阿弥陀如来の十二の光 如来光明三昧道
如来光明三昧道 とは、
我等は大ミオヤの光の中に包まれていても、生かされていても、その深いおかげに全く気付くことができない凡夫です。その為ミオヤは自ら南無阿弥陀仏の名号となって、即ち此の十二の光が現象(音声)化して今、私の眼の前に姿を顕わし、迎え育てに来て下さいました。その御姿を「如来の念仏の声」に聞き、ナムアミダブツ、ナムアミダブツとミオヤのおかげに手を合わせ頭が下がった時、霊国(みくに)に生じさせて頂くのです。「如来光明三昧道」とは、南無阿弥陀仏 (ミオヤの応現) を通して先ずはこころをミオヤの霊国に生まれさせて頂き、この世ではミオヤの聖子(みこ)としての謝恩報徳(ミオヤの広大慈恩に感謝の誠をささげ、ミオヤの聖徳に報いて全ての人々と共に永遠の光と平和を得る) の道を歩ませていただくことであります。
「弁栄聖者出世の本懐は十二光の如来光明三昧を開示するにあり」
― 明治43年、渡辺女子に与え給えるお手紙に認められた聖者の想い ㈠ ―
明治三十一年より三河尾張濃尾伊勢の地方、また東国にても例の阿弥陀経図絵を撒布に熱心し、少青年の為に仏種を下さんとの志より、すでに十有余五万部まで施与して弘通したりき。その後少しく健康を害して、関西に二ヶ年ほど出張を止めて、東国にて伝道に従事したりし。
明治三十四、五年ごろ大に感ずる処ありて、伝道の余暇、浄土教の哲学的方面に研究することにつとめて、大に得るところありたり。 関西の仏教盛んなる土地において、僧侶衆の請によりて、自己研究の浄土教哲学を講習せること十数ヶ所にて開きたりき。これを仰げばいよいよ高く、これを鑽(き)ればいよいよかたく、実に広大甚深不可思議なるものは弥陀の光明なり。
古人曰く、「弥陀は名を以て衆生を度すと」
元祖大師(法然上人)は十八歳の時より四十三歳にいたるまで、一切聖経は勿論あらゆる宗旨の学問にまで研究に精を尽くし、一切仏教中よりえらみ選んで、弥陀の名号を抽(ぬ)きて所帰を定む。選択本願念仏宗はこれ宗祖が一切仏教中にえらみぬきて集めたるものなり。その選択の眼目は名号にあり。名は即ち体をあらわす。阿弥陀の名の中に如来の三身四智乃至一切万法ことごとく具備して余りなしと。此芳躅(ほうたく)により、阿弥陀の聖名を開きたる弥陀の十二光聖名、その霊徳を詮表する所の洪名のみはただ誇大的に無量無辺の霊名を列ねたるものならむやと。もっぱら仏力を仰ぎて、念仏三昧門を開き、絶対的無限の霊徳より表顕せる十二光の霊名において、十方一切の世界一切衆生を摂取同化し給う所の真理を知見せられたり。実に如来の境界は凡夫心力の及ぶ所にあらず、この神秘不測の妙境をうかがわんと欲せばいかなる方便を以てかこれをよくせん。空拳をもっていかでか千重の鉄関を打破することを得ん。この大鉄閑を開くの妙鍵は即ち十二光名によりてその体を発悟するにありと。
古来千聖出でて名をもって体を獲得すべき径路を示し給えども、未だこれを開きて十二光明をもって、あきらかに如来の体相用をうかがうべきの真理を残し給わざりしは深意あり。後昆(こうこん)をしてこの霊名によりて広く深く細に微に、如来の聖徳を獲得せよとの聖意ならむ。世間文化大に発達せり、宗教のみ一人開発せざるの理あらんや。
ここにおいて、如来ひそかにこの愚昧なる小弟子をえらみて、これを開くべき宝鑰(ほうやく)を授与したまえるなり、故に選ばれたる小弟子、自ら不敏を顧みず十二光によりて如来の霊徳をひそかに開くの命を奉ず。自ら感謝おくことを知らざるなり。
宇宙の真理は悉く十二光によりて尽くせり。よって如来光明三昧をもって主義とし奉るなり。世の闇と罪と悩みとに惑いつつあるものに、この光明を与えんと欲してやまざるなり。三世諸仏はこの光明によりて成仏し給えり。一切の聖賢はこの霊徳によりて得度し給えり。
その後寝てもさめても光明三昧にて、この光明を総表するものは南無阿弥陀仏にて候。
(『日本の光』228頁・『弁栄上人書簡集』264頁参照)
「仏陀禅那(弁栄)は如来光明主義の預言者である」
― 明治45年渡辺女史に与え給えるお手紙に認められた聖者の想い㈡ —
世の文化と共に進みてまさに真の宗教、世に出んとする。これぞ円具教、即ち如来光明主義である。その予言者は即ち仏陀禅那である。予言とは、これより将来その主義に依りて救いの道をなすという、今日にして将来の宗教を世に紹介する者の謂いなり。故に予言者は旧来の宗教家には憎嫉(ぞうしつ)せらる。蛇蝎視(だかつし)せらる。釈迦、キリストにしても、また法然、日蓮にしても、ある一部の人には歓迎せられ、一部の人には憎まれし、妨害加えられし。これ免れがたき理である。
さて円具教の如来光明主義は、客体の如来を必ずしも遠き彼岸に置かず、十方法界ことごとく活ける如来の大心光明中である。ただし衆生煩悩障えられて、これを知見することあたわず。しかれども信心徹到すれば、如来の心光と衆生の信心とは三昧一致して、光明を発得することを得。人の天然、即ち生れたままの意識は本より劣等なり、無明なり、罪悪なり。心光獲得して始めて霊格となる。光明中の人と更生す。更生すなわち往生なり、精神の更生である。更生したる後といえども煩悩なきにあらず。しかれども光明によりて自己を制裁するの力あり。また苦憂なきにあらず、苦悩あればこそ歓喜光を仰ぐの要あり。常に罪悪苦悩と健闘して、不断光によりて勇気を鼓舞し、この生涯は煩悩と奮闘の生活である。すでに霊化しぬれば、昨日までの苦もまた苦と感ずるほどのこともなし。此土一日は浄土百歳より勝れたり。何ぞそれ何の苦かある。今は理想の浄土に在りて生活し、しかしていよいよ命終わらば実在の浄土に生ず。
かくの如きはこれ、精神的光明主義である。仏陀禅那(弁栄)は(如来)光明主義の予言者である。
明治45年5月 筑後善導寺から栃木県 渡辺千代子様宛お手紙
(『日本の光』335頁・『弁上人書簡集』306頁参照)
弁栄聖者 十二光
如来光明三昧道
各祖師方も十二光の徳を褒め讃え解説されていますが、以下のようにそれぞれの光の関連性を明かし体系化されたのは弁栄聖者が初めてであります。
無量寿仏(大ミオヤ)の光明の聖徳は無辺ですが、十二の徳名を代表として列ね、以てその性能を収め、その光化によって如来のおかげを拝む衆生の心がどの様に深まっていくかを示されています。
形而上宗教原理の光(如来の三大)
十二光の内最初の三光は、この大自然、大宇宙に満ち満ちている性能を、いのちの根源から発せられる光として、その体(実体)・相(すがた)・用(はたらき)として三側面から名づけ明かされます。
無量光 宇宙実体 すべての存在を生成 (統摂)し摂取 (帰趣) せしめる法身 (生産門) 報身 (摂取門)の本体の光です。この光は照らさぬ処はありません。存在そのものに内在している光で、衆生の拝む心に感得される光です。その無量の光を無量光仏という仏格として崇めます。
無辺光 一切智相 宇宙に遍在する四大智慧(大円鏡智・平等性智・妙観察智・成所作智)のすがたです。宇宙の生成が間違いなく運行さる為の統一摂理の智慧 (法身)であるとともに、凡ての存在を仏にしようとする、われらの知見を開かす智慧(報身)の光でもあります。
無礙光 一切能用 宇宙を生成運行せしめる大意志のエネルギーそのもの (法身) の光であり、また我らをいのちの根源へ帰趣せしめる実際の霊力 (神聖・正義・恩寵) の光 (報身) を、宇宙の大慈悲 (本願) として、無礙光仏と崇めます。
形而上宗教原理の光(如来の光明摂理)
次の二光は光明摂理の光で、上の三光の基盤の上に我らを霊化し涅槃へ導く為の光の二側面です。この五光を以て形而上宗教原理の光とします。
無対光 終局証入 終極の目的なる真善美の霊界を、命のおかげに目覚めた衆生に知らしめ、弥陀本覚の果位に導入せしめる、一切に超絶した光を無対光仏として崇めます。
炎王光 悪質滅除 生かされるおかげを拝む我等の、(霊性を覆い隠す) 煩悩の悪質を滅殺して下さる働きの光を、その徳を火炎が諸々の不浄物を焼き尽くすのに喩えて炎王光仏と名づけます。
宗教心理の光(光化の心相)
次の四光は、我らの感覚・知・情・意の各面に於て、いのちのおかげを拝む衆生を実際に霊化していく四つの働きの光で、霊性開発位 無称光のもう一つの側面でもあります。
清浄光 感覚美化 我らの感覚を美化し、蓮花が汚泥より生ずる如くに、外塵の為にけがされない霊化の光によって霊国へ導かれます。
歓喜光 感情融化 我らの苦しみ悩みを取り除き、平和と歓喜に充たしめる霊化の光で、霊国への憧れを募らせます。
智慧光 与仏知見 無明の迷いを転じて仏の知見を与え、迷いの眼を開かしめる光で、この光に因って霊国に目覚めさせられます。
不断光 意志霊化 我等の悪心を善き心に転じ、道徳的行為を為さしめる働きの光で、欣求浄土・衆生度生の願往生心をおこさせます。
宗教倫理の光(行儀分)
お育ての光を蒙り、形而上原理の光化の中に心理的に霊化され、それが日常の生活上にも倫理的行為となって表れて行きます。
難思光 信心喚起 称名を通し仏のおかげを念じる衆生をして、早晩霊光に接せられて心の目を開かせる光のはらきで、罪障を消除する炎王光の、もう一つの積極的側面でもあります。
無称光 心霊開発 念仏三昧によって如来のおかげに目覚めた衆生を、更に尚、神秘の霊感を以て深めてゆく光の働きです。宗教心理の感覚・知・情・意の四光(清浄・歓喜・智慧・不断)の霊化の進みを、七覚支として深まりを表現しています。
㈠択法覚支 ミオヤの呼び声(いのちのおかげ)に気付きます。 ㈡精進覚支 ミオヤのおかげに段々心を奪われます。 ㈢喜覚支 ミオヤと共にある事に喜びを感じます。 ㈣軽安覚支 常にミオヤと共に居て其の聖旨の中に自我が薄らぎ始めます ㈤定覚支 ミオヤに心奪われミオヤの聖(きよ)き心の中にある事実を知ります。㈥捨覚支 有漏の穢身はそのままに、遂に心は聖き御国に栖み遊びます。㈦念覚支 もはやすべて聖旨(みむね)のままに自由自在となっています。
超日月光 聖旨体現 念覚支の位に導き、日々三業の為すことがことごとくミオヤの光明を行為に顕わしめる光の働きです。また衆生を成仏に導く無対光の、此世での体現の光でもあります。
凡ての光は無量光の徳の各々一側面ですので、それらは同時に照らし働いている無量寿仏(大ミオヤ)の光そのものです。念仏してミオヤの光に感謝を捧げ共に生きる生活の中に、自然に霊化され、自我が砕かれ、聖国(みくに)に生れさせようとして下さるのです。此の大自然そのものがすでにミオヤの光で成り立っています、どんな小さな塵(ちり)のような存在でさえもミオヤの光は内在し照らしているのです。
永遠の光なる大ミオヤよ。すべての人々はあなたの同じ聖子(みこ)なれば、あらゆる人の栄えと霊福(さいわい)とは、あなたの光栄(みさかえ)が人の身へ実現(あらわれ)たるに外ならず。願わくは常に慈心を以て相い向い、相い励み、相い扶(たす)け得るの聖寵(みめぐみ)を与え給え。
弁栄聖者の十二光
下の十二光図は、新潟で或る青年のために描かれた、御遷化一ヶ月前の聖者最晩年の染筆です。それぞれに十二光の和讃を添え、阿弥陀如来の十二光ではありますが、大日如来や不動明王、観音菩薩、文殊菩薩など各々その特色を表わす仏 菩薩 様として描かれております。その複製図を十二の額にして法城寺 如来光明三昧堂の内陣 両則に掲げ、毎日十二光礼讃を称(たた)えて、大ミオヤの心光のお育てを頂いております。