慈雲尊者「天のお蔭」山本空外上人

江戸時代後期の真言宗の僧侶、慈雲尊者(1718~1804)は、戒律を重視し日本の小釈迦とも称された学僧ですが、晩年は神道に傾倒され雲伝神道を創唱されました。

 山本空外上人「人間性と教育」には、慈雲尊者の『雲伝神道』「天のお蔭」が一部引用解説されています。

 「天のお蔭」は、生命の各各性を、平等にして最高価値なる存在として表現されています。空外上人の論稿の前に先ず紹介させて頂きます。

慈雲尊者「天のお蔭」

「神道は有為法なり。国家の守り違(たが)いなく君臣のみち謬(あやま)らず、君は常に君たり。万代を経てその位うごかず。臣はとこしえに臣たり。児孫ながく伝わりて忠をつくし敬礼を行う。この道臣庶に伝わりて大小諸国・貴賤万家みなその守りを失わず。広く支那諸蛮を求むるに此の道のかくの如く正しきを聞かず。此の君臣の道、家々におよんで夫婦の道となる。夫婦男女の道天地日月に交わりて国家の富栄となる。豊あし原の中つ国の名、爰にありと云えり。此の夫婦の道父子の教えとなる、四方津海八島の外も浪しずかなる、此れによるなり。支那の聖人も此の道を心に得て教えを世に垂る。しかあれども元来その国 辺陲(へんすい)にしてその民 文華に走る。教に五倫をつらね刑に五刑を設く。なを後代に朋党の禍おこり宦官の害はだはだしく、終に外国に奪れて聖者の後裔その臣僕となる。聖人は聡明叡智なれども時にうつされ、ところに轉じられて、しからざることあたわず。我朝、元来聖人無し。謂わゆる聖人なしとは、支那国より劣るにはあらず。国破れて忠臣を知る、家病んで名医あらわる、この神明の国 日月の天にかかりて、衆星その光を見ざるごとし。若し聡明叡智の人を論ぜば、五百年間 かならず其人あるべし。これによりてみれば国に聖人を称するはその国の恥なり。天の物を生ずる、蘭蕙(蘭・紫蘭)と荊棘(いばら)とならび生じて相妨げず。鸞鳳(鸞鳥・鳳凰)と鴟鴞(ふくろう)ともに棲(す)んでおのおのその生育をとぐ。君子・小人ならび用いてみなその用(ゆう)あり。才能・不才ことごとくそのところを得て生命を全うす。ただ君命にそむく者、自ら神罰を蒙りて災害を招く。天網恢恢疎(てんもうかいかいそ)にして漏らさず。此天道神祇もとより人わざを以て測り知るべからず。故に支那の孔仲尼も、その門人子路に告ぐることあたわず。唯 無為常寂のなか仏世尊ありてその頤(おとがい)に達し給うなり。故に神道の致を尋ねば、仏法の趣を習い知るべし。我朝歴代の皇王名臣の仏を信ずる、これによるなり。有為を全うして無為に入る。経中に十善これ菩薩の道場なりと云えり。十善とは王者の民を誘う道なり。菩薩とは如来正法の中に在りて一切衆生を救度するの人なり。かの道あるところ、天地の化育をたすけ、神祇の威力を増益し、貴人ここに居して その位うごきなく、人民これを受けて 身をやすんじ家をたもつ。君子もしかり。小人もまたしかり。才能あるものも同じく、無能の者ことならず。小人もその禍をまぬがれ、聖人は自らその徳をあらわすことはなし。まことに大矣哉(だいなるかな)。

「天てらす ひかりはいずこ わかねども わきて曇らぬ日のもとぞ これ」雙龍叟(慈雲)しるす


「人間性と教育」

広島大学教授 文学博士 山本空外  『自然のくらし 空外語録71』より抜粋編集

 科学が進歩し、宇宙時代に入った今、宇宙時代にふさわしい人間性に立って教育という大きな仕事が果たせなければ、そういう時代に生れあわせた甲斐が実らない。そういう意味で、これから人間性について論じながら、教育の課題に取り組み掘り下げてみたいと思います。

 現在、人間不在という言葉が使われており、主体性の喪失とも言われて、自己に取り組む余裕がないという状況であります。科学の進歩の為に、生活の機械化に追われて経済的動物と言われており、人間に取り組むという余裕も反省も足りない。人間だのに、「動物」と言われる結果をきたしております。

 こういうことは、明治時代よりこのかた、西洋の思想によって日本人を教育してから目立つ現象であります。明治以前の東洋の思想によって教育していた時は、人間として、諸外国から尊敬を受けていました。アメリカが、日本との貿易を望んで、江戸時代の末期、安政年間に代表者を招いた事がありました。当時の日本人はチョンマゲで二本差しですから、見た目は良くないが、アメリカで、議会を見学しても工場を視察しても、都市を案内されても、その態度に対して、アメリカの新聞が筆を揃えて、アメリカンデモクラシーの理想的人物だと報道しました。

 アメリカだけでなく、イギリスでもそうでした。明治初年に、日本の大工さん達がイギリスに招かれました。イギリス人は、その大工さんに接して、イギリス・ジェントルマンの理想だと褒めました。イギリスの最高学府であるオックスボードやケンブリッジの大学では、イギリスのジェントルマンシップ、紳士の教育を身に付けさせる教育が行われています。そのジェントルマンシップの理想を、大学教育を受けていない大工さん達が身に体していた。だから、人間という方面では、西洋の教育を受けなかった大工さんが、西洋人からも尊敬された面がありました。

 明治時代の初めのころは、西洋の学問を大急ぎで追いつき追い越せという教育だったので、追いつき易い方面だけが身についてしまい、精神的な面が身につかなかった。今日、日本人が西洋風になってしまい、アメリカのデモクラシーの理想だとか、イギリスのジェントルマンの手本だとか、そのような人間として尊敬されなくなってしまった。しかし明治以前の日本は、西洋風科学的平面生活ではなく、平等の立体的生活の教育をしていたから、世界の人たちに尊敬されたのです。西洋風な教育をしていると、平等という発想は生まれず、イコール・同等という発想しか生じないのです。男女は人間として同じだとか、親でも子でも同じ人間だという考えになる。科学は同じところだけを見て法則づけていくからです。自然法則の「法則」とは平面的、表面的なのです。

 しかし、心というてもよいし、生命というてもよいが、それは科学では分からないのです。花は太陽に照らされないと咲かない。私たちも太陽に照らされなければ生きられない。宇宙の心が、この花に咲いているのです。大自然のいのちのめぐみが、わたくしが生きられる働きに通っている。この花とわたくしと、どちらが良いかは比較ができないのです。あの花も良いが、この人も良い、立体的なのです。平面的に並べられない。人間は、太陽の下で降る雨水をのみ、太陽のめぐみで出来た米や野菜で生きられている。男子がよいとか、女子が結構だとかは一概には言えないのです。地位の高い人が長く生きられるとは限りませんし、乞食の方が長生きできるかもしれない。それが平等ということであり、その「平等」に目が覚めると、一人ひとりということが、大切になってくるのです。それを「各各」と言います。西洋の思想を簡単に言うと「法則」が重点ですが、東洋思想を重点的に考えると「各各」ということになります。「自然(じねん)」ということです。科学が進歩すればするほど不自然になっていく。その為に取り返しのつかないことは数えきれないほどありますが、新聞紙上に載るのはほんの一角です。そういう現状に於いて、我々には、教育を、どう考えねばならないかという問題があります。取り残されていく一人ひとりをどうしたらよいか、という問題です。

 西洋思想の限界を是正しようとすれば、当然、東洋思想を摂り入れなければならない。その事は西洋人自身が力説し続けています。

 古代ギリシャの哲学者アリストテレスは『ポリティカ』で、「自然は何物もいたずらに造りはしない。即ち、ひとり人間のみがコトバ(ロゴス)を持っている。音声は苦痛や快楽の信号である。犬が石を投げられると、キャッという。しかしコトバは、利得や損害を明らかにし、正義や不正を明るみに出す」と述べております。コトバというものは人間を決定していく意味を持っています。「人間性と教育」という場合、コトバが大事なのです。ことばの中で一番大事なのは、ナムアミダブツです。南無阿弥陀仏の「南無」とは、曲がる、つまり、頭を下げる、敬うことです。インドでは、誰でも「ナマステー」と手を合わせて挨拶します。「ナマス」は南無、「テー」とはあなたに、という意味です。右手の自然と、左手の人間や花や鳥、その他のもろもろ、それらの各々がつながって生きられている、それを表わす姿が合掌なのです。

 乞食だからというて、大臣の吸う空気の半分しか吸えないのではない。平等です。その平等につながって、大自然の中で人間だけが、位が上なのではない。花が咲いている、人間一人ひとりが生きられている。それは人間の力ではできないのです。この前、宇宙に打ち上げられたアポロ(昭和40年代)と、目の前の花と、どちらがよいか。アポロはお金や科学の力で出来るが、花はそうはいきません。お金や科学を超えた、人間としてのいのちの尊さに於いて、初めて、教育が意義をなすのです。そこに立たない限り教育とは言えないのです。「各各」に立たない限り、教育は徹底しないのです。シェリングは、現実という問題について、『自然における実在的なものと観念的なものとの関係について』の中で、「現実とは、生き生きした現存在を、物の全体に於いて、また個別に於いて、明らかにすることである」と述べています。親も子も同じ人間だと言うだけでは、全体の一角しか分らない。親は親、子は子、男子は男子、女子は女子、その各々のところが生かされ、実ってこないといけない。これが主点です。人間が十把一絡げにされたのでは、人間も教育もあったものではない。植物学なら植物について、名前は何と言うか、花はどうだ、メシベはどうか、という説明は出来る。しかし、大宇宙のいのちとしての智慧は解りません。鳥が飛ぶのも、大宇宙のいのちが、鳥に於いて飛んでいる。それを感ずるのが智慧です。枯木のような植物から、きれいな花が咲く。そういう大宇宙のいのちとしての智慧です。花一輪を見ても、なんという名前の植物か、どうして、あのような花が咲くのかというような植物についての知識と、大自然のいのち、大宇宙の心がこの花に咲いていると分かるのとでは、雲泥の差があります。仏教の「仏」とは、「ワカル」ということです。それを智慧(般若)というのです。それには心が深まらねばならない。

 わたくしは夜中、目が覚めると自然に合掌してお念仏が出ています。夜寝ていても心臓が回ってくれている、だから有難い。合掌すると、安らいでまた眠れる。それが心です。わたくしは病気になると、むしろ有り難いと思う。病気でないと解らない事が、病気のおかげでワカルからです。私自身、失明しても仕方がないとお医者様に云われたのに、奇跡的に治った。どれくらい有り難いかわかりません。担当の医師に、親切に治療してもらったのも有り難かった。それで、わたくしは、人さまにはできるだけ親切にするものだと解った。だから、学生にも親切に教えています。お礼を言われなくても、自分がうれしいから毎日楽しい。目の病気をしたおかげです。

 人間は、毎日、社会のいろんな出来事に出会って、出会うことを、自分なりに生かして成長しています。それは、自分の心がけの深さによって徹底します。そこを教育して、将来に期待するのが人間教育の根本です。教育とは、先生が生徒や学生を教育するとか、親が子を教育するとか考えるのは間違いです。教育の根本とは、自己の教育なのです。それが深まれば深まった程、子供の教育、色々な職業上の教育に、「各各」の掘り下げが深まり徹底していくのです。私はそれを「個化」と申しています。さらにもう一つ「点化」という事があります。男子なら男子、女子なら女子と、一人ひとりの生活が、病気になればなったで、交通事故にあえばあった、その点において、死ぬ時は死ぬ時の点に於いて、取り組む問題が出てくる、それを「点化」といいます。「個化」と「点化」とが、「人間性と教育」のポイントで一番重要なのです。「一人ひとり」が「出会う点」に於いて、どのように態度を深めるかが肝要なのです。自分の他に自分なく、また生活の上で、出会う色々な点に於いての生かし方、乗り越え方が、心がけ次第で、各人はそれぞれなりに、どのようにでも深めて行けるのです。各々の生き甲斐を掘り起こして、それぞれが自分なりに実らせていく力を教育してくことです。一人ひとりの個化・点火に取り組んで初めて人生は全うできるのです。

 真言宗に慈雲尊者というすばらしい学僧がおられましたが、江戸時代になって雲伝神道を創唱されました。七十歳になって、日本に生れた生き甲斐を感じて著された『雲伝神道』の「天のお蔭」にこうあります。

「わが朝、元来聖人なし。国に聖人を称するはその国の恥なり。天の物を生ずる、蘭蕙(らんけい)と荊棘(けいきょく)とならび生じて相さまたげず」

 蘭は、よい香をはなつ花、荊棘には、トゲがある。トゲがあると人間は嫌うが、それは人間の勝手で、自然のふところの中では、蘭蕙と荊棘と並び生じて、相さまたげずということです。我われが教育する場合、このトゲに当たる様な子供が居る場合がありますが、その子を、それではダメだと、蘭の花のように教育することは無理です。自然の中では、蘭蕙と荊棘と並び生じて、相さまたげずという、そこに平等の深さがあるのです。鸞鳳(らんほう)という鳥の王様と、鴟鴞(しきょう)、フクロウがいる。人間はフクロウを見すぼらしいと考えるが、自然界では、フクロウも平等に生かされているのです。そのフクロウに当たるような子供も、その子なりに、生き甲斐を全う出来るように教育しなければならない、今日の科学教育はそれが反省点ではないでしょうか。

 それぞれが、一人ひとりなりに生き甲斐を全うしなければならない。無理に右へ倣えの教育では、形式しかできないのです。フクロウを鸞鳳のようにはできません。人間も同じです。

 「君子、小人ならび用いてみなその用(ゆう)あり」という。「用(ゆう)」とは働きです。小人は小人なりに生き甲斐を全うするように、小人は、自分なりの掘り下げと実り方を深めていかねばなりません。小人だから寝ていてよいというのではありません。

 「才能、不才、ことごとくその所を得て生命を全うす」

才能があれば、それを生かす。不才の人が、才能ある人を羨むことはない。才の無い人にも、その人として出来る仕事は無限にある。万人が万人なりに、一人ひとりが、それぞれの自分の力を以て、自分なりに道を開いていく。それが、「各各」であり、「平等」であり、「自然」です。

 その根本的な取り組みを掘り起こさないと、下積みの人は、いつまでも浮かばれない。それで、羨んだり、妬んだり、争ったりになる。戦争とはそういう意味で果てが無いとも思われます。しかし、この世界には、自分は独りしかいないのです。独りしかいない自分自身の持ち分を、一人ひとりが、自分なりに実らせていくのです。各各の平等を掘り下げていく教育こそ、今日の被害を解消していく道だと思います。

 申上げたいことはたくさんあります、時間もなく、わかりにくかったかと思いますが、ご静聴下さいましてありがとうございました。     南無阿弥陀仏