碧南市浄土宗鎮西派展

令和3年11月13日~12月9日 於碧南市文化会館

第一章 市域の浄土宗寺院の成立(常行院・清浄院)

愛知県碧南市域で早くに浄土宗寺院として成立したのは、岡崎市の大樹寺の末寺である、大浜の常行院と清浄院です。中世末期に三河地方で浄土宗の基盤を整えたのが、関東から進出した鎮西派白幡流の僧です。はじめは存冏(ぞんげい)上人が松平信光(のぶみつ)公の帰依を得て、岡崎の信光明寺を開き、次いで勢誉愚底(せいよぐてい)上人が松平親忠(ちかただ)公の帰依を得て大樹寺を開きました。大樹寺は松平一門の帰依を得ることで隆盛し京都へ進出していきました。

〇 常行院 永和2年(1376)に開創し、後に浄土宗に改宗したとみられます。「三河国浄土宗寺院由緒書」によると、天文17年(1548)に松平広忠公が隣誉(りんよ)上人(大樹寺10世)を開山として建立しました。本尊や日限地蔵、聖徳太子像が知られます。

〇 清浄院 昔平七(へいしち)にあり真言宗でしたが、現在地に移り浄土宗になったと伝わります。開基雪山。「由緒書」によると、松平長親公に仕えた安城の堀平右衛門重政が嘉禄元年(1528)に覚誉是頓上人を開山として建立しました。

第二章 市域の浄土宗寺院の展開(遍照院・貞照院)

江戸時代に入り、市域の浄土宗寺院として鷲塚の遍照院、中山の貞照院が開創します。両寺にはそれぞれ江戸や京都との文化的交流が伺えます。こうし寺院として鷲塚の遍照院、中山の貞照院が開創します。両寺にはそれぞれ江戸や京都との文化的交流が伺えます。た時代状況にあり大樹寺や松平一門の影響のもと、大浜に浄土宗寺院が成立することになりました。

〇 遍照院 寺伝では全身の天台宗和国寺を廃寺移転し寛永2年(1625)に開創といいます。山号道智山。「由緒書」では道智菩提の為延宝8年(1680)に岡崎随念寺詮誉上人の弟子遍誉上人を開山として建立されたとあります。江戸伝通院末寺。

〇 貞照院 伏見屋新田を開いた三宅又兵衛の手代が発心、出家して名を休心と改め、元禄6年(1693)当地に常念仏道場を結んだことに始まります。忍澂(にんちょう)上人を請い迎えようとするも固辞された為、その師である萬無(まんむ)上人を開山、忍澂上人を二世中興としました。京都法然院末寺。享保7年(1722)徳巌(とくがん)和尚を奉律の祖として迎えます。十世穏冏(おんげい)和尚が本堂を再建するなど寺観を整えます。律院(戒律を遵守する寺院)として多くの僧侶を養育しました。

第三章 近代以降の寺院と高僧 (山崎弁栄・大島徹水・石橋誡道)

〇 法城寺と山崎弁栄 醸造業を営む素封家石川市郎氏が私財を投じ自宅に説教所を設け、貞照院の廃寺となる所であった末寺の寺号のみを継承し、明治32年(1899)に尼僧修行道場として法城寺と改称しました。光明主義を主唱した山崎弁栄(1859~1920)に開山を勧請したところ快諾され、その指導を仰ぐようになりました。

〇 徳成寺 五重相伝を受けた角谷徳成が娘の真成尼をよび、自宅を寺にしました。

〇大島徹水(1871~1945)貞照院住職戒憧(かいどう)上人を師として剃髪、出家。家政高等女学校(現・京都文教学園)校長、増上寺第81世として宗門の興隆に身を挺しました。

〇石橋誡道(1878~1965) 伏見屋村生まれ。貞照院住職大信(だいしん)上人に師事。仏教専門学校(現・佛教大学)校長、清浄華院76世として教化活動に邁進しました。


【  参照  】


市内鹿ケ谷浄土宗専門学院中

石橋誡道様

五条坂袋中庵にて 山﨑弁栄

(消印)明治39年5月20日




    欽啓   一別已来  已に五月、此頃  行いかが御座候哉。愚衲  昨日より当庵に来り候。21・22両日いとまあり。御志あらば 御はなしに御出あらんことを。また御邪魔に出てはいかが  御一報を乞う。 

元祖大師の御詠        あみだ仏とこころを西にうつせみの もぬけはてたる声ぞすずしき 

 一心に念仏して  心々弥陀に相応し  念々如来と融合し、身は蝉のぬけがらの如くになりてこそ、念仏三昧というならめ。須らく宗祖を学び  大師を習うべし。