弁栄庵法城寺以前の伏見屋村法城寺
越庵(こしあん)法城寺
③法城寺扁額
華頂山 知恩院 第七十五世 大教正 鵜飼徹定猊下書
(文化十一年三月十五日~明治二十四年三月十五日 享年七十八歳)
かつて伏見屋にあった法城寺は、②元々大浜代官加藤四朗左衛門の菩提を弔う為 に、江戸時代に浄土律寺院 貞照院の末寺として創建された寺でありました。その後無住の時代が続きましたが明治十五年に再興されました、然るにまた住職に恵まれず無住になります。①明治二十二年七月から同三十二年五月十九日まで貞照院末寺の西尾大槎律庵庵主 禎仁沙弥尼が兼任住職をされていたことが葬儀宣疏によって分ります。廃寺になる所であった法城寺の名義のみを買い受け、新たに弁栄聖者の指導を仰ぐ道場として石川市郎氏が開山勧請されたのは明治三十二年二月二十二日ですが、実際に弁栄庵法城寺として機能し出したのは、禎仁沙弥尼が退任された翌日明治三十二年五月二十日以降ということになります。③その折に寺院跡地(現在は駐車場になっています)、法城寺額(鵜飼徹定猊下が御遷化されたのは明治二十四年ですから、それ以前に揮毫されたものです)、貞照院天然和上が開眼供養された「彼岸曼荼羅図・涅槃図」、三十三観音双軸や千手観音像などを譲り受けています。
※「貞照院」 愛知県碧南市霞浦町。金台山宝国寺。法然院末。伏見屋新田を開いた三宅又兵衛の手代(てだい)が発心、出家して名を休心と改め、元禄六年(一六九三)当地に常念仏道場を結んだことに始まる。忍澂を勧請するも謙退にあい、万無を開山、忍澂を二世中興とする。享保七(一七二二)年、徳巌(とくがん)を奉律の祖として迎える。十世穏冏(おんげい)が本堂を再建、寺観を整える。律院として多くの僧侶を養育し、近代には大島徹水(増上寺法主)や石橋誡道(清浄華院法主)などを輩出した。(浄土宗大辞典より)
①愛知県幡豆郡西尾町 大槎律寺庵主 禎仁法尼葬儀宣疏
禎仁沙弥尼(大正九年十一月二十一日遷化)葬儀宣疏
夫(そ)れ以(おもん)みれば忍界なる者、会者定離の域、閻浮なる者、生者必滅の境なる。所以(ゆえ)に釈迦世尊、三黙四徳を証するなり。猶し光を雙林の雲に匿(かく)し、阿難尊者六通八解を極るなり。亦質を恒河の浪に化す。誰か生を白日の下に禀け、死を黄壌の底に免れんや。ここに新円寂・・・
・・・明治十九年十一月二十四日、大本山百万遍法主林定賢上人より宗戒宗脈を相承す。明治十九年十月十九日、幡豆郡西尾町伊藤大槎律庵住職に任ず。同二十二年七月二十日より同三十二年五月十九日に至るまで碧海郡新川町(※注 当時はまだ伏見屋村時代の)法城寺兼住職に任ず。・・・
②伏見屋法城寺縁起
碧南大浜の加藤四郎左衛門は伏見屋村の代官であり、流罪により死去 ( 注 ※実際は、「孫市事件」によって島流しになったのは四郎左衛門ではなく身代わりの息子友右衛門であり、妻菊女の貞女の一念により友右衛門は赦免され大浜へ戻られた。四郎左衛門も享保14年に天寿を全うされた) 、その子は父の菩提を弔う為、享保5(1720)年に一宇を建立、慈光庵と号した。後に法城寺となる。文政年間無住の寺となり、明治15年再興、また無住となる。廃寺して新川天王に寺号移転された。世俗には、法城寺は引越しして越庵(こしあん)という。かくて、貞照院末寺の法城寺、八畝一歩が天王に移転したと。ー 『碧南の寺院探訪』(碧南商工会議所)より ー
※「孫市事件」 江戸の増上寺の僧籍を抹消された若僧2人が、白木屋で住職の命令と偽り、けさ袈裟地織物数巻を持って逃亡したため、捜索が開始されました。1人の僧は勢州で捕らえられましたが、もう1人の僧が中山の貞照院に逃げ込んだとの知らせで、幕吏が白昼に寺内へ突入しました。近隣の人々が大勢集まり、幕吏を盗賊と思い暴行を加えました。西尾の賭場の親分、孫市が人々を制圧しようとしましたが治まらず、この騒動の間に、追われていた若僧は逃亡してしまいました。
この事件により、代官である加藤四郎左衛門泰栄は、伊豆大島に流罪となりました。ところが、加藤四郎左衛門泰栄が高齢のため、菊女の夫、友右衛門が父の身代わりとなり大島に流されました。 ― 『碧南風土記抄』(碧南市文化財保護審議会)より ―③伏見屋法城寺蔵品