一心十界の頌

明治38年6月1日発行 発行兼編集者  石川市郎氏 印刷所 名古屋 龍陽社

三河仏教四恩会

 仏教四恩会とは、明治三十八年に聖者が三河で設立された、尼僧達の日露戦争傷病兵への慰問の為の会であります。御消息に「主我なる心を捨て、常に如来の霊応やどり給う時は如何に麗しく、如何に聖き心ならん。一念ほとけに在れば一念のほとけ、念々ほとけを宿せば念々のほとけ。…この頃はこころざしある三、四人(の尼僧)が五千有余の負傷兵、即ち国の為に身を粉にして活動せし益荒男(ますらお)が、外出できず呻吟(しんぎん)せしを、どうかしてミオヤの恵(めぐみ)の声によりて慰め、一には伝道の種子となれかしと、且つは病床を慰めるつもりに候」とあります。(『日本の光』262頁) 弁栄聖者は直接的な伝道だけにとどまらず、社会活動にも力を入れられていたことが解ります。然しそれはどこまでも、ミオヤの大悲を一人でも多くの方に伝え、悦びを分ちあうためのものでありました。

 また、四恩会には法城寺 開基 石川市郎氏やも深く関わっておられたようで、初代庵主  法蓮尼  2代庵主法栄尼も会員として慰問に携わっておられました、また『一心十界の頌』は市郎氏が施主となって発行されました。お寺に、聖者の描かれた一心十界の図を刻んだ版木が残っており、これを使って印刷されたようです。
  尚、四恩とは 「父母の恩,国王の恩,衆生の恩,三宝の恩」のことです。


【  浄土教報 明治38年7月31日 第654号  】

〈 三河四恩会 〉

 有志者は山崎弁栄上人を招待し  5月24日より6月25日まで大樹寺に於いて第2回夏季講習「仏教要理問答」「弥陀十二光和解」(同師撰述)を開会し、日々来聴の男尼僧二十余名は、同師が時代的の学能を応用し満心親切の法話に満足せり。また第3回秋期講習は碧海郡大聖寺に於いて同上人を招し、10月三週間「起信論」若しくは「論語」講義の予定なり。また同会員の尼衆は名古屋予備病院患者の希望「前回法話の有益を認め」に依り、6月4日より13日まで第3回慰問を行い、本院を始め第1分院  乃至 第5分院に及び、各室重傷者には個人的法話をなし、法蓮尼・法栄尼これに当たり、唱歌「一心十界」「釈迦八相」七千部を施本し一般患者へ多大なる慰安を与えられたり。これに随喜し岡谷惣助氏は右一行尼衆七名に慰問中十日間斎食を供養せられたり。また7月は極暑のこととて休息し 8月より毎月慰問法話の筈なり。(随行の一信徒)


一心十界の頌(うた) 仏陀禅那

一大精神

 天地(あめつち)よろづの物はみな 法身如来蔵性の

 発現なりと識るときは 人の心性根底(こころのね)ぞ深し

一心十界

 たとえば巧みな画師(えがきし)が さまざますがたを絵す如く

 六凡四聖(せい)とかわれるも ひとつ心や造るなれ

地獄

 地獄は倒(さか)にかかりてよ たけき炎に焦(やか)るるは

 人道(ひと)に逆らい理に戻り 残酷非道の報いとや

餓鬼

 有財無財の餓鬼というは 肉慾我慾の悪裳症(やまい)にて

 たからと五慾を貪(むさぼ)りて 重き罪悪(つみとが)造るより

畜生

 形は人類(ひと)に似たれども 情操(こころ)は禽(とり)かは獣(けだもの)かは

 正(すぐ)なる人道(ひと)を横さまに 歩行術(あゆむゆくえ)はいづこぞや

修羅

 おのれ慢(たか)ぶり他を威(おど)し 偽善偽悪に名を衒(てら)い

 天を畏れず世をなみし 驕る阿修羅のかおにくし

人間

 仁義礼智のみちありて 社交は互いに恕(おもい)やり

 義務(つとめ)は国家(くに)の目的(ため)にとて 力を竭(つく)す人なれや

天上

 博く愛して人類(ひと)の為 我(おのれ)を犠牲に献(ささ)げてよ

 世に幸福を与うるは 国つ神かや天人(あまひと)か

声聞

 小聖(こひじ)は四諦の理を観じ 無我は宇宙を身となせば

 神通自ずと具わりて 無為の都に栖(すみ)あそぶ

縁覚

 独りしずかに座を占めて 因縁無生の理をさとり

 無明生死の夢さめて 縁覚涅槃に入りぬらぬ

菩薩

 ぼさつは誓の海ふかく 菩提を求め衆生(ひと)を度し

 一切衆生(すべてのもの)を我が身とす 同体大悲の極まれり

仏陀

 仏陀は三身まどかにて 法身在(いま)さぬ処(とこ)もなく

 智悲やあまねく照らしては 八相応化のあと高く

勧請

 無明は六(むつ)のやみじなり 覚醒(さむ)れば一如の天(そら)清く

 九界にかかる雲はれて 本覚如来の日は明けし

 仏法を外(ほか)な求めぞよ 己(おの)がこころの源の

 宇宙一大真我なる 無量(あなた)光寿(にょらい)に帰命せば

 如来の智光に無明(ゆめ)さめて 天真自性は顕わるれ

 事相は内容かぎりなき よろづの功徳は与えらる

 かかる真理を得てよりは 大我の中の我として

 最終真理の目的に 参(まじ)わり天職(つとめ)を力(つと)めかし

一心十界の頌の解説 仏陀禅那説

一大精神  仏教にては、宇宙実体は一大精神であると説く。天地万物を統一(すべ)綜合(くくり)たる精神なれば綜該万有心(そうがいばんゆうしん)と云い、亦は法身如来蔵性とも称(もうし)ます世界万物、十界の身心は悉く此の一大精神の発現である。此れに全知全能の徳用(はたらき)あり、天則秩序(しぜんのきまり)を整うるは知の作用(はたらき)にて、万物を生活活動(いかしはたらか)せるは能の作用と云います。宇宙の実体の方は如来の自体にて永劫不変(いつもかわらぬ)ので、現象(あらわれ)の方面は生滅転変(うつりかわり)極まりないのである。一大精神より発現(あらわ)れたる個々(ひとびと)の精神を二つに分けて凡と聖とす。凡は無明(まよい)にて之を六凡とし、聖(しょう)は覚醒(さとり)たる心霊(こころ)にて四聖である。此の十界は一大精神より現われとすれば、人の精神の根底(ね)は玄深(ふかい)のであります。

一心十界を造る  一大精神の分れたる個々(ひと)の心は理(り)に十界を具し、事(じ)に十界を造ると申し、十界とは地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上の六道と声聞・縁覚・菩薩・仏陀の四聖とを併(あわ)せたので、人の心は十界いずれにも成り得べき性能(もと)を有(もち)て、而(そう)して因縁の事情によりて善悪の十界を造り出すことは、喩えば巧みなる画師が天人をも鬼をも自由に描き現わすようなものである。一つ心が善悪に分るる因縁(わけ)に就いては、形(かたち)と業識(たましい)との両面がある。先ず形の方から説明(もうし)ませば、無垢の本性がどうして善悪に変化(かわる)と云わば、基本性が父母の素質の黨染(しみ)を稟け、また妊娠中の母の心の持ち方の如何に於ても、其の子の素性に関係を及ぼす。それより出生後(うまれてのち)には、少年(こども)の時の家庭学校社会の教育、その他の周国(まわり)の事情は其の人を善悪に醇化する資緑(もとで)である。さてそれよりは最も其の人々に責任の重きは一生の業作(わざ)と善悪の習慣性(しくせ)とである。其の習慣性が鞏固(かたく)し決定(きまっ)たるを業識と申し、善悪六道と四聖(ししょう)と分るるは習慣性と業力の結果であります。カントが、天国は理論には無いとも有るとも証明は出来ないが、其の実行の結果はなくてはならぬと云うと同じく、地獄や天堂は之を理論に証することは能わざるも、人の生涯の善悪の業によりて固まりたる性格と其の業力の自然は六道四聖なければならぬ。

 否、現に個々(ひとびと)の情操(こころばえ)と其の行為(おこない)は六道を瞭然(はっきり)と証明(あか)されているではないか。さて此の十界は凡と聖と善と悪と其の相に於ては清濁相異なれりと雖も其の本、一心の造る処と申します。

地獄  闇黒(まっくら)の中に於て其の身は倒(さかさ)にかかり、熾烈な猛火(ひ)に梵焼(やか)れ劇苦  (くるしみ)に間隙(すき)なきものは地獄と申します。何(いか)なる業力により斯(か)かる苦悩を感ずるとならば、一類の人あり、唯悪の方のみ発達し、良心滅亡し、悪の習慣性が悪弊症(やみつき)に陥り、天理に逆らい人道に戻り、残忍酷薄極悪の所作、人をして戦(おののか)しむ上にありて、殷の紂王(いんのちゅうおう)が己が肉の快楽の為に民を塗炭に苦しましむが如き下にありては、盗跡(とうせき)が数多(あまた)の人の幸福を一個(おのれ)の肉慾の犠牲となす。斯くの如きのすべて邪悪の習慣(しくせ)たる業識悪の業力が感ずる号(ところ)を地獄と申します。

餓鬼  此れに二種あり。一つに有財餓鬼とは、眼前に食物あるも、其の喉(のど)小さくして之を食すること能わず。飢渇の苦の甚だしきものであると申します。世に我慾の病的に陥り、山の如くに財を積めども、これを公益に施すこと能わず、我慾を充たしめんが為に他に害を与え、我慾の餓鬼根性のかたまりなる業識が感ずるところをかくは申します。

 無財餓鬼とは、一切の食物を見ることさえ能わずして常に飢渇の苦を受くるもの、世に一類の輩あり。縦逸(じゅういつ)にして活業を営まず、飲食に耽(ふけ)り色に荒(すさ)み奢婬放逸(したらなく)肉慾の奴隷となる。凡て感覚の欲が一定の快楽を屡々すれば、習慣(くせ)となり、ついに病的(やみつき)となれば、既に生きながら肉慾の餓鬼の業識となりしと云うも、敢えて不可ではない世に、食色慾等(しょくしょくよくなど)の悪弊症(やみつき)に陥りたる人はいう、よしや死するも此のことばかりは禁ずるに堪えずと是肉慾餓鬼の性格ではないか。

畜生  いかなるものが是畜生の業識と申すとならば、人生は営養生殖の外に目的あるを知らず、道徳倫理もなく、人と交わりて仁恕(おもいやり)もなく、義務感いもなく、横的情操(よこしまのこころ)横的行為(よこしまのしわざ)、形は人類(ひと)なれども、其の情操(こころ)と行為(おこない)は動物に異ならず。世の所謂(いわゆる)人面獣心なるものなり。暴行虎の如きあり、淫沃(うわき)禽(とり)に類するあり。既に人類(ひと)に進化(なり)たる甲斐なく、自ら

性を畜生に安んずるは寔(まこと)に浅ましではありませぬか。上の三類は悪の性格と行為(おこない)等によりて、三品に分ちて之を三悪道と名づく。

修羅  無明の中に善なるもの三品あり、中に下品なるものは修羅と云います。人にして修羅的性格なるものとは、世に云(いわ)ゆる天狗根性傲慢を以て其の全精神を支配せるので、経に惨賊闘乱、誠実なく、尊貴自大にして己の道ありと謂うて、横に威勢を行(な)し、人を侵易(かろし)め、自ら挙高(たかあがり)して、人の敬難(うやまい)を欲(この)み、天道を畏れず実に降伏すべきこと難し。彼、偽善偽徳を以て名を釣り、権威を追い求め、憍慢の為の故に心に諍闘(あらそい)休止(やむ)なく、斯かる性格を修羅業識と名づく。

人道  人に仁義の常あり。君臣父子等の経綸(みちすじ)あり、同情仁恕(おもいやり)を以て相互いに社交を濃(こまやか)にし、良心あり、義務感情あり、個人(ひとりひとり)は国家の一員なりと其の職務を重んじて、人たるの義務を尽くす時は人たるの権理を失うことなし。即ち是因果の理であります。

天道  天は公明正大博愛無私、万物を一仁の下に摂(おさ)む。世に仁人君子あり、国家人類の為におのれを犠牲にして、世に幸福を施せるもの、皇国(みくに)の仁徳帝の如き、支那の堯舜禹王(ぎょうしゅんうおう)の類、全く国民(くにたみ)を子とし、愛撫したまいたること、是らは宜しく天道に配すべし。或いは電気または蒸気などを発明して天の機能(はたらき)を人類に紹介せしものの如きは、天使の作用(はたらき)なり。また楠公清麿(なんこうきよまろ)の如き国つ神と祀らる如き、人類(ひと)の常綸(なみ)に超えたる天道に属するのであります。已上三類は善の行為(おこない)の三等によりて三善道と申します。

声聞  先覚者の軌則に随って得道する者を声聞と云う。四諦とは苦集滅道にして、苦とは生死は業に縛られたるの苦なり。その本は煩悩である。煩悩の本は即ち主我である。我を無にせる無我は宇宙真我と一体となりたるのである。即ち天地同根となれば自然に神通を得て、遠隔(へだてる)の地(ところ)を見聞し、他人の心を知り、未来を予言することを得。自心と宇宙の内容(うちは)と一致してあれば、心霊は無為涅槃界(のどけきさかい)に逍遥(あそ)び、而して

肉体尽きる時は一如の真理に帰入す。釈尊の弟子舎利弗目連尊者の如き聖者は悉くこれに摂す。

縁覚  また独覚とも云いて独り無師自然に悟る聖者である。十二因縁を観じて生死の源を悟り涅槃を得る。生死の源(もと)は無明(まよい)である。之を覚れば業を失う、業力失えば生を受くる勢力なし、生ぜざれば老病死なし、已に生死を脱すれば宇宙と一体である。涅槃常楽の都である、之を縁覚と云う。古今哲学者の如きは万物の原因結果の理を究む。即ち縁覚の学者というべし。声縁の二聖は独り自己の解脱を期して利他を兼ねず。

菩薩  智仁兼ね具わり、自ら誓うて人を救う聖者なり。智慧ありて宇宙の玄妙(ふかき)の理を契悟(さとり)、仁愛ありて宇宙的同情を以て人類(ひと)を担うて度するに、衆生(ひとびと)の苦を我が苦とし、人を度せずば我も成仏せじとの情操(みさお)と実行となり、釈尊の未だ正覚を得たまわざりし時、またキリスト・マホメットの類、孔子・ソクラテースの如き、善導・達磨の類、吾国の空海・源空等の聖者は悉く菩薩とす。凡て心霊更生して永恒の生命(いのち)となりて人類を誘導する、勇健なる仁人のみな之に属す。

仏陀  前の菩薩の因位円(いんいまど)かに果成(かなる)を仏陀と名づく。法身報身応身の三身あり、此世に出でて釈尊として人格の身を以て人類を教化度脱したまいしは応身と云い、最高等の清き処に在(いま)して、相好円満(うるわしきすがた)の身、光明遍く十方を照らして一切の人類を摂取し霊化したまうを報身と云い、天地万物の実体として一大精神態にして万物を現出する本源なるは法身である。仏陀は人類に対しては人の身なれども内面は宇宙の内面と一体に在(ましま)せり。已上四聖は聖霊態精神にして即霊格なり。

勧結  一心の発現たる十界の中にして無明(くらき)なるものは六凡にして、冥々として流転し、心霊覚醒(さめ)たるものは聖者にて、宇宙心と冥合して涅槃界に安立し、前三聖は覚醒(めざめ)たるも未だ円満ではない、独り仏陀のみ全く宇宙と同一体にして、一方には極楽に安住して、又一面は分身を以て世界に出て度脱(すくい)の作用(はたらき)をなすのである。

宗教の真理は何(どこ)の点にあるやと云うは、各自(おのおの)の精神(こころ)と其の本源なる宇宙精神(こころ)との調和するにあり。自己が小天地の小我とすれば宇宙は大我である。此の大我と小我が融合して、大我の目的を我が目的として真理の終局に進むべき力行(つとめ)をなすが宗教の目的である。その大我の真面目を悟りしは即ち教祖釈尊である。否、悟りしのみにあらで全く大我の化現(あらわれ)である。

釈尊は其の大我を「アミダ」と名くと曰えり。訳すれば無量の光と永恒の寿の義、即ち宇宙の身体にしてまた一切心霊を開発し霊化するの霊能なり。問う、何なる法を以て大我小我の調和を得べきや。答えて、仏教にその方法多しと雖も最も簡易にして完全に調和を得るは仏陀三昧なり。仏陀三昧とは大我なるアミダの聖名(みな)によりて、其の聖旨(みむね)の我に現われんことを祈りなば、早晩(いつか)如来の霊応が自己の心霊に感じ、この一点の霊光に由りて心霊の覚醒(めざめ)となる心霊開発すれば、自己の心は全く如来の天真自性の中なることを悟る。進んでは如来の内容(うちわ)なる金銀摩尼宝珠の宮殿七宝の荘厳に最(い)とも威厳(みいず)巍々(たかき)たる相好(すがた)の如来に神聖正義智慧慈悲などの万徳を以て儼臨(のぞみ)たまうことを啓示(しめ)さる。ここに至りて始めて完全たる宗教の関係を成したりと云います。

かかる真理を得てよりは、宇宙の心を我が心とし、宇宙の真理に参与(まじわ)りて得たる真理を実践躬行するが宗教の本旨にて、而も宇宙の目的は加わりたるものであります。

 明治三十八年五月二十日印刷

 明治三十八年六月一日発行 (非売品)

       三河碧海郡新川町九百六十三番戸

 発行者兼輯編 石川市郎

       名古屋市桶屋町四丁目五十番戸

 印刷者    村瀬宗右衛門

 印刷発行所  龍陽社