岡潔先生

明治34年(1901)4月19日 ~昭和53年( 1978)3月1日

「弁栄上人伝」「無辺光と人類」

日本に明治の少し前に、山崎弁栄という方がお生まれになった。 私たち、弁栄上人を知るほどの人みなには釈尊の再来としか思えない。 私たちは何をおいてもこの人を知らなければならない 。

『弁栄上人伝』 岡潔先生

 釈尊は仏道という、人が仏になる道のあることをお示し下さった。これが人類の持っている諸々(もろもろ)の向上の道のうち最上のものである。

しかし時代も古く場所もインドだから、釈尊についてはよくわからない。それが心細い。

しかるに日本に明治の少し前に、山崎弁栄(べんねい)という方がお生まれになった。

私たち、上人を知るほどの人みなには釈尊の再来としか思えない。時代がごく新いから御伝記もよくわかっておれば、御著述も数多く残っている。

私たちは何を措(お)いてもこの人を知らなければならない。御伝記については田中木叉先生の御苦心と御麗筆とになる『日本の光』がある。それから拾って、弁栄上人の輪郭(りんかく)を描いてみよう。

    宗教家としての御成長の曲線

私は典型的な日本人とはどのような人をいうのだろうと思って、十数年かかって道元禅師を詳しく調べたことがある。宗教家はいわばまる裸だから、よくわかるのである。

ところで、ここにもう一つよく知りたい問題がある。人の一生を向上の道を歩むと見たとき、その節々はいくつといくつぐらいの所にあるのだろう。これを弁栄上人によって見ようというのである。上人は二月二十日にお生まれになったから、早生まれとして、すべてを数え年でいう。なお上人は明治元年に十歳である。

上人は十一歳少し前から聖賢の道にあこがれた。そのころ詠(よ)まれたお歌に、

 いにしへのかしこき人のあとぞかし ふみ見てゆかん経(ふみ)の道芝

そのあこがれが仏道一本にしぼられたのは、十二歳のとき特異なできごとがあったからである。上人はこういっておられる。

「幼時十二歳、家に在りし時、杉林の繁れる前に在りて、西の天霽(は)れわたり、空中に、想像にはあれども、三尊の尊容儼臨(げんりん)し給うことを想見して何となく其の霊容に憧憬(どうけい)して、自ら願ずらく、我今想見せし聖容を霊的実現として瞻仰(せんごう)し奉らんと欲して、欣募(ごんぼ)措(お)く能(あた)わざりき」

想像で見るのを想見というのである。想見とは大脳前頭葉の第六識、意識の膜に映して見ることをいう。これを思惟(しゆい)ともいう。これに対して正しい見仏を正受(しょうじゅ)という。じかに心霊界(大宇宙は自然、心霊の二面からなっている) に在るを見るのである。法眼、仏眼でないと見えない。想見は小さい子がよくするようである。

私は人は小学四年を終えれば人としての中核はできると思っている。小学四年は早生まれならば数え年十歳である。それで十一、二歳が向上の芽生(めば)え、あこがれのきまるころだと思っている。坂本繁二郎画伯は十一歳で洋画を描き始めている。私の場合はどうであったかといえば、いろいろあるが、一番著しいものをいうと、蝶類の採集に凝って、アオスジアゲハやオオムラサキを徹底的に追い回している。これは私に「発見の鋭い喜び」を教えた。この言葉は寺田寅彦先生による。それで人生第一の節は、a十一、二歳となる。

弁栄上人は十五歳のときから僧になりたいなあと思われた。

私は(私は四月生まれ)十六歳のとき、数学の神秘性に強く打たれた。私は十五、六という年ごろを「真夏の夜の夢の年ごろ」と名づけている。なんでもそのときに見たものに心を引かれて、得てして生涯の方向を決めてしまうからである。それで人生の第二節は、b十五、六歳となった。

上人は二十一歳で出家して浄土宗にはいられた。

二十一歳といえば私が京都大学の物理学科にはいった年である。工科を捨てて理科へいったのである。新学制でいえばだいたい大学三年目を終わったころであるが、このころ大学院へはいるならばはいる、世に出るならば出ると、進む道を決めているのだろうか。ともかく上人を基準にとると人生第三の節は、c二十一歳となる。

主題を離れて、浄土宗に入門してからの、上人の御精進のありさまを、御自筆によって見よう。

「愚衲(ぐのう)昔二十三歳許(ばか)りの時に一(もっ)ぱら念仏三昧を修しぬ。身は忙(せわ)しくなく事に従うも意(こころ)は暫(しばら)くも弥陀(みだ)を捨てず。道歩めども道あるを覚えず。路傍に人あれども人あるを知らず。三千界中唯心眼(しんげん)の前に仏あるのみ」

「或(ある)時は五大皆空唯有識大の境界現前し、ただ下駄(げた)の音のみしている外見聞の境を覚知しなくなったこともあり」あるときは「一旦蕩然(いったんとうねん)として曠廓(けかく)極まりなきを覚え、其の時に弥陀の霊相を感じ慈悲の眸(まなこ)丹華(たんか)の唇(くちびる)等その霊容を想うとき、神心融液にして不可思議なるを感ず」

肉眼の外に、その上に天、慧、法、仏の諸眼がある。肉眼天眼の二眼は自然界を見、その上の三眼は心霊界を見る。上人の場合は初めが慧眼、あとのが法眼である。このころはまだ仏眼は開けておられなかった。

上人は二十四歳のとき筑波山に入山して修行され、仏眼了々と開いて見仏された。田中先生はそのときのありさまをこう想像して居られる。

  阿弥陀無量光王尊

身色金山王(しんじきこんせんおう)のごと相好円満したまいて六十万億河沙(がしゃ)由旬(ゆじゅん)

有無を離れし中道に慧光大悲と輝けり 塵々法界照り合いて功徳荘厳きわもなし

出家されてから四年足らずである。法然上人の場合は、法を選択されてから数えて、二十年以上かかっている。実に速いのである。

ところで大小は非常に違うが、理科に志してから数学上の最初の発見をするまでどれぐらいかかっているかといえば六年であるが、これは私が睡眠剤の中毒で二年ほど全くなにもしなかったためで、それを引けば四年となってだいたい合う。ともかく弁栄上人を規準とする第四の節は、d二十四歳である。

第五の節であるが、弁栄上人は三十歳から全国を巡錫して人々を済度されている。私の場合はどうか。やはり三十歳のとき生涯取り組むべき数学の問題をきめている。それで、e三十歳。

第六の節は弁栄上人の四十二歳である。上人はこの年、棺桶にはいって三十日間、中夜を分かたずお念仏せられた。そのありさまを田中先生はこう想像していられる。

「外から見た所は小さな窮屈な箱の中で寒さに慓(ふる)えているように見えたかも知れぬが、寒熱等は感じもない。念仏三昧の心の空が霽(は)れて来れば、一本の生糸を千筋にさいて其の目にもとまらぬ細い軟(やわ)らかい快さで、ふわりと包まれたような内から発する体感も通り過ぎ、身体のあることさえ感ぜず、このうっとりとなるような大喜妙悦の内感も安祥として通り越し、うつし世には無き妙音妙香の心を楽しましむる勝境も通り越して、例えようのない快ささえ今は覚えなき心の空は、万里雲なき万里の天に、満天是れ月の光明界となることもあり、或は尽十方は無礙光如来の光明織りなす微妙荘厳現前することもあり、或は無相或は有相、自受用法楽の言語に絶し思慮の及ばぬ勝境現前、彼此の対立全く無き神人融合の中に如来の徳と智を啓き与えられて、時空を超絶してすごされた三十日別時三昧に、心光いかばかりかその輝きを増されたことであったろう」

弁栄上人は後に、浄土宗から出て別に一宗を開き「光明主義」と名づけられたのであるが、その構想はこのときにできたらしい。

四十二歳といえば厄年であるが、寺田先生は、その人が大成するもしないも、厄年前後でその人の曲線が上向きになるか下向きになるかで決まる、といっておられる。まことに小さなことであるが、私が後に学士院賞をもらった論文を書いたのも四十二歳のときである。それで第六の節は、f四十二歳である。ちなみに弁栄上人は六十二歳で亡くなっておられる。

かように人生の節々は、弁栄上人を規準にとれば、a十二歳、b十五歳、c二十一歳、d二十四歳、e三十歳、f四十二歳となる。だいたいこれが人生の節々だと思ってよいだろう。

    奇蹟

弁栄上人は数々の奇蹟をおこなっておられて、その御伝記は宗教家に奇蹟を望む人の心を満喫せしめる。少しご紹介しよう。

筑波山に籠(こも)って窟(あなぐら)で念仏しておられると、蛇(へび)がひざの上に悠々(ゆうゆう)とはい上がるので、袖(そで)であやしておやりになった。猿がきて一緒に遊ぶこともあった。

渡辺信孝という人が弁栄上人のお伴をしていた。大垣の閉め切ったお部屋でのことであるが、いまに人が来るからと、いろいろおいいつけになった。その人がどうして知れますかと尋ねると、「いま向こうの松原の松陰に馬が通っている。その後ろに尋ねて来る人が歩いている」 ところが、ここからはもちろん松原さえ見えない。ところがしばらくすると、いわれたとおりの人が尋ねてきた。

これは大円鏡智といって、過去、現在、未来、遠近、いながらにして見えるのである。

渡辺さんが浅草のある寺にお伴したときのことである。上人は平生本を読むことは少しも勧められなかった。一心に念仏せよの一点張りであった。ところがその人は法華経講義の新聞広告を見て、よさそうだから読みたいなあと思った。しかしお金はなし、いえばお喜びにならないに決まっているし、すると、上人「拙堂、法華経は読みたいか」そして驚いているその人にお金を下さった。

ところが本屋は割り引きしてくれて、その人の手に六十銭残った。それで、これは割り引きしてもらったのだから自分が勝手に使ってもよいと勝手な理屈をつけて、鰻飯と焼き鳥とを食べた。そして帰って塩水でうがいし、次の部屋からただいま帰りましたといった。すると、上人「鰻飯はうまいか」その人どぎまぎして「もう一年も食べませんから」上人「いや、きょうのは一杯では足るまい。焼き鳥はうまかったか」

これも大円鏡智である。

キリスト教牧師宮川氏が弁栄上人をお訪ねした。上人と極楽往生につき問答のあと、だし抜けに、上人「あなたのほうは信者はどれぐらいありますか」宮川「私は宗教は初めてで」上人「宗教家はうそをいってはいけません」これは妙観察智といって心がわかるのである。宮川氏は光明主義の信者になった。

新潟県柏崎の極楽寺の住職の奥さんが、お念仏がうまくいかないというので、思いつめて自殺しようとした。そのとき弁栄上人は群馬県高崎にいて、その間三十里(百二十キロ)隔たっていたのであるが、これを知ると妙観察智で身を二つに分かって、一人の上人は柏崎のちょうど寝ていた奥さんの枕元に立った。そして「仏思いの光明を胸に仏を種とせよ」と七遍いった。後にこの奥さんは仏眼を開いた。

大谷上人が弁栄上人のお伴をしていると、夜弁栄上人のお部屋から「大谷、大谷」と声がかかった。障子を開けて見ると、そこには金色の仏が端坐しておられた。これも妙観察智である。翌日、弁栄上人は大谷上人に堅く口止めされた。

私はこれらの話をすべて信じている。

    一点の私心なし

御伝記で全く頭が下がるのは弁栄上人に一点の私心のないことである。これが人かとさえ思う。

しかし簡潔に書こうとすると、ここが一番書きにくい。まあ、適当に御伝記から拾って、できるだけ彷彿(ほうふつ)させてみよう。しかしこれについては、御伝記を通読してもらわなければとうてい十分ではない。

    庭の夏草

弁栄上人は筑波山で御見仏なさって下山の途次、懇意な家に立ち寄られた。見るとすっかり汚(よご)れた肌着(はだぎ)にシラミがうようよしている。それでその家の人が熱い湯をかけようとすると、上人「そのまま裏口に干しておいて下されば、シラミはてんでに好きなほうにいってしまいます」

その後埼玉県の千葉県境の小さなお寺に籠って、足かけ三年、一切経七千三百三十四巻を読破された。その途中のことである。芝増上寺の行誡和上(時の浄土宗東部管長)はこの青年僧の日常を聞いて、東から名僧が出るとよくいっておられたのだが、使者をその寺に遣(つか)わして自分に会えといわれた。使者はまだ若い僧であったから、きっと上人は非常に喜ぶだろうと思っていたのに、「ただいまお釈迦様に拝謁(はいえつ)中であるから」といって断わった。そのときのお歌に、

 我庵の庭の夏草茂れかし 訪い来る人の道わかぬまで

弁栄上人の恩師は大康上人といって、東漸寺という千葉県の埼玉県境のお寺の住職であったが、弁栄上人の一切経読破の途中で亡くなった。そうすると、管長が会いたいというのをさえ断った上人は、すぐ東漸寺に帰って百日の別時念仏をつとめられた。

    白米のとぎ汁

その一切経を足かけ三年かかってついに読み上げた。それでしばらく東漸寺におられた。ところで大康上人はかねて千葉県小金ヶ原の説教所を一寺にしたいと願っておられたのだが、果たさずして亡くなった。ところがそのうちに田地が水害を受けて不作続きで、東漸寺の収入が減ったため、とうてい小金ヶ原の説教所へ送る飯料としての毎月一斗(十五キロ)の米が出せず、取り潰(つぶ)すのがよいという声が高かった。それを聞いた弁栄上人は亡師に報恩するよい機がきたと喜んで、東漸寺の後援はいらないから自分を説教所へやらせてくれ、といって単身小金ヶ原へ乗り込んだ。この村は、家といっては百戸ばかりが原の遠(お)ち近(こ)ちに散在しているだけである。目的は一寺建立であるが、その前に教化しなければならぬ。このころの御日常を詳しく話そう。

飯米がない。村人から甘藷(かんしょ)や麦をもらってどうにか食いつないでいるのだが、ときとして三日も食べるもののなかったこともある。「さぞお困りでしたでしょう」というと、上人「ときどき断食してみると、身も軽くなり、よい気持ちです」

季節の衣服がない。襦袢(じゅばん)に裙(くん)(袴(はかま)のようなもの)をあてている。それを見るに見かねて単衣(ひとえ)物を供養した人があった。上人「お陰で信者の家にお経を読みに行かれます」

冬の火鉢(ひばち)もふとんもない。朝早く訪ねた人が上人の顔を見ると藁(わら)きれがついている。おかしくなって注意すると、上人「このごろは寒さが強いから藁をかむって寝ます」

よい下駄を供養をしようとすると、上人「坊主によいものはいりませぬ」

上人が土鍋(どなべ)で白い汁を煮ている。信徒が何ですかと尋ねると、上人「これは白米のとぎ汁です。米のほうは来客に出してしまったので、きょうはそのとぎ汁を飲んでいます」

油がない。線香の火のあかりで仏画を描いておられる。村人「見えますか」上人「暗く見えます」

小さな農家の前で子どもがむずかって泣いているのを見て、遠くから菓子を買って来て与え、橋銭がなくてお困りになった。

そのころどうしておられたかというと、たまに人がきても挨拶(あいさつ)よりも称名(なむあみだぶつということ)で、世間話など全くしない。話をしながら手を遊ばせず、米粒に名号を書いたり仏画を描いたり、書を書いたりしておられる。村人たちに与えるためである。書物は東漸寺から持参して読まれた。漢籍であろう。後年は西洋のもの、特に学術書をよく読まれた。夜は三時間ぐらい熟睡なさるだけで、あとは夜もすがら念仏三昧であった。

こういう月日が積もって近村の人たちはすっかり心服し、一か寺建立の計画を進めた。それで上人は、近くのあちこちに巡行して建立の資金を集めることになった。

しかし上人はこの勧募の事業を、人々を阿弥陀仏に結縁させるための助業と考えておられたから、寄付はなるべく大勢の人から集めようと、一厘講と名づけて厘単位にせられた。

近村に一人の信徒がいて、建立の寄付を白米でした。五升(七・五キロ)である。ところがそれを持ってお帰りになると、たまたま隣村の困っている家の話を聞かれた。主人が生活が苦しいあまり少しの罪を犯して、そのため投獄され、一家は明日の日にも困っているというのである。上人はその足で隣村へ行って、すっかり施してしまわれた。

そんなふうに、寄付金を貧困者に施してしまわれることもしばしばあった。

これが弁栄上人が全国行脚(あんぎゃ)に出られるまでの御生活である。

    地獄極楽があるなら証拠を見せよ

全国行脚時代にはいると、お暮しはもはやそれほど苦しくなるなるが、そのかわり人々を済度する仕事が実に忙しく、上人は東西に巡行して寧日(ねいじつ)なきありさまになるのである。こういう日々が亡くなられるまで続く。これがこの時代の弁栄上人の無私の本体であるが、短く書きようがないから他のことを書く。

初めは近県を回られた。道に蟻(あり)がいるとよけて通られる。蟻にいたずらしている子どもたちを見ると、まる味のあるやさしい声で、上人「蟻を殺すと蟻さんの子や兄弟が泣きますよ」

刺した蚊(か)を潰すものを見ると、上人「そうしてたたくと蚊の針の先がからだに残って毒になります。そっと追うと針を抜いて去ります」 お歌に

 やみの夜に泣ける蚊の声悲しけれ 血をわけにけるえにし思えば

若草の萌えている道を、まだ遠くてよく見えないはずだのによく知っておられて、どんなに遠くなっても回り道して、決して踏まれなかった。

真言宗管長高須大亮僧正は、当時、浄土門主行誡和上がすでに亡くなっておられたので、野沢、茅野両師に向かって、「浄土宗は見事に文明式にやっているが、惜しむらくは人物を逸して野に放っている。弁栄というずばぬけた若い僧がいる」と注意した。それで両師は上人を起用しようとして、上人に資格をつけるため、教師補という浄土宗の一つの僧階を与えるため履歴書を出すようにすすめた。しかし上人はそれをどうしてもきかなかった。当時のお歌に、

 我はこれ仏弟子なればゆるせかし 世渡る師補をいとう身なれば

信者のきれいな娘さんが、上人にかしずきたいと願って露骨にふるまい世評に上った。上人は平然として近づけもせず遠ざけもせられなかった。そうすると、そのうちに娘さんはおのずから教化せられて身のふるまいを恥じるようになった。

私心のない話からはそれるが、御説法のありさまを一度述べておこう。

岐阜県に豪農があった。そこの若主人が非常な酒のみで、酔うと大勢の使用人を手荒く扱った。村人は、さしもの旧家も若主人の代限りだろうとうわさしあった。

その家に浄土宗のきつけの僧がきて説教していた。若主人は、したたか酒をあおってその席へ出て、地獄極楽があるなら証拠を示せと詰めよった。その僧は答えられない。このうそつき、すぐ出て行け。出て行かなければなぐりつけるぞといって、本当になぐりそうにした。僧はほうほうの体(てい)で逃げ去った。そのころ弁栄上人がその家で人を集めて御説法なさった。若主人はあわよくばなぐりつけてやろうと思って、またしたたか酒をあおって足音も荒荒しく御説法の席へ出て、地獄極楽があるなら証拠を見せろと上人に詰め寄った。上人は静かに紙に丸をかいて、一心十界を訥々諄々(とつとつじゅんじゅん)と説明された。

するとそのうちに若主人の様子がやわらいでいって、ついに、如来さまを立ち礼拝しなさいというとそのとおりにした。上人は十分ほどそうしていなさいといって他の室へ去られた。若主人は上人を心待ちにしながら立ち礼拝を続けたが、上人は帰って下さらない。とうとう腰が抜けそうになった。そのころになってやっと上人は帰ってこられた。お上人おそかったですねというと、上人、「よいものはながいほどよろしい」

若主人はその後お念仏をよくするようになった。そうすると酒癖も直り、人柄も和(なご)やかになった。

この御説法を見ていると、若主人をつくっている観念が外形はもとのままだが、内容が変ってしまったという気がする。まるで暴漢が飼い犬に変わったようである。上人の妙観察智の働きであろうか。心の奥底から働きかけるのである。上人の御説法はだいたいこんなふうだったらしい。

浄土宗京都本派の大学のある先生が、一切経について少しは知っておいたほうがよいでしょうというので、「一切経いろは辞典」を差し上げた。上人はただ厚くその好意を感謝された。

弁栄上人はインドへ行って仏蹟を巡拝してこられたのだが、その話をされたことも一度もなかった

上人に深く帰依(きえ)している家があった。そこの奥さんが上人にひら付きの御膳(おぜん)を差し上げた。上人は余計な料理には決して手をつけられないで、いつも、手の掛からない御馳走(ごちそう)をといっておられた。ある寒い晩、上人にわざわざつくった胴着を差し上げた。上人はそれを召して外出されたが、帰ったときはもう着ておられない。どうなさったのですかと問うと、上人「物を乞(こ)う人が寒空に寒そうにしていた。白衣や法衣では在家(ざいけ)の人には使えないから、せっかくつくって下さったのだけれども、胴着を脱いで上げてきました」

ときどきは少し英語も学ばれた。近代学術の書は実に仔細(しさい)に読まれた。

    浄瑠璃は語ってみなければ味がわからない

一夜、ある寺にお着きになって、座敷にお通しして丁重におもてなししようとするのを断って、下男部屋に行き、年老いた下男の一人に深更まで法話された。

ほうぼうで子どもを集めて仏教唱歌を教えたり、阿弥陀経を教えたりなさった。少年少女の一群の先頭に立って、手風琴(てふうきん)を弾(ひ)きながら田舎道を行かれるお姿も見かけた。

弁栄上人は法を聴(き)いてくれることを、どんなもてなしよりも喜ばれた。朝は、三、四時から、夜は十二時にも及んだ。随行の者は閉口して、上人、よくあくびも出ませんねというと、上人「あくびするひまに念仏する」横にならず念仏しながらそのままお休みになることもある。上人「撞木(しゅもく)の音が次第に細って行ってついに止まり、はたと横に倒れようとするとき、千仭(せんじん)の谷底へ落ち込むような気持ちになる。その間は十分か十五分ぐらいであろう。寝るのはその間で十分だ」睡眠時間はごく短いが、横になったかと思うともう熟睡しておられる。夜中にときどき「ナーム」とかすかに、しかしはっきり寝息の間から聞こえる。そのお声がなんともいえずありがたかった。

ときどき随行の者にもお布施(ふせ)をくれる。どうしましょうかと伺うと、上人「それは阿弥陀様にお返しなさい」そして立つとき、寺のお賽銭箱(さいせんばこ)に入れるようにいわれた。

一人の僧が随行した。性質荒々しく、竹の切れをけとばすと、上人「すべて形あるものは仏性がある。手荒なことはいけません」 

議論をふきかけると、にこにこして静かに親切に答弁される。議論が横にそれると黙ってしまわれる。

御一生のことであるが、朴歯(ほおば)の下駄ばきで、音もせずに歩かれる。決して傍を見られない。これは奇蹟であるが、下駄の歯が少しも減っていなかった。上人にわけを聞くと、上人「私は如来さまにおぶさっているのだから」その下駄は一人の信者がもらいうけてたいせつに保存していたのだが、火災で焼けてしまったから私は見なかった。これも妙観察智であろう。科学を知らないものの公私昆交にも困ってしまう。 

家の中でも端然たる威儀を少しもくずされたことがない。もの静かに落ちついて、いつも白衣の法衣を福々しいおからだにきちんと召されて、言葉少なく声低く、新聞の世間のできごとなど申し上げても、上人はただ「左様(さよう)で」それも語尾は消えてしまう。大笑高語などされたことがない。寒中でもお傍の火鉢に手をかざされない。おむねの所で組み合わせたままである。それでいてお傍に出ても少しも窮屈ではなく、なんだか心丈夫で、なんだかうれしくて、いつまでもお傍にじっとすわっていたくなるのであった。

各地の青年たちを集めては御説話なさって、午後の座談会、質問会では、経机を前へ前へと進め、極楽の実在、如来の実在に関する質問に熱心にていねいに答えられ、また三等車中の人となられる。

常に少しの余暇にも筆を走らせて、あり合わせの紙に、御自身の実地経験ずみのことばかりをお書きになった。紙がたまるとこよりでとじて、ページは書かない。上人が行脚(あんぎゃ)中持たれるものは頭陀(ずだ)袋(ぶくろ)の小箱一つ、それには手回り品がいっぱいはいっている。とても書き積まれたるものを持って、諸国をお巡(まわ)りになるわけにはゆかない。それで書かれた所々に、それをただ保存しておいて下さいとだけで、お残しになる。あとで心ある人だけは保存するだろうが、それもその人一代きりである。あとで出版なさるおつもりならば、もっとほかの仕方をなさったであろう。出版なさるおつもりが全くないにしては、あまり整然たる体系をなしている。これはどういうことかと人は不思議に思うであろう。これこそは、でき上がることはいかに邪魔してもでき上がり、成り立たぬことはいかに努めても成り立たぬ、とお考えになっているのである。如来の実在を証して、如来にまかせ切っている人の心安さよ。弁栄上人の限りなく尊い御著述は、上人がお亡くなりになってから、ミオヤの光り社が、この寒山が木の葉に題して風にまかせたような御文章を、全国からやっと拾い集めて編んだものである。ほとんど訂正された跡がないのは、定中に働く心がいかに整然たるものであるかを示している。

十時ごろに老婆たちは帰ってしまい、青年が一人残った。上人はその一人を相手に午前二時過ぎまで法をお説きになった。その青年が三部経の中の不審を質問すると、夜中の一時になるのに、お荷物を解いて極楽のありさまを描いたたくさんの図を取り出して、一々ていねいに説明された。青年は後に厚い信者になった。そのときのことである。上人はこうお供の人たちに話された。

上人「浄瑠璃(じょうるり)は読んでも聞いても面白いが、実は浄瑠璃の味は語るほうにある。面白く語る人の気分や楽しみはまた格別で、読む人聞く人の推知できぬものである。これが浄瑠璃の真価である。しかしそれには、師についてけいこに一苦労せねばならぬ。信仰もまたそんなものである。宗教の必要をいっておるところは浄瑠璃を読んでいるようなもの、説教を聞いて感心するのは語るのを聞いているくらいで、まだ語る味はわからないようなもの。自身精進に念仏して、法喜禅悦の真の味を知らなければならぬ」法喜とは自分が念仏して喜びにひたること、禅悦とは第三者の信仰が進むことを如来と二人でながめて喜び合うことである。私たち学者には、四十二歳で入棺念仏なさった後の弁栄上人は、新法門を開くため御著述に専念なさりそうに思えるのであるが、こんなことを喜ばれると思うのは、まだ浄瑠璃を読んでいる境界であろう。実はこの法喜禅悦にひたっておられたのである。それだからあの寸暇なき御説法ができたのであるが、人がそこまでになれるとは。

    それを知らせにきたのが弁栄である

弁栄上人がこの世をどう見ていられたかを見よう。

一老婆が「年とるとこの世上のことがうるさくて」とこぼすと、上人「そうして親様(如来さま)は結構なお国を慕わせてやろうとの御慈悲です。帰り仕度(じたく)をさせて下さると思って喜ぶものです」

洗濯(せんたく)が忙しくてならぬ。じっとして念仏したいという婦人があった。上人「洗濯物を木魚と思えばよいでしょう。念仏しながら洗濯しなさい。洗う品物と一緒に、心も洗っていただけます。着物も心も洗われるだけ洗って、またこの世を清めねばなりません」 

上人「からだはじっとしていても、からだの中ではいつも如来さまが働いて下さる。胃袋も休まず、血管も休まず、みなこれらは如来さまの働きが身の中に働いていて、われわれを活かして下さるのだから、如来さまに活かしてもらっている間は、このからだを遊ばして殺し置きにしては如来さまにすみません」

かようにして全く巡行に寧日なく、四十二歳にして構想なった光明主義をおたてになったのは、実に六十歳のときである。その後も御巡錫は以前のとおりであった。

上人には自説の顕正のみであって、決して他説の破邪がなかった。他のお祖師さま達のような迫害を見なかった所以であろう。上人にはすべてが不完全の完全に向かう姿と見えたのである。何をお尋ねしても「それがよい」(イエス)と「それで良い」(ノー)と二色にしかお答えにならなかったということである。

かようにして衆生済度の御苦労の御生涯を六十二歳で閉じられた。最後に残されたお言葉は「如来はいつもましますけれども衆生は知らない。それを知らせにきたのが弁栄である」

以上

岡潔先生「無辺光と人類」  

(弁栄聖者『無辺光』まえがき)

今大抵の日本人は自然科学を神のように思っている。しかし、どうも色々疑わしい節がある。一度よく調べてみよう。大体自然科学者は、自然とは何かは自明だとして、それについては少しも言明していないが、自然とはどういうものだと思い込んでいるのであろう。彼らに代わってそれを口に出して言う事から始めよう。はじめに時間空間というものがある。画を描く時、はじめに画用紙があるようなものである。こう思っているのだが、時間空間とは何であろう。空間はまだよいが時間については、人は時間の中に住んでいるのではなく、時の中に住んでいるのである。時には現在、過去、未来の別がある。未来は解らない。希望も持てるし不安も懐かざるを得ない。現在はすべてが解っていてすべてが動かせない。過去は一切が記憶としか思えない。それもだんだん薄れて遠ざかっていく。時間とは此の過去の時は過ぎゆくという一属性を観念化したものである。時については他にも色々考えられるが、道元禅師の『正法眼蔵』に譲る。さて自然科学者であるが、その次どう思っているだろう。時間空間の中に物質というものがある。物質とは、途中は、たとえば望遠鏡で見るとか、赤外線写真に撮るとか、色々工夫を凝らしてもよいが、最後は肉体に備わった五感で分かるものである。どうしても五感で分からないものは無いのである。この五感で分からないものはないのだということは、自明だとして疑ってもいないのだが、それでは原始人とあまり変わらないという感じを受ける。釈尊は「仏道の修行は五感を閉じてせよ」と教えたのである。先へ進もう。この物質が自然を作っている。その一部分が自分の肉体である。時間空間の中に物質があると言ったが、これは空間の中に物質があってそれが時間と共に変化するという意味である。物質が変化すれば働きが出る。肉体とその機能とが自分である。自然科学者はこう思っているのである。此れは自然そのものではなくて、自然のごく簡単な一つの模型である。この模型を物質的自然ということにしよう。自然の簡単な模型を作ってその中をよく調べようというのは、確かに一つの方法である。しかし模型がこんなに簡単では生命現象は解るのだろうかという疑いが起こる。それで一つ問うてみよう。人は生きている。だから見ようと思えば見える。見ようと思えば見えるのは何故であるか。果たして自然科学はこれに対して一言も答えることが出来ない。立とうと思えば立てる。この時全身四百幾つの筋肉が瞬間に統一的に働くのであるが、どうしてこういう事が出来るのか。自然科学はこれに対しても一言も答えられない。人の知覚運動について何一つ説明できないのである。物質現象については充分よく解っているのだろうか。一つ聞いてみよう。物質が各々の法則を守って決して背かないのは何故であるか。自然科学はこれに対しても少しも説明しようとしない。かように物質的自然の中を調べて解るものは、物質現象の一部分に止まるのである。

物質現象の一部分しか分らないと言うのでは全くの無知と余り変わらない。仏教ならば生命現象について教えてくれそうである。それで一度仏教に問うてみよう。一体何がどうなっているのですか。仏教はこう教えてくれる。仏教では心を層に分けて説明する。その最奥底を第九識と数える。始めに第九識というものがある。此れは一面唯一であって、他面一人一人個々別々である。第九識には此の関係以外何もない。時間もなく空間もなく自他の別もない。第九識を一人一人個々別々であるという方面から見た時、これを個と呼ぶ。この個が個人の中核である。個の量は無量である。以下各個について言う。第九識に依存して第八識がある。此処には一切の時がある。しかし他には何もない。第八識に依存して第七識がある。此処に到って始めて大小遠近彼此の別がある。彼此の別とは自他の別である。この第八識と第七識との区分法は私が少し変えたのである。しかしこれは単に言葉を変えたに過ぎない。この第七識をいわば軸として、その周りに肉がついて、自然があり、人々があり、その一人として自分がある。第七識を軸としてというのは、第九識を軸として第八識があり、第八識を軸として第七識がある。その第七識を軸としてという意味である。仏教はこう言っているのである。それでは人は何故知覚運動が出来るのかと聞くと、仏教はこう答える。人の普通経験する知力は理性のような型のものである。意識下に於てしか働かないし、その分かり方は少しずつ順々にしか分っていかない。しかし時として、たとえば仏道の修行の時にはこれと型の違った知力の働いていることが解る。どういう知力かというと、無意識裡に働いて一時にパッとわかる。こんなふうな知力だから余程強く働く時でないと気づかないのである。これを無差別智という。知力といえば知情意に働く力という意味である。無差別智には四種類ある。大円鏡智、平等性智、妙観察智、成所作智がこれである。さて、見ようとすれば見えるのは、この四種の無差別智のすべてが第九識に働くためである。人が知覚し運動することが出来るのは、すべて無差別智が第九識に働くためである。明快な答えである。しかし、もう少し聞いておこう。無差別智は何に起因するのですか。そうすると仏教はこう答える。第九識をその唯一という方向から見た時、これを如来という。丁寧に言えば唯一絶対の如来、名を言えば無量光寿の如来。如来と個との関係を不一不二と言う。無差別智は如来の光明である。これを無辺光という。それだったら人の肉体はまるで無差別智の大海の中の操り人形のようなものである。そうすると人の実際にその中に住んでいる自然は、単に目に見える部分だけではなく、目には見えないが、無差別智の常に働いているような場所でなければならない。ところで、無差別智というのは個の世界の現象である。その個の世界は、二つの個の関係が一面一つ他面二つというようなものである。だから個は数学の使えない世界である。これに反して物質的自然は数学の使える世界である。だから無差別智は物質的自然には働き得ない。だから人は物質的自然の中に住んでいるのではない。仏教の言うところをもう少し聞こう。真の自分は個である。これを真我という。しかし人は普通五尺の身体を自分だと思い込んでいる。これを小我という。小我は迷いである。人はこの迷いを離れて真我を自分だと悟らなければいけない。真我を自分だと悟るとどういう善いことがあるのですかと聞くと、仏教はこう答える。時間の中に真我があるのではなく、真我の中に時間があるのである。だから人は不死である。西郷隆盛は、大丈夫であるための条件を色々挙げている。そのうち始めの二つが特に大切である。「命もいらず、名もいらず」。しかし実際にその通りに行為することは、不死の自覚がなければ容易ではない。今一つある。空間の中に真我があるのではなく真我の中に空間があるのだから、真我は空間的にも限りなく拡がっている。その拡がり方はどうかというと、普通人が自分と思っているものは真我の自分である。普通人が他(ひと)と思っているものは真我の非自非他である。他には主宰性もあれば個性もある。だから他は自分ではない。しかし他の喜びは自分の喜びであり他の悲しみは自分の悲しみである。だから他は他ではない。普通、自然と思っているものも真我の非自非他である。真我の人は自然を人倫でないとは思いわない。その人倫としての自然のあり方は、前に言った意味において非自非他であるというのである。こんなふうだから、何よりも、真我の人にとっては他の喜びは自分の喜びであり、他の悲しみは自分の悲しみである。これは観音菩薩の心である。

かように仏教のいう所を信じると一応すべて説明がつく。しかし仏教はどの程度にまで信じられるものだろうか。こういう問題が出てくる。やがてこういうことになるのが解っているから、私は仏教の所説として、唯一人の人、山崎弁栄上人の言う所を紹介したのである。もっともこの人独自の説は、唯一絶対の如来があって、その光明が無差別智であるという所だけであって、他は仏教の通説である。何故この人を選んだかというと、釈尊は時代が遠くて御伝記がよくわからない上に、今日伝えられている所の内、実際どれだけの部分をどういう言葉で言われたのかよくわからない。ところが山崎弁栄上人は、私たちよく知るものにとっては、釈尊の再来としか思えない方であって、年代がごく新しく、明治の少し前に生れて、大正九年に亡くなった方だから、御伝記もよくわかっているし、数々の御著述も残っている。それで信じるとは何を信じることかがよくわかる。幸いこういう人がいたから、此の人を選んで、その言う所を書いたのである。弁栄上人は青年の頃浄土門に入って独自の方法で修行し、僅か四年足らずで仏限了々と開いて見仏した。此の四年足らずという時間は史上最短であって、釈尊は五年かかっているし、法然上人にいたっては二十数年かかっている。その後一切経を読破し、浄土宗を出て新たに「光明主義」という一宗をおこした。光明主義に関して数多い御著述がある。前に述べとことはこの御著述から抜いたのである。その人をよく見よう。田中木叉先生著の御伝記『弁栄上人伝』がある。それを読んで一番驚くことは一点の私心もない事である。尋常一様の私心の無さではない。人のからだの数多くの細胞が仮に一つの人体を作っているのは、普通は私心が結び合わせているのである。弁栄上人の御生涯を見て、人がこうまで私心を抜いてよく生きていけたものだと思って驚く。次には数々の奇蹟を行っていることが目に付く。力量非凡である。御伝記にあるものだけでも十分奇蹟を愛する人の心を満喫させてくれる。御伝記にないものから、二つだけ選んでお話ししよう。弁栄上人はある時期には暇があると自然科学の本を読んでおられた。自然科学者は早まって己惚れてはいけない。自然科学というのは真智の人にとっては、突拍子もない思想であろう。この住民の奇抜な習性を知らなければ、どんな風に度生するのがよいのかわからない。それで読んでおられたのである。そういう時期に、ある光明主義の信者が、上人に自然科学全書といった風な内容の本を差し上げた。部厚な本である。そうすると上人は、その本を左の手で持って、その腹のう所に右の親指を当てて、ピーッとページを弾かれた。その人が訳を聞くと、上人は、「ハイ、これで分かりました」と言われた。あまりの不思議さに、その人は上人の許しを得て、二三ヶ所聞いてみると、皆すらすら答えられた。これは大円鏡智の働きである。弁栄上人が群馬県の高崎に御巡錫しておられた時、そこから三十里ほど隔たった新潟県の柏崎でこういうことが起こった。寺の奥さん、籠島咲子さんといわれるのだが、その方は光明主義に帰依していたのだが、修行がうまく行かないので自死しようとしたのである。これはちょっと出来ない事だと思う。如来さまのお告げでこれを知った上人は、身を二つに分かって、一半を高崎に置いてさりげなく談笑し、一半は柏崎へ行こうと思うと、もう行っていた。それでちょうど寝ていた咲子さんの枕辺に立って、「仏憶いの光明を、胸に仏を種とせよ」と七返繰り返して言って、そのまま帰ってきた。この身を二つに分つのも、行こうと思えばもう其処へ行っているのも、共に妙観察智の働きである。私は弁栄上人の言うところを、そのまま信じようとは思わない。自分の目で見ようと思ってもう始めているのである。しかし、その為には修行して目がよく見えるようにしなければならない。それにどれくらい時間がかかるかということであるが、弁栄上人は人が発心して修行を始めてから仏になるまでにどれくらい時間がかかるかというと、単細胞生物として始めて地表に現れてから人になるまでに要した時間の二倍かかるといわれた。ところで弁栄上人を見ると釈尊とあまり違わない。そうすると此の修行に四十億年かかるということになる。これは地表が冷え過ぎてもう住めなくなるまでの時間の長さとコンパラティブである。こんなふうだから確かめるまでの間は信じているより仕方がないのである。幸い上人の御人格といい、此の人の言う事は疑う方が難しいのでのである。学問も本当は信じるのであろう。仏教もこの辺までならば学問である。ただ信じやすさが違うだけである。

第九識、第八識、第七識は、人体について言えば、どこになるのだろう。此れについて弁栄上人はこう言っている。頭頂葉は霊性の座、前頭葉は理性の座。霊性というのは第九識の事である。大脳生理はこう言っている。頭頂葉は受け入れ態勢のよって来る所である。前頭葉は感情、意欲、創造を司どる。此の二つから第九識は頭頂葉と断定してよいと思う。ところで、大脳生理学の言うところを聞いて非常に疑問に思うのは、創造が前頭葉で行われるだろうかということである。結果を言えばこれは思考と訂正すべきである。創造については、後に述べる。さて、問題は第八識、第七識の位置である。過去無くして、突然現在に在る人というものはない。その人とはその人の過去のエキスの全体である。それだったら時がどのようにエキス化されて貯えられるのだろうか。まず時という心の食物を咀嚼玩味する口はどこだろう。これは前頭葉に決まっている。このことには大脳生理学者は異存はないと思う。咀嚼玩味してエキス化されると、時の内容はどう変わるのだろうか。これは非常に難しい問題である。しかし人はみな常に経験しているのであるから自分でよく考えてみてほしい。結論を言えば大小遠近彼此の別がとれるのである。これはいわばカスである。哲学の西田先生にこういう意味の言葉がある。「言葉で言い表すとカスの様な気がする」創造の仕事に携わっている人は、先生のこの言葉を実感として受け取るであろう。大小遠近彼此の別を入れなければ色形が出ないから言葉にならないのであるが、いったんそうすると、言わば天上に実った創造の地上に落とした影の様なものになってしまうのである。エキス化した心の食物をどこへ貯えるのであろうか。此れは頭頂葉にである。受け入れ態勢のよって来る所は頭頂葉だと言っているのだから、此れは大脳生理学者にも多分異存が無かろう。此れで答えが出た。第八識は頭頂葉、第七識は前頭葉である。

胡蘭成さんという中国人がある。もう二十年以上も日本に居るのであるが、近頃日本語で『建国新書』という本を書いた。その中でこう言っている。人の知の領域は三層に分つことが出来る。顕在識、潜在識、悟り識。今日学校で教えている智はすべて顕在識である。トウモロコシは台風を予知する。午後には台風が襲来するという日には、午前中から背を曲げて丈を低くし、葉は皆巻いて待機の姿勢でいる。こういう不思議な知力が人にも色々働く。これが潜在識である。悟り識が開けなければ、その民族の文明は真の文明にはならない。日本民族と漢民族とは本同一民族であった。だから親近感が非常に深い。此の日漢民族には古くから悟り識が開けている。しかし欧米人には一向これが開けない。こう書いている。実際、例えばソビエトは金星へロケットを打ち込むことが出来るのに、そのチェコに対する仕打ちを見れば、力の強い国は何をしてもよいとしか思っていない。それでは野獣から一歩も出ていないのであるが、こんなわかり切ったことが解らない。ちょっと不思議に思うのであるが、これが悟り識が開けていないと言う事である。人は不死だし、時のエキスは死んだくらいではなくならないから、人の心は造化の手でだんだん美しく染めなされていく。これが第八識である。日本人はスミレを見ればゆかしいし、秋風を聞けばもの悲しい。別に教えられてそうなるのではない。芭蕉は、「秋風はものいはぬ子も涙にて」といっている。これは心の中の自然の中にいるから、こう見え、こう聞こえるのであって、直に物質的自然の中にいたら、こんなことになる筈がない。これは日本人は皆そうだが、人は皆そうだというのではない。適当な例がないから仕方がなく欧米人を採るが、欧米人はスミレを見てもゆかしいとは思わないし、秋風を聞いてももの悲しいと思わないに決まっていると思う。大体もの悲しいという言葉の意味を教えることが非常に困難であろう。この悲しいは喜怒哀楽の悲しいとは質的に違っている。喜怒哀楽の悲しいは前頭葉の悲しみ、もの悲しいは頭頂葉の悲しみである。だから日本人は日本民族固有の心の中にいるのである。ちょうど春の野にスミレもあれば蓮華もある様なものである。日本民族の心は花ならスミレの花なのである。ただ花なのではない。スミレは一朝一夕にスミレになったものではないに決まっている。日本民族が今日の心の色どりを持つまでにはどれくらい掛かったのだろう。中国の伝説には時代の長さが書いてあるから、私は胡蘭成さんに頼んで計算してもらったのであるが、日漢民族の起源は今から三十万年前である。斯様な日本民族の心のありかが、人体で言えば頭頂葉の第八識である。私はある日、目は覚ましたのだが起きないで、私の部屋の寝床で枕に肘をついて、心のことを心に委せていた。丁度その日私の家に泊った胡蘭成さんが、庭を歩いていて、窓の外からそれを見た。そして私にこう言った、「あなたがしていたのが冥想であって、それが黄老(こうろう)の道(伝説上の帝王黄帝と老子の思想)である。今日目の当たり見せてもらって、大変尊い教えを戴きました」と。頭頂葉のことを黄老では泥洹(ないおん)宮という。泥洹とは有無を離れた境(涅槃)という意味である。私は私の平生のやり方が黄老の道だと聞いて実に意外だった。しかし考えてみればそれは当然であって、日漢民族は僅々(きんきん)数万年前に分れただけだと思うから、時のエキスの集積は大体同じなのである。日漢民族は泥洹界に住んでいるのである。なお心のことを心に委せているのを冥想するというのであろう。釈尊の主武器は冥想だったと思う。日本民族の住んでいる世界は第八識であるが、その風光がよくわかるのは、第九識の無差別智の光が照らしているからである。どんな照らし方をしているかが知りたければ、無差別智についてよく知らねばならない。

創造についてお話ししよう。1912年に死んだフランスの大数学者にアンリー・ポアンカレーという人がいる。この人の書いた『科学と方法』という本の一章に「数学上の発見」というのがある。ポアンカレ―はここで自分の数多くの発見の有様を詳細に述べて、その後でこう言っている。数学上の発見の時働く知力は三つの特徴を備えている。第一に、一時にパッとわかる。第二に理性的努力なくしては発見は起こらないが、時間的にいって努力の直後に発見が起こったことはない。何時も大分経ってからである。第三に結果は大抵理性が予想したものとは違っている。こんな風なのだが、如何にも不思議な知力だが、これは何であろう。当時フランスの心理学会がこれを読んだ。そして、これは西洋文化の核心に触れた問題だと思ったのだろう、直ぐにこれを取り上げて、当時の世界の大数学者たちに、あなたの数学上の発見の問いの有様はどんなふうですか、と問い合わせた。答えは大体ポアンカレ―と同じだっという。これで問題は確立したわけだが、この問題が一歩でも解決に近づいたという便りを私は聞かない。答えは簡単である。これは無差別智の働きである。ところで、無差別智の働きによって創造しているというところまではポアンカレ―も私も同じなのであるが、無差別智の働き方が違う。ポアンカレ―に対しては潜在識として働いているのであるし、私に対しては悟り識として働いているのである。そういうことがどうしてわかるかというと、数学上の発見は、ポアンカレ―が述べた三つ以外に、さらに二つの大きな特徴を持っているのであるが、ポアンカレ―は少しもそのことを述べていないからである。その一つは数学上の発見は必ず「発見の鋭い喜び」を伴うことである。発見の鋭い喜びというのは寺田先生の言葉である。発見の鋭い喜びの一番良い例はアルキメデスの場合であって、二千年を経てみても、その歓天喜地する有様が目に見える様である。私がこういうと、胡蘭成さんは大変喜んで、念のためアメリカ人の書いたアルキメデス伝を読んでみると、他のことは皆詳しく書いてあるのに、発見の鋭い喜びのことだけは少しも書いてなかったということである。今一つは少しも疑いを伴わないことである。私はこれが一番大きな特徴ではないかと思っている。これが何よりも創造は頭頂葉に実るものであって、前頭葉で行われるものではないことを示している。もし前頭葉に実るものならば、どんなに確かめても疑いは跡を絶たないのである。一例をお話ししよう。私はある時一つの数学上の発見をした。秋風が吹き始めた頃である。これは大変重要な意味を持つように思ったから、そして本当にそうなるかという不安は少しもないから、私はその証明を書いて検討することは全くしないで、そこがそうだと解ると、その周辺の風光がどう変わるかの方を先に調べた。これを論文に書いたのは、翌年の蛙鳴く頃である。だからその間九カ月である。創造は頭頂葉に実るのである。これは二つの点で女性の妊娠に非常によく似ている。一つは想像が実ると、実ったことを決して疑わないいことである。今一つは書かなければ決して忘れないことである。書く時は頭頂葉に実った創造の影を前頭葉にうつして、それを紙に写すのである。西田先生はこの時のことを言っているのであろう。これをすると分娩したようなもので、後三日もすれば跡形もなく忘れてしまう。これは真の創造であるが、善の創造はどうであろう。もし善行の素が前頭葉に実るものとすれば、前頭葉が命令して運動領(頭頂葉と前頭葉との中間)が行為することになるから、自分が善行を行う、になる。自分がという意識の伴うことを、善では染汚していると言って非常に嫌う。つまり、汚れているというのである。善行の素は頭頂葉に実るから、運動領は疑うところなく行為し、水の流れるように善行が行われるのである。美の創造も見ておこう。日本における三大古典は古事記、万葉、芭蕉である。これらはいずれも文学であるが、その特徴は大小遠近彼此の別なないことである。即ち美の創造も頭頂葉において行われるのである。すなわち美の創造も頭頂葉において行われるのである。画も見ておこう。東洋の画は頭頂葉で見ながら描くのであるが、西洋の画は前頭葉で見ながら描くらしい。その証拠に西洋に於いては女性の裸体画が美の極致とされているらしいのだが、東洋のまじめな画にそんなものは一枚もない。かように西洋人が美と呼んでいるものは、厳密な意味における美ではない。人は悠久なものである。厳密にいうならば、美も頭頂葉によって創造されるのである。創造は、真、善、美すべて、第九識、第八識が共に働くのである。

私は七年程前、その頃は奈良の女子大に勤めていたのであるが、どうも近頃の学生は自明なことほど却ってよくわからないらしいと思った。それで自明のわかる知力の光度を測ってみたのであるが、私のを一とすると二万七千分の一である。この知力が平等性智である。この二万七千分の一という暗さは、自分の中にどんな大きな矛盾があっても、他から指摘されなければ分からないという暗さらしい。こんなふうだと今に指摘されても分からなくなるのではないかと心配していたのであるが、また一段と暗くなったようであるから、大体測ってみるとさらに三十分の一ぐらいになっているらしい。大体百万分の一である。そしてこの暗さは、果たして他から矛盾を指摘されてもわからないという暗さらしい。大学生に話し合えないものが多いようだが、この暗さなのであろう。日本の大学生だけではなく、人類全体がそうらしい。数学の論文に現れた所によってみると非常によくわかるのであるが、第一次大戦前、第一次大戦後、第二次大戦後と、平等性智は階段的に急速に暗くなって行っている。人は文明は時の流れとともに進むものと独り決めに決めて少しも疑っていないらしいが、もし人の生活が本当の意味ではだんだん悪くなって行っているならば、だんだん野蛮になって行っていると言った方が正しいであろう。これをだんだん文明をが進むと思うのは少なくとも非常に危険である。少し前アメリカでキーパンチャーのよく自殺することが大変問題になった。アメリカは何故かは解らなかったが、日に三時間以上働かせないとか、よい音楽を聞かせるとかいう人道的応急措置を取った。私もその時何故であろうかと思って色々考えたのであるが、その時はよく解らなかった。しかしその後だんだん大体は解ってきたように思うのである。人が生き甲斐を感じるのは頭頂葉において感じるのであって、キーパンチングのようなことばかりやっていると、精神的生命力が枯渇するのではあるまいか。そう思って世の中を見ると、機械が人を使ったり、組織が人を押しつぶしたりすることが急速に増えてきている。このことは人に側頭葉的生活(機械的生活) を非常に強いるに決まっている。そうすると人類の精神的生命力はだんだん稀薄になるだろう。近頃世界の大学生たちが騒いでいるようであるが、動物的敏感さによって生命の危機を予知するからではあるまいか。私が言いたいのは、世の中が善くなったのか悪くなったのか判らないということは、人類にとって水爆以上に危険であるが、これは平等性智の知力が強くなければわからないのだということである。

私は1925年に数学家を卒業して、1929年にフランスに留学した。ライフワークとすべき問題を探し当てるためである。問題は一年足らずで見つかった。私はこの問題は私には解けないかもしれないが、私に解けないものならばフランス人には解けないだろうと思った。何しろ第一着手が全くわからないのが特徴である。私はその為に、フランス文化に何か使えるようなものが無かろうかと思って探したのであるが、在仏中は見当たらなかった。むしろ芭蕉一門の不思議さが目に止まった。俳句は五七五という短詩形、今日非常によく詠めたと思っても、明日はその反動で一層落胆するかもしれない。芭蕉にいわせると真によい句は生涯に二、三句だということであるが、こんな頼りないものの二、三句に生涯を懸けることは、まるで薄氷に全体重を托するようなものである。それだのに芭蕉一門はそれをやっているように見える。どうすればそんなことが出来るのであろう。そう思ったから、日本へ帰ってから芭蕉の俳句や蕉門の連句を真剣に調べた。そして芭蕉の句の詠み方がわかった。芭蕉は自分がそのものになることによってそのものを見るのである。そしてこの目を身につけた。これが問題の解決に非常に役に立った。その後私はこの目によって教育を調べた。教育で見なければならないのは、子供の心であって子供のからだではない。だからこれによってでなければ見えないのである。肉眼ではダメなのである。この目を妙観察智というのである。

日本の住み家である泥洹界をよく見よう。スミレがゆかしいというのは一つの(不可抗力な)メロディー(絶対観念)である。秋風がもの悲しいというのも一つのメロディーである。泥洹界の風光は無数のメロディーからなっている。この無数のメロディーが一つの世界を作っているのは大円鏡智の働きである。泥洹界とは第八識の大円鏡智である。

『昆虫記』の著者ファーブルはこう言っている。「私は人が死ねばどうなるのか知らない。しかし、もしもう一度人に生れてくるものならば、また昆虫の生態を研究するだろう。しかし幾代続けて研究しても、昆虫の不思議な本能についてはついに全くわからないであろう」と。これも無差別時の働きである。無差別智について知らなければ生物学は調べられないのである。

物質的自然の中を調べても物質現象の一部分しか分らない。学問、芸術、政治、経済、教育、宗教、すべて物質的自然界の外に道を求めなければならない。しかし、物質的自然界を一歩外に出れば、そこは無差別智の霧の大海である。だから無差別智についてよく知らなければ道は解らないのである。その無差別智について最も権威ある本が、此の山崎弁栄上人の著わされた『無辺光』である。前に言ったように無辺光とは無差別智という意味である。

昭和44年2月下旬