道元禅師

正治2年(1200)1月2日~建長5年(1253)8月28日

春は花、夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえて冷しかりけり

ただわが身をも心をも放ち忘れて、仏の家に投げ入れて、仏の方より行われて、これに随いもてゆく時、力をもいれず、心をも費やさずして、生死を離れ仏となる 

『正法眼蔵』

深く仏法僧三宝を敬い奉るべし。

生を変えても、三宝を供養し、敬い奉らんことを願うべし。

寝ても覚めても三宝の功を思い奉るべし、寝ても覚めても三宝を唱え奉るべし。縦令この生を捨てて、いまだ後の生に生まれざらんその間、中有と云うことあり。その命の七日なる、その間も常に声も止まず三宝を唱え奉らんと思うべし。七日を経ぬれば、中有にして死して、また中有の身を受けて七日あり。如何に久と云えども、七七日をば過ぎず。この時何事を見聞くも障りなき事天眼の如し。

かからん時、心を励まして三宝を唱え奉り、南無帰依仏、南無帰依法、南無帰依僧と唱え奉らんこと、忘れず暇なく唱え奉るべし。

すでに中有を過ぎて、父母のほとりに近づかん時も、相構えて相構えて、正智ありて託胎せん処胎蔵にありても、三宝を唱え奉るべし。生れ落ちん時も、唱え奉らんこと、怠らざらん。六根に経て三宝を供養し奉り、唱え奉り、帰依し奉らんと、深く願うべし。

『修証義』

第一章 総 序

生(しょう)を明らめ死を明らむるは仏家一大事の因縁なり、生死の中に仏あれば生死なし、 但生死即ち涅槃と心得て、生死として厭ふべきもなく、涅槃として欣ふべきもなし、 是時初めて生死を離るる分あり、唯一大事因縁と究尽(ぐうじん)すべし。

人身(にんしん)得ること難し、仏法値ふこと希なり、今我等宿善の助くるに依りて、 已に受け難き人身を受けたるのみに非らず遇ひ難き仏法に値ひ奉れり、 生死の中の善生、最勝の生なるべし、最勝の善身を徒らにして露命を無常の風に任すること勿れ。

 無常憑(たの)み難し、知らず露命いかなる道の草にか落ちん、身已に私に非ず、 命は光陰に移されて暫くも停め難し、紅顔いずこへか去りにし、尋ねんとするに蹤跡(しょうせき)なし、熟(つらつら)観ずる所に往事の再び逢うべからざる多し、 無常忽ちに到るときは国王大臣親暱(しんじつ) 従僕妻子珍宝たすくる無し、唯独り黄泉(こうせん)に趣くのみなり、己れに随い行くは只是れ善悪業等のみなり。

 今の世に因果を知らず業報(ごっぽう)を明らめず、三世を知らず、善悪を弁まえざる邪見の党侶(ともがら)には群すべからず、大凡(おおよそ)因果の道理歴然(れきねん)として私なし、造悪の者は堕ち修善の者は陞(のぼ)る、 豪釐(ごうり)も忒(たが)わざるなり、 若し因果亡じて虚しからんが如きは、諸仏の出世あるべからず、祖師の西来あるべからず。

 善悪の報に三時あり、一者順現報受(ひとつにはじゅんげんほうじゅ)、ニ者順次生受(ふたつにはじゅんじしょうじゅ) 、三者順後次受(みつにはじゅんごじじゅ)、これを三時という、仏祖の道を修習(しゅじゅう)するには、其最初より斯三時の業報(ごっぽう)の理を効(なら)い験(あきらむ)るなり。爾あらざれば多く錯(あやま)りて邪見に堕つるなり、但邪見に堕つるのみに非ず、 悪道に堕ちて長時の苦を受く。

当に知るべし今生の我身二つ無し、三つ無し、徒らに邪見に堕ちて虚しく悪業を感得せん、 惜しからざらめや、悪を造りながら悪に非ずと思い、悪の報(ほう)あるべからずと邪思惟するに依りて、悪の報を感得せざるには非ず。

第二章 懺悔(さんげ)滅罪

仏祖憐みの余り広大の慈門を開き置けり、是れ一切衆生を証入せしめんが為なり、人天誰か入らざらん、 彼の三時の悪業報必ず感ずべしと雖も、懺悔するが如きは重きを転じて軽受(きょうじゅ)せしむ、又滅罪清浄ならしむるなり。

然あれば誠心(じょうしん)を専らにして前仏に懺悔(さんげ)すべし、恁麼(いんも)するとき前仏懺悔の功徳力我を拯(すく)いて清浄ならしむ、 此功徳能く無礙の浄信精進を生長(しょうちょう)せしむるなり。浄信一現するとき、自佗(じた)同じく転ぜらるるなり、其利益普く情非情に蒙ぶらしむ。

 其大旨は、願わくは我れ設い過去の悪業多く重なりて障道の因縁ありとも、仏道に因りて得道せりし諸仏諸祖我れを愍みて業累を解脱せしめ、 学道障り無からしめ、其功徳法門普く無尽法界に充満弥綸(みりん)せらん、哀れみを我に分布すべし、仏祖の往昔(おうしゃく)は吾等なり、 吾等が当来は仏祖ならん。

我昔所造諸悪業、皆由無始貧瞋痴、従身口意之所生、一切我今皆懺悔、是の如く懺悔すれば必ず仏祖の冥助あるなり、 心念身儀発露白仏(びゃくぶつ)すべし、発露の力罪根をして銷殞(しょういん)せしむるなり。

第三章 受戒入位

次には深く仏法僧の三宝(さんぼう)をう敬い奉るべし、生(しょう)を易(か)え身を易えても三宝を供養し敬い奉らんことを願うべし、 西天東土仏祖正伝する所は恭敬(くぎょう)仏法僧なり。

若し薄福少徳の衆生は三宝の名字猶ほ聞き奉らざるなり、何(いか)に況(いわん)や帰依し奉ることを得んや、徒に所逼(しょひつ)を怖れ て山神鬼神等に帰依し、或いは外道の制多に帰依すること勿れ、彼は其帰依に因りて衆苦(しゅく)を解脱すること無し、早く仏法僧の三宝に帰依し奉りて 衆苦を解脱するのみに非ず菩提を成就すべし。

 其帰依三宝とは正に浄心を専らにして或いは如来現在世にもあれ、或いは如来滅後にもあれ、合掌し低頭して口に唱えて云く、南無帰依仏、南無帰依法、南無帰依僧、仏は是れ大師なるが故に帰依す、法は良薬なるが故に帰依す。僧は勝友なるが故に帰依す、仏弟子となること必ず三帰に依る、 何れの戒を受くるも必ず三帰を受けて其後諸戒を受くるなり、然あれば則ち三帰に依りて得戒あるなり。

 此帰依仏法僧の功徳、必ず感応道交するとき成就するなり、設い天上人間地獄鬼畜なりと雖も、感応道交すれば必ず帰依し奉るなり、已に帰依し奉るが如きは生生世世在在処処に増長し、必ず積功累徳(しゃっくるいとく)し、阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)を成就するなり、知るべし三帰の功徳其れ最尊最上甚深不可思議なりということ、世尊已に証明(しょうみょう)しまします衆生当に信受すべし。

 次には応に三聚浄戒を受け奉るべし、第一摂律儀戒、第二摂善法戒、第三摂衆生戒なり、次には応に十重禁戒を受け奉るべし、第一不殺生戒、第二不偸盗(ちゅうとう)戒、第三不邪婬戒、第四不妄語戒、第五不酤酒(こしゅ)戒、第六不説過戒、第七不自讃毀佗(じさんきた)戒、第八不慳法財戒、第九不瞋恚(しんい)戒、第十不謗三宝戒なり、上来三帰三聚浄戒、十重禁戒、是れ諸仏の受持したまう所なり。

 受戒するが如きは、三世の諸仏の所証なる阿耨多羅三藐三菩提金剛不壊の仏果を証するなり、誰の智人か欣求(ごんぐ)せざらん、世尊明らかに一切衆生の為に示しまします、衆生仏戒を受くれば、即ち諸仏の位に入る、位大覚に同(おなじ)うし已る、真に是れ諸仏の子(みこ)なりと。

諸仏の常に此中に住持たる、各各の方面に知覚を遺さず、群生の長(とこしな)えに此中に使用する、各各の知覚に方面露れず、 是時十方法界の土地草木牆壁瓦礫(しょうへきがりゃく)皆仏事を作すを以って、其起す所の風水の利益(りやく)に預る輩、皆甚妙不可思議の仏化(ぶっけ)に冥資せられて親(ちか)き悟を顕わす、是を無為の功徳とす、是を無作の功徳とす、是れ発菩提心なり。

第四章 発願利生(ほつがんりしょう)

菩提心を発すというは、己れ未だ度(わた)らざる前に一切衆生を度さんと発願し営むなり、設い在家にもあれ、 設い出家にもあれ、或は天上にもあれ、或いは人間にもあれ、苦にありというとも楽にありというとも、早く自未得度先度他の心を発すべし。  

其形陋(いや)しというとも、此心を発せば、已に一切衆生の導師なり、設い七歳の女流(にょりゅう)なりとも即ち四衆の導師なり、 衆生の慈父なり、男女(なんにょ)を論ずること勿れ、此れ仏道極妙の法則なり。

若し菩提心を発(おこ)して後、六趣四生に輪転すと雖も、其輪転の因縁皆菩提の行願となるなり、然あれば従来の光陰は設い空しく過ごすというとも、 今生の未だ過ぎざる際(あい)だに急ぎて発願すべし、設い仏にな成るべき功徳熟して円満すべしというとも、尚廻らして衆生の成仏得道に回向するなり、 或いは無量劫行いて衆生を先に度して自らは終(つい)に仏に成らず、但し衆生を度(わた)し衆生を利益(りやく)するもあり。

 衆生を利益すというは四枚(しまい)の般若あり、一者(ひとつには)布施、ニ者愛語、三者利行(りぎょう)、四者同事、是れ即ち薩埵(さった)の行願なり、其布施というは貪らざるなり、 我物に非ざれども布施を障えざる道理あり、其物の軽きを嫌わず、其功の実なるべきなり、然あれば即ち一句一偈の法をも布施すべし、 此生佗生(ししょうたしょう)の善種となる一銭一草の財をも布施すべし、此世佗世(しせたせ)の善根を兆す、法も財(たから)なるべし、財も法なるべし、但彼が報謝を貪らず自らが力を頒つなり、 舟を置き橋を渡すも布施の檀度なり、治生産業(ちしょうさんぎょう)固(もと)より布施に非ざること無し。

 愛語というは、衆生を見るに、先ず慈愛の心を発し、顧愛の言語(ごんご)を施すなり、慈念衆生猶如赤子(ゆうにょしゃくし)の懐(おも)いを貯えて言語するは愛語なり、 徳あるは讃(ほ)むべし、徳なきは憐れむべし、怨敵を降伏(ごうぶく)し、君子を和睦ならしむること愛語を根本とするなり、面(むか)いて愛語を聞くは面(おもて)を喜ばしめ、 心を楽しくす、面わずして愛語を聞くは肝に銘じ魂に銘ず、愛語能く廻天の力あることを学すべきなり。

 利行というは貴賤の衆生に於きて利益の善巧(ぜんぎょう)を廻らすなり、窮亀(きゅうき)を見、病雀(びょうじゃく)を見しとき、彼が報謝を求めず、唯単に利行に催さるるなり、 愚人謂(おも)わくは利佗を先とせば自らが利省れぬべしと、爾(しか)には非ざるなり、利行は一法なり、普ねく自佗を利するなり。

同事というは不違なり、自にも不違なり、佗にも不違なり、譬えば人間の如来は人間に同ぜるが如し、佗をして自に同ぜしめて後に自をして佗を同ぜしむる道理あるべし、自佗は時に随うて無窮なり、海の水を辞せざるは同事なり、是故に能く水聚(あつま)りて海となるなり。

大凡(おおよそ)菩提心の行願には是の如くの道理静かに思惟すべし、卒爾にすること勿れ、済度摂受に一切衆生皆化を被ぶらん功徳を礼拝恭敬すべし。

第五章 行持報恩

此発菩提心、多くは南閻浮(なんえんぶ)の人身(にんしん)に発心すべきなり、今是の如くの因縁あり、願生此娑婆国土し来れり、見釈迦牟尼仏を喜ばざらんや。

静かに憶(おも)うべし、正法世に流布せざらん時は、身命を正法の為に抛捨(ほうしゃ)せんことを願うとも値うべからず、正法に逢う今日の吾等を願うべし、見ずや、仏の言(のたま)わく、無上菩提を演説する師に値わんには、種姓(しゅしょう)を観ずること莫れ、容顔を見ること莫れ、非を嫌うこと莫れ、行いを考うること莫れ、但般若を尊重するが故に、日日(にちにち)三時に礼拝し、恭敬(くぎょう)して、更に患悩(げんのう)の心を生ぜしむること莫れと。

今の見仏聞法は仏祖面面の行持より来れる慈恩なり、仏祖若し単伝せずば、奈何にしてか今日に至らん、一句の恩尚報謝すべし、一法の恩尚報謝すべし、況や正法眼藏無上大法の大恩これを報謝せざらんや、病雀尚恩を忘れず三府の環能く報謝あり、窮亀(きゅうき)尚恩を忘れず、余不の印能く報謝あり。畜類尚恩を報ず、人類争か恩を知らざらん。

 其報謝は余外の法は中るべからず、唯当に日日(にちにち)の行持、其報謝の正道なるべし、謂ゆるの道理は日日の生命を等閑(なおざり)にせず、私に費やさざらんと行持するなり。

 光陰は矢よりも迅(すみや)かなり、身命は露よりも脆(もろ)し、何れの善巧方便ありてか過ぎにし一日を復び還し得たる、徒(いたずら)に百歳生けらんは恨むべき日月(じつげつ)なり、悲しむべき形骸なり、設い百歳の日月は声色(しょうしき)の奴婢(ぬび)と馳走すとも、其中一日の行持を行取せば一生の百歳を行取するのみに非ず、百歳の佗生をも度取すべきなり、此一日の身命は尊ぶべき身命なり、貴ぶべき形骸なり、此行持あらん身心自からも愛すべし、自からも敬うべし、我等が行持に依りて諸仏の行持見成(げんじょう)し、諸仏の大道通達するなり、然あれば即ち一日の行持是れ諸仏の種子なり、諸仏の行持なり。

謂ゆる諸仏とは釈迦牟尼仏なり、釈迦牟尼仏是れ即心是仏なり、過去現在未来の諸仏、共に仏と成る時は必ず釈迦牟尼仏となるなり、是れ 即心是仏なり、即心是仏というは誰というぞと審細に参究すべし、正に 仏恩を報ずるにてあらん。