今現在説法


龍飛水先生『自然のくらし 空外語録』
より抜粋 文責  石川乗願

自然のくらし

花そのものには変わりはないけれども、花のわかり方や感じ方は一人ひとり違います。それがわかるのをサトルといいます。世の中を自分が思った通りだと考えるから、そうでなければならないと思い込む。それは迷いです。そうとばかりもいかないのだということも考えてみなければなりません。一律に、自分の思う通りの枠で皆に期待するのは、無理がある。

 ナムアミダブツ、ナムアミダブツと称える習慣がついてしまうと、呼吸そのものがナムアミダブツと聞こえるようになる。そうなったところを不断念仏といいます。ナムアミダブツを称えるということは、ナムアミダブツの中身を生活の中に生かしていくことです。一息ごとにナムアミダブツを称えて、大生命の根源に自然に帰入してゆくのです。

 易道というのは容易の易です。本を読んでも寝ていてもできます。それを易道といいます。

 息をするのは生きているということです。生きているのは自分の力で生きているのではありません。自分で心臓を回しているのでもない、血液を循環させているのでもありません。自然のいのちを生きているのです。宗教は生きること自身に取り組むのです。宗教は、生きているそのことがどういうことかを問題にしています。大自然の命を生きている、そこへ自分の心にはまりがつくと息がナムアミダブツになる。生きている自然の命そのものに取り組んで、その命を通わせるのです。

 十二光の焔王光は如来の光明で、煩悩を取り除くことが出来るのです。煩悩は自分勝手ということです。根性が曲がっている。他人はどうでもいいと思い出す。ところが他人もまた自分勝手をするからお互いが邪魔のし合いです。そのように歪んでいるものが、大自然の命の光に照らされるとその歪みが正されて、筋が通って、自分を自分なりに生かし切っていくようになる。その命の原点を宗教といいます。宗教だけが自分の命、今、生きていることにズバリと正面から取り組むのです。

 我々は何十億年もかかって生まれてきたのですから、何十億年もの自然のおかげを、自分一人ひとりなりに社会をどこまで照らすか、それが永遠という意味です。現成というのは命の現成です。口先だけで観念的に言うのではありません。今、現に成就している、実らし切っているということです。それだけが本物です。口先で観念的には、デタラメでも言えます。そうすると自分もダメになるし、周囲をもかき回すだけで何にもなりません。みんなをサトリの光で照らして、生かさせていく。おシャカさまは、自灯明といって、まず自分がサトラなければ始まらないと言われました。自分がサトラなければ、行く手を照らす光はありません。人生が二つも三つもあるなら、ごまかして、死んでもいいでしょう。しかし、明日もわからない、二度とないこの一生を迷って死ぬなら、何十億年もかかって進化した命の光は消えてしまいます。それでは大自然のおかげにも申し訳がありません。何十億年もお世話になって、ようやくここまで進化したのですから、サトリの光に照らされながら、われわれはその進化の実りを全うしなくてはなりません。

       茶道

 太陽が照らすのは、どんな人にも平等に照らしています。茶道とは、それを生きることです。自然ということです。それができなければお茶をやってもダメです。人間がそうならなければならない。

       書道

 書道も同じです。書は自分の命の根源が生で動かなければならない。

       仏道

 人間は自分の力ではない大自然の命のおかげで現代の状態まで進んで、心の中に宝をいっぱい持っているのですから、大自然の命の根源へズバリとはまりがつくような生き方を目指すのが自然です。おシャカさまがサトラレタのは、その命の根源にズバリとはまりがつかれたことをいうのです。見仏というのはそれを言うのです。自分が神様になる。それには自分勝手さえ止めるだけでいい。ナムアミダブツ、ナムアミダブツと申して大自然の命の根源に還ればよい。アミダさまは万物の命の根源です。アミダさまに還れば、進化して心の宝、命の宝であるアミダさまの智慧の光に照らされるのです。

 私の出来ることはナムアミダブツで転依することだけです。お金も大事です、しかしもっと大事なのは人間の命です。まだ大事なのはその命が何によって生かされているかの訳です。自分の命の根源に頭を下げるのです。命の根源へ飛び込むよりほかないのです。それにはナムアミダブツで転依して、自分勝手さえしなければいい。転捨の捨てるというのは、今まで外見の間に合わせで生きていたのが、自分勝手に気付くところまで進めば、気付いただけは捨てたことになる。

 ナムアミダブツを不断に実行する生活をしてみなければ、ナムアミダブツでわかったとかサトッタという心は開けませんよ。

                    『ナムアミダブツ』 空外語録26

 大腸菌のような単細胞の生物が地球上にできたのが30数年前、それからサトレる人間が生まれ出るまでに30数億年かかりました。そうなることは地球が回り出す前から決まっています。ひょっこりと命の恵みのもとができて、それが人間になったのではありません。ずっと前からそうなるわけがある。それを『無量寿経』には、今から十劫の昔に、願行が成就してはじめてアミダさまという名前になったと書いています。

 普通、観音菩薩というと慈悲、勢至菩薩というと智慧ということになっています。何故かというと、智慧と慈悲との両方でアミダさまの中身が決まるからです。この大自然の命の恵みのもとがアミダさまとお名前が決まる前から智慧や慈悲はあります。勢至の智慧がなければ平等の慈悲は出てきません。智慧が足りないとえこひいきをやる。平等でないとそうなる。太陽が照り、地球が回るのはアミダさまの智慧の働きですよ。

 観音さまと大勢至さまは最尊第一ですよ。なのにアミダさまの下のように思っておられるのは取り違えです。勢至菩薩も観音菩薩も大宇宙(三千大千世界)を普く照らすのです。

 極楽へ往くのは、胎生を必要としません。化生で往くのです。私が字を書くときは、アミダさまになって書いています。化生している。極楽は、どこへでも化生できるのです。勢至菩薩の力というのは、自然ということと化生ということしかありません。

 一心専念と、二十四時間を通して、一息ごとに一徹にナムアミダブツの生活を実らせていくことです。われわれが生きていることの原点にズバリと心のはまりをつける。つまりアミダさまとは何かと、ズバリとはまりをつける。

 われわれが寝られるのは、アミダさまが寝させてくださるのです。この指一本でも、自分が思うがままに動いて、字も書ける、仕事もできる、食事も歩行もできる、それが指の命ということです。皆さま、お一人おひとりに大宇宙の命の働きがつながり、それに護られて生きられています。それに気付く心が開けてくれば、いのちのありようは平等以外にはないと気づきます。世の中は、花も鳥も魚も雲も雨も、人間も、平等に生きるために、みんな自然の命のおかげを受けている。それで生きられているのに、なぜ、自分勝手を考えなければならないのか。少しでもみんなのためになれば、これ以上うれしいことはないではありませんか。それがナムアミダブツということです。結局人間の社会の惑いは、自分の心のありようなのです。みんな自分の心の中にあるのです。何はさて置いて、自分がサトルこと。そしてサトッテくるほど、みんなのために尽くせることが楽しくなるのです。サトルという観念を議論するのが仏教じゃない。まず、自分がサトラなければなりません。「自帰依 法帰依」というのは、自己を拠り所とする。簡単に言えば、自分がサトラなければ、ものにならないということです。サトルには法がいります。ナムアミダブツと称えることです。

(コンちくしょうのコまで口に出ても、そこでコ・ナムアミダブツと心をアミダさまへと転じるのですと、空外上人は「転依」の大切さを教えてくださいました。煩悩を転じてサトリへ、それは生きている限り絶えずです。ですから、空外上人は「転依無量」は生涯の課題だと申されました。)

                       『勢至菩薩』 空外語録28

 「経・律・論の根ざすもの」というテーマの「根ざすもの」とは、根本ということですが、その根本は人間形成で、人間にならなければならない。

どのような人間になるのがよいか。私は望ましい人間像を「無二的人間」といっています。無二とは自分勝手ではないこと、二とは自分と相手です。無二というのは、自分と相手が対立しないという意味です。

       善導大師『広懺悔』 

アミダさまという命の根源、生きられるおかげの総まとめである自然の大きな命でもって、花が咲き、鳥が飛び、人間も生きられるように護り育ててくださっているのです。そのアミダさまのいのちにお任せするほかに手はない。それが懺悔につながるのです。懺悔とは、自分がわかったことをすべてのように思い違いをして、あの人は悪いとか良い人だとか簡単に決めたがりますが、一部分しか知らない、全体がわからないことについて言われるのです。

大自然の命の前には、今までやってきたことはいい加減なことです。もう頭を下げるよりのほかに手はないのです。

       弁栄聖者「五戒」

1.「殺すなかれ、己の霊性を」   一人一人みんなそれぞれが満点の生き方ができるのです。それをいい加減にすることが自分の霊格を殺すことになるのです。

2.「盗むなかれ、努力の光陰を」  与えられたせっかくの命を実らせるための時間を無駄にする。それは自分の為にも世の為にもならないし、惜しい。

3.「淫するなかれ、天魔の使いと」 一人一人が深く広く悟って、力いっぱい自分なりに命を実らせ切っていく毎日の生活を台無しにしない、ごまかしにしない。

4.「酔うことなかれ、肉と我に」  自分勝手な考えで、目先の損得ではなく、自分なりに、自分の力いっぱいに、その時出来る限りを努めて、楽しく生きていかなければならない。

5.「欺くことなかれ、己が良心を」 人さまではなく、自分が自分の心を欺いてはいけない。

             『経・律・論(三蔵)』のめざすもの 空外語録32

自然に吹く風でも、われわれが菩薩の心になっていると、極楽の「七宝樹」の「音声」として味わえるのです。私は七つの宝の樹の音声をいつも聞いています。七つの宝の樹の音声がナムアミダブツです。アミダさまの永遠の命の中から七宝の木の根が生えている。だから、夜寝ていても心臓が動いているのです。

それに無条件に頭が下がるような、心の豊かさというか、清らかさ。ナムアミダブツは、命の根源へ、心のはまりがついた音です。

 そして本当に大宇宙の命を、自分なりに生きられるということになると、その命のその深さというか清らかさが、感じられるようになるのです。

                         『七宝』 空外講録33

       いのちの願い 至心懺悔

 本願とは、人間に生まれてきて、何のために生きるかということを考える上での究極の根本的な願いです。

血液が心臓から出てまた心臓に戻るのにわずか20秒です。血液が血管の中を回らなければ生きられない。それが血管の役目ですよ。一度でも自分の血管に手を合わせたことがありますか。

自分の大事なこの命は、地球が回りだしてから何十億年もかからなければ生まれてくることが出来なかった。それが、たまたま生まれてくることが出来たのです。これは千載一遇どころではありませんよ。もう今、サトレタ生き方が出来なければ、大自然の命にたいしてすみませんね。

太陽系がいくらあるかわからないぐらいの大宇宙が、みな私自身が生まれるために全力を尽くしてくれているのです。そのおかげに対して申し訳ないではありませんか。               

       「空・仮・中」の三諦

 アミダさまとは命の根源ということです。生かされるおかげのもとです。それに「ナム」と手を合わせる。アミダさまというのは、計り知れないということです。計り知れないおかげに「ナム」と頭を下げる。そうすると、心持が広くなります。偏屈にならない。「仮」を生かしていく。自分なりに力いっぱいの仕事を全うできるのです。それを「中道」といいます。

生かされるおかげの中に恵まれて暮らしているのですから、頭を下げる。

ナムアミダブツのナムは頭を下げるという意味です。

人間が人間になるのには、どうしても自分の命が生かされるおかげに頭を下げなければなりません。それに気付いた人を仏というのです。

おシャカさまがサトラレテから約千年たって、生きられるおかげが、ナムアミダブツと一息で言える言葉にまとまった。

全仏教が、ナムアミダブツと一呼吸で言える言葉にまとまったのです。

全人類が、これから生かされるおかげに、お互いに頭を下げあって、人さまの命を大事にし、自分の命も大切にして、共々に人間として、人生を実らせていこうという生き方、それがナムアミダブツです。それしかありません。

                       『唯仏与仏』 空外講録34

 ナムアミダブツとは、絶えずこれを称えながら生活してゆくのであるから、日々の社会の出来事を受け取ってゆく入れ物の如きものであろうか。

世間の出来事を受け取ってゆく入れ物として、万事をナムアミダブツで受け取って行きもするところに、この念仏三昧の生活を照らす光はいわば底から来る。

                  『往生と悟道』(仏道身辺) 空外講録35

世間は虚仮ですから、極楽は遠いところにあり、見当もつきません。それで、仕方がないから、死んでから往く所だということになっただけです。極楽は、本当は「世間虚仮」のド真ん中にあります。「去此不遠」此処を去ること遠くないと言えば、ここがアミダさまのおられるところだということです。今、極楽の生活をしなければ間に合わない。法然上人の『選択集』で、「速やかに」、今すぐと、サトルのは即、今、死後ではない、とはっきり抑えておられます。

もし、そうしようと思えば、誤魔化しばかりしていてはダメだということを言っておかなければなりません。それで、「まさに三福を修すべし」というのです。

一には、父母に孝養し、師長に奉事し、慈心殺さず、十善業を修す

 何が大事かといっても、今、自分が生きていることが大事です。その元は親のおかげです。 また、慈悲の心とは相手を生かすという事です。殺さないという事は、生かすという事です。生かしていくという事がすべての始まりです。

二には、三帰(帰依仏-帰依法-帰依僧)

を受持し、衆戒を具足して威儀を犯さず

 三帰でいう仏とは、サトッテみれば自分の事です。手も足も目も私の身体中、みな仏さまです。アミダさまというのは、自分より他にあるわけではありません。三帰依というのは、簡単に言えば、自分勝手をしないという事です。衆戒、多くの戒を具足するという事は、相手を生かすことです。人間は自分勝手をすると、相対する人やものと、どうしても対立します。自然に生きさえすればそうはならない、自然の生き方とは、みな周囲を照らしていることです。

三には、菩提心を発し、深く因果を信じ、大乗を読誦し、行者を勧進す

 自分が生きられるおかげを、周囲の方々も一緒に実らせることが出来て生きていくことを極楽というのです。菩提、サトリの心をおこしていくとそれが三つになる、それを三福といいます。その三福を予想して、九品の浄土といって、浄土を上中下に分け、さらにその上中下を、三つに分けると九つになります。三福は九品に直結しています。それは「法」が行われるその状態というか、その場であり、極楽といってもよいです。

                         『三福』 空外講録36

 人間は何のために生きているのか、それは周囲を生かすためです。樹を生かすため、石を生かすため、周囲の山を生かすためです。そういう仕事をすることをサトルというのです。「三十七道品」の重点は、サトルということ、人間が人間になるということです。そうならなければ、人間に生まれてきた甲斐がない。自分が自分になる、自己が自己になれる、というのは、自分を大切にする生き方です。もう少し自分の命を大切にしなければならないということです。生きているということに、もう少し本気にならなければなりません。

 アミタはインド語で命の親という意味です。われわれが生きられるおかげの総まとめに、アミタという名前を付けているわけです。それを哲学的にいえば命の根源、宗教的にいえば、生きられるおかげです。

インド仏教で空観から唯識に進むのは、心(識)が深まらなければ、生活の光とはならないからであります。

 太陽の光一つで生き生きと花も開き、虫もよみがえり、魚が泳ぎ、鳥も飛ぶ。われわれが本当に仕事が出来るようなはたらきが太陽の中にある。太陽に限りません。吸う空気、飲む水もそうです。われわれの身体はほとんどが水です。それはいのちの水です。そういうおかげを受けているのですから、その方に心を向け、生きているということをもう少し拝む必要があります。

 大きないのちの中に、自分なりにズバリとはまりこんでしまえば、豊かで、深く、見ても、聞いても、心の底から本当に感激するようなはまりがついてくる。そこで悦びが無尽蔵に生まれ、それから屈託のない意志が動いて、智慧のサトリが開かれる。それも限りがありません。われわれの知情意が深まって、自分の命が生かされるおかげの元にはまりがつく。

 われわれは自然のいのちに対して拝むこころを持ち、命の根源に還る、それ以外必要なことは何もありません。

                      『三十七道品』 空外講録37

 自由ほど人間として大切なことはありません。人間だけが自由を享受して、それを一番大事にすることができるのです。自由の根本は生命の自由です。それは「本願」と言って根本的な願いです。人間は、動物じゃなしに人間になれるような元の願い・本願を持っています。そしてその本願は言葉(念仏)です。人間は、大自然のいのちから生まれ出て、長い間、進化を重ねて、初めて言葉を使いだしました。それがナムアミダブツという言葉で、人間の根本の願い、人間に生まれてきた値打ちが実るようになっているのです。 コン畜生のコンの字が出ても、「コン ナムアミダブツ」と称えるといい。

 我々人類が人間に進化したのは、自分勝手に進化したのではありません。大自然の永遠の命の進化の道程で、初めて人間として生まれることが出来るようになったのです。太陽が照らすのも、地球が回っているのも、海ができて浅い所に命の原形が生まれたのも、物好きで勝手にできたのではありません。植物や魚類、貝類はむろん、動植物も、また耕す土や降る雨など、この地球上に、人間が生きられる用意がみな万般整った後に、ようやく人間が生まれてきた。食べ物や薬など皆自然界には用意されてあって、人が生きるのに、不自由が無いようにして人間が生まれてきているのです。自然界の全部が一つになって人間が生きられるように護ってくれているのです。

 皆さま一人ひとりが、いのちの根源に護っていただかなければ生きられません。手が動くためには、手先だけ動けば良いという訳にはいきません。全身が関係しているのは明らかなことです。われわれが夜、熟睡していても、心臓が回っている。命は、われわれが、生きても死んでも永遠に働いています。それを「空」というのです。「空」がわかってくると、一人ひとりのする仕事が、一人人なりに本物になります。何をしてもそうです。それがいのちの根源に還るということです。

 ものごとは一つだけつまみ出すと損得があります。器量は悪いよりも良い方がいい。貧乏よりも金持ちのほうがいい。病気よりも健康の方がいい。世間ではそのような使い方に決まっています。一つだけ取り出せばそうなります。が、病気になりたい人はいませんが、なったおかげで、病気にならないとサトレないことはいくらでもあります。人間が人間になるのに、本当に心がけ一つです。今日の人たちは、大切な心の問題を、お金の多い少ないにすり替えています。お金のことだけを考えると、無いより有る方が結構ですが、「それだけというものは、この世界にはない」というのが「空」ということです。全てのものがつながりあっているからです。ですから、損や得やという計量を絶していかなければならないのです。極楽という結構な場所がどこかにあって、そこへ連れて行ってもらえばいいと思っている方がおられるならば、それは計量ではありませんか。極楽を計量している。浄土の浄というのは自分勝手でないということです。自分勝手で、自分さえよければいいというのでは、どんな仕事をしても値打ちがない。欲の為にやると、本当に間に合わせの仕事しかできません。その時その時の間に合わせをやっていると、本当に何にもならない。自分勝手ではなく、他人さま、世の為に使うということに肚を決めたら何でもありません。そうなるなら、お金は多くある方が、世のお役に立てるから良いでしょう。

 ナムアミダブツのアミダは自然ということです。一回息をするのに、どれだけ自然のおかげを受けなければならないでしょうか。まず空気がないといけませんね。空気ができるは何十億年もかかります。地球が回っていないと、すぐに心臓は止まってしまう。寝ていても心臓が動いている。それで自分なりの仕事ができている。これ以上ありがたいことはない。万事がそうです。それを「勿体ない」といって、「良い自然(極楽)」を拝めばいいのです。

 人に悪口を言われても、あの人が自分の悪口を言っているけれど、ほかの人はそれを聞いていなかったなど心配することはありません。自然に任せておけばいいのです。私はちっとも心配しません。誉められる方がうれしいですが、悪口を言われると、あの方の考え方からするならば、その程度の批判をするのかと思うだけです。悪口も知らないよりも知っていた方が参考になる。病気で寝ていても構いません。仕事ができないから、その方のところに命のおかげが働いていないのではありません。そのまま、ズバリと、命の根源は、その方が病気で寝ていても、おかげを、その方が受け尽くせるようにして下さっている。

 得だと思うと夢中になって飛び込んだり、損だと思ったら初めから逃げ腰ではいけません。得ならば、本当にその得を何倍も値打ちのあるように生かす。病気をして損でも、病気を生かす受け取り方ができると、かえって得をした以上にサトレルことが多い。われわれは一つもガッカリすることも、四苦八苦する必要もありません。どんなにひどい目にあったと思っていても、そこで「命の根源に還る」という安楽な暮しが成り立つようになっているのです。どんな所でもアミダさまのおかげは宿っているのです。どんなに貧乏で病気で寝ていても、大丈夫、宿って下さっている。そのアミダさまのおかげを心にサトッテいけば、われわれは貧乏だから病気だからつまらないという考えは本当に消えてなくなります。

 だから念仏は行じなければなりません。自分のする仕事の中に、念仏を生かしていかなければなりません。それが「行」です。生活といってもいいでしょう。身体の不自由な人でもナムアミダブツといえばサトレます。それを自由というのです。一人ひとりが、小さい枠を考えずに、自分なりに、ズバリと命の根源へはまりこむことが出来れば、仕事もうまく運ぶようになるし、心の上では安楽な生活が深まるのではないかと思います。

                        『教と行』 空外講録38                         

       アミダさま

アミダさまのアミタは、インド語で無量寿、計算ができない、つまり永遠の命という意味です。ですから、世の中にはアミダさましかありません。地獄とか極楽というのは、今のことで、その「今」は「永遠の今」なのです。なるべくなら、長く生かせてもらって、自分でなければできない仕事を全うしていく。その仕事の中身が「永遠の命」ということです。

       本願

「本願」とは、本来の真実の願いという意味ですの。インド語でプラニドゥハーナと書いてあります。プラニとは、前々からという意味ですから、永遠ということです。ドゥハーナのドゥハというのは置くという意味ですハーナは状態をいう言葉です。前々からそうなっている、永遠にそうなっている、という意味です。

       空と唯識

 「空」とは「おかげ」という意味です。陰ですから、目の前にはありません。大事なことですから、「お」を付けて「お陰」といいます。それをあてにするのではありませんが、自然についてくる。「おかげ」をどこで取り組むか、「縁起は空」だということは、どうしても心で取り組むよりほかには方法がありません。それで、心の問題がじわじわと空観派の前後から起こった。そういう流れの中で頭を出したのを「唯識派」といいます。唯識の識は意識で、心です。唯識とは、とにかく心で決めなければならないということです。今、得だからといって悪いことをすると、あとは一生台無しになって終わりでしょう。それでは、人間として大事な命を投げ出すことはできません。

       阿頼耶識➡大円鏡智

 心は口に出す言葉のようになるのですから、ナムアミダブツ、ナムアミダブツと称えていると、その蔵には、広く深い大宇宙、そのすべてが入っていますから、みな感じ出すのです。一度に感じるのではありませんし、人によって感じるところが違いますが、その人その人なりに、すべてを心で感じることが出来るのです。

自分とは何かというと、たいていの方は、末那識を自分だと思っているのですね。しかし、それは自分ではありません。皆さんの頭の先から足の先まで、そして周囲のすべて、太陽も地球も天空の星も、それらの全部が、みな皆さまお一人おひとりを護ってくれているのです。それに気付くと「大円鏡智」という智慧の世界が開かれます。心の窓へ差し込む光はどこからでも差し込み、心を照らします。大円鏡智という智慧の光が心を照らしてきます。

       末那識➡平等性智

 平等性智の平等は心の世界です。心は上とか下の方だけではなく、右にも左にも、いくらでも、広まり、深まって、命の真実に対して、われわれが生まれてきた甲斐がある生き方が実っていきます。それが平等です。お金持ちでなければダメな人間というのではありません。大臣にならなければダメではありません。どんな方にも、どんなお役についておられても、サトレル智慧は開けます。それを平等といいます。

       第六意識➡妙観察智・前五識➡成所作智

 新しい生命が誕生するのは妙観察智の成せる業です。前五識は成所作智になります。われわれの知っている世界はほんの一部分ですが、それが此方へも、彼方へも、何処までも広く感じる心が深まっていくのを成所作智といいます。

寝ていても念仏していますが、念仏しただけの極楽を感じます。我われは、念仏をしないと、どこまで自分勝手になるかわかりません。

                    『独生独死独去独来』空外講録39

 大事なことはみなおかげです。それなのに、ものごとを自分の手柄にすると、何にでも不平が起こります。私はこれだけやっているとか、まるで自分の力で出来ると思うからケンカになるのです。戦争もそれで起こります。

 火事で、自分の家が焼けなかったということで大喜びする人がいます。お隣の家が焼けたが自分の家は焼けなかった。そうでなければ、うれしくない。それを裏返すと、隣の家が焼けたことがうれしいということになります。私は檀家さんからお寺を預かっているのですから、寝る前に寺の内外を見回って、今日も無事でよかったと喜びます。人の家のことは関係ありません。それが人間ではありませんか。知らない間に、現在の日本人は、人間ではないものになりかけています。それを本気になって考えなければなりません。

       施餓鬼

 施餓鬼はアナン尊者が焔口餓鬼に「おまえの命は後三日しか生きられない」と宣告されたこが始まりです。しかし三日というのは文字通りの意味ではありません。われわれはいつ死ぬのかわかりません。来年死ぬのか、後もう五年生きられるのかは、わからない。それらも含めてまとめて「三日」と言っているのです。また、餓鬼というのは自分のことを言っているのですよ。迷っていては、何年生きても生きているうちに入らない。ナムアミダブツを一度心から喜び、本当に生きた値打ちのある法をサトラなければならないということです。全てがアミダさまのおかげ、命の根源の生きられるおかげであると、自分自身がサトレて、仏さまの智慧を生きていかなければダメだということです。私の頭が働くのは、地球が回ること、太陽が照ること、空気の吸えること、心臓の回ること、それらとみなつながっている。そのつながりは何千何万どころではありません。私たちの命が生かされる数えきれない条件の総まとめのアミダさま、その命の根源へ私たち一人ひとりの心にはまりがつくと、私たちが生きられているのは、アミダさまのおかげだとわかる。そしてサトッテみると、人が腹を立てたり、喜んだりしているのはまるで漫才のように思えます。

                        『開示悟入』空外講録40

 本願はインド語でプルーパ・プラニドゥハーナ、前に置く、つまり地球が回るその前からという意味です。回る前から置いてあるのだから、回り出したからこうなったと納得する。それを自然といいます。自然の命の根源を生きるということ、前々から置いてあるように生きていくのが肝要です

 地球上に、おシャカさまのような方が出られて、命の根源に還る道筋を教示された。それが今日まで進化した人間のサトリです。我々が為すべきことは、命の根源に還ること、命の根源の命そのものずばりを、自分の仕事に生かしていく。それしかありません。何千年何万年たっても、仕事はそれしかありません。

 ナムアミダブツという言葉は同じですが、人によって、時代によって、その意味合いが違います。それをこれからお話をします。

我々がナムアミダブツ、ナムアミダブツと命の杖をつきながら仕事に取り組むことです。アミダさまと自分が一つになる、一つになる前から一つなのです。46億年も、地球が太陽の周りを回ってくださった、そのおかげに報いるのに、人まねをしたり、人をうらやんだり、人の邪魔をしたり、けちなことをするのではない。大自然の命と一つになって自分の出来る限りを尽くしていくことしかないということです。生きているということに於いては、おかげでないものは一つもありません。ナムアミダブツと声に称えて、自然の命の根源にはまりがついて、自然に照らす命の光に導かれて、進むべき道を精進していく。損得の計算でケンカしてへこたれていないで往く、進むということです。

 ナムアミダブツは『観経』の下品に「いのち終わらんとする時に」と出てきますが、これを表面的にしか理解しない方は、自分の身体が死ぬ時だと思っています。文字面ではこの世とお別れする時を指していますが、命は、今日は今日で終わり、今日の命は二度と来ません。明日は明日で終わります。だから、人は誰でも、毎日、いつでも死んでいるとも言える。それが「臨命終時」の意味です。その時に「たまたま善知識に遇う」。善知識とは、生きている原点は、ズバリこれだという話をする人です。仏教は、命しか問題にしません。それは永遠の命、大自然の命を問題にするのです。それを無量寿といいます。善知識はその「無量寿仏」を称うべしとすすめます。今までろくでもないことをしてきて、今、これからまともに、命の根源にはまりがつくという取り組み方をしようとしたところで、簡単には決まらない。命の根源を念ずることが出来なければ、つまり心でサトルというような余裕がなければ、正に無量寿仏の名を称うべしと勧めてくださるのです。

       弁栄聖者七覚支

 大自然界で太陽が照り、地球は自転し、人間もその上で何十億年と過ごした結果、こうして進化した命。それがいのちの根源に還ることが出来るようになって、はまりがついて、おシャカさまが縁起を悟られた。それがとうとう千年たって、ナムアミダブツになった。念仏をすると、一人ひとりなりに命の根源にはまりがついて、その命の智慧というか、慈悲というか、その働きが、一人ひとりの心に通って、その人その人なりに、各人が自分としては力いっぱいの仕事が実るようになるということを、七つの覚として追跡しているのです。

弁栄上人は60年前の方ですが、その弁栄上人から、今、我々の60年の間というのは、目覚ましく進歩しています。昔の600年どころではありません。しかも太平洋戦争後10年たって大変化しました。それを生きなければだめではないですか。だから私のいうナムアミダブツと弁栄上人のいわれるのは大違いです。大違いだけれども、「時機を叩いて行運に当たる」のですから、その時代を生かし、それぞれの人が実っていくような生活をしなければ生きている値打ちがないですよ。

                    『仏知見について』 空外講録41

 命ほど大事なものはない。その一番大事な命に、一人ひとりなりに、満点の働きをさせようと命の実りを目指すのが、仏教です。インド語で仏とはサトッタ人のことです。死に臨んだ時に、初めて一生を反省する人は多いと思います。その時にサトルことが出来れば満点です。お金がある時は、自分勝手なことをしているけれども、行き詰って貧乏になった時に、初めてサトレル方もおられる。それでも満点です。今まで勝手なことをしたから40点だということはない。「平等にサトレル」のが仏教の根本義です。そのことを世界の文化史上、初めて気付き、実践した方が善導大師です。われわれにとって一番大事なのは自分の命です。その一番大事な自分の命を、一人ひとりなりに実らせるのがナムアミダブツです。自分にしかできないことをする。それでこそ自分が生まれた値打ちがある。

 仏教には、誰でも、どこに居ても、何をしていても、いつでも、すぐに、一人ひとりなりに、その人の命を実らせ切る平等な含蓄があるのです。われわれの心の底に、おシャカさまのようになれる心の宝が含蓄としてあるのです。なぜ、われわれはおシャカさまのようになれないのか、その宝に気付けないのか。

 それは心に蓋をして、その蓋の上で、多いや少ないやと損得の計算をやり出すからです。本当は心の宝があるのに、その心に蓋をしてしまうからです。大自然の命の恵みの中で生かされているのだから、人間の浅く小さい知恵で計算しても、そうなるかどうかはその時になってみなければわかりません。

 自他対立して、自分さえよければいいという塵が、心の蓋の上にいっぱい溜まっていると心の中の宝がありのままに見えないのです。心の蓋を取ると、見るもの聞くものすべてに百倍もの美しさを感じます。今までは単にあれが富士山か、あれがボタンの花か、と言っていたのが、富士山の命を感じるようになる。ボタンの花の命を心で感じられるようになる。自分も大自然の命を生きている、花も生きている、その命のつながりに感応できるようになるのです。それが自他対立していると、いくらじたばたしても、間に合わせしかできない。だから仕事は半分も実らない。自他を分けない、親が十尽くせば十、百尽くせば百、その親心に心から感応して、そのおかげで勉強もできている、社会に出ても働けるのだと言って、毎日、親を拝むべきです。親だけではない。お世話になった方々のおかげで毎日が暮らせるのですから、毎日念仏すべきです。おかげでございますと頭を下げ手を合わせる。自分だけで生きられているのではないのだから、当たり前のことです。みんなのおかげでなければ、着物も自分で織ることになったら、ほかの仕事をしようとすると、着るものがない。菜っ葉でも、お米でも、魚まで、自分で取りにいかなければ、食べるものがないということになる。それじゃ困るが、困らずにいられるのは、みんなのお世話のおかげです。

 自分さえよければ他人はどうでも構わないという、心に被せた帽子さえ脱ぐといい。私どもの心は、もともとは仏さまの心そのものである。内も外も命の親である仏さましかいないのです。それを、ナムアミダブツと頭が下がると、称える人の心に一つにつながって感応するのです。それには何をおいても、念仏の行がなければだめなのです、心の底からアミダさまと一つながりになるということです。心に蓋をしているからそれがわからない。蓋を取りさえすればいい、自分勝手さえしなければいい。大自然を自分なりに生きることです。それがナムアミダブツです。

人から悪口を言われてもケンカ相手にならずに、ああ、そうかと進んでいく。そこでへこたれずに行く。そうすると、自分なりに心のサトリがずっと深まっていく。生まれた命の根源へ帰っていく。

                   『善導大師の根本義』 空外講録42

       菩薩

菩薩とはインド語でボーディーサットバ、損や得に振り回されずに命を大事にして生きていく仏教の修行者という意味です。とにかく、現在を本気になって生きなければなりません。サトッテいきることです。自分が喜ぶことがみんなが喜ぶもとになる、そういう喜びがある。大きな喜びの生き方、自分一人ではなく、みんなもサトレル基になるようなサトッタ生き方をしようというのが極楽です。極めて楽しいというのはそういう楽しみです。

一口で、いつでも、だれでもいえるサトレル言葉は、ナムアミダブツのほかにありません。大きな喜びの生活をするために、ナムアミダブツがあるのです。自分だけがいいのではなく、みんなが一緒にいいことを定といいます。自然のおかげ、そのはたらきで仕事ができるのですから、本当にもったいないという気持ちが起こる。勿体ないの体がないとは、自分の手柄ではない、おかげです。損得を言わない、それがわかる、その心持が定まるのを定といいます。

      おかげさま

 私はナムアミダブツ、ナムアミダブツと生きられるおかげ、命の原点に、毎日、手を合わせています。自然の命の智慧といいますか、慈悲といいますか、それには我われが生きられるように全力を尽くしてくれている働きがあります。肝臓は、私たちがどれだけ好きなものを好きなだけ食べて寝ても、これは体中を回してもいいかどうかを調べたうえで取り入れてくれる。そういう命の親さまと、いつも一緒に居る。診察料を支払って診てもらう医師の力で生きられているのではありません。私はお念仏で親しかったお寺さんや信者の方たちのご回向を、この60年間ずっと、毎朝しています。お世話になったのですから、当たり前です。その後、心臓や肝臓という命のお医者さまのおかげだ、勿体ないと、いつも手を合わせています。お世話になっているのに、自分だけが損か得か、自分さえよければいいという気持ちを起こすのは、個人としても国としても間違いに決まっています。そういう間違いをしていると、最後には、病気も災難もみな自分に回ってきます。身体は遺伝によるのですから、祖先がしたことをまた我われが受けなければなりません。祖先の身体が遺伝して、顔つきまでお父さんやお母さんに似てきます。皆さまが、親の慈悲で子孫に財産を残してやろうと思うなら、心の宝を残さなければなりません。それが子孫を本当に大事にすることです。

 自分が今、命の親さまに、生きられるおかげに手を合わせる心持を持つ、そういう心の宝が大事です。これが仏教の根本です。

       彼岸と此岸

 此岸は、損だ得だという生活です。だから、此岸は自分勝手なことをやるところです。それではいけないから彼岸を目指すのです。今はそうなってはいないけれども、今後は、どのような生き方がいいか。自分がやることで、みんなが喜べるような生き方を目指すのです。自分もやりがいがありますし、社会の為にもなる。それを彼岸といい、簡単にいえば、自分勝手をしないということです。

       戒

 煩悩とは、自分が得をすれば、他人はどうでもいいという考えです。その煩悩を離れるのが戒です。戒とはインド語でシーラ、生活習慣の意です。ナムアミダブツと称えても戒です。コンちくしょうだとか、損だ得だばかり言って、爛れた状態になった心身をナムアミダブツで戒める。戒とは、人間として生きなければならない生き方をすることです。

                        『現前地』 空外語録43

法然上人は『選択本願念仏集』で、「万人平等往生」に重点を置かれれました。

内へ入ることを往生といいます。外は強いもの勝ちですから、殺されることも叱られることも邪魔されることもあります。計算が出来ない。しかし内面的に掘り下げていけば平等です。いのちの根源に立つと、われわれが一人ひとりなりの生活を全うできる。

『選択集』の第十六章で、速やかに、直ぐに、生死(迷い)を離れる、サトルということで、万人平等往生をまとめられました。無へ飛躍するのは、即、です。ナムアミダブツと、一度で飛躍できる、飛び込めます。悪口を言われた時は、ナムアミダブツで無へ飛躍する。悪口を言われても、サトリが得られる。無へ飛躍すると、病気をしなければわからないことがサトレてくる。病気が十マイナスでも、ナムアミダブツでサトレルと、二十も三十も五十もプラスになる。午前中悪口を言われてナムアミアブツと言ったのと、午後病気になってナムアミダブツと言ったのとでは、中身の味わいが違います。ナムアミダブツで無へ飛躍しても、味わいは各々別々です。

『いのちのめぐみできれいな椿の花が咲く』 空外語録81