随縁成染浄
( 平等往生 )
空外語録『自然のくらし』78 「自分のすべてがアミダさま」より
龍樹菩薩の『中論』の巻四に、「涅槃は世間と少しの分別ることなし。世間は涅槃と少しの分別なし」と述べられています。涅槃は、いのちの根源へ深まっていくサトリのことです。深くサトッテいくとはいっても、世間は少しも変わるわけではない。ということはつまり、内外を一緒に生きていくことです、一方だけはない。
涅槃はサトリですから、世間の迷いとは大違いのようですが、全く変わらない。裏返すと、世間は涅槃とまた少しの分別もない、外と中は一つも変わらないというのです。分けて考えさえしなければ、本当は一緒に生きて居るのです。
ナムアミダブツと称える時、声は外です。アミタは計算が出来ないというインド語です。計算が出来ないということは、つまり「無」へ飛躍しているのです。飛び込んで一つになることなのです。ナムアミダブツと称える時は、今まで外だけに向いていた心が、中へも向いて一つになるのです。
「涅槃は世間と少しの分別あることなし。世間は涅槃と少しの分別なし」。座禅しても念仏しても、これしかありません。今まで外ばかり考えていたのを、中へ入って一緒に生きていくということです。インドの仏教を一口で言えばこういうことです。
死んだ後にお浄土に往くというのは仏教ではありません。何故かというと、涅槃は世間と少しの分別のあることがないからです。世間というのも涅槃と分けて考えられないのですから、死後はお浄土に行くが生きている間は迷っているというのでは、仏教にはならないのです。深くサトッテも世間を離れる訳ではなく、また世間でのことでなければサトルことは出来ません。
ごまかして悪口を言われたとしても、それに腹を立てれば迷いです。が、言われた悪口から、こういうことをサトラなければならないということをサトッテいくことが大切なのです。
大水が出て家が流されることもありましょうが、それは世間のことです。今まで家をあてにしていたけれども、家というものはいつ流されるかわからないものであると気づかされれば、世間の事でももう一つ中へ入れば深くサトレるのだということを教えられます。大水で家が流されるようなことが無ければ、本気になれれないのが私という人間なのです。本気になれば、涅槃は世間と少しの分別あることなしです。
龍樹菩薩より三百年くらい後に、中国に曇鸞大師がお出になられました。世親菩薩の『往生論』を註釈して『往生論註』を表されました。その中に「煩悩を断ぜずして涅槃を得る」という一文があります。普通は、煩悩を断じて、つまり自分勝手をしないようにして涅槃を得る、サトルのだと考えている方が多いが、煩悩は断ずることは出来ません。腹が減るとご飯が食べたくなります。食べたいというのは煩悩ですから、腹が減ってもひもじくないというのは、痩せ我慢で言うだけであってどうしても食べたくなります。「心頭滅却すれば火もまた涼し」と言ってもそれも痩せ我慢です。
寒くないように着物を着て、ひもじくないようにご飯を食べてもサトレル。損だ得だというと、経済的動物の心持になります。人は使う言葉の様な心持になるから、上品な言葉を使えば上品な心持になり、下品な言葉を使うと下品な心持になる。ナムアミダブツと称えると、アミダさまのようになるのは当たり前ではありませんか。アミダさまのようになれば涅槃を得たということで、煩悩を断ずることなくサトレル。
煩悩と涅槃を別に考えている方がいますが、それは間に合わせです。本当は、煩悩を断ぜずして涅槃を得る、外と中を一緒に生きていく。ナムアミダブツと称える時には、中のサトリが外へも出てきます。
『無量寿経』を読むと、おシャカさまのお顔は、光顔巍巍と、中のサトリが外に現れているとある。中がサトッテいるのに外は変わらないということはあり得ません。ナムアミダブツと称えると、顔つきまでアミダさまのように光って輝いてくる。
『中論』とか『往生論註』のように、理屈ではインド人や中国人にはかないませんが、日本は日本でなければならない良さ、特色があります。法然上人の言葉は日本的です。外と中とを平等に生活が出来る、平等の生活で打ち出していく。つまり、偉くなくても偉い人と平等に生活が出来るというのです。平等の生活ということになると、インド人や中国人は日本人にはかないません。
法然上人の伝記ですが、天皇陛下の勅命で出来た伝記、『勅修御伝』にその意味がある、四十五巻に「機法一体」という言葉があります。
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アミダさまが法で、ナムアミダブツと称える時は、わたくしがアミダさまになります。人は言う言葉の様な心持になる。
わたくしが外だけを向くと、自分勝手になり、お金を貯めるとよいとか出世を早くしたいとか、大きな家を建てたいということになって、そういう競争をやり始めると、少数の人しか勝てません。大勢の人がダメになる。ナムアミダブツは、少数の偉い人も大勢の偉くない人も、平等に往生できる。
ナムアミダブツはインド語ですが、インド人はナムアミダブツを称えません。中国の寺では、ナムアミダブツが挨拶の言葉になっています。おはようの代わりに、ナムアミトウフ、さよならと言わずに、ナムアミトウフです。日本では、生きている時は無論、死ぬ時もナムアミダブツを称えます。だから、ナムアミダブツが日本に広まった。
「念仏の機は ただ生れつきのままにて 念仏をば申すなり」
念仏の機は、念仏する人という意味です。難しいお経など、読めない人は、読めないままに、ナムアミダブツだけでよい、誰が称えたお念仏も、差別はないと、法然上人が言われました。
親鸞聖人は偉い学者ですが、ご自分のことを愚禿鸞と言われた。自分の吸う空気をこしらえることはできません。飲む水を作ることも出来ません。心臓を回すことも出来ません。そこを踏まえて愚といわれるのです。
智者とは難しい本を読める人のことを言います。智者は智者にて申して生まれるというのは、難しい本が読めても、ナムアミダブツを称えなければ往生が出来ない、決してアミダさまのようにはなれないという訳です。本が読めない人のことを愚者と言っていますが、ナムアミダブツを称えると往生が出来る。往生という時には、いつも平等です。
「道心ある人も申して生まれ、道心なき人もっ申して生まる」
その頃は、伝教大師の比叡山の天台宗から、法然上人まで四百年間ずっと道心が根本でした。「道心ある人を名づけて国宝と為す」、伝教大師の有名な言葉です。奈良・東大寺の大仏さまとか興福寺の五重塔を国宝だと思っているが、火事で焼失する。肝心なのは、道心ある人で、国宝だというのです。
法然上人からいうと、その様な窮屈なことでは間に合わない。
「道心なき人も申して生まる」のです。すばらしい言葉です。
法然上人以前は、道心のない人は人間扱いされなかった。それも、道心があるからといっても、ナムアミダブツと称えなければ往生できないということでした。法然上人は、大勢の中には道心のない人もいるが、ナムアミダブツで往生が出来るという。道心のある人も無い人も、一念の念仏で、一度の往生が出来るという、それで平等です。
道心が無ければダメでは、十人に一人も合格しないことになります。そうなると、ごく一部分の人の仏教になってしまいます。大勢の人が入れなければ値打ちはありません。誰でも入れるように門を開けておかなければならない。日本人の考えは、難しい理屈を言うのではありません。念仏の機は、ただ生れつきのままにて念仏をば申すなり。智者は智者にて申して生まれ、愚者は愚者にて申して生まれ、道心ある人も、道心なき人も申して生まる。それをお浄土と言います。
「富貴のものも貧賤のものも、慈悲あるものも慈悲なきものも」
慈悲のある人は立派です。藍綬褒章などを貰う御方です。慈悲のないものは刑務所に行かなければならないこともあります。大違いです。ナムアミダブツと称えると、どちらもお浄土です、平等です。
「欲深きものも 腹悪しきものも 念仏だに申せば 本願の不思議にて いずれもみな往生するなり」
腹の悪いものがナムアミダブツと言っても値打ちがないとか、半分しか値打ちがないというのではありません。いずれもみな往生する。
「念仏の一声に万機を収めておこし給える本願なり。ただ、こざかしく機を沙汰をせずして 懇ろに念仏だに申せば みなことごとく往生するなり」
法然上人は、そのように続けて説いています。難しいことはないでしょう。こういう考え方が日本的です。
念仏して生まれる中には、慈悲のある人、無い人、欲深い人、腹の悪しき人、それぞれの往生には違いありません。往生する時は各各性です。一人ひとり、その人でなければサトレない中身が実ってくる。それが大事です。一人ひとりが、其の人でなければならないいのちの実りは、心の豊かさで決まります。
唐の法蔵が、『華厳五教章』で「随縁成染浄」、縁に随って洗浄を成ずと言っています。こういった気の利いたまとめ方は、中国人でないととてもできません。縁に随わなければできないことですから、縁に随って仕上げていく。染とは汚れて悪いことを指します。例えば、病気をする、悪口を言われる。浄は清らかな方です。商売しても、損をするよりも儲けた方がよいでしょうが、損得のどちらにしても、成就して全うしていくことです。
病気だからつまらないということになると、病人は死ぬまでつまらない。病気の仕方によっては、看病している元気な人が感心することがあります。あの人の様な心持で居りたいものだというように、元気な看病する人にも教えることが出来る。病気をしたい人はいませんが、その病気を全うし、成就することが出来る。
商売をしていても、騙されて家まで取り上げられることもあります。それは染です。そうだからと言って人を恨んでみたり、ごまかしてやろうと思うようなことをすると、悪い上にまた悪いことを重ねていきますから、不味いことになる。
わたくしは先日、九州で、愚痴を言わない方に会いましたが、不都合なことを情けないと思っていないから、その方を、皆で助ける会までできた。あのような気持に、どうしたらなれるのか。お念仏を喜んでおられるとなると、他の人たちに、お念仏を敬う気持ちを起こさせる。それが染を成就するということです。
縁を生かして随うとは、縁を生かして、悪いことでも善いことでも成就していく、全うしていく心掛けにならなければならない。それがサトリということです。
富貴は良い方ですが、貧賤は悪い方です。道心があるのは良い方で道心がないのは悪い方です。智慧があるのは良い方で、頭がよくないのは悪い方です。それを、良いと悪いと分れたきりにせず、縁に随って悪いも良いも全うして、成就していくところに、申して生まれるという世界がある。ナムアミダブツを申して往生していくとい世界です。それを成就していくのが、各各性です。
なぜ各各性と云うのか。慈悲のあるのは良い方で、無いのは悪い方です。慈悲のある人が人生を全うするのと、無い人が全うするのとは仕方が違います。
道心のある人と、無い人が全うするのとも違う。一口に言えば、縁に随って染浄を成ずるということしかありません。
こういう気の利いたまとめ方は、中国印が得意です。わたくしは日本語で書かれた仏教の本も読んでいますが、こういう言葉はありません。法然上人は、このことを平等の生活として、一人ひとりに当てはまるように言っておられます。これは、日本人にしか出来ないことです。日本の仏教で、往生とは、一人ひとりが、一人ひとりなりに、人生を全うしていくことだと言えます。人生を全うするのは、一人ひとりなりでないとできません。男子は女子の真似は出来ません。炊事一つでも女子のようにはできません。女子の中にも炊事の嫌いな人も、また好きな人もいて、一概には言えません。
智慧のある人、無い人、金持ちとか貧乏人とか、言葉では一概にしか言えない。ところが、智慧の在り方は一人ひとりで違います。それが各各性です。
仏教でサトルと言っても、お念仏をよろこぶと言っても、一口に言えば、「縁に随って洗浄を成ずる」しかない。それが拠り所になる。因縁がなければ何もできはしません。
良いも悪いも形式上では言えます、頭は悪いよりも良い方が良い。道心もないよりもある方が良い。貧乏よりも金持ちが良い。慈悲が無いよりも有る方が良いというだけです。良し悪しは形式的です。
染浄を成ずるというのは、よいのは良いが、往生して初めて、良いも悪いも全うすることが出来るのです。成就していくことが出来るのです。その道をつけるのがナムアミダブツです。
ナムアミダブツを称えなければ、形式と内実の境が取れない。その境が取れると、良いも悪いも、一つに生きていくことが出来ます。これを往生と云います。
外と内に境をしたまま、良いとか悪いとか言っていたのでは、死ぬまでダメです。日露戦争(1904~1905)で勝ったといって喜んでいても、第二次世界大戦(1939~1945)で、ロシアが北海道の島を取って返してくれませんから、子や孫が泣かなけれなばなりません。そういうことになるのですから、良いことが良いことにならない。外は形式的です。見かけだけが良いだけで中身は決め手がありません。
見かけは貧乏よりも金持ちの方が良でしょう。ところが、金持ちになったが為に殺されることも騙されることもある。格好が良いだけで中身が決まりはしません。
往生がなぜ大事なのかというと、中身が決まらなければ値打ちがないからです。ナムアミダブツは中身の決め手です。おシャカさまは王さまになれたのに、乞食坊さんとして暮らされた。王さまと乞食坊さんを比べると、王さまの方が良いに決まっています。乞食坊さんとして暮らしても、おシャカさまは、今、世界人類の中で一番慕われているお一人ではないでしょうか。その決め手を往生と云います。ナムアミダブツの時には、平等往生と云います。
ナムアミダブツは偉くなくてもよいが、座禅をやり遂げるのはよほど偉い人です。おシャカさまは偉い人ですから出来た。成仏という時は、中身は同じでも偉い人だけがなれる。往生の時は平等です。人殺しをした人でも、ナムアミダブツは称えられます。人殺しをした人のナムアミダブツは値打ちが無いかというと、有る。人を殺してはいけないけれども、人殺しをしたもののナムアミダブツはダメだということになると、戦争ではダメな人が多くなって仕方がないではありませんか。殺したことがないという方は、言っているだけです。どういう因縁で、命あるものを殺しているのか。わたくしどもは、お父さんの何億という精子の中で、わたくしの生まれた一つだけが、お母さんの卵子と一つになって生まれてきた。他の何億という精子はおしまいです。形式的なことだけを考えていてはダメです。わたくしたちは知らない間に、他を殺して自分が生きている。道を歩いていても、小さな虫を殺したりしているかもしれません。
人は生きているものを殺さなければ、生きられないということです。殺すなどはダメだということになると立つ瀬はない。しない方が善いに決まっているが、殺さなければ生きられない。善いとか悪いとかは形式上のことで、概念的に言えるだけです。ところが、どちらになっても平等に、もう一つ全うする道がなければ、本当に力いっぱいの勇気を出して、生れついた力を実らせていくだけの勇気が出ません。形式と内実を、一つにしていくのがナムアミダブツです。
ナムアミダブツが無ければ、一部分の人だけがやれる事になって、皆がすぐに出来る事になりません。法然上人がお経を何べんも読まれて、仏教をみな南無阿弥陀仏へ入れてしまいました。
親鸞聖人という偉い御方でも、法然上人のナムアミダブツで、たとえ地獄に行っても本望だと肚(はら)を決めなさった。ナムアミダブツを称えなければ、善いだ悪いだと言っているだけの形式的な論議に終わっている。中身はありません。
ナムアミダブツを称えることによって、外と内の境が消えます。形式上の論議ではなく、善いも悪いもみな中へつながって、自分の持ち分を実らせていく道が深まってくる。そこを一口に言えば、「随縁成染浄」しかありません。
わたくしが生れて来たのも、手足が動くのも自然です。夜眠っている間も心臓が回ってくれて、自然のいのちにつながって生きられている。そのいのちの根源をアミダさまと言う。
公害というものは、その自然を汚すのです。ただ普通はヘドロを海へ流したり、空気を汚す事だけのように思っていますが、実はそれ以上の公害があります。
腹を立てて自分の体の自然を自分で破壊する。自然を破壊するなと言っても、それでは口先だけです。人間の力でしているのは、自然の破壊です。自分が真っ先に腹を立てないようにすれば、その影響は家庭内、自分の周囲から、ずっと広く及んでいくに違いない。そうすると、ゆっくりしているように思うかもしれませんが、そんな事はありません。自分から生き方を深めていくのです。
具多的に一人ひとりの心掛けから言えば、法然上人が言われたような取り上げ方になる。お十夜と言われる法要は、自然の生活を自分から真っ先に取り組んで、人さまにも自然とそういう心持を持てるように、生活を深めて頂くためのものです。
それを一口に言えば、自然ということです。更に言うと、「随縁成染浄」です。人さまにも縁に随って、共々にさせて頂ければ尊いことではないか。
お十夜のことは『無量寿経』に出ていますが、このお経はアミダさまの本願を説いて無量寿(永遠の生命)の問題に取り組んでいるのです。『般若心経』の般若は智慧、『法華経』の法華とは慈悲の華です。『華厳経』の華も慈悲の華、『無量寿経』が出来る前に、智慧を土台にした『般若経』が大乗仏教の土台になっています。その智慧の土台の上で咲く心の慈悲の華は『法華経』が説いています。
科学の知識は、見かけは便利ですが、実際には公害で人間が共倒れになっている。仏教は、公害の起こらない智慧を説いている。
代表的に取り上げて云うと、「般若心経」の智慧の土台の上に咲く心の慈悲の華を『法華経』や『華厳経』が説いている。智慧や慈悲のことを明らかにして、すぐに『無量寿経』が出来ました。智慧や慈悲というのは、大自然のいのちのことです。それをまとめて、『無量寿経』が根本的な願いを明らかにしてくる。
根本的な願い、本願と言うと、初めに二十四を説いて、次には三十六、終りに四十八を説いて、だんだん本願の数が増えました。
本願は本当に難しい。わたくしも、インド語で調べてようやくわかりました。たいていはインド語を読まずに間に合わせをしている。
本願を説く『無量寿経』をまとめた『観無量寿経』に初めてナムアミダブツが出ます。ナムアミダブツは本願をまとめた言葉です。
人はお金を貯めてうらやましがられる為に生きているのではありません。出世をして威張る為に生れて来たのではありません。それだけでは面白くないし、世の中はつまらないことだらけになる。『無量寿経』には、十夜は福徳自然であるとあります。世の中で働くことも自然でなければなりません。しかし娑婆には自然ある事なし、とあります。不自然になっているというのです。
わたくし共は、器量が良いとか悪いと言って文句を言い、頭が良いと威張ったりします。自然に生まれているのに、勝手に文句を言い出す。更に勝手なことをするから公害が起こります。山を壊して飛行場を作り、ジャンボ機がいっぺん飛んでくると五十トンの酸素を使う。酸素は樹木や海の中の海藻類が作っている。海をヘドロで埋めたり、木を伐採して地ならしをしたりする。酸素ができにくくなったうえにジャンボ機が飛んでくる。人間は酸素を吸わなければ生きることは出来ません。自然を破壊して不自然なことばかりしていると、人間は病気がちになる。それではいけないと『無量寿経』は説く。ですから、お十夜は、世界中みんなが考えなければいけない法要なのです。
『無量寿経』に「十二光」が説かれています。弁栄上人の『如来光明礼拝儀』の中身は十二光です。是は世界で初めて出来た宗教体系です。
こんにちは明治百年教育百年と言って、西洋の考え方、西洋文化で日本人を教育しています。以来日本人の生活は西洋風になった。それを悪いとは言い切れませんが、公害が増えることは避けられない。西洋文化のマイナスを直すのには、地球上には西洋と東洋しかないから、東洋文化の代表といえる仏教に依らなければなりません。仏教を習わなければならないと、日本に来て座禅をする西洋人もいます。
東洋文化は仏教にしても、昔から自然ということしか言いません。吸う空気は、自然に出来ているのを吸っている。飲む水も雨が降ったのを飲んでいる。寝ていても心臓が回っている。
『無量寿経』で本願というのも、アミダさまというのも自然のことです。わたくしどもは、大自然のいのちの恵みによって生きている。
簡単に言えば、西洋文化に橋を架けて自然に還る方へ心を向けなければならないということです。自然といっても心といっても同じことです。
西洋は、人間の思うように自然を自分勝手にするから不自然になる。自然の智慧は大きいが、人間の狭い考えだけで決めるから不自然になる。
人間の考えも大事ですが、自然のいのちを大事にしなければならない。西洋文化へ橋を架けて自然に心を通わせなければならない。それが十二光です。
十二光は自然の心です。いのちの心といっても同じです。いのちを拝む、味わう、有り難がるという気持ちを起こさなくてはいけません。
西洋文化は物の方です。だから国民総生産は多くなり物は増えます。ところが、心が荒れてくるから自殺することにもなる。日本の自殺者は世界一多い。
弁栄上人は、お十夜が説いてある『無量寿経』に十二光仏を述べてあるのをつかまえて、西洋風な教育をされた現代の日本人の心に橋を架けた。その橋を渡りさえすれば、心の自然を一人ひとりがサトレル。そういう宗教体系は弁栄上人の光明仏教にしかありません。世界に一つだけです。
昔の事が悪いと言っていうわけではないが、キリスト教は昔のバイブルを読んでいるだけ、仏教の殆どの宗旨でも昔のものをその通りに使うだけです。明治百年、西洋の文化が日本人の教育をやり出してから出来たのは、弁栄上人の光明の仏教しかありません。
西洋文化に架ける橋とは、どういう橋か。
宗教形而上学という難しい言葉があります。見えない形而上ということです。形は、物のことです。形の上(形而上)は、物質ではつかまえられない。物以上ということです。それをメタフィジカと言います。アリストテレス(BC384~BC322)は、書物の順番として、始めにフィジカを編集しました。フィジカとは形のこと、物質を研究する学問です。メタは後という意味です。それを宗教形而上学としてまとめると、橋が架かります。その橋の上で、いのちを自然にサトッテいくのです。
弁栄聖者の十二光解説 ⇓