称南無阿弥陀仏

空外上人論稿「盗み」

「称南無阿弥陀仏」


「仏名を称える故に 念々の中に於いて八十億劫の生死の罪が除かれる」

仏名を称する故に八十億劫の生死(迷い)の罪が除かれるとはどういうことなのでしょか。 龍飛水先生編の『空外語録70 自然のくらし』に興味深い論稿が載っておりましたのでご紹介させて頂きます。


「盗み」

広島大学教授 文学博士 山本幹夫(空外)

「盗み」と言ってもいろいろの方面があり際限はない。五戒(不殺生・不偸盗・不邪婬・不妄語・不飲酒)の中で「盗み」だけ取り出して考えることが出来ても、それは言わば外面的一角でしかない。少し掘り下げていくと、何故「盗む」ことになったのか、そのつながりは広く、かつ、その浅深はさまざまである。

 もともと「盗み」は、古来でも十悪の一つ「偸盗(ちゅうとう)」として重視されてきた。それゆえ十悪に対して、十善が説かれ、真言宗の高僧 慈雲尊者は、これを『十善法語』として論述された。十善とは周知の通り、➀不殺生 ➁不偸盗 ③不邪婬 ④不妄悟 ⑤不両舌 ⑥不悪口 ⑦不綺語 ⑧不貪欲 ⑨不瞋恚 ⑩不邪見である。一応、別々に説けるものの、十悪としては「貪・瞋・痴(むさぼり・いかり・おろかさ)」の不善に根ざすとみられる。此れが一人格の心相、心の姿である以上、それぞれを引き離して説き尽くす事は出来ない。

 もとより現代は科学の時代で、しかも宇宙時代と言われるまでに進展したから、知らず知らず、その方に傾きすぎて、科学では取り組めない心の深い所をも物質的に割り切ろうとする。その偏見の為に、自然や人間の破壊は取り返しがつかない。台無しの社会になりつつある。この危機を救えるのは、モラル・宗教のほかない。しかし今日、そのモラルや宗教自身にも情けないような問題がないとは言えない。

 十悪の一つひとつが別の方面があると共に、互いにつながる方面がある。十善にしても同様である。そうした関係をうかがう為に、他の論題の「十界」(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天人・声聞・縁覚・菩薩・仏)について言えば、「一心十界」とも言われる、その「一心」にかかわる原点こそが宗教的問題となる。心の主体的根源は、仏教の「七仏通誡偈」、即ち「ダンマパダ」に説かれる所の「一切の悪をなさず、善を行い、自己の心を浄めること、此れが諸仏の教えである」を離れることはない。

 この場合、「盗み」の悪も、その根ざす心が浄まらなくては、実は悪ということも、本当はわからない。

 法然上人の師である善導大師の『観経疏』に「行行者是名正行 何者是也 一心専念弥陀名号 行住坐臥不問時節久近 念念不捨者是名正定之業 順彼仏願故(行を行ずるもの 是を正行と名づく 何者か是なり 一心に専ら弥陀の名号を念じ 行住坐臥に時節の久近を問わず 念念に捨てざる 是を正定の業と名づく 彼の仏の願に順ずるが故に)」とあり、「行行(行を行ずる)」という原点に立っている。でなければ、「自己の心を浄める」すべもなかろう。

「行を行ずる」とは、利害打算の為に生活するのでなく、「大自然のいのち」を、じかじかに各自なりに生きていく生活の、内面的至高 至尊の生き方に他ならない。それを、「平等」に、誰でも、すぐに、いかなる場合にも、円成しうる生活方法が「ナムアミダブツ」の一行として、法然 浄土宗が『選択』された「平等往生」である。

「平等」に当たる言葉は西洋には無く、西洋にはイコーリティ(同等)の語しかない。「同一律」に基づいて科学は進展するが、それだけでは深刻な公害のゆえに人類も地球もおしまいになるの他なかろう。これを救うものは、「平等」の原点に立つ生活しかない。すなわち、各人各様なりに、各民族各様なりに、それぞれのいのちの中身、含蓄の豊かさを全うするの他に道はない。この意味での「平等往生」を目指したのが、我が国に、初めて開創された法然浄土宗である。

 たとえ「盗み」の悪を犯しても、犯さない者と、平等に、各自各様に「いのちの根源」に照らされて、自己の心も浄まる真実の人生が、開け、全うされる。それを平等往生という。いのちの杖としてのナムアミダブツの生活を通して、「盗み」につながる十悪までが、そのまま「十善業道」へと深まりゆく所に、モラルの限界が宗教によって円成される。犯した悪そのものは消す術は無いが、この体験を、ナムアミダブツする「主体的内省」に於いて、生かし深める。それによって、自・他平等の「大自然のいのち」を各自なりに、実らし、全うする「生活の光」が、それぞれなりに周囲を照らす所に、宗教の面目があり、モラル等では到底及ばないものがある。モラルで説かれるところの善・悪の論議を超え、「行を行ずる」実践に徹したいものである。

 『空外語録70 自然のくらし』(昭和50年刊 月間『浄土』4月号に依拠)より  

        抜粋編集文責 石川乗願 


 現代では、犯罪が生じた場合に、加害者の人権 云々が沙汰されることがありますが、ここで云う「八十億劫の生死の罪が除かれる」というのは、そのような平面的で表層的な意味からではなく、どんな人であっても全ての存在が、たとえそれが罪を犯した人であっても、「各各」という 大いなるいのちとの関りに於いて、立体的重層的に最高価値なる存在として「平等」の立場から説き明かされるのであります。もう一論、『空外語録71 自然のくらし』をご紹介させて頂きます。

『自然のくらし』山本空外上人「人間性と教育」