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仏教要理問答(再版本)

明治38年4月4日発行 発行者 原青民師

原青民師  明治元(1868)年~明治39(1906)年7月1日

浅草正定寺住職・浄土宗東京支校教授・『浄土教報』主筆などを勤められるも、明治31年肺結核の為すべて退任された原青民師は鎌倉材木座光明寺山内の千手院に療養中、明治33年肋膜肺炎を罹患した後 やはり千手院に静養に来られた弁栄聖者と親交を深められます。その関係は恰かも鎌倉時代、法然上人が比叡山を下り訪ねられた西谷の遊蓮房円照上人に、「浄土の法門と遊蓮房とに会えるこそ、人界の生を受けたる思い出に侍れ」と述懐されるほど深く信頼を寄せられていたのに酷似しています。遊蓮房も青民師も共に39歳での御遷化でありました。聖者と青民師は共に敬慕し合い、影響を受け合い、青民師は明治37年4月8日に聖者指導の許『仏教要理問答』を出版されます。青民師の質問に聖者が答える形式で構成された『要理問答』の最後の第五課は礼拝儀の原型となります。再版本には、付録として「如来十二光和偈」と「如来三身讃歌」が付け加えられています。


青民師最晩年の御心境の弁栄聖者への書簡

「拝啓、再々の御慰問状かたじけなく存じ候。以来(弁栄)聖者は四大軽安に渡らせられ、応機益物に尽くされ候わば、人生の最大快きことと祝い申し上げ候。不肖の事、宿痾(しゅくあ)古(むかし)の如くいたずらに病骨を聖壇の傍(かたわら)に横たえ、呻吟(しんぎん)の内に余喘(よぜん)を保ちいるは慚愧(ざんき)この上なく候。さあれ病ある為に、長夜の眠りより醒め、覚月の曙光にあこがれ得る身となりけりとせば、苦痛もまた不是なりとは見られまじきか。 とまれ月日の送らん限りは大儀ながら、務めはあるものとし候えば、来る八月は去年の通り讃仏乗の筵(むしろ)を開きたく祈りおり候。されど行足のなえたる身、抵頭礼仏ももの憂く候えば、幾重にも師兄法友の助けに依り、心の糧に飢えたる人の子らに結縁の致したく存じ候。(弁栄)上人台下にも御来錫わずらいたきと、信徒らも共に待ち請け居り候間、御承り引き願い上げ候。長谷の地方への出張伝道、御配慮を得たき節も候えば、同月上旬前にそうらえば、都合よろしきことと存じ候。益物摂化に忙しくおらせられ候と存じ、前もって願い上げ候。湯地の夫人ならびに母堂は神葬なれど、五十日間に百万遍の念仏を唱え、冥福に備え、なお引き続き修行の由、仏種縁起の示す教えも思われてかたじけなし。願わくは心を無相一如の浄土に移して、応現無碍の楽地に遊ばんことを、昼夜六時に祈りつつあるは目下の境域に候。先ずは願いの用まで早々不備。

さみだれの晴つつ雲に影なき六月二十六日 千樹草堂 青民

弁栄聖者 」

仏教要理問答

付「如来十二光明和讃偈」「如来三身和讃」

『仏教要理問答』

「日露の戦争正に酣(たけなわ)なる時に当り、

 世界の文明と東洋の平和の為に此書を献げ奉る」

仏教要理問答

 目録

第一課、道を求むる必要の事 六ヶ条           三頁

第二課、如来に三身まします事              四頁

1、法身のこと、及び法身の権能(ちから)のこと    五頁

2、報身のこと、及び報身の相好(みすがた)、

  報身の徳のこと                 六頁

3、応身のこと、応身の降生、入山学道

  (やまにいりみちをまなぶ)、仏道成就のこと     七頁   

第三課、信仰に依って心を安んずる事            十三頁

1、所求(もとむる)の涅槃のこと            十四頁

2、所期(たよる)の如来のこと、如来の智慧と慈悲、

  超世本願の説明(ときあかし) 

  二種(ふたいろ)の罪のこと             十五頁

3、三心のこと及び三心に依って与えらるる三益の事  十八頁

第四課、行儀に依って信仰を進むる事

1、恩寵の喚起のこと、五種の正行のこと

2、恩寵の開発のこと

3、恩寵の体現のこと

4、三種行儀のこと、帰敬(ききょう)、堅信、布薩、

懴悔及び臨終行儀のこと               二十七頁

第五課、勤行式の事                 二十九頁

1、如来光明歎徳頌                 三十頁

  如来寿量頌                   三十二頁

  朝夕の祈祷                   三十七頁

 

仏教要理問答

  第一課、道を求むる必要の事

問。人に最も必要なるものとして求むべきは何(な)になるか

答。人の生存(いきおる)に対し此れが最終(すぐれたる)の目的と

  指導(みちびき)とを与うる宗教なり

問。宗教は如何なる真理(まこと)を教えるものなるか。

答。最終(だいいち)の目的に従う身と心との向上(すすみ)を得んが為に偉大なる力を有(も)てる霊格 (もの)に帰依(よりたのみ)し、此に依って永遠の生命(いのち)と常住の平和(よろこび)とに入る道を教えるものなり。

問。偉大(おおい)なる力を以(もて)る霊格(もの)を何と名(なづく)るか。

答。真の神「如来」亦「アミダ」と名(なづく)なり

問。如来は唯一(ただいつ)のみなるか。

答。唯一(ただいつ)なる一体(ひとつ)にして三(みつ)の位あり、法身、報身、化身なり。

  第二課、如来に三身まします事

問。法身とは何なるか。

答。天地万物を産出(うみだ)し、之を統一(すべくくり)し、担保(たもち)する如来なり。

問。法身は如何にして在(あ)るか。

答。始めもなく、終りもなく、法身自ら在るなり。

問。法身の在(い)まさざる処ありや。

答。法身の在まさざる処なし、何処(いづく)にも都(すべ)て在るなり。

問。法身に形ありや。

答。形なし。

問。法身にいかなる権能(ちから)あるか。

答。一切智(いっさいち)と一切能(いっさいのう)の権能(ちから)あり。

問。一切智とは何なるか。

答。天地万物に秩序(すじみち)あらしむる作用(はたらき)なり

問。一切能とは何なるか。

答。天地万物をして生々(いきいき)活動(はたらか)せしむる力なり。

問。報身とは何なるか。

答。一切(すべて)の万類(ばんるい)を開発(すすま)して真(まこと)と善(ただしき)と美(うるわし)との最高の処に摂取(おさめとら)る権能(ちから)有を(も)てる如来なり。

問。報身は何処(いづこ)に在(まし)ますや。

答。最高徳(すぐれたるとき)と最霊福(すぐれたるさいわい)との霊界(こころ)に在(いま)すなり。

問。報身に相好(すがた)ありや。

答。万徳円満(すべてのとくをそなえたる)の最(い)と麗しき相好(すがた)を備え給うなり。

問。報身に何の徳ありや。

答。無上の智慧と無限の慈悲等の豊富の徳満たせ給うなり。

問。最(い)と高き霊界(こころ)に在(ましま)す如来は如何にして衆生(すべてのもの)を救済(すくい)たまうや。

答。無限(かぎりなき)の慈悲より此の世に応身を降(くだ)し給うなり。

問。応身(おうじん)とはなになるか。

答。無明(やみ)と罪とに迷没(めいもつ)したる衆生(ひとびと)の為に機感(きかん)に応じて迹(あと)を垂れてそれを救霊(すくい)給う如来なり。

問。応身に種類あるか

答。応化身(おうげしん)と霊応身(れいおうじん)との別なり

問。霊応身とは何なるか

答。信仰の心、機に感応し、其の人を霊化し、霊の生活に入らしむる身なり。

答。信仰の心、機に感応し、其の人を霊化し、霊の生活に入らしむる身なり。

問。応化身とは何なるか

答。一切衆生(すべてのもの)を救わんが為に霊界より降(くだ)りて神(たましい)を肉体に托(やど)り、行為(おこない)と言葉と思想(おもい)とを以て人類(ひとびと)を化度(たすけ)給う身なり

問。応化身は如何にして降生(こうせい)し給いしや。

答。化身が正に地上(このせかい)に降(くだ)らんとするや、兜史多(とした)の天宮に在(いま)して、時と処とを鑑み給い、先ず霊の勝れたるとを示さんが為に智勇仁徳兼ね備われる父母と文化(ひらけたる)土地(ところ)とを撰び給えり。

問。化身降生(ごうせい)の地(ところ)は何処(いづこ)なりしか。

答。註インド国カピラ城の王宮なり。

問。化身降生の時は何時なりしか。

答。今(明治三十七年)より二千四百十余年前の百花咲(もものはなさ)き香(にお)う四月八日なり。 

問。父母の名は何になりしか。

答。父はスドダナ大王にして、母は魔訶マヤ夫人なり。

問。降生の化身は何と名づけられしや。

答。ゴウタマシタルタ太子と名づけられたり、訳すればゴウタマは最勝、シタルタは一切成就の義なり。即ち「最も勝れて凡ての事業(しわざ)を遂ぐる」と言える美(うる)わしき名なりき。

問。ゴウタマシタルタは太子たる時、何を学び給いしか。

答。五明四ベータを始め射御(しゃぎょ)武芸を習い試むるに一(いつ)として成らざるは無かりき。

問。ゴウタマシタルタは成長して何を為し給いしか。

答。降生十七歳、妃ヤスダラ姫を迎えて太子ラフラを得給い、降生二十九歳苦行林(くぎょうりん)に入り、降生三十五歳二月八日ブッダガヤ、金剛座(こんごうざ)上に於て正覚(さとり)を得たまえり。

問。ゴウタマシタルタは何故に栄華の生活(くらし)と尊貴(とうとき)の王位(みくらい)を捨て給いしか。

答。世の富貴(ふうき)や名誉(ほまれ)や権威やは、霊の貴きに如(しか)ざる事を示さんがためなり。

問。ゴウタマシタルタは何故に先に学びしものを捨て給いしか。

答。世の学術と技芸とは心霊(こころ)を開発して真理(まことのことわり)を悟るに足らざりしが故に、山に入って道を学ぶに至れり。

問。ゴウタマシタルタは山に入って何を為し給いしか。

答。苦行林にバガバを訪い、続きてアラーラ、ウドラマの二仙人に教えを聞きて其の意を得ず、遂に去りてナイランジャ河の東岸、ガジャシイラス山に入り苦行つぶさに辛酸をなめて六年を経たまえり。一日(あるひ)ゴウタマ、川に沐浴し、僅かに樹枝(きのえだ)に攀(よ)じて岸に上(のぼ)るや、身心疲れ病みて地に仆(たお)れ給いき。偶々(たまたま)牧牛(うしかい)の長(おさ)の娘にしてカンダバアラと名るもの来るに遭いて漸く復活(よみがえり)し。 

彼が牛靡(うしのちち)の供養を受けて頓(すみやか)に気力を回復し、南の方、ブッダガヤに至りて、菩提樹の下(もと)に軟草(やわらかきくさ)を敷きて坐し、静かに禅那三昧に入り給いき。時に大地震い轟きて天地忽ちに暗黒となり、電(いなづま)、閃(ひらめ)き妙薼(すなほこり)渦(うずま)き上がり、人をして驚き死せしめんとせり。これ天上の大魔王がゴウタマの修行を碍(さまた)げんとして企てたるなり。

問。ゴウタマの修行は成就したるか。

答。ゴウタマの禅那三昧に入れるより四十九日、臘月(ろうげつ)八日東の天(そら)に明星の輝き出(いず)ると共に、救世(ぐせ)の大菩薩ゴウタマは朗らかに罪悪(つみ)の根源(みなもと)を解脱(のがれ)したる涅槃の大道とを悟り給いき。之を仏陀の成道と名づく、嗚呼偉(おおい)なる哉。

  第三課 信仰に依ってこころを安んずる事

問。仏陀は成道の後、何を為し給いしか。

答。如来に帰依して涅槃を求むるの道を教え給えり。

問。涅槃とは何なるか。

答。永恒(つね)に自ら在(あ)りて変わることなく衰うる事なき常世(とこよ)の霊界(くに)なり

問。常世の霊界に如何なる福(さいわい)と楽しみありや

答。彼国(かのくに)の万物(すべてのもの)は金銀珠玉(こがねしろがねたまみたま)を以て荘厳(かざら)れ、光明(ひかり)常に輝きつつ、平和と自由とを以て満たされたる処なる故に「スマタイ」 と名づく

即ち極楽浄土の義なり。

問。我等が最終(いとすぐれたる)の目的に帰趣(すすむ)るために帰依(よりたのみ)すべきは何なるか

答。報身の如来、則ち「阿弥陀」なり、阿弥陀とは訳すれば量りなき光明(ひかり)と尽くることなき寿命(いのち)とを備え給う霊格(もの)の意味なり

問。如来に何の徳有(ま)しますや

答。無上(うえなき)の智慧と無限(かぎりなき)の慈悲となり

問。無限(かぎりなき)の慈悲とは何なるか

答。親しきと怨みあると賢きと愚かなる者とを等しく吾子(わがこ)として慈しみ給う御心(みこころ)なり

問。無上(うえなき)の智慧とは何なるか

答。人の見ざるに見、人の聞かざるに聞き、人の知らざるに知り、また正知見(せいちけん)を与えたまう作用(はたらき)なり

問。如来は此れ等の能力(ちから)を以て何を為し給うや

答。超世の本願力を以て一切衆生(すべてのもの)をスマダイに摂取(おさめとり)し給うなり

問。超世の本願力とは何なるか

答。如来を信仰する衆生(ひと)を悪罪(つみ)と苦悩(なやみ)との内より救うてスマダイの妙楽(よきたのしみ)を与え、無上菩提(うえなきさとり)を得せしむる作用(はたらき)なり

問。信仰とは何なるか

答。今の主我(おのれ)は愚かにして力なく、且つ罪と悩みなるを自覚し従前(むかし)の罪を悔い改め、絶対的に如来に依属(たの)む心なり。

問。衆生(ひとびと)に何の罪あるか

答。根本罪(こんぽんざい)と自造罪(じぞうざい)なり

答。慈父(たらちお)たる如来の在(いま)すことを知らず、亦た自己(おのれ)に与えられたる「霊性(れいせい)」開発(ひらく)を怠り主我(わたくしの)を脱却(とりのぞく)べきこと許容罪(きょようざい)となり

問。自造罪とは何なるか

答。凡ての衆生(ひとびと)が已(すで)に犯し、今犯しつつある罪なり

問。信仰の心に種類(いろいろ)あるか

答。至心、信楽(しんぎょう)、欲生(よくしょう)と言える三心(さんしん)の別あり

問。至(ししん)即ち至誠(しじょう)の心とは何なるか

答。主我(おのれ)の妄想(はからい)を捨て真理の本源(みなもと)なる如来を信ずる心なり

問。信楽(しんぎょう)の心とは何なるか

答。至誠心(まごころ)を以て自己(おのれ)及び総ての物に超えて如来を愛し、また如来が慈しみ給う凡ての物を愛する心なり

問。欲生(よくしょう)の心とは何なるか

答。最終(いとすぐれたる)の目的たる御国(みくに)の格(いた)らん事を冀(こいねが)い、如来の世継ぎとして御旨(みむね)を表わさん事を望みて活動(はたらく)する心なり

問。三心を起こしたる者に与えらるる功徳は何なるか

答。如来の「法王子(みこ)」たるの光栄(ほまれ)と無上(すぐれたる)の霊福(さいわい)となり

問。霊福(さいわい)に種類(いろいろ)あるか

答。啓示の恩寵、融合の恩寵、霊化の恩寵あり

問。啓示の恩寵とは何なるか

答。如来の相好光明等の霊応(れいおう)を感見し、神聖智慧等の聖意(こころ)を知見(しめ)さるる霊福なり

問。融合の恩寵とは何なるか

答。恩寵の加わるところ自ずから罪と悩みとより離れて、如来の聖懐(ふところ)の中に安立(あんち)し、平和と歓喜とに充たさるる霊福なり

問。霊化の恩寵とは何なるか

答。聖意(みむね)によりて更生(うまれかわ)り我執(じぶんかって)及び俗情(いやしき)の私心(わたくし)に克(か)ちて高等(すぐれたる)道徳の性格とせられる霊福なり

  第四課 行儀に依って信仰を進むる事

問。行儀とは何なるか

答。如来の恩寵を得る信仰を進むに、為す所の修行及び儀式なり

問。修行に幾階級(いくいろ)ありや

答。恩寵の喚起(資糧位)

  恩寵の開発(修習位)

  恩寵の体現(通達位)

問。恩寵の喚起とは何なるか

答。宿善(いでん)若しは聞法(おしえきき)に依って如来に帰依する一念(こころ)を発起(おこ)し、「更生」の恩寵を得んが為に此れが資糧(たすけ)となる修養(やしない)を為す位なり

問。如来に帰依したる心霊の糧となる修行に幾種(いくいろ)ありや

答。読誦、礼拝、観察、称名、讃歎供養あり。此れを五種正行と名づくなり

問。読誦正行とは何なるか

答。救世(くぜ)の福音を記せる聖典(せいてん)を読み、また其の意義(わけ)を解(さと)り、または師友(おしえのとも)の教導(みちびき)を聞きて信仰を養う修行なり

問。礼拝正行とは何なるか

答。畏敬(うやまい)と懴悔と感謝との誠心(まごころ)を表わさんが為に如来の宝前(みまえ)に伏し跪(ひさまず)き拝む等の修行(おこない)なり

問。如何なる時と処とに於て行うべきか

答。いかなる時にも如何なる処にも行うべきなり

問。殊更に時と処とを選んで礼拝を行うことありや

答。朝は睡眠(ねむり)より醒めたる時、食前食後(しょくじのまえとのち)、業務(つとめ)を始める前と終り、夜に入り寝(いね)る前、又特別(ことさら)に教会に出席して行うべし

問。礼拝の時に為す懴悔とは何なるか

答。一日の内に於て主我(おのれ)の為したる思想(おもい)と言語(ことば)と 

省み、若し犯したる罪あらば、如来に許容(ゆるし)を求むる修行(おこない)なり

問。自己(おのれ)を省みる罪の目録ありや

答。一、如来に対して (1.如来を忘れざりしか 2.祈念を怠らざりしか 3.祈念の時邪(よこし)まなる思いを起こさざりしか)

  二、他人に対して軽侮(けいぶ)、憤怒(いかりうらみ)、嫉(ねたみ)、害意(そこない)、凌辱(はずかしめ)等なかりしや

  三、己に対して傲慢(ごうまん)、懶惰(らんだ)、汚染(けがれ)、不摂生(ふせっせい)、不忠愛(ふちゅうあい)等なかりしや

問。観察正行とは何なるか

答。スマダイの荘厳(ありさま)と如来の妙相(みすがた)及び内包(うち)の徳を瞑想憶念(ふかくかんがえ)して此れが表象(あらわれ)の証験(しるし)を得んとする修行(おこない)なり

問。称名正行とは何なるか

答。一心に専ら如来の御名なる「ナムアミダブツ」を唱えてスマダイの往生を求め御旨(みむね)の顕われんことを祈る修行なり

問。「ナムアミダブツ」とは如何なる意味なるか

答。「ナム」とは己を献(ささぐ)るの義にして「アミダブツ」とは無量光寿覚者(かぎりのなきひかり・いのちとをそなえたるもの)の意味なり、故に「ナムアミダブツ」とは絶対無限の霊格なる「アミダブツ」に己を信頼(まかせ)て摂取(おさめとる)の恩寵(めぐみ)に預からん事を祈る修行なり

問。称名正行に別あるか

答。総持(そうじ)と別持(べつじ)とあり。総持とは懴悔(さんげ)、讃歎(さんたん)、

感謝、請求(しょうぐ)等を含みたる称名にして、別持とは請求(しょうぐ)に限りたる称名なり

問。讃歎供養正行とは何なるか

答。 奏楽讃美(そうがくさんび)の歌を以て如来の徳をほめたたえ、㈠香(こう)華(はな)灯(みあかし)糧(かて)を供えて誠心(まごころ)を表わし、㈡進んでは自己(おのれ)の身(み)命(いのち)財(たから)を献(ささぐ)ると共に、㈢外(ほか)には如来の光栄(みさかえ)を彰(あらわ)すべき活動(はたらき)、㈣を為す修行(おこない)なり問。五種正行(ごしゅしょうぎょう)の中(うち)に於て最も勝れ、行い易きは  何なるか

答。大四番目の称名正行なり

問。五種の正行は恩寵喚起(おんちょうかんき)の時にのみ為す修行なるか

答。恩寵の開発、恩寵の体現の三期に欠くべからざる修行(おこない)なり

問。恩寵喚起の修行を策進(はげま)する方法(しかた)ありや 

答。信、進、念、定、慧、なる注意法あり、之を五根と名づく

㈠信とは如来の霊を認む ㈡進とは霊に向って修行を励む ㈢常恒(つね)に如来を憶念す ㈣定とは如来に一心に注ぐ ㈤慧とは心霊の醒覚なり

問。恩寵の開発とは何なるか

答。恩寵喚起の修養(やしない)漸(ようや)く進みて啓示の恩寵を得て心情(こころ)自ずから如来の聖懐(ふところ)の中に安住(すまい)する修行(おこない)の位なり

問。恩寵開発の修行(おこない)を励ます方法(しかた)あるか

答。七覚支(しちかくし)と名(なづく)る方法(しかた)あり

  ㈠択法覚支(ちゃくほうかくし) 主我(おのれ)を捨てて一に如来に帰依(よりたのみ)す

  ㈡精進覚支(しょうじんかくし) 一心に如来を渇仰憧憬(あおぎしたが)う

  ㈢喜覚支(きかくし) 僅かに霊に感触(ふれあい)して歓喜(よろこび)に満(みたさ)る

  ㈣軽安覚支(けいあんかくし) こころ霊に托して軽く身安穏(おだやか)なり

  ㈤定覚支(じょうがくし) 妄想の波静まって霊と冥合し融和す

  ㈥捨覚支(しゃかくし) 初めは意(こころ)を用いざれば霊と合せざりしも今は自在に霊に安立(やすん)ずることを得るに至る

  ㈦念覚支(ねんかくし) 念々(つねづね)に霊と相応(はなれ)ず

問。恩寵の体現とは何なるか

答。思想(おもい)と言葉と行為(おこない)とが自ずから如来の聖意に契(かなう)て自他兼利の活動(はたらき)を為すに至る位なり

問。修行を為すに特別の儀式ありや

答。尋常(じんじょう)行儀、別時(べつじ)行儀、臨終行儀なる三種(みいろ)の儀式あるなり

問。尋常行儀とは何なるか

答。日々(ひびひび)普通(あたりまえ)に為す所の懴悔(さんげ)、讃歎(さんだん)、感謝、請求(しょうぐ)の修行なり

問。別時行儀とは何なるか

答。特別の恩寵(めぐみ)を得んが為に特更(ことさら)に時と処とを撰んで行う所の儀式なり

問。別時行儀に種類(いろいろ)あるか

答。帰敬(ききょう)、堅信(けんしん)(五重)、布薩(ふさつ)の三式あり。

問。帰敬式は何れの時行うか。

答。誕生の時、婚姻礼の時、初発心(しょほっしん)の時に行うなり。

問。布薩(ふさつ)とは何なるか。

答。教友(おしえのとも)と共に罪を誨い改め信仰を養わんがために為す所の種々(いろいろ)の修行(おこない)なり。

問。布薩に種類(いろいろ)あるか。

答。懺悔、信仰の告白、伝道等の別あり。

問。懺悔(ざんげ)とは何なるか。

答。根本罪(こんぽんざい)及び自造罪(じぞうざい)の許容(ゆるし)を得んが為に殊更に行う儀式なり。

問。罪は何に依ってて赦(ゆるさ)るや。

答。糾明(きゅうめい)、痛悔(つうかい)、表白(ひようびゃく)、贖罪(つぐない)の誓に依って免(ゆるさ)るるなり。

問。臨終行儀とは何なるか。

答。死期(しぬるとき)に臨みて魔障(まのさわり)を祓い如来の聖容(みすがた)を拝み正念(ただしく)に往生せんことを求むる為に行なう儀式なり。

  第五課 勤行式

如来光明歎徳頌(にょらいこうみょうたんとくしょう)

  アミダは一切の仏陀を統摂せる唯一独尊最終帰趣の如来なるを明かす

仏阿難に告げたまわく、無量寿如来の、威神、光明最尊第一にして諸仏の光明及ぶこと能わざる所なり、是故に

無量寿如来を無量光仏  無辺光仏  無碍光仏  無体光仏  炎王光仏  清浄光仏  歓喜光仏  智慧光仏  不断光仏  難思光仏  無称光仏  超日月光仏と号したてまつる、それ衆生ありて斯の光にあうものは 三垢消滅し  身意柔軟に  歓喜踴躍して  善心生ぜむ 若し三塗勤苦処に在て此光明を見たてまつらば、みな休息を得て  亦苦悩なく  寿終の後みな解脱を蒙むらん、無量寿如来の光明顕赫にして十方を照耀す 諸仏の国土に聞えざることなし、但我今其光明を称するのみにあらず 一切の諸仏  声聞  縁覚  諸の菩薩衆も悉く共に歎誉したまうこと 亦復是の如し、若衆生ありて 其光明の威神功徳を聞て  日夜に称説して至心不断ならば  意の所願に随て、其国に生ずることを得て、諸の菩薩 声聞 大衆に共に歎誉して其功徳を称せられん 其然して後仏道をうる時に至て  普ねく十方の諸仏菩薩に 其光明を歎ぜられんこと亦今の如くならん、仏の言わく  我無量寿如来の光明威神の巍々殊妙なることを説んに 昼夜一劫すとも 尚いまだ尽すこと能わじ

  如来寿量頌(しょう)  

釈尊の本地は「アミダ」即ち無量寿如来なることを明かす

我れ仏(ぶつ)を得てよりこのかた  経(ふ)る所の諸(もろもろ)の劫数(こうじゅ)無量百千万憶載阿僧祇 常に説法して 無数億(むしゅおく)の衆生を教化して 仏道に入らしむ 爾(しか)しよりこのかた無量劫 

衆生を度せんが為の故に方便して涅槃を現ず 而も実に滅度せず 常に此(ここ)に住して説法す 我常に此(ここ)に住すとも諸々の神通力を以て顛倒の衆生をして近づくと雖も 而も見ざらしむ 衆 我が滅度を見て 広く舎利を供養し悉くみな恋慕を懐きて 而も渇仰の心(しん)を生ず 衆生すでに信伏し質直(しつじき)にして 意(い)柔軟(にゅうなん)に一心に仏(ぶつ)を見んと欲して自ら身命を惜しまざれば 時に我および衆僧と倶(とも)に霊鷲山(れいじゅせん)に出づ 我時に衆生に語るらく 常に此(ここ)に在りて滅せずと 方便力を以ての故に滅不滅あるを現ず 予国(よこく)に衆生の恭敬(くぎょう)信楽(しんぎょう)する者あれば 我また彼(か)の中に於て 為に無上の法を得く 汝ら此れを聞かず 但(ただ)我滅度せりと謂(おも)えり 我諸々の衆生を見るに 苦海に没在(もつざい)す 故に為に身を現ぜず 其れをして渇仰を生ぜしむ 其の心の恋慕するに因(よっ)て乃ち為に説法す 神通力かくの如し 阿僧祇劫(あそうぎこう)に於いて常に霊鷲山(れいじゅせん)及び余の諸々の住所に在って 衆生劫尽きて大火に焼かるるを見る時も 我が此の土は安穏にして天人常に充満せり 園林(おんりん)もろもろの堂閣(どうかく)種々の宝をもて荘厳せり 宝樹には華果(けか)多し 衆生の遊楽(ゆうらく)する所なり 諸天は天鼓(てんく)を撃ちて常に衆(もろもろ)の伎楽を作して曼荼羅花を雨(ふら)し仏(ぶつ)及び大衆に散ず  我が浄土は毀(こわ)たず 而も衆(もろもろ)は焼き尽くさるる、憂怖(うふ)諸々の苦悩是(か)くの如く悉く充満せり 是(こ)の諸罪の衆生悪業の因縁を以て阿僧祇劫を過ぐれども 三宝の名(みな)を聞かず諸々の功徳を修して 柔和質直(にゅうわしちじき)なる者のみ有って 則ち皆我が身此(ここ)に在りて説法するを見む 或る時は此の衆の為に仏寿無量なりと説く 久しくして乃ち仏(ぶつ)を見む者には仏には値(あ)い難しと説く 我が智力是(かく)の如し 慧光照らすを無量寿命 無数劫久しく業を修して得る所なり 汝ら智あらむ者此れに於て疑いを生ずることなかれ 当に断じて永く尽くさしむべし 仏語は実にして虚しからず 医のよく方便して狂子(きょうし)を治(じ)せむが為の故に 実に在れども而も死と言うも よく虚妄を説くことなきが如く  

 我また世の父と為りて諸々の苦患(くげん)を救う者なり 凡夫顛倒の為に実に在れども而も滅と言う 常に我を見るを以ての故に 而も憍恣(きょうし)の心(しん)を生じ 放逸にして五欲に著(ちゃく)し悪道の中に堕せむ 我常に衆生の行道と不行道とを知りて 度すべき所に随って為に種々の法を説く 毎自(まいじ)是(こ)の念を作す 何を以ての衆生をして無上道に入りて速やかに仏身を成就することを得せしめむ

   晨朝(あさ)の祈祷文

 一、献身の祈祷

法身、報身、応身の聖(きよ)き名(みな)に帰命し奉る。

 三身即一に在(ましま)す最(い)と尊き唯一の如来よ 如来の在(いま)さざる処なきがゆえに、いま現に此処にましますと信じて一心に恭礼(きょうらい)し奉る。

 如来の威力(いりき)と恩恵(みめぐみ)とに依りて活(い)き働き在る事を得たるわれは、

わが身と心との総てを捧げて事(つか)え奉らん、冀わくは一(いつ)に光栄(みさかえ)を現わすべき務めを果たす聖寵(みめぐみ)を垂れ給え。

 二、進徳(とくをすすむる)の祈祷

無上(うえなき)の智慧と正義の徳とを備え給う如来よ。

 教主(おしえぬし)世尊が六根常に、清浄(きよらか)に光顔(みかお)長(とこしなえ)に麗しく在(い)ませしは内霊応(れいおう)に満ち給いければなり、我等も完徳の鑑たる世尊に倣(ならい)て如何なる境遇(ばあい)にも恣色(うるわしきいろ)を変えざることを誓い奉る。

 願わくは常に慈悲、歎喜(よろこび)、正義、安忍、剛毅(つよき)、貞操、謙遜等(とう)を体し、外(ほか)は怨親(おんしん)平等に同体大悲(おもいやり)の愛を以て他を視るの霊応(れいおう)を与え給え。

 三、霊化の祈祷

三身即一に在(いま)す如来よ、如来の真応身(みからだ)は在(いま)さざる処なきが故に 今わが此の身体(からだ)は如来の霊応を宿すべき宮なりと信ず

教え主世尊の心宮(しんぐう)に霊応(れいおう)し給いしが如く、常に我等の心殿(しんでん)に在らせ給え、今や己が身を献(ささげ)て至心に如来の霊応を勧請(かんじょう)し奉る 霊応常住(とこしえ)に我が心殿(みや)に降臨し転法輪(たかきみちびき)と六根清浄の恩寵(めぐみ)を垂れ給え。

 暮夕(くれ)の祈祷文

 一、感謝の祈祷

法身と般若(ちえ)と解脱(じざい)の三徳を備え給う如来よ。

 如来が与え給える明(あきらけ)き光と 清き空気と 新しき糧とに依って 我が心霊(こころ)と身体(からだ)と俱(とも)に一日の務めを果たしたる恩徳を感謝し奉る。

 わが今日の生命(いのち)は全く如来の賜(たまもの)なれば 全力(ちから)を尽くして聖旨(みむね)に仕(つかえまつ)らん事を誓い奉る。

 願わくは聖旨を奉る処のわが名を聞かば求道(みちにいる)の志を起こし、わが行いを見ば悪を止めて善に就き、わが心を知らば離苦得楽(くをわすれたのしみ)の心に帰らんと冀(こいねが)い申す。

 二、懴悔の祈祷

無上権威なる如来に告白し奉る。

 自身(おのれ)は現に是れ罪悪の凡夫、心の迷妄(まよい)よりして為すべからざる罪を作り、為すべきを怠るの罪に陥り〈一日に於て為したる 若しくは為さざりし行いと言葉と思想(おもい)とを省みるべし〉 これみな自らの過(あやまり)なり。実(げ)に大いなる過(あやまち)なりと感じて至心に懴悔し奉る。

 いまより後は悔い改め邪悪(よこしま)を捨てて正善(ただしき)に就かんことを誓い奉る、願わくは恩寵(みめぐみ)に依って、再び過ちに陥る事なき正しき人となさしめ給え。

 三、随喜の祈祷

永遠の光なる如来よ。

 我等は常に瞋恚(いかり)、憎悪(にくみ)、妬忌(ねたみ)、復讐(しかえし)、害意(そこない)、凌辱(はづかしめ)、讒謗(そしり)等の悪意を以て他を傷(そこな)い、亦た人に為さしめて自ら喜びたりき、今は恩寵の光に依り、一切(すべて)の人類(ひとびと)は如来の同一聖子(おなじみこ)にして 所有人(あらゆるひと)の栄と霊福(さいわい)とは如来の光栄(みさかえ)が人の身に実現(あらわれ)に外ならざることを知れり。

 これに依り今より後は人の幸福に於て嫉(ねた)み 羨(うらや)む事なく、 

人の躓(つまづき)に於ては傷(いた)み慈しむことを誓い奉る。

願わくは常に慈心を以て相い向い 霊化の行いに於て相い励み 相い扶(たす)け得るの聖寵(みめぐみ)を与え給え。

 四、発願の祈祷

至善(しいぜん)なる如来よ、我等いまより前は無明罪悪(じぶんかってのつみ)の身、終(つい)に流転(ほろび)に赴くのほか途(みち)なかりき。

 然るに今や召喚(しょうかん)の御声(みこえ)に驚きて遂に如来に帰化(きえ)し奉れり、願わくは如来の聖子(みこ)として永遠の生命(いのち)を与え給え。

 これひとり己が安きを求むるにあらず、総ての人を誘(いざない)て諸共に如来摂取の恩寵(みめぐみ)に預からんことを冀(こいねが)い奉る。



  如来十二光和偈

 無量光  法身体大処として実在せざるなし

清浄法身ビルシャナ仏 周偏法界一切処 唯一独尊統摂と 終局帰趣の理体なり 徧空徧時永劫の 自中存在心霊態 絶対無規の実性(じっしょう)は 内容無尽の徳を具し 生産門には一切の 知能の権(ちから)に天則の秩序は因果の律として 万物(よろづ)を開きて産生(うみなせ)り 摂取門には法身に 智慧と解脱の徳をもて 衆生の心をいらみては 霊化し局(つい)に帰趣せしむ

 無辺光 一切智相大処として照らさざるなし

一切智相は辺(ほとり)なく 十方三世色心(しきしん)の 二象(にしょう)は一大観念の 円鏡(かがみ)の影像(かげ)に外ならず 無明の風に随縁(ずいえん)の 波には彼我(ひが)を隔(へだ)つれど 平等性智の水澄める 一如の海は不変なり 妙観察智の宝鑰(ほうやく)は 甚深難思の秘蔵より 重々(じゅうじゅう)無尽の内容を 啓(ひら)きて知見を与うなり 五識五境(ごしきごきょう)はことごとく もと成所作智の作用にて  

仏慧の眼(まなこ)開くれば 浄土に有らざる処なし

 無礙光 一切能解脱大処として融せざるなし

如来無礙の光明(みひかり)は 無上菩提の態(すがた)にて 世の約束を解脱(ほど)きては 真我の自由を得せしめぬ 神聖無上の命令は 普偏(ふへん)の真理にましませば 人の心に儼臨(のぞ)みては 道徳自律を規定せり 如来の正義は我(が)を捨てて 聖意(みむね)に随順するものを 撰(えら)み取ては聖道(せいどう)に 正義職(ただしきつとめ)を果たさしむ 恩寵(めぐみ)は罪に亡びたる 我等を救霊(すく)い更生(よみがえ)し 霊(こころ)を育(はぐ)くみ聖子(みこ)として 上なき霊福(さち)を与うなり

 無対光 如来の真仏土人の最終の帰処

無対は如来の自境界 極楽無為涅槃城 常寂光土の天(そら)きよし 自然微妙(じねんみみょう)の荘厳は 感覚心象(みるものきくもの)麗しく 常楽我浄の霊園(みその)には 霊福(さち)と光栄(さかえ)に充ち満てり 衆生は劫火(こうか)に焼かるるも 霊土(みくに)は常に安穏(やすらか)に 密厳(みつごん)浄土不思議より 蓮華蔵界奇妙なり これ本覚(ほんがく)のみやこにて 衆生が最終(つい)の帰す処

 炎王光 人類の理感二性の悪質を除きて霊化する徳

光炎王の霊能(みちから)は 理事の二惑を除こりぬ 理惑は無明と所知の雲 理性の光りを障(さ)うるなれ 事惑は実我を固執せる 排他の自利に本つきぬ 堕ちては悪病的悪弊症(やまいのあくとなり) 団体瘴気(しょうき)は同共罪(とものつみ) 信不(しんふ)は衆生の性格を 三聚に類(たぐい)を分ちえん 聖意(みむね)に背くは邪定(じゃじょう)にて 天然非霊(めぐみをしらぬ)は不定聚(ふじょうじゅ) 聖旨に協(かな)うる心霊は 正定聖衆(しょうじょうせいじゅ)の員(かず)に入り 二惑の障りいつか霽(はれ) 理事の霊性顕わるれ

 清浄光 人の感性を美化する恵

如来清浄光明は 霊象至美(れいしょうしいび)の態(すがた)にて 衆生の感性(こころ)を美化しては 六根浄(じょう)を得せしめぬ 心眼内外(うちと)に映徹し 四面玲瓏(れいろう)かがやけり 耳には至美(しいび)の音妙(おとたえ)に 法鼻(ほうび)に馨(かお)る香(か)はきよく 心舌(こころ)に味わう三摩耶(さんまや)の 甘(うま)さを何にたくらべん 此の身は浄(きよ)き瑠璃(るり)の瓶(つぶ) 真金(こがね)を盛(いる)るが如くなり 五(いつつ)の塵に交わるも 神(こころ)は聖(きよ)き光りにて 五妙感覚(いとうつくしき)霊界に 逍遥(しょうよう)として優遊(すみあそ)ぶ 

 歓喜光 感情に霊福を与う

凡そ人の感情は 八(やつ)の苦しみひまもなく  

潜(ひそ)むる煩悩(よわい)競い出て 神(こころ)を悩ますこと劇(はげ)し 世は内外(うちそと)に苦悩(くるしみ)と 罪悪(つみととが)とに充ち満てり 解脱は己が意(まま)ならず 如来(みむね)の真我(なか)に帰命せば 神秘融合深邃(いとふか)く 三摩耶の楽しみ微妙(みみょう)なり 恩寵(めぐみ)に安立しぬる身は 平和と歓喜の極みなく 六根常に清らかに 面(おもて)は自ずと麗しく 内に霊福感ずれば 身心ともに肝(ゆた)かなり

 智慧光 人の知力に知見を与う

如来智慧の光明は 甚深不思議の内容を 神秘の窓を開きては 衆生に知見を与うなり 感覚としては光明相 依正二象(えしょうにしょう)を感見し 神聖正義智悲の相 三昧(さまや)の窓に啓示(しめ)さるる 如来の自性天真は 則ち毘盧(びる)妙法身 甚深秘密の実相は 禅那(ぜんな)の床に悟らるれ 此れより無量の総持門 三昧(さんまい)智慧神通等 乃(いま)し不思議の仏法も 示さるるなり悟るなり

 不断光 意志を霊化す

如来不断の光能(みちから)は 無上道徳 態(たい)にして 衆生の意志に被れば 解脱霊化の極みなし 主我(しゅが)幸福と俗情の 非霊(ひれい)の素質を排除(おしのぞ)き 霊化菩提の志気きよく 聖意(みむね)現わすすがたなり 教主の聖旨(みむね)を体しては 二利円満を期(ご)するなれ 誓は四弘(しぐ)の海ふかく 六度八正道ひろし 願作仏(がんさぶつ)とは願度生 願度生(がんどしょう)とは願生心(がんしょうしん) 一切衆生(すべて

のひと)と諸共(もろとも)に 安寧(やすき)み国(くに)に至るなり

 難思光 信仰を修養して恩寵を喚起す

如来不思議の境界(みさかい)は 雲井(くもい)はるかに超絶(へだつ)れば 崇(たか)きみ空(そら)にあくがるる 恩寵(めぐみ)をいかに喚起(かんき)せん 聖経(みふみ)を読むと拝礼と 請求感謝(しょうぐかんしゃ)の称名と 工夫(くふう)瞑想観念と 讃嘆供養(さんだんくよう)を霊糧(かて)とせば 垢障(くしょう)履深の身なれども 尅己摧励(こっきさいれい)切にして 至心に専ら如来(みほとけ)に 欽慕(きんぼ)の心深ければ 招喚(まねき)の霊声(みこえ)いと妙に 微光閃(ひらめ)き来たるとき 無明の夢も覚醒(かきさま)し 霊(こころ)の曄日(あけ)とは為りぬべし

 無称光 恩寵を開発す

神光(みひかり)心霊(こころ)に照りませば 罪悪(つみとが)深きを自覚しぬ 良心苦悶の度(ど)は昂(たか)む 解脱は自己の任(まま)ならず 恩寵(めぐみ)を獲得(ぎゃくとく)せん為に 三昧(さまや)に神(こころ)を凝らしては 聖旨(みむね)の現われ祈りしに 七覚(しちかく)霊(こころ)の花ひらき 霊応交感いと妙に 神秘融合不思議なり 心も語(ことば)も及ばじな  

廓然(かくねん)として覚醒し 心機一転則更生(きよきこころによみがえり) 永恒(とわ)の生命(いのち)に入りぬれば 如来の真我(しんが)に安立し 聖子(みこ)の数とは成りにけり

 超日月光 恩寵の実現に行動す

智慧の光は明らけく 慈悲のみそらは極みなく 聖旨(みむね)を被(かむ)る聖子(みこ)として いかに天職(つとめ)を果たすべき 恩寵(めぐみ)の中にたゆみなく 上求菩提(じょうぐぼだい)下化衆生(げけしゅじょう) 智悲(ちひ)の日月(ひつき)の下(もと)にして 自他の利益を励むなり 教主(きょうしゅ)応化(おうげ)の迹(あと)高く 五十余年の健闘と 三輪完徳(さんりんまどか)のみ鑑は 我らに模範(のり)を垂れたまう 望みは一切(すべて)と諸共に 至幸(しこう)の処に伴わむ 行(つとめ)は聖意(みむね)の指導にて 至善(しいぜん)に向うて進むなり

  如来三身讃歌

 如来法身讃 天則を統一する実体

天(あま)つみ空に羅列(つら)なりし 数えず星の運(めぐ)れるも 地に生(おい)しげる草木より 生きとし活(いけ)る万類(たぐい)まで 天則(あまつみのり)の秩序(すじみち)が 善く整斉(ととのう)るさま見れば 万物(よろづ)を統一摂理(すべておさめ)ます 法身(みおや)の権能(ちから)に察(しら)れける 徧時徧空徧一切(あまねきところにみちみちて) 永恒(とわに)自中存在(おのずとましませる) 全智(ちえ)の亙(わた)らぬ隈(くま)もなく 

全能(みちから)いたらぬ際(きわ)もなき 天地万物(よろづのもの)を産出(うみなせ)し 一切生命(すべてのいのち)を担保(たまち)ます 唯一独尊(いととうとけるみひとり)の 法身(みおや)如来を称え奉る

 如来報身讃 万類を終局に摂取する徳

円満報身如来(いともとうときみおや)は真(まこと)にて且つ美しき 善(よき)という善(よき)の極みなる 聖(きよ)き霊界(みくに)に在(ましま)せり 真金(こがね)の相好(すがた)妙にして 巍々(たかき)威厳(みいず)はかぎりなく 万徳円満(よろづのとくはまどか)にて 照らさぬ処なかりけり 上なき智慧の光りは 祈る念(こころ)の窓に入り 神聖正義のみ鑑は 道徳自律(むかうこころ)の制裁(かけただし) 恩寵(めぐみ)の神名(みな)を称(

たた)えなば 摂取不捨(おさめてすてぬ)ぞ尊とけれ 三徳円満の(みつのみのりをそなえます) 報身如来(みおや)に礼(ぬかづ)き奉る 

 如来応身讃 人格の身をもて世に出でたる教主

大恩(みめぐみ)深き教え主 八相応化(はっそうおうげ)の日のみかげ うき世の闇に出でまして 高嶺を照らす朝(あした)より 双樹(そうじゅ)の夜半(よは)の終(わかれ)まで 示し給える迹高く 聖旨(みむね)に開(さけ)る法の花 金(こがね)の言の葉は栄え 身にむすびてし威儀(よそおい)は 六根つねに清らかに 光顔(みかお)は長(とわ)に麗しく 巍(たか)き稜威(みいづ)は極みなく 内には智悲の徳みてり 三輪(さんりん)完徳(まどか)の鑑(みかがみ)は 我らに軌範(のり)を垂れたまう 仏陀(ぶつだ)を称(たた)えたてまつる

明治三十七年四月八日出版

  三十八年三月三十一日再版 (非売品)

   同 年四月四日発行

発行者 原青民 東京都浅草区松葉町九番地

印刷者 野村武七 愛知県幡豆郡西尾町大字須田五番戸

印刷所 辻利八支店 愛知県幡豆郡西尾町大字須田十番戸