞ると、万人平等往生の一滴が出た、それがナムアミダブツです。ナムアミダブツならだれでも称えることが出来ます。朝起きた時でも、仕事の間でも、夜眠る時でも、夜中に目が覚めた時でも、死ぬ時でも、誰でも、いつでも、どこでもすぐに称えられる。そのナムアミダブツで根源的ないのちに接する。それが自分の生活の拠り所となります。ナムアミダブツを称えないと、お金だけに気を取られますから、けがをしたり、命を失ったりして、本当の自分(本来の自己)から離れていく。いつでも、根源的ないのちと、一つながりになっていなければなりません。そうすると、すべてが自分の仕事の支えになって、自分の仕事の中へ根源的ないのちが通じて来ます。それが仕事を活かすというか、仕事の中身を深めることになります。
そのパイプ、その門を開くのがナムアミダブツです。その為には、やりたいこともあるでしょうが、それを一旦(カッコ)に入れる。そこを法然上人は、「しばらく さしおく」と言われた。聖道門といって、十人に一人もやり遂げられない難しいことをやると、皆が足踏みばかりになりますから、それを(カッコ)に入れたらどうかと言われた。「しばらく なげうつ」とも言われた。何をなげうつかというと、諸々の雑行です。仕事が忙しいといって念仏をしないと、死ぬまで忙しい。忙しいことがあっても一旦カッコに入れて、ナムアミダブツ、ナムアミダブツと自然の根源的ないのちに触れて、一つながりになっていく。そうすると、手足が動くのも、頭が働くのも、心臓が回るのも、空気が吸えるのも、水が飲めるのも、皆おかげだとなる。吸っている空気は、太陽が照らした木から出す酸素を吸っているから、そういう仕掛けはお金では出来ません。拝むような気持ちで空気も吸わせてもらう。心臓を自分勝手に回すことは出来ませんから、拝むような気持ちになっておれば、ひとりでにナムアミダブツという気持ちが起こります。そこから大自然のいのちの根源が通ってくる。それを、「しばらく さしおく」とか、「しばらく なげうつ」と言われたのです。「なお かたわらにして」「なお かたわらにす」とも言われた。それはナムアミダブツを称える助けになる仕事のことです。ナムアミダブツと称えるのに助けは要りません。しかしナムアミダブツと称えずに仕事をしていると、脇道に入り込んでしまい、ああだこうだと言ってそれで日が暮れてしまいます。いのちの接点とはアミダさまと、いつでも、どこでもつながっている、離れないことです。だから、しばらく、なお、かたわらにするのです。
これを現象学的な見方をすれば、(カッコ)に入れるということです。「判断中止」という言い方もあります。ギリシャ語でエポケーです。
ナムアミダブツを何故称えなければならないのか。話を聞いている間は解ったように思われても、家に帰って、あれはどうだったかなと考えなくてもよい。判断を中止して、ナムアミダブツを実行していく。ナムアミダブツと称えると、大自然のいのちと繋がって、そこから大自然のいのちが通ってきます。わたくしは、ナムアミダブツと称えながら話をしています。本を読んでも、字を書いても、絵を描いても、何処でも、何時でも、ナムアミダブツを称えています。
法然上人は、ナムアミダブツで全仏教をまとめられました。その主著は『選択本願念仏集』です。「選ぶ」という言葉の中に「判断中止」の意味があります。今日の新しい学問、現象学で言えば、そういう意味合いを持った選び方です。そのおかげで、親鸞聖人といった偉い方たちがナムアミダブツを悦ばれて、お念仏が日本中に広まっていく基になりました。わたくしはナムアミダブツを称えていると、法然上人や親鸞聖人、さかのぼれば、お釈迦様ともご一緒に居る気持ちです。そういう後ろ押しというか、土台というか、力強い生活をさせて頂かなければ、本当に自分の持ち分を十分に実らせる生活は全うされないのです。今日の現象学的な考え方からいっても、お念仏をすることは少しも問題はありません、というよりもそれしかない。私は学者ですから、今日の学問にちょっとでも矛盾するような念仏などはできません。純粋意識といっても、西洋の学問では純粋意識がよく解っていない人が手探りのような事をしているのだから、念仏の方がよりもう一歩進んでいるのです。東洋では、ナムアミダブツで純粋意識に飛び込んでいるのです。だから手探りではありません。
難しい学問は十人に一人も出来ません。しかしナムアミダブツなら、誰でも、何時でも、何処でも、すぐに出来て、誰もがそのいのちの接点に立てる。そうすると、
アミダさまのいのちが、手にも足にも体中に、心の底まで感じていくような生活が、力強く今日から徹底します。そういう心持が決まらないと、死んで後、どうなるか分かりませんから、死ぬ時は心細いでしょう。わたくしは五十年余り、ずっとナムアミダブツを称えていますから、死んで後も、極楽しかありません。それがナムアミダブツで決まるから、これくらい有難いことはないのです。自分の仕事が実っていると、自分の持ち分だけは身につくようになります。どうか、お互いにお念仏を悦ぶ生活をしたいものです。