「あなたは如来様をオヤ様と呼べますか?」


『新訳如来光明礼拝儀 法城寺版』は弁栄聖者100回忌を機に、弁栄聖者の教行である『如来光明礼拝儀』の朝夕2回に分れた勤行を、一度に勤め得ることが出来るようにしたいとの思いから、浄土宗勤行式の形式を基盤にしながら編集しなおしてみました。また聖者は、阿弥陀如来を「阿弥陀如来/阿弥陀さま」とお名前で呼びかけるより、「オヤ様/ミオヤ」と親しみを込めて呼び掛けることを勧めておられるので、聖者の意に従い、  例えば『如来光明礼拝儀』中の食前食後の言葉は、「大ミオヤ/あなた」との呼び掛けで構成されているので、その表現方法に倣って「阿弥陀仏/弥陀/如来/仏」との表現をすべて「ミオヤ/大ミオヤ/あなた」との表現に変更しました。また、なるべく解りやすくするために、原文を尊重しながらも現代語訳に編集しなおして、『新訳如来光明礼拝儀 法城版』を制作し、法城寺でのお勤めはすべてこの『新訳礼拝儀法城寺版』を使用するようになりました。

『如来光明礼拝儀』の昏暮の礼拝の最後の偈「至心に回向す」の中に、「我らは曽て心闇くして、如来の在すことを識らざりき 然るに如来の大悲招喚の声に驚きて、至心に如来に帰依し奉れり」との偈文がありますが、この   “大悲招喚のみ声”   とは浄土真宗の解釈(ミオヤが私を喚ぶ声=南無阿弥陀仏)の用語であります。実は、この『新訳如来光明礼拝儀 法城寺版』は聖者が敢てこの表現を用いられたことに深く心を寄せ、この一文を中心として、“此方側から如来に総てを捧げる”   という勤行を、 “大ミオヤが私を愛するあまり姿を顕わし呼び掛けておられる、故に私もあなたにすべてを捧げます”   という他力を前面に出した勤行に編集し直したのです。

聖者の教えを頂くためのお寺なので、聖者のお言葉に従い、従来の『如来光明礼拝儀』の文言に添うことを心がけましたが、大ミオヤの大慈悲の一人働きであることをもっとはっきり解るようにしたい、表に現わしたいとの想いが日に日に募り、『新訳 如来光明礼拝儀 法城寺版』を更に表現を少し変え、聖者没後100周年を記念して『改訂 新訳如来光明礼拝儀  法城寺版』を試みに作ってみました。「至心に回向す」に説かれる聖者の “大悲招喚のみ声に驚いて、帰依の心が生じる”   理(ことわり)は、松並松五郎師の語録の中にも見出されます。念仏三昧を通し、“此方側の我が砕かれ、ミオヤにすべてを捧げる”   のには、 “如何にミオヤが私という実子を愛しておられるか”、そのまことの想いを知る事こそが最も大切な前提となります。そのことをはっきりと言葉で表現しなければ、愚かな我々は進むべき道を必ず見失なうことになると思い、従ってその事実を明確に現すために改訂版を試作してみました。ここでは法城寺の教えとして、この『改訂 新訳如来光明礼拝儀 法城寺版』を味わって行きたいと思います。そのまま拝読するだけで、大ミオヤの深いみこころが胸に滲み渡ってくるのがわかります。「如来光明三昧道」とは、南無阿弥陀仏  (ミオヤの霊光) や此の礼拝儀  (ミオヤの霊育) に依って、先ずはこころをミオヤの聖国(みくに)に生まれさせて頂き、からだはミオヤの聖子(みこ)として謝恩報徳(ミオヤの広大慈恩に感謝の誠をささげ、ミオヤの聖徳に報いて全ての衆生と共に永遠の光と平和を得る)の道を歩ませていただくことであります。

『改訂新訳礼拝儀』は、聖者百周忌遺墨展図録の付録として掲載いたしました。図録をご希望の方は、当サイト「問い合わせ」からメールにてご連絡下さいませ。





『改訂 新訳 如来光明礼拝儀 法城寺版』 


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