弁栄聖者開山書  並 嘆願書

弁栄庵 法城寺 開山の原点

明治32年2月22日、石川市郎氏の聖者への熱い想いが伝わってくる格調高い嘆願書と、それを快諾して下さった聖者の開山書です。中部地方、殊に三河は尼僧の多い地域で、それは徳川時代よりの習慣で、道心に関係ない幼年女子の出家が生活の便宜上行われていたのが、明治になってもその風習が根強く残っていた事によります。しかし尼衆は檀信徒の家に親戚の如く深く関わり、男僧より遥かに強い影響力がありましたので、立派な尼僧が教育できたならば必然的に在家婦女子へ念仏の種まきが出来ると、聖者もその教育に注目をしておられました。そこで、元々仏心の篤く聖者を尊崇する想いの強い石川市郎氏は、聖者の意向に添い自宅敷地内に尼僧寺院を開基致します。明治27年に説教所の申請、岡崎より高徳な2人の尼僧を招き、同28年に許可が下りますと、先ずは説教所として活動を始め、明治30年から手続きを経て、浄土律寺院 貞照院の末寺で廃寺になる所でありました法城寺の名義のみを譲り受け、すべての支度が調った所で明治32年に聖者に開山勧請されました。当初から弁栄聖者の御指導を仰ぐ目的で建てられたお寺であり、この書簡はその「弁栄庵」の原点であります。

石川市郎氏嘆願書

法城寺の原点①

上願

濁末澆季(じょくまつぎょうき)の今日 仏光影(ぶっこうよう)傾き僧風 厳を失う 信外(しんげ)の軽毛(きょうもう) 亦  杞憂(きゆう)嘆惜(たんせき)の至りに堪えず 時◻️に猊下(げいか)の道誉(どうよ)を聞き  親しくその慈誨(じかい)に接する、爰(ここ)に数次(すうじ)深く景仰(けいこう)の念を生じ、慈悲願 無極の鴻恩(こうおん)に酬い奉るの大願を発す、嗚呼(ああ)幸に運至り機熟するの吉祥あらば 幻露の身命 浮雲の財物を抛(なげう)つも 永劫不盡(ふじん)功徳を累ねんと心窃に期する所あるも如何(いかが)せん 其人と時とを得ざればなり 今也 時到り

人亦あり 再び値う可らざるなり 即ち 斯時 斯人を措て豈に他あらんや 猊下が道情の懇到なる慈愛 言に溢る 実に感激の至に堪えざれば請う 猊下(げいか)信外(しんげ)の軽毛(きょうもう)を棄てず 願くば猊下が清和 古 道風(せいわいにしえのどうふう)を頼り文明と相伴うの尼衆を教養し 仰ては佛日の増輝を祈り 俯しては僧風の振興を誓い  恐るべき将来の暗黒界に一道の大慈光を放って可及的(かきゅうてき)岐路(きろ)に迷うの人なからしめん 熱誠 爰(ここ)に湧き 日一日も速に斯業を遂達せんと 実に眠寝を安んぜず 由是先般来(これよりせんぱんらい) 当国 当郡 志貴崎村  貞照律院に協議手順を経、同院末 法城寺の名称のみを譲り受け 吾 累世 伝来の邸宅園地を喜捨し 假(かり)に一宇(いちう)の道場を創建し遠く十方に告げて殊に清操高潔なる尼衆の招来を竢(ま)って 殊に数百年来 各地に潜伏し又 蟠屈(はんくつ)したる尼衆の陋風(ろうふう)を掃蕩(そうとう)し  更に一新面目を開きて 他日大いに為すあらんとするの素願 斃(たお)れても休む能わざる次第なれば 伏して願わくは 猊下 為護法扶宗(ごほうふしゅうのため)、枉(ま)げて 

開山創業の責に甘んじ大に道風を扇揚(せんよう)し尼衆を激励し豫(あらか)じめ法城 急急の秋に備うるの栄あらしめば自他の幸福 何者か之れに如かん 是れ惆願(ちゅうがん)し止まざる所なれば 猊下  速(すみやか)に聴(ちょうきょ)し玉うの慈愛を垂れよ 

悚惶(しょうこう)九拝(くはい)

明治三十二年亥二月二十二日

三河国碧海郡新川村

天王

法城寺創建発願主

石川市郎

釈弁栄大上人 

◻️猊下


弁栄聖者開山書

法城寺の原点②

夫(それ)道場は三宝の所依処福徳の積聚所なり 清居士深く仏を崇び護法の心甚だ篤し 一宇を創建して三宝の隆盛をねがう 其志感ずるに勝ひ(たえ)ざるなり 貧道を請する書を以てす 其厚敦の志に報うるに辞する道なし 不敏をかえりみず其好意に順うのみ 唯願くは粉骨砕身仏祖に報ぜん

明治三十二年二月二十二日 弁栄

 法城寺創立発起主

     石川市郎殿