親鸞聖人

承安3年(1173)4月1日~弘長2年(1262)11月28日

南无の言は帰命なり 帰の言は至る也、また帰(たよりのむという・よりたのむ)説(えち・せち)也。説(せち)の字は悦(えちのよろこぶ)の音なり。また帰(よりかかる)説(せい)也、説(せち)の字は税(せい)の音(こえ)なり。悦税(えちさい)二つの音は告(つぐる)也、述(のぶ)也、人の意を宣述(のぶる・せんじゅつ)する也。命の言は業也、招引(まねきひく・しょういん)也、使也、教也、道也、信也、計(はからう)也、召(めす)なり。是を以て帰命は「本願招喚(まねきよばう)の勅命(おおせ)」なり。『教行信証(行巻)』

【和訳】

「南無」という言葉は帰命ということである。「帰」の字は至るという意味である。また、帰説という熟語の意味で、「よりたのむ」ということである。この場合、説の字は悦(えつ)と読む。また、帰説という熟語の意味で、「よりかかる」ということである。この場合、説の字は税(さい)と読む。説の字は、悦と税の二つの読み方があるが、説と言えば、告げる・述べるという意味であり、阿弥陀仏がその思し召しを述べられるということである。「命」の字は、阿弥陀仏のはたらきという意味であり、阿弥陀仏がわたしを招き引くという意味であり、阿弥陀仏がわたしを使うという意味であり、阿弥陀仏がわたしに教え知らせるという意味であり、本願のはたらきの大いなる道という意味であり、阿弥陀仏の救いのまこと、または阿弥陀仏がわたしに知らせてくださるという信の意味であり、阿弥陀仏のお計らいという意味であり、阿弥陀仏がわたしを召してくださるという意味である。このようなわけで、「帰命」とは、私を招き、喚び続けておられる如来の本願の仰せである。

 正信偈

帰命無量寿如来 

南無不可思議光 

法像菩薩因位時 

在世自在王仏所 

覩見諸仏浄土因 

国土人天之善悪 

建立無上殊勝願 

超発希有大弘誓 

五劫思惟之摂受 

重誓名声聞十方 

普放無量無辺光 

無碍無対光炎王 

清浄歓喜智慧光 

不断難思無称光 

超日月光照塵刹 

一切群生蒙光照 

本願名号正定業 

至心信楽願為因 

成等覚証大涅槃 

必至滅度願成就 

如来所以興出世 

唯説弥陀本願海 

五濁悪時群生海 

応信如来如実言 

能発一念喜愛心 

不断煩悩得涅槃 

凡聖逆謗斉廻入 

如衆水入海一味 

摂取心光常照護 

已能雖破無明闇 

貪愛瞋憎之雲霧 

常覆真実信心天 

譬如日光覆雲霧 

雲霧之下明無闇 

獲信見敬大慶喜 

即横超截五悪趣 

一切善悪凡夫人 

聞信如来弘誓願 

仏言広大勝解者 

是人名分陀利華 

弥陀仏本願念仏 

邪見憍慢悪衆生 

信楽受持甚以難 

難中之難無過斯 

印度西天之論家 

中夏日域之高僧 

顕大聖興世正意 

明如来本誓応機 

釈迦如来楞伽山 

為衆告命南天竺 

龍樹大士出於世 

悉能摧破有無見 

宣説大乗無上法 

証歓喜地生安楽 

顕示難行陸路苦 

信楽易行水道楽 

憶念弥陀仏本願 

自然即時入必定 

唯能常称如来号 

応報大悲弘誓恩 

天親菩薩造論説 

帰命無碍光如来 

依修多羅顕真実 

光闡横超大誓願 

広由本願力廻向 

為度群生彰一心 

帰入功徳大宝海 

必獲入大会衆数 

得至蓮華蔵世界 

即証真如法性身 

遊煩悩林現神通 

入生死薗示応化 

本師曇鸞梁天子 

常向鸞処菩薩礼 

三蔵流支授浄教 

梵焼仙経帰楽邦 

天親菩薩論註解 

報土因果顕誓願 

往還廻向由他力 

正定之因唯信心 

惑染凡夫信心発 

証知生死即涅槃 

必至無量光明土 

諸有衆生皆普化 

道綽決聖道難証 

唯明浄土可通入 

万善自力貶勤修 

円満徳号勧専称 

三不三信誨慇懃 

像末法滅同悲引 

一生造悪値弘誓 

至安養界証妙果 

善導独明仏正意 

矜哀定散与逆悪 

光明名号顕因縁 

開入本願大智海 

行者正受金剛心 

慶喜一念相応後 

与韋提等獲三忍 

即証法性之常楽 

源信広開一代教 

偏帰安養勧一切 

専雑執心判浅深 

報化二土正弁立 

極重悪人唯称仏 

我亦在彼摂取中 

煩悩障眼雖不見 

大悲無倦常照我 

本師源空明仏教 

憐愍善悪凡夫人 

真宗教証興片州 

選択本願弘悪世 

還来生死輪転家 

決以疑情為所止 

速入寂静無為楽 

必以信心為能入 

弘経大士宗師等 

拯済無辺極濁悪 

道俗時衆共同心 

唯可信斯高僧説 

 いのちの歌声 〈田代俊孝先生和訳〉

 深きいのちのよび声を聞き、

はかれぬ光を仰ぎます

永久なる昔、法像菩薩がましまして、

世自在王仏のみもとにて、

先立つ諸仏の、国土を作り給うた訳を聞き、

諸仏の国土の善きを取り、悪しきを捨てて、

すぐれた願いを建てられて、

苦しむ我らを救うと誓い、

長い思惟の時を経て、願い成就の故なれば、阿弥陀仏となり給う

仏は重ねて誓われた いのちの呼び声「南無阿弥陀仏」十方世界に響かんと

仏の働き光の如し 尽きせず、際なく、蒙らぬものは誰も無し

障りなく、比べるものなく、炎の如し

清らかにして、我欲を照らし、喜び満ちて怒りを鎮め、我が身を知らせる智慧与う

たゆまぬ光は、思い及ばず、説き表すことかなうまじ 日光月光及びなし、仏が照らすはわが胸の内

生きとし生ける我らが総て、愚かな生業、照らされる

願い成就の御名「南無阿弥陀仏」なれば、まことを頂く業なりき

誠の御心賜われば、実の御国に生まるべし

仏に目覚めて、救いの確信、得ることは、

まことに至る仏願成就の故による

釈尊この世に生まれ給うたその故は、

ただ、弥陀の誓いを教え説かんが為なれば、

濁ったこの世に悩めるもろびと、

進んで苦悩を縁となし、教えの実を信ずべし

信心喜ぶその心、一度、我が身におこりなば

障り多きに徳多し、悩み断たずに救われる、

愚かな凡夫、賢き聖、仏に背く大逆人、斉しく救われ、誓いの海に入らしむる。

万川大海に入りぬれば、自ずと浄らか一つ味

おさめて、捨てじと光は護り、

我身の「無明の闇」(くらさ)破るといえど、

惑いの雲霧(うんむ)、消えやらで、

常に、仏のこころ覆いてやまぬ

日光、雲霧に覆(かぶ)るとも、

雲霧の下は、なお闇なきように、ひとたび信心得るならば、雲霧のままに救われる。

まことの信心うる人を、敬い大いに喜べば、

たちまち、迷いの道は截(た)ち切らる

我らすべての善悪、凡夫人、

仏の願いを聞き、信ずれば、

仏は「広大智慧の人」とほめらるる

是の人を汚泥(おでい)に生(い)ずる分陀利華(ふんだりけ)とぞ名付けたり

阿弥陀の願いの呼び声「南無阿弥陀仏」を、

おごり、たかぶり、よこしまの、仏に背く人は皆、

計らい多き故なれば、信ずる事がいと難し

難きが中に尚難く、是に過ぎたる難はなし

はるか西なるインドの論家、

中国、日本の高僧たちは、

釈尊この世に生まれたもうた御心と、

念仏称えるその道が、つたない我らに応ぜることを、

命を懸けて知らせたもう

楞伽山(りょうがせん)と申せし所、

釈尊お弟子に告げて仰さるる

「南インドに比丘いでて、

竜樹大士と名付けられ、

有無のとらわれ破すべしと、

皆よく救う真実の御法(みのり)を説き示し、

喜び包む世界を証し覚りの御国に帰らん」と

みことの侭に現われて、難行陸路及ばぬが、

易行船路ただ楽し、

弥陀の願い、心に掛けば、

不退の位速やかに、自然のうちに入り給う

ただよく、常に弥陀の名号称えつつ、

深き恵みに報いてぞ、

日々の喜び満ち給う

天親菩薩『論』を説き、

果なき光を仰ぎつつ、

釈迦の経典ひもときて、愚かさ照らす、まことの御旨を明かしけり

惑い抱えたその侭で、救い頂く誓いを広め、

我が身生かせる力をあおぎ、

我らがために、御心一つ示しけり

「わが身を明かす徳得れば必ず浄土の人となる

汚泥に染まない蓮華の国に、

やがて生まれて証(さと)るは真如(まこと)、真如(まこと)色なし形なし

まことの世界に至りなば、迷いの世界に立ち返り、心まかせて道示す

後姿の徳なれば、生死の薗(その)で、形をなして教え給う」 論主ひたすら説き示す

曇鸞大師徳高く、他力の道を説くゆえに、

梁の天子に崇めらる

菩提流支の教えにて、求める外道さまされて

長生不死の仙経を焼き浄土に深く帰せしめき

天親菩薩の『論』釈し、他力の心解き明かし

浄土に生まるる因も果も、仏の誓に顕わせり

「弥陀の国、往くも還るも仏力他力、

我らが仏となる因は、

ただ信心一つに極まれり

惑える身にも、信あらば、とらわれ思い、消え果て、

生死の苦しみ、そのまま涅槃、光極なき浄土に至り、無明の闇を照らしつつ勤(いそ)しむもろびと、普く教化」

道綽禅師、決するに、いずれの行も適うまじ 釈尊去ること遥かに遠く深い道理の故と知る

つたない凡夫の入る道は、浄土の一門あるのみと、禅師我らに教えらる、自ら善を積まんとて命を賭して行ずれば、及ばぬ自力明らけし、愚かな我が身が救わるる功徳まどかな仏名を、ただひたすらに称うべし

信と不信と懇ろに、説きて我らに指し示し、末世(すえよ)の人を哀れみて、同じく導き入らしむる

「一生、悪を造れども、弘誓(ちかい)に心掛けしめて、常に念仏称うれば、安楽世界に至り着き、まことの証(さとり)開かるる」

善導大師ただ独り、釈迦の正意を明かしけり

心鎮めて浄土を見つめる人も、乱れ心に善行勤めるその人も、悪に心煩う苦しき人も、仏は等しく哀れみて、

光とみ名の因縁(いわれ)説く「誓いの海に入りぬれば、

仏の揺るがぬ御心を、至らぬ我ら身に受ける

ひとたび信を喜べば、

韋提と同じく智慧を得て、

やがて、まことの人となる」

源信和尚は懇ろに、一代仏教その中に、

念仏一門開きてぞ、一切我らに勧めける

専ら称える揺るがぬ心と、雑行(ほかごと)雑える浅き心、おのおの浄土が異なれり

念仏成仏まことの御国、本願疑う我をただす

「極悪深重、悪人我ら、救いの道は他に無し 

ひとえに弥陀を称うのみ

逃げるを追わえる光の中に、我またすでに包まれり

煩悩に眼(まなこ)さえられて、恵の光見えざれども、

おさめて捨てじと、我が身を照らす」

法然上人世にいでて、救の仏教明かしつつ、

善し悪しの分別悩むただ人を、

深く愛しみ哀れみ給い、

日本一州ことごとく、真宗念仏興しつつ、

救いの誓い悪世に弘む

「迷いの家へ巡り還るは、

疑う心のあればなり

静けきさとりの、城(みやこ)に入るは、

まことの信心ただ一つ」

まことを明かせる幾世の先師、

極なき濁りの我らを救わん

世の人、もろとも心は一つ、

受け継ぎ伝えた高僧(ひじり)の教え、

ひたすら仰ぎて、ただ信ず

浄土真宗大谷派正信偈