『弁栄聖者』






あなたは如来様をオヤ様と呼べますか


ある僧が、聖者が講義の中で如来さまのことを「親様」とか、「ミオヤ」とか言うのが耳ざわりで仕方がなかったので、「如来をオヤ様なんて言う呼び方は」と問いかけると、聖者はすかさず「ではあなたは如来様のことを何とお呼びになりますか」と反問。そこで彼の僧は「アミダ様と呼びます」というと、聖者は「あなたは他人行儀な方ですね。あなたは自分の父親のことを呼ぶのに、その名前をお呼びになりますか、それともお父さんと申されますか」と。信仰が本当にその人の生命となっていればこそ、如来様を自分の心霊の大親様と受け取り、大ミオヤともオヤ様ともお呼び申上げるのです。(藤堂恭俊先生著『弁栄聖者』185頁)


弁栄聖者から直弟子熊野宗純師へのお言葉

聖者は「あなたはこれまで、如来さまをオヤ様と呼んだことがありますか」と問いかけると、熊野師は「はい、いつもさように申しています」とお答えすると、さらに聖者は「それでは、あなたは如来さまを、あなたをお産み下さった母のように思いますか」と問いただすと、「いいえ、そうは思ったことがありません」と、熊野師は恐る恐るありのままをお答えすると、「それでは何にもなりません。真剣にお念仏をしてごらんなさい。きっとそういう思いが心の底から湧いてきます」と、教えるように促したことであった。熊野師は「腹をえぐられたように感じ、長い眠りから目ざまされたように感じた」とのことであった。(『仝』222頁)

( 聖者直弟子  田中木叉上人のことば  )

 この宇宙・大自然は、限りのない光が全てのものを隈なく照らし、慈悲があらゆる処に満ち溢れている、無限の大生命体であります。それは、言い表せないくらいダイナミックな物凄いエネルギーであり、そのエネルギーが全てを貫いて流れ入り、流れ出している一大霊体であります。

 これを大霊体とか大威神力とか、言葉で表すには、あまりにも温かく、何とも言いようがなく、大きな力を感じさせるものであります。その大愛の一端に触れ奉った者には、慕わしくて、憧れて、引き寄せられずにおられません。

 その気高さ、尊さ、力強さ、温かさ、安らかさが、合掌して拝む者の心身を貫流するのであります。

 このような情味が溢れる恵の力を、心身に体験した者には、この宇宙・大自然は実に万物の生命の本源であり、いわば、「大ミオヤ」というより他には言葉がないのであります。

   (『田中木叉上人遺文集』より木叉上人の御言葉)

祷詞(いのりのことば)


(明治34年頃)  愛知県荻原神宮寺で起草したものに、現今の『如来光明礼拝儀』の原型というか、そういう着想をもつ「祷詞(いのりのことば)」がある、これは半紙に書かれたもので出版されずに終わったものでありその点煩わしいようであるが、ここに掲げて記念としよう。


祷詞 ― 日々この祷詞のこころになりて信念いやましぬらなんことをねがう ―

とこしえにして光なる阿弥陀如来よ、慈愛を垂れて我らをまもり給え。よき心をして日々にきよらかしめ、この世と共に後の世も安き御国に在らしめ給え。

朝の祝祷(しゅくとう)

超世本願の主にして慈悲のミオヤなる阿弥陀如来よ。我らはあなたの力に依りて生き働きあることを得るなり。「あなた」は常にあわれみを以て我らをかえりみ、昨夜も我等の身を護り、わざわいなきを得せしめ、又一日のいのちを加え給えり。故に今日も心と身をささげて、み栄を顕わすのつとめを為し奉らん。

あなたの知り給う如く、我らは性質が甚だ弱くして悪に傾き、又日々に遭う所の誘惑すくなからず。願わくは慈悲のみひかりを垂れて我らの弱きを助けて、悪しきむさぼり・いかり・愚痴などの毒を掃い給え。願わくはこの日に於いて各自の身を修め、つとめを励み、いささかたりとも世の為、人の為にあなたより受けたる使命をはたすのみ栄を与え給え。

夕の祈念(おがみ)

きよき御国にましまして無上の権威を備え給う阿弥陀如来よ、「あなた」が私どもに向いて明けき光と、新しき活気と、きよき糧とを与えて我らのいのちを養い、一日の使命を果たさしめ給える恩徳を感謝し奉る。ここに我らは己の不善なるを感じ、神聖・正義と恩寵なるあなたのみ前に於いて、心の迷いより犯せる罪を発露懺悔したてまつる。唯願わくは罪に亡びる事を好み給わざるあなたよ、我らが懺悔を受けて、すでに犯したる罪咎(つみとが)を許し、再び過ちに陥ることなき潔き正しき人とならしめ給え。これらの恩徳を深く感じ、ただ言葉のみを用いるにあらず、己をささげて清き行為を為し、あなたの子たるのみ栄を与え給わんことを、きよき聖名に依りて冀いたてまつる。(『弁栄聖者』105頁)

南無阿弥陀仏