伊藤萬蔵氏

花立一対

(左)名古屋市西区塩町

伊藤萬蔵

(正面)奉納 卍

(右)大正3年1月


伊藤萬蔵氏

一粒の米にも感謝を捧げ敬虔な祈りに生きた徳山翁 伊藤萬蔵氏

 昭和2年1月29日

毎日頂く一粒の米も一椀の汁も皆神や仏のお蔭であり、又世間のお蔭であると只管感謝の日を送り日本国中、名のある神社仏閣には殆ど其の名を刻んだ献灯献石のない所は無い迄に神仏に帰依精進した、名古屋市西区塩町の徳山翁伊藤萬蔵氏は95歳の高齢を以て28日午後9時眠るが如く自宅で逝去した。氏の徳は遍く人の知る処で、市内各所に有する数百戸の借家主として、借家人からは慈父の如くに慕われ、この世知辛い世の中に、店子から表彰されたこと一再ならずあった。徳山翁は名古屋古来の温かい情けをそのまま、移り変わる浮世の濁水に清き心の舟を掉さしていつまでも変わらずに人と交際をし、翁と一度面談する者は、或いは恥じ、或いは勇気づけられて門を辞すのである。翁は天保4年正月丹羽郡の百姓の子に生まれた。幼時二宮尊徳翁に私淑し、天秤棒とそろばん代百五十文を父より受けて、赤手空拳、世の荒波に棹さしたのが発端、以来95年の生涯は実に奮闘と感謝とで飾られた積善の歴史であった。翁には世の不満という事が解らなかった、生活に感謝し仏に信仰するより他に、道楽も趣味もなかった。精励の人、勤めのかたい人であった。直情径行、一分も間違ったことを考えた事の無い人だった。そして晩年はことに弘法様に帰依して、その余生の安心を求め、悠々自適、自宅にあって念仏と礼拝とを事として遂に大往生を遂げたのであった。翁は一生色々家業を変えた。幼時穀類の商売に励み、少暇を見てはよく勉学に努め、30歳の時一介の相場師であったが、天下の三井が十三万円を出して「萬蔵さん、勝手に使ってごらん」と買って出られた男一匹その気量、その手腕以て知るべく、営々として働くところ、古希の年には巨万の富を蓄えて、世の為人の為、日夜尽くしていた立志伝中の人であった。氏の揮毫になる「堪忍を守るその身は生き如来、仏と云うは腹立たぬ人」の句が不思議に夫婦喧嘩の仲裁になるというので、各方面から依頼されて毎日「歌書き」に忙しいと嬉しそうに笑っておられたが、そのにこやかな童顔はひとしおの懐かしさを感じさせた。ちなみに告別式は31日午後2時から中区白川町誓願寺に於いて執行される。   新愛知・名古屋両新聞より