尊者の御ことば

『永井辰次郎尊者一代記』

別時念仏席上御法話より

私訳 「永井辰次郎尊者のお言葉」

腹を立てるは地獄の罪業
 
自然の三途の業により
 
必堕無間の此の我に
 
「六字を称えよ、迎える」と
 
弥陀「唯称」の仰せがかかる。

南無阿弥陀仏
 
一声ごとの「見仏聞法」
 
弥陀の摂取のお呼び声 。  

南無阿弥陀仏
一声ごとに「即得往生」
 
我らを抱えて連れて行く。

往生は信ずる者の功ならず 
 
称える者の手柄にあらず
 
弥陀誓願の不思議ゆえ
 
機の善悪が不問なり。

堕獄の凡夫、

南無阿弥陀仏に転ぜられ
 
現世に無量の徳を得て
 
後に浄土に生れては
 
真実まことの親元で
 
百千無量の楽しみに
 
三明六通無礙を得て
 
百千万に身を分ち
 
心のままに有縁の衆生を済度する。

皆人よ、この仏恩深きを思いつつ
 
常に念仏相続すべし
 
これ弥陀願力の「仏勅唯称」

永井辰次郎尊者 別時念仏席上御法語《意訳》

第一

本地(ほんじ)法王の弥陀如来、御口(みくち)より無量の光明を放ち給いて、微笑(みしょう)し 微妙(みみょう)の声で永井尊者に告げたまう。

「よく聴けよ、よく聴けよ。末世の衆生は邪義、邪見、汝も観見した如く、道俗共に地獄に堕ちる者多し。諸経諸善は及び難し。故に我が本願の一法 南無阿弥陀仏を執持して我が浄土に来たるべし。三途苦悩の者の為に抜苦与楽を誓いたり。我が語 南無阿弥陀仏を持(たも)て。汝、縁有る衆生に "唯称" の誓いを告げよ」と智慧の華、栴檀樹鉢羅華(せんだんじゅはらけ)を授け給う。

第二

「我が名を称えよ」とのお約束ゆえ、称えれば必ず極楽の人。「唯称」の外は骨折り損。世の中はそらごと、たわごと、まこと有る事なし。念仏こそまことなり。

弥陀仏は本願を以て衆生を摂取し給うゆえ、その本願は口称(くしょう)なり。南無阿弥陀仏と称えると、その声が本願のお約束なれば、信じて称える者も、往生するのは信ずる功にあらず、称える手柄にもあらず。ただ本願のお手柄で、誓願の不思議にて往生することなれば、仏の恩を深く思いて口に常に弥陀を称念すべし。

第三

往生は身持ちにて定まるにはあらず。聴聞にて定まるにもあらず。機根の善悪によって定まるにもあらず。相伝によって定まるにもあらず。口称本願「唯称」が成仏往生の誓約(ちかい)なり。斯くの如く決定すべし。

第四

信心安心(あんじん)の法義者は、見るところは美しくて臨終の夕べには往生慥(たし)かに大丈夫そうなれども、実際は失いて業に曳かれて悪趣に堕ちて往生成し難し。

念仏の行者は、見るところは悪しくてぼんやりした心で称えていても、実際は弥陀他力本願の故に、必ず臨終の時には慥(たし)かなり。正念になり極楽へ往生を得る。

第五

堪忍は一生の宝であり、慈悲は菩薩の行なり。

過去の原因を観ようと欲せば、今の生に於ける結果を観よ。未来の結果を観ようと欲せば、今の生に於ける原因を観よ。因果の通理はほんの少しも違わざる。

第六

十悪(殺生・偸盗・邪婬・妄語・両舌・悪口・綺語・貪欲・瞋恚・邪見)五逆(殺母・殺父・殺阿羅漢・出仏身血・破和合僧)を犯せし者は地獄に堕ち、慳貪(けんどん)嫉妬の者は餓鬼道に堕ちる、愚痴闇蔽(あんへい)の者は畜生道に生を受ける。末世今日の者は疑惑の心多き故、我が名号を称念すべし。必ず此の浄土へ来る事は疑いなし。

今一念邪義が盛んなるが、このものは悪趣に堕す。

 第七

皆様こうしてお念仏をお勤めになることは、実に広大なことで、一人残らず往生が出来ます。道か仏勅唯称を軽んじる者は仏罰を蒙ると思うてもらいたい。

念仏の外は小善根、故に御回向が悪いと亡者へ届かぬ。念仏は大善根・大功徳の故にどんな人が称えても亡者へ届くことは同じで、回向は御名号の六字の中に成就してある故に、別に回向は要らぬのじゃ。

また、別時念仏の功徳の広大なることを実地に知らぬ人は、我が家で一人で称えていても、また別時の席へ参詣しても、六字の功徳に違いは無けれども、火災は焦熱強きが如くにて、別時に参詣すれば受ける功徳も一層広大じゃ。別時供養を勤めたら、我が身の功徳は無量にて、また亡者の迷界にある者は直ちに解脱す。地獄にある者は、この別時念仏中は此の功徳に因りて苦患(くげん)が軽くなる。また人間界や天上界にいる者は菩提心をおこすこと早し。極楽の化土往生の者は早く見仏聞法することになる。

第八

阿弥陀様の仰せは、お仕事をしながら唯称させて頂く。第十八願に「至心信楽欲生我国」とありて、一念十念も往生するとあり。此れを一声というも十声というも同じことで、分かり易いようには、一声の念仏も十声の念仏も往生と聞いて、十声のお念仏も未だ称えられずして命終わるとも往生させて頂ける。況や多念の念仏をや。

十方の衆生残らず救い上げたい御心より出来た本願、至極短命の者までも救わにゃおかぬお慈悲じゃ。人間は罪造るようになっているのじゃで、どうしてもこうしても地獄へ堕ちるようにできている。念仏を称える者は、どうしても助けられるようにできているのや。

第九

腹を立てることは大いなる罪であり、悉く地獄の罪となる。ある人尋ねて「腹を立てさせる者はどうですか」と。答「同罪なり」。ある人曰く「私は誰も腹立てさせる者がないので、有難いことと思うています」「それは良い事」と仰せられた。

第十

六道輪廻の場所にいて、煩悩・菩提の大軍(おおいくさ)。

業事と成弁無きうちは、勝つも負けるも今次第。

負けて有漏絶え無漏陣で、諸仏聖泉のその前で、

弘誓の鎧(よろい)着飾りて、再び有漏の勅使なり。

嬉しさあまりて泣くばかり。泣くも笑うも今次第、

南無阿弥陀仏の大仕事、この六字で事足れり。

第十一

抜苦与楽の願なれば、今に苦悩がのがれます。

必至滅度の願なれば、今に補処(仏になる位)に到ります。

浄土の化楽無窮なり、此の楽しみの外はなし。

南無阿弥陀仏

第十二

経には「自然の三途」とあるからは、末代今日の事ゆえに、

弥陀の本願に遇わざれば、みな悉く悪趣に堕ちると告げ給う。

阿弥陀仏が彼岸で呼ぶと思うなよ、今ここに  於いて  抱(かか)えて  連れて行く。

第十三

本願の万善諸行にて、今の世の出離を得ることを知る。

唯称は弥陀の願なるが故に必ず往生を得る、南無阿弥陀仏の一声ごとが弥陀の摂取の御呼声。行かにゃなるまい、極楽の人に。

珍しや、地蔵尊者の御霊地で別時法要の最中に、異香(いこう)金沙(こんしゃ)の降る中で諸神諸王の御出張。凡夫我らの量知なし。

第十四

必堕無間の我等をば、口称本願唯称で鬼が転じて仏なり。これ程易き本願を、軽くなす故堕獄する。他力の他力、他力と邪見を間違えて、これまた堕獄の因となる。親のこころを子は知らず、親が子供を思うほど子供は親を思わぬ故に人面獣身と人はいう。念仏の行者は斯くあってはならぬ、力いっぱい念仏すべし。

第十五

我が名を称える者  必ず迎えとるとの本願の約束なれば、信じて称える者も信ずる功にあらず、称える手柄にもあらず。本願の御手柄、願の不思議にて往生することなれば、仏恩深く思いつつ常に弥陀を称念すべし。

南無阿弥陀仏の御手柄で 堕獄が不退の早変わり

諸仏も呆れて舌を出す  諸人驚き守護をする。

ありがたや  諸仏も呆れて舌を出す

諸神驚き守護をする  ありがたや

百千万劫過ぎれども 願に遭わねば堕獄する ありがたや

第十六

受けがたき人身を受け、 信じがたき唯称を信じ、

遇いがたき同行に遇い、 勤めがたき別時にあいて、

これ程に有難き事なし、 極楽の大道一筋を往く。

第十七

造悪不善・下根の吾等は、臨終の夕べに到り、火車(かしゃ)乱現の如き悪趣を見る。その時弥陀本願の約束に乗じ、彼の浄刹に到れば、凡夫が証(さと)りの身を得て、過去未来現在の三明を悟り、この別時の得益を知り、七世の父母(ぶも)有縁同行の抜苦与楽の得通(とくつう)を得る。それは今なり、今のこと。報謝の称名励むべし。

第十八

経に「自然の三途」「多劫を経歴して苦を受くること窮みなし」とあり。

阿弥陀仏に永劫修行の抜苦与楽の誓いあり。皆これ我らが為ならん。罪根深き此の者を、願力無窮の口称本願唯称で、行じ易き称え易き本願信仰の一念で、堕獄の凡夫も転じて仏なり、愚老も転じて導師なり。ありがたや。

第十九

必堕無間の我等をば弥陀願力の御六字で、即得往生、住不退転、見仏聞法とは今のこと。ああ有り難や。

第二十

五劫の間の御苦労で、依報荘厳成就して、南無阿弥陀仏で只貰い、誰に遠慮は無きものぞ。真実まことの親元で、三明六通・無礙自在、百千万に身を分ち、十方の縁ある衆生を、心のままに度しながら、百千無量の楽しみは、南無阿弥陀仏の因にあり。

皆人これを思いて念仏相続いたすべし。我此の利を見る故に斯く論ず。

第二十一

往生は、機の善悪に依らずして、念仏の一法を臨終まで貫けば、必ず滅度に到るなり。これを如実易行とは云う。

第二十二

口称本願唯称が、成仏往生の約束(ちかい)なり。斯くの如くに決定して念仏すべし。

念仏は無上の宝、宝は念仏にあり。現世に無量の徳を得て、後に浄土に生まる因となる。功徳この上なき宝、南無阿弥陀仏。自然の三途なる故に、懈怠すれば地獄なり。

第二十三

念仏の功徳広大なることは、お浄土へ参らせてもらえば初めて解ることであります。

お念仏を勤めた者も功徳広大だが、その宿を貸した者が一層功徳広大なることは、丁度ばくち打ちが、罪ある者より宿を貸したものの方が重罪になるのと同じことです。

私も大分老衰して余生も残り少ないですが、どうか亡くなった後もお念仏を相続して下さい。頼みます。もしも光明を放つような人が来て「唯称は嘘や」と言っても、決してそのような事に迷わされぬように。「唯称は仏勅である」と信じて念仏申してください。

皆の人に唯称させて我が浄土へ連れて来いとの仰せじゃ。一人でも連れてゆけば私の役目は立つのじゃで。



後生の一大事が苦になり、日課三万遍の念仏を欠かされなかった永井尊者は、法然上人の一枚起請文の仰せ通りに、善導大師の発願文そのままに還相の菩薩として多くの縁者たちを「唯称」一つで導かれた浄土宗の善知識でありましたが、そのお言葉の中には「⑫阿弥陀仏が彼岸で呼ぶと思うなよ、今ここに  於いて  抱(かか)えて  連れて行く(※原文  西岸に呼ぶと思うな、今ここに於いて抱えて西へ連れて行く)」や「⑬南無阿弥陀仏の一声ごとが弥陀の摂取の御呼声(※原文  声毎に弥陀は摂取の御呼び声)」「⑲弥陀願力の御六字で、即得往生、住不退転、見仏聞法とは今のこと(※原文  弥陀願力の御六字で、即得往生、住不退転、見仏聞法、今の事)」のように、やはり今此の口から出る南無阿弥陀仏がミオヤの御呼声であり、抱きかかえて下さった御姿であるとの御領解が見受けられます。浄土宗の正式な教義ではなくても、深い信心を頂かれた念仏行者様方には、その様にしか受け取れない思いなのでありましょう。

私訳「永井辰次郎尊者のお言葉」は斯く御心を「仏勅唯称」に反映して尊者の語録を編集したものです。               —  文責  石川乗願  —