法然上人 一枚起請文

もろこし我朝に、

もろもろの智者達の、沙汰し申さるる、観念の念にもあらず。

又学問をして、念の心を悟りて申念仏にもあらず。

唯往生極楽の為には、

南無阿弥陀仏と申して、

疑いなく往生するぞと思いとりて、申外には別の子細候わず。

但し三心四修と申事の候は、

皆決定して南無阿弥陀仏にて往生するぞと思う中にこもり候也。

此外に奥深き事を存ぜば、二尊の憐みにはずれ、本願にもれ候うべし。

念仏を信ぜん人は、たとい一代の法を能々学すとも、

一文不知の愚鈍の身になして、

尼入道の無知の輩に同して、

智者の振舞をせずして

唯一向に念仏すべし。

一枚起請文のこころ 山本空外上人     

〈尾道市瀨戸田町 於法然寺 昭和44(1969)年3月10日〉

今日は、法然上人(1133~1212)の御忌法会に合わせて法然寺本堂の改修が成った落慶の法要ですが、他の場合に忌日を「御忌」と申すことはありません。宮中の行事にしか用いない言葉です。

 法然上人の忌日に限って「御忌」というのは、戦国時代の1521年に即位の礼をあげて、わずか五年後にお亡くなりになられた後柏原天皇様が、「法然上人の忌日に合わせて一週間、御忌を修すべし」というお言葉を、当時の知恩院門跡に賜ったから特別に用いているわけです。

 法然上人の『一枚起請文』は、お念仏の教を簡潔に記した大事な御遺訓です。13歳の時、法然上人のおかげで源氏の追い討ちを免れて、そのお膝元に十八年間も常侍した勢観房源智上人(1183~1238)が、法然上人が亡くなられる二日前の建暦2(1212)年正月23日に、最後のご指導を頼まれた。それに法然上人がお応えになって記されたと伝えられています。

 その頃は、お念仏の教えについても、それぞれ勝手なことを言い出して始末に負えない状況でした。さらに、世の中も乱れて、法然上人は四国の土佐へ、天皇さまでも隠岐島流罪という時代でした。

 日本は第二次世界大戦に敗れたが、天皇さまはご健在ですから、今日じゃ想像がつかないくらいの荒れた時代であったわけで、源智上人は、それを心配して、法然上人に御遺訓をお願いされたのです。

『一枚起請文』は「一枚の紙」に念仏のこころとその修し方を簡潔に書いた「起請」、おシャカさまとアミダさまに誓う文であり、法然上人の最後のお心持ちをあらわしています。

「もろこし我朝に もろもろの智者達の沙汰し申さるる観念の念にもあらず」と最初にあります。もろこしとは今の中国、我朝は日本のことです。法然上人の頃には西洋の様子がわかっていませんでした。中国が国際文化の中心でしたから、まず第一に中国を問題にされたのです。

現代の私どもが、仏教の話をする場合、先ず西洋を問題にしなければならない。明治時代以降、すべての日本の大学は西洋風の教育をしてきたからです。今日では、西洋の哲学と仏教との比較をしなければ、その区別も関係もわからないから、仏教はこうだとだけ言っても、頭が西洋風になっている現代の日本人には切り込めません。

「智者たちの沙汰し申さるる観念の念にもあらず」という智者達とは、学者の意味で、今の日本の学者は西洋風にものを考えますが、当時は中国風であったから、念仏の悦びは中国風の学問でつかめる世界じゃないと言うことです。

学者の中には偉い優れた方もおられる。そういう方なら、一を聞いて百ワカルから、念仏の世界をつかめるかも知れないが、百人に一人、できるかできないかということじゃ話にならない。

どんな学者でも、無学文盲の人でも、男でも女でも、若くても老人でも、誰もができる、そこに法然上人は目をつけておられたのです。

法然上人は、百人に一人ということではなく、「十即十生」、つまりは「一切衆生 平等往生」を目指された。

小さい枠を超えて、一人も落第生がないというアミダさまの世界に入るということを考えられたのです。

「観念の念」という観念をお話しするには、かなりの時間がかかりますから、簡単に申しますと、小さい窓から外を眺めて、外界の全体がワカル、一を聞いて百を知るという、よほど頭が冴えた人にしかできないのが観念です。

中国唐代の善導大師(613~681)の『観念法門』には、観念の念が、どのようにして心の窓を開けていくかが、非常に細かく記されています。それを読むと、まぁ、普通じゃ到底無理だろうと思います。

法然上人が目指された「平等往生」の平等は、今日、皆さまが使っておられる平等とは意味が異なります。西洋には、「同じ」という意味のイコールという言葉はありますが、仏教が「平等往生」でいう平等という言葉はありません。

二百年余り前の1789年8月、フランス革命の時、「人権宣言」が出されて、その第一条に「人は、自由、かつ、権利に於いて平等なものとして生まれ、生存する」とあります。フランス語の本文には、エガール(egal)とある。英語で言えばイコール(equal)です。2∔2=4は同じという意味です。男子が考えても女子が考えても、青年でも老人でも、同じというわけです。西洋人はこれしか考えない。

今の日本でも、大学では教授も学生も同じ人間じゃないかといって、問題が起こったりする。西洋風の考えで教育している当たり前の結果で、そうなるに決まっています。何もびっくりすることはありません。

東洋でいう平等は、仏教の最も大事な言葉です。「百即百生」、老若男女を問わず、百人なら百人みんなアミダさまの世界に入れる、往生ができる。生きている間はダメだ、死後でなければ往生できないというのは仏教ではありません。そういうことなら、今、生きている値打ちがどこにあるか。生きているのはつまらないではありませんか。仏教はそのような不平等は説いていない。

生きていても、死後でも、どちらでも、往生できます。

それを平等往生というのです。

死後でないと往生できないのなら、死んだほうがよい。生きていてもおもしろくない。誰もが死にたくないのが普通ですから、おかしな話になる。

健康でも病気でも、学問があってもなくても、お金があってもなくても、どんな犯罪をした人でも往生できる。それが十即十生です。

仏教のお経は平等しか説いていません。平等は大事なことです。

おシャカさまを例外扱いにして、おシャカさまのような偉い方はサトレルが、我われは凡夫だからどうせサトレナイと考える。それは仏教ではありません。仏教に例外はありません。西洋風の頭では、それがワカラナイ。

『般若経』や『法華経』、それに『華厳経』や『無量寿経』など、大事なお経はいろいろありますが、それらの後に書かれた『涅槃経』に、「一切衆生 悉有仏性」とあります。どんな人でもみんな仏性を持っているということです。

「一切の衆生」の一切ということが浄土です。

全ての人たちが仏性を持っているという時は、英語のイコール・同等とは違います。表面ではなく、内面へ掘り下げて平等といいます。表面には平等はありません。同じであるとは言える。男子も女子も同じ人間だからと、男女同権なら言えます。見かけは老若男女みんな人間ですから、選挙で一票を投じて、計算する時は男女は同じです。青年でも老人でも、教授でも学生でも、同じ一票です。

内面に入ると計算ができない無の世界です。『般若心経』には「無無明亦無無明尽 乃至無老死 亦無老死尽・・・」と無が二十一回出てきます。「不垢不浄 不増不減・・・」と不も出てきます。『般若心経』のインド語の原文にはアミダさまのアと同じ文字が使ってあります。何もないというのではなく、計算ができないという意味です。

表面の形式上からは、損だ得だということはある。美人に生まれると得だとは、表面上の、形の上でのことに限られます。美人に生まれたばかりに一生不幸に暮らす方もいます。美人でなくても幸せな方もおられます。

表面上では損得があります。貧乏よりも金持ちが得です。しかし、お金をたくさん持ったためにだまされる人もいます。子どもに遺産をたくさん残したために、兄弟が遺産で争って、お父さんの法事にも集まらないということもあります。遺産が家族を破壊する餌になったということになる。お金もうけをするだけが得のように思うのがどうかしています。それを迷いといいます。

迷いは、本当にはあるはずはないが、損得を考えるから生じる。それがワカルことをサトルといいます。だから、サトルのは当たり前のことです。私からすると、サトレナイのがおかしい。私はこの五十年ずっとサトッテ生きています。迷うとかえって手間がかかる。何が損で、何が得か。答えられる方は世界に一人もいません。

見かけには損得がありますが、中に入ると損得はありません。内面に入ると計算ができない。計算から離れると清(浄)らかになります。そこを浄土というのです。土とは国土、国土とは毎日の生活です。アミダさまの浄土とは浄らかな生活ということです。

共産主義の社会では、人間を機械的に扱う傾向がありますが、それが果たして得でしょうか。その方が進んでいるとか、勝手な理屈はつけられます。それを得とするなら形式的には得でしょう。ところが中へ入るとそうはいきません。おおかたの寺は物置になっています。お坊さんも強制労働に駆り出されて、従わなければ投獄され、反抗すると殺されます。

日本ですから、こうして念仏の話を聞いたり、一緒に念仏ができる。損得の迷いは、表面の見かけにはある。その見かけでうろうろする方が骨が折れる。中に入ると本当に極楽です。私は極楽の生活しかしていません。それをサトッタ暮らしといいます。

仏教のブッはブッダのことで、タ(ダ)は過去を表します。「般若波羅蜜多」はタに多いという文字が使われています。字が違うと中身も違うような気がするでしょうが、アミダさまのタ(ダ)と同じで、過去形です。仏といわずに如来さまともいいますが、どちらも過去形です。般若波羅蜜多も、阿弥陀さまのアミタも仏教の大事な言葉は過去形です。未来の死後のことだけを言うのは仏教ではない。どこかで間違っている。

サトレルと、死んだ後も極楽になります。サトリの未来です。サトラナイうちは未来はありません。

お念仏を喜んだ方のご臨終の様子を見てご覧なさい。アミダさまのお慈悲に包まれて、あぁ、あの方はああいうふうになられるのだなと、 本当に感心する対応をなさいます。それは生きている間に念仏する悦びをお持ちになったからです。サトッタというのは過去です。それが臨終も死後も決めていく。

死ぬまでは損得でうろうろしていても、死後はナムアミダブツでお浄土に往けると思うのは大間違いです。交通事故のように思いがけない最期はいくらでもある。ですから、生きているうちにサトラなければなりません。

サトッタというのはワカッタという意味です。

人間は何のために生まれたのか、何故、生きているのかということが、はっきりしたということです。

私たち人間は、お金を儲けるために生きているのではありません。もし、そうであれば、どれぐらい儲けたらいいかという話になります。また、出世するために生きているのではありません。それでは、どのような仕事の、どのような立場になるといいのか。総理大臣になるといいということになれば、総理大臣の他はみな駄目だとなります。お金持ちがいいとなると、十億円以上は持っていないと駄目だとなる。それでは「十即十生」ではありません。総理大臣とか、十億円の財を持つのは例外中の例外です。そのようなことのために人間は生きているのではない。

『般若心経』の般若は智慧という意味のインド語ですが、私たちは智慧をサトルために生きているのです。般若はアミダさまの智慧といってもよい。これがワカルのは難しいようですが、一番楽です。

ナムアミダブツと、一度念仏しても、その味わいが一人ひとりなりに、本当にワカル。サトッタというと難しく思うでしょうが、ワカッタという意味です。迷う方がよっぽど骨が折れます。

今、皆さまが百万円もらうと、盗まれないように、落とさないようにと腹巻きの中に隠して、なんべんもお腹を押さえて確かめなければならない。落とすと大変だから、途中ではトイレにも行けません。家に帰ると、帰ったで数えなければなりませんから、ゆっくりと休めません。そのうち、あなた、法然寺さまの法会で百万円もらったそうだが、わしは今、借金で首が回らないから貸してくれと言われる。貸さないと、悪口を言われたりします。そうするとまたいいわけに歩かなければならない。そのうちに自動車にぶつかってけがをしたりと、余計なことにわずらわされる。百万円もらっても、一つも極楽ではない。

百万円もらえないと損かというとそうではありません。自分の持ち分だけの得がでるようになっています。損得ばかりをいうと、かえって他人さまから、あいつは欲張りだから気をつけろということになって、自分がもともと持っている得分の半分もなくなります。

百万円もらわなかったからといって死ぬわけではありません。私は百万円もらったことはありませんが、もらっても、もらえなくても、問題ではありません。さっぱりしています。目先のことでは損得はあります。一生を考えるというと、損得は本当にない。それが無です。

おシャカさまは、王さまになれるのに、29歳のとき、家族を捨てて王宮を出て乞食坊さんになられた。見かけは損というか、よろしくないが、80歳の最後まで一生涯、みんなと親しんで、サトリの生き甲斐をお伝えになられました。

それで喜んで信用する人が多くなり、おシャカさまがお亡くなりになられた後まで慕って、その法を伝えて、今日では、世界第一の宝になっている。

死ぬまでを考えると、損得はない。おシャカさまが第一にその手本を見せて下さいました。ですから損得を離れて生きるのです。

無は浄らかという意味です。ですから、浄土といっても、無といっても、表現は違いますが、中身は同じです。何故かというと、無とは有に対して言っているのではなく、有無の二つを超えたところを指している。それを「無二」といいます。

「無二智如来」という言葉があります。釈迦牟尼如来でも阿弥陀如来でも、二つの対立をなくする知慧です。

二つというのは有無です。厳密には能取と所取といいます。

能取、能く取るとは自分のことです。所取は相手のことです。

私が能取なら皆さまは所取です。皆さまが能取なら私は所取です。

皆さまが聴いてくださるように私は話をさせられるのですから、受け身です。自分勝手に話をすると、皆さまはおわかりになりません。話をするのですから、そこをとって考えれば、私は能く取る。皆さまは話を聴いてくださる方ですから受け身です。しかし、皆さまは能く聴いてくださる。私は皆さまがわかるように話をさせられるのですから私が受け身です。しかし、皆さまは能く聴いてくださる。私は皆さまがわかるように話をさせられるのですから私が受け身です。能取と所取とはぐるぐる回って、どこまでが能取、そこまでが所取と決められません。

能取と所取の二つを離れる。それを簡単にいうと、有る無いの二つを離れるのです。

有るのと無いのとどちらがいいかというと、お金だって、地位だって、無いよりは有る方がいい。しかし、有る無しの損得計算を離れていく。計算すると二つが対立します。百万円よりも一千万円の方がいい。そうすると、一千万円をみんなが取ろうとするからけんかになります。悪口も言われる、邪魔もされる。

そういうことをしていると、そちらに時間や手を取られますから、自分のできる仕事が半分になってしまいます。そして起こさなくてもいい事故を起こし、ならなくてもいい病気にもなる。損得を考えると、いつも十の仕事ができるところを半分もできません。一生を通して考えると大損です。

損得を離れると、十が十、仕事が実ってきます。無量といっても無二といっても同じです。それをサトリの智慧でワカッテいる。それが如来です。如はインド語で「そのごとし」という意味です。その通りに生きるのがいい。それしかない。

無二しか如はありません。それを自分勝手にやると、まごついて、お互いがもつれて、何重にも損の分け取りになってしまいます。

今日、ソ連とアメリカが仲良くすると、世界は何倍もプラスですよ。自民党と野党が仲良くしてくれると、日本にとって何倍もプラスです。工場では経営者と従業員が、大学では教授と学生が対立する。家に入れば、夫婦がけんかをやり出す。何重にも二つの対立がある。それを一刀両断で、今からすぐに精算できる。二つの対立から離れることができるのです。

「能取・所取を離る」のに、どうすればいいか。

ナムアミダブツを称えるだけでいい。なぜか。人間はいう言葉のような心持ちになるからです。

損だ得だと言っていると、心持ちが損得に丸め込まれる。いらいらして、腹を立てると体を壊します。一度腹を立てると体中の血が濁る。目が充血して、手足が震える。目が赤くなるのは体中の血が濁るからです。ですから、腹が立っても、ナムアミダブツを称えていると、気持ちも落ち着き、血も濁らずにすみます。

一度腹を立てると、一万円や二万円の損ではありません。それをわずかに、五百円千円で腹を立てる人がいます。それではサトッタ、本当にワカッタとはいえません。

一度、ナムアミダブツを称えただけでも、気持ちは浄らかになります。

一生を考えるとどれほどプラスかわかりません。欲を出してたくさんお金を儲けようと思うよりも、一度ナムアミダブツを称える方がよほどプラスです。

それを平等といいます。

強い者勝ちの競争で得なら、弱い人はたまりません。しかし、そうではない。

どんな弱い人でもナムアミダブツ、ナムアミダブツと称えられます。

 ナムアミダブツでお金もうけどころではないプラスが簡単に手にできる。

 それを平等といいます。

 私はナムアミダブツ一筋で五十年を生きてきました。私にはナムアミダブツしかない。それが『一枚起請文』の最後にはっきりと書かれています。

「念仏を信ぜん人は たとい一代の法を能々学すとも 一文不知の愚鈍の身になして 尼入道の無智の輩に同して 智者の振舞をせずして 唯一向に念仏すべし」と。

 お手洗いに行って出るものが出た時は百万円もらったよりもうれしい。出なければ大ごとです。尿が出ないと尿毒が回って死んでしまいます。だが、自分の力で出すわけにはいきません。

 心臓を自分の力で回すわけにはいきませんから、心臓が回ってくれているのは百万円もらうより有難いことです。百万円もらって心臓が止まるとおしまいです。

 わかりきったことですが、私は、それをサトッタのです。

 「唯一向に念仏すべし」が、はっきりしたのです。

 無量とは計算ができない、計算が及ばないという意味です。目が開いてものが見えるのは千万円もらうよりも有難い。手足が動くのもお金に換えがたいありがたさです。

 アミダさまのおかげづくめで生きられているのに、それを有難いと思わずに、他人よりお金を多くもうけたことをありがたいと思っているのはどうかしています。

 私たちは百万円どころではない喜びが重なり合って生かされている。

 この宝は心で喜ばなければ味わえない悦びです。

 五千円一万円の紙切れが手に入ったのを喜ぶ心だけなら、生きているうちに入らない。食事ができること、眠れることは、百万円どころの悦びではありません。

 眠れないなら、眠れないことがまた有り難い。私は夜中に目が覚めると、念仏を称えて本を読んでいます。眠れないおかげで念仏ができる。有り難い。

 私は眠っていても念仏の中に眠らせて頂ける味わいを喜びますが、また、目覚めて、ナムアミダブツと念仏するその味わいが有り難い。だから眠れないのも有り難い。

 では、何のために生きているのかということになれば、簡単にいえば、念仏を慶ぶためです。

 出世できない人は大勢います。出世して喜んでいる人は威張ろうと思う気持ちがあり、お金持ちになってうれしい人は、お金持ちになれない大勢の人に対して、うらやましがらせようという気持ちがある。威張る者がいるからうらやましがる者もいます。それがために腹を立ててけんかにもなり、世の中が混乱し、もつれます。生きていても生きているような気がしないほうへ、大勢の人が押しやられるのは、お金持ちが貧しい人をうらやましがらせたり、出世した人が威張ったりするからです。それに巻き添えになる人が多い。

 損得の計算から離れなければいけません。仮に、千人万人に一人の大金持ちになっても幸せではない。泥棒に入られないか、騙されて損しないかと、いろいろなことを考えると、決して幸せにはなれません。

 人間は計量から離れなければ、どうしても幸せにはなれない。

 一度、心臓が回るのも、一度、空気が吸えるのも、一億円や十億円どころで出来るのではありません。私どもは、そのおかげを天地大宇宙の命から受けている。天地宇宙の命が通って、私どもは生きられるおかげを味わえる。その天地大宇宙を生きる味わいがワカルと、これ以上の幸せはない。たとえ病気で寝ていても、死ぬ時も幸せです。

 第一それがワカルと、死ぬということがありません。

 それが「ただ一向に念仏すべし」の趣意です。

 「唯一向に念仏すべし」の裏返しに「智者の振舞をせずして」という一句があります。智者のふるまいをすると、自分は学問があるのだと、学問のない人を馬鹿にしたり、お金があるからと貧乏な人を見下げたり、出世できない人を軽蔑したりする。そうすると、あいつは偉そうにする奴だと値打ちが半分に下がる。しかも他人との対立が起こって、場合によっては、けがをさせられたり殺される可能性もある。自分でそういうもつれを招く必要はないではありませんか。

 それが智者のふるまいをせずということです。

 智者のふるまいをしないとは、簡単にいえば、自分の持ち分だけ力いっぱい働くということです。

 損得の計算ばかりをしていると、力いっぱい働けません。あいつは用心しろという評判が立つと、仕事が半分もできなくなる。

損得にとらわれていると、その時は得のようでも後で駄目になる。

一生涯を通してみなければ、損得はわからない。

智者のふるまいをしないことが、「ただ一向に念仏すべし」ということであり、ナムアミダブツ、ナムアミダブツと、念仏を悦ぶことになる。

 『一枚起請文』は、簡単にいえば、「ただ一向に念仏すべし」と後ろで絞めて、前では「もろこし我朝に もろもろの智者たちの沙汰し申さるる観念の念にもあらず 又学問をして念の心を悟りて申す念仏にもあらず」と言っておられます。そのようでなければ、サトレナイ人が多いからです。

 『一枚起請文』の最初に「もろこし我朝に もろもろの智者たちの沙汰し申さるる観念の念にもあらず」と言っています。

ですから、念にもあらずといえる智慧が、それから、観念の念という智慧もあります。

最後に、智者のふるまいをしないという智慧もあります。

 いろいろな智慧が平面ではなく、層を重ねている。しかもただ層を重ねているだけではない。だから、『一枚起請文』には、智慧の重層性が書かれていると言える。智慧という言葉は同じでも、その中にもいろいろな段階がある。そこを私は重層立体的という言葉を使います。

 金持ちと貧乏とを平面に並べると、金持ちの方がいい。病気と健康とでは、健康の方がいい。誰でも病気はつまらん、貧乏は情けない、悪口を言われると、しゃくにさわる。そうすると、結局、私どもは、つまらない、情けない、しゃくにさわるというような、掃溜めの中で生きていることになります。

 自分で自分の生活を汚して息の詰まるような結果を招くわけです。

 平面的な知恵で生きていると、弱気になって情けないと思ったりする。そうするとかえって病気が治りにくくなる。時間もかかり、お金も余計にかかり、人様にも迷惑を増やす。だから、どこから考えてもひどく困ります。貧乏で情けない、つまらないといったところで、お金が天から降ってくるわけではありません。

 人間がお金を貯めるために生きているなら、お金がなくて貧乏はつまらないと考えてもいいでしょう。しかし、そうではありません。

 貧乏にならなければわからないことをサトッテ、われわれの生活を豊かに掘り下げていかなければならない。そうするとそこに、それだけ生き甲斐が生まれる。

 病気になりたい人はいませんが、病気になれば、ならなければわからないことをサトルことができます。

 そうすると、病気の経験をもって人さまに親切ができる。病気の経験がない人は、気の毒ですねと言っているだけで、どれほど気の毒なのか理解できませんし、本当の意味で親切はできません。

 自分が病気をしてみると、あの時の養生のやり方は間違っていたとか、ああしたのはよかったと思う。それを病気の方に話すと、参考にもなる。自分も又、それでいろいろサトルことがあります。

 病気の治療に十万円の注射が必要というのに、そのお金がない。そんな時に、どうぞと誰かが十万円を差し出された。そうすると、元気な時に百万円もらった時以上にうれしいでしょう。

 それが心の底からワカルと、病気が治ってから、その人に十万円どころではない生き方の違いが現れます。

 自分の心掛けが深まって、他人に対して本当の親切もできます。

 そのように出会ってみなければわからないことが多い。

 仏は厳密にいえばサトッタ人ということですから、ワカッタと同じで、それを念じ、心掛けるのが、「唯一向に念仏すべし」という語句の意味です。

簡単にいえば、サトリを心掛ける、ひたすらに心掛けるということです。

 迷いは表面です。内面はサトリです。ひたすらにサトリを心掛けていく。

その心掛けにおいて、自然に、心から念仏をさせていただけるようになる。

ひとりでに口をついて出るようになるのでなければ役に立ちません。

インド仏教が千年間発達したその最後に如来像縁起という考えが出ました。おシャカさまは縁起をサトラレタということになっています。

千年の間にその縁起は、いろいろな説明が進んでいって、蔵の中を外からは中のものが見えないのと同じように、煩悩の真下に如来さまが隠れているのに気付かない。それを蔵といって、如来像縁起を説いたのです。

 如来像縁起を説く『成唯識論』ができました。それぐらい「識」は重要です。心といってもいい。われわれが普通に使う言葉では意識です。

インド語で識という言葉であるヴィジュニャーナのヴィは、別けるという意味です。自分さえ良ければ相手はどうでもいいと考えることです。

これはもうけんかしかありません。けんかをすると損の分け取りで、世の中は損が何重にももつれる。戦争を見てごらんなさい。どちらも大損です。

それを簡単に話すと、迷うといいますが、迷うのは心です。これは自分の心がけ次第で、どうにかできる。

 ジュニャーナ(智慧)に、「ヴィ」分けるという意味の語がついて「ヴィジュニャーナ」となると迷いという意味になります。自分の心の中で腹を立てると、病気は情けない、つまらん、癪にさわると自己分裂です。自分の中でけんかをやりだします。

これは自分ひとりの小さい単位から、家族、職場から世の中のすべて、国際関係に至るまで皆そうです。だから、分けるのはいけない。

 分けることが、そのまま、分けられない無二の智慧の上で悪さをしている。

病気になったらば、その病気を拝むような気持ちになるのが良い。

胃ガンだと言われて顔色を変えて腰を抜かす、腰を抜かさなければまだまだ生きられたのに、腰を抜かしたばっかりに半年で亡くなった方もおられる。

私が胃ガンだと言われたら、ナムアミダブツと称えて胃ガンを拝みたい。何故か。胃ガンだと言われてみて、はじめて、これまで七十年、八十年も胃ガンでなく暮らすことが出来たありがたさがワカルからです。

誰でもが健康はありがたいと言っているものの、本当のありがたみがワカル方はあまりおられんでしょう。

 火事の大変さは、火事に遭ってみて初めてわかります。戦争の愚かさは、戦争で負けてみて初めて、負けた国民は途方に暮れるものだと言うことがわかりました。それまでは何とも思っていなかったわけです。日本は戦争をたて続けにした。ところが最後に負けてみて、戦争は絶対にいけないと気がついた。それは負けた御蔭です。何事でも経験しなければわからない。

 人間は何のために生きているのでしょうか。ワカルため、サトルために生きています。仏教は、たくさんある宗教の一つと考える方がおられるが、違います。

出会わなければわからないことをワカッテ、サトッテいくのが仏教です。簡単に言えば、拝むなといわれても拝みたい気持ちになる、それが仏教です。

 ガンになってみて初めて、今まで六十年、七十年をガンでなく暮らせたありがたさが、心にしみて本当にワカル。それをわからせてくれたのがガンだからガンを拝めるようになります。拝めるような気持ちで、ガンとつき合うと、一年で亡くなるところを二年、五年、十年と生きられるようになるのでしょう。

 九州で私の話を聞いて、お念仏を悦ばれるようになったあるお寺の奥さまが、翌年その寺に行った時、ご本人が胃ガンになりましたと挨拶されました。この病状では、年内は難しいという状況でしたが、それから五年間、生きられた。

 その奥さまは胃ガンだと言われて、本当にもったいない、拝みたいような気持ちになられたから、五年生き長らえた。それをお医者さまは奇跡だと言われた。胃ガンがサトラせてくれたのですから、胃ガンが仏さまのようだといえるわけです。

 たとえ五年生きられなくてもいい。今まで胃ガンでなく暮らせたのがどんなにありがたいことだったかと、わからせてくれたおかげに手を合わせて喜ぶならば、その年に亡くなっても本望ではありませんか。

胃ガンになるならないは問題ではありません。

胃ガンになって、その人がサトレルかサトレナイかが問題です。

 胃ガンなどの病気にならずに百年生きても、迷って損だ得だといって世の中を混ぜくって、人の邪魔になるような生活なら何にもなりません。

サトルには、自他を「分ける」(ヴィ)という帽子を取る必要があるが、簡単には取れませんよ。簡単には取れなくとも、取る方向に心をつくす。そうするとプラジュニャーになる。プラとは前進を表す言葉です。前に向かって進むのです。

最後には、ジュニャーナ・アミダさまの智慧です。

 これがアミダさまの智慧だというところはありません。アミダさまに出会ったおかげで、ナムアミダブツ、ナムアミダブツとアミダさまの智慧を土台においた生活をはじめると、限りなく豊かに生活が実る。

 私は原子爆弾に出会いました。平面的に並べて考えると、原子爆弾に出会いたいという人はいません。

しかし、私は出会ったおかげで、出会わないとわからないことをサトリました。その点では、別の人間になったようなものです。

もし私が原子爆弾に出会わなければ、今の値打ちの半分もない人間です。ジュニャーナといっても、人間は何に出会うかで、さらにサトリが深まっていきます。

『般若心経』は「空」を説いていますが、半ばを過ぎると、「無智亦無得」といって、「無智」を説きはじめます。

般若とは智慧の意味です。そのお経が無智を説く。それはどういうことか。無智はインド語で「ナジュニャーナ」です。ナは、アミダさまのア、「無い」と同じ意味です。

智慧が無い「無智」とはどういうことか。出会いがなければわからないことをサトッテいくのですから、今、サトッテいる智慧で、これが全部だということはありません。無尽蔵に掘り下げていく。

ヴィジュニャーナからプラジュニャーに向かって進む。進んで智慧が得られるほど無智です。智慧はこれだけと決まってはいません。

皆さまがうれしい時にお月様を眺めるのと、お年を召して先の短い方がお月さまを拝むのとでは違う感じではありませんか。拝む人によって、また自分ひとりでも感じ方が違います。

 お月さまの直径は何メートルあるとか、重量が何キロあるかというようなことにいくら詳しくなってみたところで、心が迷っている方が眺めるお月さまと、お念仏を悦べる方が眺めるお月さまとは違う。そのワカリの深さは、科学ではどうにも説明できません。

 ヴィジュニャーナのヴィ、分けるという、自分さえ良ければ他人はどうでもかまわないという、その分ける帽子さえ取ればいい。

それさえ取れば、アミダさまの智慧がその真下で待っていてくださる。

 私どもは、貧乏でも金持ちでも、学問があってもなくても、老人でも青年でも、男子でも女子でも、みな天地大宇宙の命のおかげがなければ生きられない。心臓一つ、ひと回りしません。手足が勝手に動くのではありません。空気も吸えるようになっている。すべてが大宇宙のはたらきのおかげです。そのおかげを受けて生きている。

 ジュニャーナとは天地大宇宙の命の智慧です。

これを、花にサトレ、鳥にサトレというのは無理ですが、人間が花や鳥と違うところは、おかげをサトレルことです。

それをサトレタ人が、仏教の仏という意味です。

 自分さえよければいい、相手はどうでもいいと分けていると、人間と他の動物とは変わりません。戦後の日本は経済の面で繁栄したが、西洋人から日本人は経済的動物、エコノミックアニマルだと言われた。確かにそういう方面はあったでしょう。それは侮辱されても仕方ありません。

 エコノミックアニマルという計算の帽子さえ脱げばいい。そうすると、損をするのではなく、かえって得になります。

脱ぐと、元々は天地大宇宙の命のおかげで生かされているのですから、そのめぐみそのままに、自分なりに、おかげで生かされている命の味わいがサトレてくる。

 ナムアミダブツのアミダは無量と漢訳されたが、(天地大宇宙の命のおかげは)計算ができないという意味です。計算するのは自他を分けることです。その帽子を取るのがナムアミダブツのナムです。

それで、一切衆生は悉く仏性を持っているということになる。

 何方もみな仏さまの性質を持っています。みな悉く仏さまです。

人殺しをしたから仏さまじゃないというのではありませんよ。泥棒したから仏さまではないということもありません。貧乏していても、病気になっても、仏さまです。

貧乏して情けないという帽子を被るから情けなくなる。その帽子は自分が勝手に被っているのだから、いつでも脱ぐことができます。

 ナムアミダブツと称えると、損得計算から離れていくことができる。

そうすると、その真下に隠れているのは、如来さましかないということになります。

それが、般若の智慧・プラジュニャーです。

 『般若心経』を暗記して唱えたところで、ただ唱えているだけならば、何にもなりません。

如来さまは、われわれの損得計算の帽子の真下に隠れておられる。

なかなか簡単にはいかないが、その帽子を脱ぎさえすれば常に前進できます。

絶え間なく、ナムアミダブツ、ナムアミダブツといつも称えていると、人は使う言葉のような心持ちになる。

 コンチクショーと言えば畜生のような心持ちになる。今まで親切で思いやりのあった方でも、コンチクショーと一度言うと、相手をもそのような心持ちにさせて、仲間同士で畜生のようにつかみ合いの争いまで起こします。

そこをナムアミダブツ、ナムアミダブツで、自他共に栄えの方向をたどる、そういう心を充実させていく。それがプラジュニャーです。

 ナムアミダブツと称えるのは、荒海を行く船の櫓を漕いでいるようなものです。

漕いでいるというと、自分の力がありそうですが、そうではありません。

もともとは如来さましかおられない。

ただ、勝手に自他、主観と客観を分けて考える。そういうことから起こる損得の迷いで、こころに蓋をして如来さまを見失っている。

 その迷いの上に悪さをしだす。百万円より一千万円はもっといいと、子どもが考えてもわかるような悪さをして暮らしている。そうしていると、あいつは気を付けろという評判が立つと、見かけはよくても信用を失うから、一生涯を考えると得ではありません。

それがワカルと、プラジュニャーからジュニャーナに必ず進みます。

 これまでサトレタよりも、まだサトレテイナイほうがはるかに広い。そこを無智、

ナジュニャーナと言います。それで私は智慧の重層性というのです。

 智慧は大きな構造ですから、日常生活の面では、プラジュニャーの方面へ足が進んで、損得の方は相当離れられたが、小児麻痺のつらさは忘れられませんと、自他を分けるところから離れられないこともあります。

 ワカリの進む程度がそれぞれ別々であって、しかも、それらがつながり合っている。私は、それを智慧の重層立体性と言っている。

私は、『般若心経』についての内外の大事な論書はみな読んでいますが、これまで何方も、そのように般若に迫った方はおられない。

たいていは、上っ面に触れておられるだけです。それは、その方の理解のありようです。『般若心経』の般若は、そういう程度ではありません。

 アミダさまの智慧といっても、ナムアミダブツといっても同じです。

『般若心経』と一つも違いません。『般若心経』を一口でいえばナムアミダブツということになります。

 計算ができない広く深い智慧といいますか、天地大宇宙の命の恵みといいますか、そういう智慧の構造を『般若心経』の角度から切っていく。或いは『華厳経』や『法華経』また『無量寿経』の角度から切っていくこともできます。

智慧の重層立体性がどれほど深いものか、それは西洋の科学では、とうてい達することができない深みだと申し上げたい。

 アミダさまの深い大きな命をどの方面から切っていくか。切り方や切る角度はいろいろあります。どこから切っても、それらがつながり合って、ナムアミダブツに収まる。だから、重層立体性と私は申し上げるのです。

 法然上人が『一枚起請文』で「智者のふるまいをせずして」と申されました。智者のふるまいをすると、Aの角度から切ると、それで終わったような気がします。また、Bしか知らない人はそれが全てのような気がします。また、Cを知っている人はCだけを見ます。Dで考えている人はDだけを後生大事にします。それでは結局、アミダさまの無量の一方面しかわかりません。

 法然上人はアミダさまを「万徳」と申されました。

アミダさまは、寺の本堂の御本尊さまや御絵像に描かれている御姿だと申されたのではありません。万徳とはありとあらゆるはたらきという意味です。

 先ほど申し上げた智慧の重層立体的な構造からいえば、Aからも見られるが、Bからも、Cからも見てもいい。Dからも見られる。自分の見ただけが全てだと考えてはいけません、ということです。

たいていの方は、ある方向からの話を聞いて、それで納得して、その考えで決められるように思っておられるが違います。無量ですから決められない。

 私たちが一度空気を吸えるおかげ、水が飲めるおかげは、どれくらいありがたく思うといいかと考えても、計算を飛び越えていてわからない。空気を吸って水を飲んだだけでは生きられはしません。心臓が回らなければ、肝臓も腎臓も身体中がみなはたらかなければなりません。だから万徳というのです。

 アミダさまの智慧のおかげは、言葉で表せるだけではなく、言葉ではつかめない方面に、前からも後ろからも、上からも下からも、生かされる命のおかげのつながりが、どこまで深く広く自分の生きられるおかげになっているかわからない。

 私がこうしてお話しをさせていただくおかげも、また私が悦ぶおかげも、どこまでつながっているのかわかりません。

法然上人は、われわれの計算をとび超えている天地大宇宙の命のおかげを一言で万徳と申されたのです。

『般若心経』も大事だけれども、『華厳経』も『法華経』も『無量寿経』も大切です。それらの後、インド仏教の深まりの終わり頃に書かれた『観無量寿経』にナムアミダブツが初めて出た。

それは、インド仏教千年間の発展を一語にまとめたともいえます。

誰でも、いつでも、死の臨終の時でも、ナムアミダブツと称えられます。

その一語にインド仏教一千年の全てが入っている。

 アミタとは計算ができない、われわれの知恵ではつかまえられないというインド語です。今日でもインドの人たちは世界一の高い山、ヒマラヤを望むと、天地大宇宙の命そのものを前にした気持ちになって、「アミダ!」と感嘆の声を上げるといいます。

 私どもが生きられている天地大宇宙の命につながりやすい言葉になるように、「アミタ」に帽子を被せて「ナム」、靴を履かせて「ブツ」としたのであって、ことさらに帽子は被らなくてもいい、靴を履かなくてもいい。

私に帽子を被せても、靴を履かせても、私は私であって、別段に他のものになるのではありません。

アミタが根本、中心です。

 私どもが命の根源である天地大宇宙の命につながっている、その深さ浄らかさを味わえるならば、人間はどんなに貧乏でも病気でも、一番幸せな身の上になります。

 大海原を眺めても気持ちいいではありませんか。温泉につかっても気持ちいい。

天地大宇宙の命を味わってサトレル。そのような深く大きな心持ちになれると、うれしく気持ちよくないわけがありません。

大宇宙の命を直に呼吸して味わえる浄らかな大きさ、私どもがお金や地位・名誉で味わえない命の尊い浄らかさを、私たちの生き甲斐の中に実らせていく中身は、幸せを決める最高のキーポイントだと思います。

 すべてのお経に書いてあることは、結局、ナムアミダブツにつながる。その線を離れてサトルという仏教の意味があるはずはない。生きている、そのことが平等です。

 どんなお金持ちでも、貧しい人の倍の空気を吸うことはできません。どんな美人でも、美人だから長生きするというわけにはいきません。われわれの子どもが元気にしているのに、天皇さまの奥方でもお子さまを亡くしておられます。

仏教で解放していく心の宝は、命の平等以外にはない。

その平等の命へ深く入っていってサトル、それ以外にサトルことがあるなら不思議です。不思議です。あるはずがありません。

 今日からでもすぐに、ナムアミダブツでサトレます。サトレると、日本一のお金持ちになったよりも幸せになります。

私はその幸せをよろこんで、もう五十年になります。

そういう命の幸せを味わい、それをよろこぶのが極楽浄土です。

その道を歩き始める。そうなると、生きていても間違いないですが、死んでも間違いありません。

今から、もうお浄土のくらしです。                (終)