釈尊聖像模造

聖者印度参拝記念

「西へ往く教えの親の恋しさに せめて御跡を巡りてもがな」

「なかなかに聞くさえ難きみ仏の 御跡訪う日の嬉しかりけり」

 お釈迦様への思慕の念一方ならぬ聖者は、折しも日清戦争の最中、明治27年暮れから五十日間に渡り念願の渡印、仏跡参拝を果たされました。

 仏跡参拝により釈尊の追体験をされた聖者は、改めてミオヤの光を悦ばれ、自他共に世尊の聖意を伝えんと意を新たにされたのでした。渡印後の聖者は好んで釈尊像や伽耶大塔を描かれ、必ず付加された「印度参拝紀念」の御署名に、そのお歓びの程が如何ばかりであったかが伺われます。

釈迦三尊像

ブッダガヤ及び鹿苑の古塔煉瓦を持ち帰りしを細末にして、釈迦三尊像に薄く色を付けた一寸五分に一寸ばかりの和紙印画を幾千枚となく作って有縁に分たれました。 (『日本の光』156頁参照)

「弟子  大聖世尊を欽慕の余り印度聖蹟に参拝 而して仏陀伽耶及び鹿野苑の古塔煉化をもち帰り 細抹して聖影に着し 同志の信家に付す 見聞の縁 願くは共に仏道を成ぜん 沙門弁栄」


釈尊聖像・模造ノ趣意書

ブッダガヤより持帰った土を混ぜて数千体の釈尊像を造り、聖者に帰依厚き陶工師河合瑞豊氏の手で焼き、これを京都では浄土宗各本山をはじめ、禅宗東福寺、日蓮宗本圀寺、その他の各宗本山、および有縁の各宗寺院に参詣して奉納し、また奈良に赴き東大寺、西大寺、興福寺など各本山に巡拝して奉納し、その他有縁の在家に分ち、多数は関東に持帰り、遍く全国の有縁に寄贈されました。(『仝』参照)

像横面刻 平安陶工信道

仏陀伽耶菩提樹下土砂  拈和模造彼聖像  願見聞共成仏道 仏跡拝礼沙門弁栄



聖像模造の趣意書 

聖像模造の趣意書

経に曰く、「如来無尽の大悲を以て三界を矜愛(こうあい)し、世に出興し給いて、無量の衆生を教化度脱し給う」 良(まこと)に惟(おもんみ)れば、吾曹(われわれ)衆生無始よりこのかた生死に没在し輪転休むことなし。此に於て吾が大聖世尊、無尽の大悲を以て世に出興ましまして、慈悲方便して解脱得道せしむ。其の広大恩は言思の及ぶ所に非ざるなり。弟子弁栄、生を遺法の末にうけ、身を仏門に寄せ、白毫光裡に生息す。況や法喜禅悦の味を擅(ほしいまま)にし無上甘露の妙楽を受に於ておや。夙(つと)に大聖世尊の神風を欽景し聖徳を仰慕して恋念歇(つきる)ことなし。願わくは生前一たび印度に渡航し聖跡に往詣して、謝し難き恩を謝せんと実衷を吐露して十方の法俗に訴えれば、衆の大に好意を得、加祐を被ること甚だ厚し。遂に昨年十二月を以て彼の印度に航し聖跡に往詣して、即ち一月下旬聖迹道場地に詣る。時に精舎の仏像前に跪き敬礼合掌して妙色身を瞻仰(せんごう)すれば、聖容儼然として在(まします)が如し。無尽の聖徳尊容に相し大慈仏眼に充てり、歓悲歎胸に溢れ感涙止め難し。亦聖菩提樹金剛座の前に拝礼恭敬して世尊の往昔を憶想すれば、吾が慈父此の道場に座したまい、一夜神風を起こして摩羅の障雲を払い、香風清涼の暁、正覚の妙花開く、仏日世間に出て無明の闇を照破す。果分甚深なる因分浅からざることを念ず。往昔の菩薩初発心より衆生の為の故に身命を捨て長時長劫に苦行を修したまう恩徳の高きは昊天極まり無し、また念願すらく、弟子の宿望既に遂れども追慕遂に止め難し、何を将(い)てか遺影に擬(なぞらえ)し恭供して恩徳を報ぜん。聖菩提樹は仏此の下に証果す、世尊既に其の恩を憶したまうと。依って道樹の根際の土を以て聖像を模写し同胞と共に供養を修せんと。即ち稽首(けいしゅ)して白(もう)して言(もう)さく、我障重く未だ仏に遇わず世妄起こり邪見正法に違せり、自ら悪業を造りて苦海に沈む、皆解脱勝縁を欠くに依りて身辺土に生ずるも、法末の時正法を聞き得て大聖の恩を仰慕す、聖風年已に久し、今聖迹を拝し歓喜甚だしく聴を垂る、道樹の根際の土で如来万徳の像を造作す、見聞し随喜する諸衆生、願わくは同じく心を発し仏道を成ぜん。此の願をのべおわりて稽首し礼をなして去る。本国に帰るに及びて仏工陶工に托し聖地の土砂を和して聖像を造作せんこと若干千たらん。以て吾有縁の同志に附す。弟子弁栄仰ぎて十方の時衆に啓す。弟子今聖像を模造して諸の仁者に附すること仏無極の恩に報ぜん為にして、且は無上の勝縁を結ばんがため、仁者は已に正見を起こし正法に帰す。道業を修め道果を期す、願わくは今日より尽未来際、慈悲を以て相向い仏眼を以て相視て菩提まで眷属し、共に真善知識と作りて道業を勧奨し、乃至成仏せん。是弟子が至心誠意、諸の仁者に望む、幸くは信明したまい。 

 明治28年4月   弁栄和南

此聖像は仏陀伽耶精舎の菩提樹に向う龕(がん)なる図を模写したるなり。該(その)精舎は菩提樹の東に高百六七十尺、下基面広二十余歩塁、青甎(かわら)を以て塗るに石灰を以てす。層龕に皆像あり、四壁奇製を鏤(ちりば)め作す。或は連珠形天仙像上に阿摩羅果あり、東面接して重閣をなす。精舎の故地、阿育王先に精舎を建て、後に波羅門あり、更に広く建設せり。其の縁由西域記にあり。曰く、初め波羅門仏法を信ぜず大自在天に事(つか)う。伝えきく、雪山(せっせん)の中に天神在(ましま)すと。遂に其の弟と共に往きて求願す、天の曰く、凡(すべ)て諸の求願の福方果あらんとする、汝が祈る所我れ能く遂(とげ)しむるあたわず。波羅門曰く、然らば何の福を修してか、以て所願を遂ぐべきや。天の曰く、善種を植て勝福田を求めんと欲せば菩提樹は聖果を証し玉う処なり。宜しく時に速やかに及びて菩提樹に住して大精舎を建て、大水池をほり、諸を興せば、所願当に遂ぐべしと。波羅門天の命を受け大信心を発し相率(ひきい)て返る。兄精舎を建て、弟水池をほり、是に於いて広く供養を修め心願を勤求すれば、後皆果す、遂に王大臣と為る。凡て禄賞を得れば皆入りて施捨して精舎已(すで)に成す。工人を招慕して如来初成仏の像を図しめんと欲すれども、曠(むな)しく歳月を以て人の召に応ずるものなし。久くして波羅門あり、来りて衆に告げて曰く、我よく如来の妙相を図写せんと。衆曰く、今将にそれ何をか須(もち)ゆる所ぞ。曰く、香泥のみ宜しく精舎の中に置き、幷(ならび)に一の灯を以て我を照しめよ。入り已り堅く其の戸を閉め、六月の後、戸を開くべしと。時に諸僧衆皆其の命の如くして、尚四日を余して六月満たざるに、衆咸(ことごと)く駭(おどろき)あやしんで開きみるに、精舎の内に仏像儼然とて趺坐す。右足上に居る左手斂(おさめ)て、右手垂れて東面に座せり。蕭然として在すが如し。座高四尺二寸、広さ丈二尺五寸、像高丈一尺五寸、両膝相去ること八尺八寸、両肩六尺二寸、相好具足して容顔真の如し、唯右乳上図営未だ周らず。然れども人を見ず、方に神鑑を験(しる)して衆咸(ことごと)く悲嘆して慇懃に知らんことを請うに、一の沙門あり。宿心淳質の感夢を見ること即ち波羅門に告げて曰く、我是慈氏菩薩、工人の思い聖容を測れざることを恐れ、故に我躬(みずか)ら来りて仏像を図写す。右の手を垂るるは昔如来仏果を証せんとする寸、天魔来りて嬈(なや)む。地神告げて至り其一人前に出て仏を助けて魔を降ろす。如来告げて曰く、我が忍力を以て彼を降ろすこと必せり。魔王曰く、誰が明証を為す。如来乃ち手を垂れて地を指して言わく、此れに証ありと。是時第二の地神踊り出て証をなす。故に今の像の手、昔に倣いて下に垂るると。衆その霊監を知りて悲嘆せざるなし。その後、設賞迦王、菩提樹を伐り已りて此の像を毀さんと欲すれども、慈顔を瞻るを心安忍せず、駕を回して返すと。宰臣に命じて曰く、宜しく此の仏像を除きて大自在天の形を置くべしと。宰臣旨を受け、懼(おそ)れて歎じて曰く、仏像を毀す等は歴劫に殃(わざわい)を招く、王命に違せば身喪(うしな)い族滅せざる進退、如何が行うべきと。乃(すなわ)ち信心あるものを召して役使せしめ、像の前に横甎壁を塁(かさ)ね心の冥闇を慙(は)じ、又明灯を甎壁の前におき自在天を書き、功成を報ず。王聞心を懼(おそ)れ身を挙げてぼうを生じ肌膚を攫(つか)み裂き、久しからざるに便(すなわ)ち没す。宰臣馳せ返し障壁を毀(こぼ)つ。時経て多日、灯猶滅せず、像今在(ましま)して神工かけず既に奥室に処す。灯を以て乃ち霊相を覩る。それ見ることあるものは自ら悲感を増すと。