勅修御伝 

法然上人のことば 

勅修御伝38 

○ 建暦二年正月二日より、上人日来不食の所労増気し給えり。すべてこの3,4年よりこのかたは、耳目蒙昧にして色を見、声を聞き給う事共に分明ならず。しかるを今大漸の期近づきて、二根明利なる事昔に違わず。見る人随喜し不思議の思いをなす。二日以後は更に余言を交えず、偏に往生の事を談じ、高声の念仏絶えずして、睡眠の時にも舌口とこしなえに動く。同三日、ある弟子「この度御往生は決定か」と尋ね申すに、「われ、もと極楽にありし身なれば、定めて帰りゆくべし」とのたまう。また法蓮房申さく、「古来の先徳、皆その遺跡あり。然るに今、精舎一宇も建立なし。御入滅の後、いづくを以てか遺跡とすべきや」と。上人答えたまわく、「跡を一廟にしむれば遺法遍からず、予が遺跡は諸州に遍満すべし。故如何となれば、念仏の興行は愚老一期の勧化なり。されば念仏を修せん所は、貴賤を論ぜず、海人漁人がとまやでも皆これ予が遺跡なるべし」とぞ仰せられける。十一日の辰時に、上人を居たまいて高声念仏し給う。聞く人みな涙を流す。弟子等に告げてのたまわく、「声高に念仏すべし。弥陀仏の来たり給えるなり。この聖名を称うれば、独りとしても往生せずという事なし」とて、念仏の功徳を褒めたまうこと恰も昔の如し。「観音・勢至菩薩、聖衆現じてまします。拝み奉るや」とのたまえば、弟子達「拝み奉らず」と申す。これを聞き給いて「いよいよ念仏すべし」と勧めたまう。同日の巳時に、弟子達三尺の弥陀の像を迎え奉りて、病床のみぎに立て奉りて、「この仏拝みましますや」と申すに、上人指にて空を指して、「この仏の外にまた仏まします、拝むや否や」と仰せられて、即ち語りてのたまわく、「凡そこの十余年より此の方、念仏功積もりて、極楽の荘厳および仏・菩薩の真身を拝み奉ること常の事なり。しかれども年頃は秘して言わず。今最後に臨めり。かるが故に示す所なり」と。二十日の巳時に、坊の上に紫雲そびく。中に円形の雲あり。その色五色にして図絵の仏の円光の如し。路次往返の人所々にしてこれを見る弟子達申さく、「この上に紫雲あり、御往生の近づき給えるか」と。上人のたまわく、「あわれなるかなや、我が往生は一切衆生の為なり。念仏の信を取らしめんが為に瑞相現ずるなり」と。

勅修御伝39

○上人臨終の時遺言の旨あり。「孝養の為に精舎建立の営みをなす事なかれ。志あらば各々群集せず、念仏して恩を奉ずべし。もし群衆あれば闘諍の因縁なり」とのたまえり。

勅修御伝40

○上人語りてのたまわく。われ、一向専念の義をたつるに、人多く謗じて曰く、たとい諸行を修すというとも全く念仏往生の障りとなるべからず、何ぞあながちに一向専念の義を立つるや。これ偏執の義なりと斯くの如くの難をいたすは、この宗の謂れを知らざる故なり。経には一向に専ら無量寿仏を念ずと言い、釈には一向に専ら弥陀仏の名を念ずと判ぜり。経釈を離れて私に此の義を立てば誠に責むる所逃れ難し。此の難を致さんと思わば先ず釈尊を謗じ、次に善導を謗ずべし。その咎全く我が身の上にあらずとぞ、仰せられける。

○禅林寺の大納言僧都静遍上人自ら語り申されけるは、「世こぞりて選択集に帰し、念仏門に入る者多く聞こえし程に、嫉妬の心を起こして選択集を破し、念仏往生の道を塞がんと思いて、破文斯くべき料紙まで調えて選択集をひき見る所に日ごろの所案多きに相違す。末代悪世の凡夫の出離生死の道は偏に称名の行にありけりと見定めにしかば、返りてこの書を賞翫(しょうがん)して自行の指南に備うる」由をぞ申されける。「今日よりは上人を師とし、念仏を行とすべし。聖霊照覧を垂れて先非を許し給え」とぞ口説き申されける。

勅修御伝43

○醍醐の乗願房宗源は法然上人につかえ、法義を受くる事多年、然るに深く隠遁を好み、道念を隠して医師(くすし)の由を名乗り、また音律の事などをぞ人には語られける。ある時曰く、「世間の人の意に相かないたる、太刀、刀を儲けつれば、夜枕にも立て、傍にも置きたるは何となく常に心にも掛けてさぐり弄ぶなり。その定に、念仏真実に信じたるものはいみじき事と思いて、信力内に発したる故に、名号に勇みて鎮(とこしなえ ※いつまでも)にこれに打ち掛かりたる様に申さるべきなり」云々。

勅修御伝44

○ 長楽寺の律師隆寛禅師へのおことば

ある時阿弥陀経転読の事を上人に尋ね申されけるに、「源空も毎日に阿弥陀経を三巻を読みき。一巻は呉音、一巻は唐音、一巻は訓なりき。しかるを今は一向称名の外他事なき」よし仰せられければ、(隆寛禅師は)四十八巻の読誦をとどめて、毎日八万四千辺の称名をぞ勤められける。

勅修御伝45

○ 勢観房源智上人へのおことば

もろこし我が朝に、もろもろの智者たちの沙汰し申さるる観念の念にもあらず。又学問して念仏の心をさとりなどして申す念仏にもあらず。ただ往生極楽のためには南無阿弥陀仏と申してうたがいなく、おうじょうするぞと思いとりて申すほかには、別の仔細そうらわず。ただし三心・四修など申すことの候は、皆決定して南無阿弥陀仏にて往生するぞと、思ううちにこもり候なり。このほかに奥深きことを存ぜば、二尊の御あわれみにはづれ、本願にもれ候べし。念仏を信ぜむ人は、たとい一代の法よくよく学せりとも、一文不知の愚鈍の身になして、あま入道の無智のともがらに同じうして、智者のふるまいをせずして、ただ一向に念仏すべし。云々

源空が所存は選択集に載せはんべり。これに違わず申さん者ぞ、源空が義を伝えたるにて侍るべき。云々

○ 遠江蓮華寺禅勝房へのおことば

極楽のあるじにておわします阿弥陀仏こそ、何事も知らぬ罪人どもの、諸菩薩にも捨て果てられ、十方の浄土にも門をさされ(※とざされ)たる輩を、やすやすと助け救わんという願をおこして、十方世界の衆生を来迎し給う仏よ、かしこくぞ(※ありがたく)思いより給いける。心をしづめてよくよく聞かるべし。

○極重悪人無他方便の凡夫は、かつて報身報土の極楽世界へ参るべき器にあらねども、阿弥陀仏の御誓いなれば称名の本願にこたえて、来迎に預からんこと何の不審かあるべき。わが身の罪重く、無智の者なれば、如何往生を遂げむやと疑うべからず。さように疑わん者は、未だ仏の願を知らざる者なり。かくの如きの罪人を救わん為の本願なり。この名号を称えながらゆめゆめ疑うことあるべからず。十方衆生の願の中には、有知・無智、有罪・無罪、善人・悪人、持戒・破戒、男子・女子、乃至三宝滅尽の時の衆生は、命の長きは十歳なり。戒定慧の三学、その名をだにも聞かずといえり。これらの衆生までも、念仏せば来迎に預かるべしと知りながら、我が身を捨てらるべしということをば、如何心得出だすべきや。但し極楽の願われず念仏の申されざらんばかりは往生の障りなるべし。念仏にもの憂き人は無量の宝を失うべき人なり。念仏に勇みある人は無辺の悟りを開くべき人なり。相構えて願往生の心にて念仏を相続すべきなり。我が力にては思いよるまじき罪人の、念仏する故に本願に乗じて極楽へ参るを他力の願とも超世の願とも云うなり。案内(あない ※物事の内実)を知らざる人は機を疑いて往生せざるなり。

○先世の業に依りて生れたる身をば、今生の中に改めなおすことなし。女人の男子とならんと思えども、今生の中にかなわざるが如し。念仏の機はただ生れつきのままにて念仏をば申すなり。智者は智者にて申して生まれ、愚者は愚者にて申して生まれ、道心ある人も申して生まれ、道心なき人も申して生まる。乃至富貴の者も貧賤の者も、慈悲ある者も慈悲なき者も、欲深き者も、腹悪しき者も、本願の不思議にて念仏だにも申せば、何れもみな往生するなり。念仏の一願に万機をおさめておこし給える本願なり。ただ小賢しく機の沙汰をばせずして、懇ろに念仏だにも申せば、皆悉く往生するなり。念仏往生の義を固く深く申さん人をば、つやつや(※決して)本願を知らざる人と意うべし。源空が身も、検校・別当どもが位にてぞ往生はせんずるなら、もとの法然房にてはえしそうらわじ。年ごと習いたる智恵は、往生の為には要にも立つべからず。されども習いたる印には、かくの如く知りたるははかりなき事なり。

○念仏の行者、毎日の所作に声を絶えざる人もあり、また心に念じて数を取る人もあり。何れを本とすべく候やらんと。上人のたまわく、「口に唱え心に念ずる、同じ名号なれば、何れも皆往生の業となるべし。但し、仏の本願は称名と立ち給うが故に、声に出だすべきなり。経には「声をして絶えざらしめて十念を具足せよ」と説き、釈には「我が名号を称すること下十声に至るまで」と判じ給えり。わが耳に聞こえるほどを高声念仏とするなり。但し機嫌を知らず高声すべきにはあらず、地体は声に出ださんと思うべきなり。

○後生をば弥陀の本願をたのみ申さば往生疑いなし。現世をば如何はからい候べきと。上人のたまわく、「現世を過ぐべき様は、念仏の申されん方によりて過ぐべし。念仏の障りになりぬべからん事をば厭い捨つべし。一所にて申されずば修行して申すべし。修行して申されずば一所に住して申すべし。聖で申されずば在家になりて申すべし。在家にて申されずば遁世して申すべし。一人こもり居て申されずば同行と共行(ぐぎょう)して申すべし。共行して申されずば一人こもり居て申すべし。衣食かなわずして申されずば他人に助けられて申すべし。他人の助けにて申されずば自力にて申すべし。妻子も従類も自身助けられて念仏申さん為なり。念仏の障りになるべくはゆめゆめ持つべからず。所知所領も念仏の助業ならば大切なり。妨げにならば持つべからず。惣じてこれを云わば、自身安穏にして念仏往生を遂げんが為には何事も皆念仏の助業なり。三途に帰るべきことをする身をだにも捨てがたければ、顧み育むべし。まして往生すべき念仏申さん身をば、如何にも育みもてなすべし。念仏の助業ならずして、今生の為に身を貪求するは三悪道の業となる、往生極楽の為に自身を貪求するは、往生の助業となるなり」とぞ仰せられける。

勅修御伝46

○鎮西上人は毎日に六巻の阿弥陀経、六時の礼讃時を違えず。また六万遍の称名怠ることなし。初夜のつとめ終わりてひと時ばかりぞ微睡(まどろ)まれける。その後は起き居つつ、明くるまで高声念仏たゆむことなかりけり。安心起行の要は念死念仏にありとて、常の言業には、「出る息入る息を待たず、入る息出る息を待たず。助け給え阿弥陀ほとけ、南無阿弥陀仏」とぞ申されける。

○ 鎮西上人へのおことば

在家の暇(いとま)なからん人は一万・二万などをも申すべし。尼僧なんととて、様を変えたらむ印には、三万・六万なんどを申すべし。如何にも多く申すに過ぎたる法門はあるべからず。詮ずるところ、此の念仏は決定往生の行なりと信をとりぬれば、自然に三心は具足して往生するぞと、易々と仰せられ侍りしなり。

勅修御伝47

○善慧房証空上人は意巧(いぎょう ※教え上手)にて人の心得やすらん為に、自力根性の人に向いては、白木の念仏ということを常に申されにけり。その言葉に曰く、「自力の人は念佛を色どるなり。或は大乗の悟りを以て色どり 或は深き領解を以て色どり 或は戒を以て色どり 或は身心を調うるを以て色どらんと思うなり 定散の色どりある念佛をばしおおせたり 。往生疑いなしと歓び、色どりなき念佛をば往生は得せぬと歎くなり。歎くも歓ぶも自力の迷いなり。大経の法滅百歳の念佛 、観経の下三品の念佛は何の色どりもなき白木の念佛なり。本願の文の中の至心信楽(しんぎょう)に称我名号と釈し玉えるも白木になりかえる心なり 。いわゆる観経の下品下生の機は佛法世俗の二種の善根なき無善の凡夫なる故に何の色どりもなし 。況んや死苦に逼められて忙然となる上は三業ともに正体なき機なり。一期は悪人なるゆえに平生の行の さりともと頼むべきもなし 。臨終には死苦にせめらるるゆえに止悪修善の心も大小権実の悟りも曾て心におかず 起立塔像の善も此の位には叶うべからず。捨家棄欲の心も此の時は発りがたし 。実に極重悪人なりと更に他の方便あることなし。若し他力の領解もやある 名号の不思議をもや念じつべきやと教ふれども苦にせめられて次第に失念する間、 転教口称(てんきょうくしょう)して「汝若し念ずること能わずば応に無量寿佛を称すべし」と云う時、意業は忙然となりながら十声佛を称すれば、声々に八十億劫生死の罪を滅して見金蓮華猶如日輪(けんこんれんげゆにょにちりん)の益にあづかるなり。此の位には機の道心一(ひとつ)もなく 定散の色どり一(ひとつ)もなし 。唯智識の教へに随うばかりにて別のさかしき心もなくて白木に称えて往生するなり。譬えば幼少(いとけなき)ものの手を取て物を書かせんが如し 豈(あ)に小兒(しょうに)の高名(こうみょう)ならんや 。下々品(げげほん)の念佛も又斯くの如し。唯 知識と彌陀との御心にて、僅かに口に称えて往生を遂ぐるなり。彌陀の本願は湧きて五逆深重の人の為に難行苦行せし願行なる故に 、失念の位の白木の念佛に佛の五劫兆歳の願行つづまりいりて、 無窮(むきゅう)の生死を一念につづめ僧祇(そうぎ)の苦行を一声に成ずるなり。又大経の三宝滅尽の時の念佛も白木の念佛なり。 其故は大小乗の経律論、みな龍宮に蔵(おさま)り三宝の尽く滅しなん。閻浮提(えんぶだい)には唯冥々(みょうみょう)たる衆生の悪の外には善と云う名だにも更にあるべからず。戒行を教えたる律も滅しなば何れの教えに依りてか止悪修善の心もあるべき。菩提心を説ける経、若し先だちて滅せば何れの経に依りて菩提心をも発すべき。此の理を知れる人も世になければ習いて知るべき道もなし。故(かるがゆえ)に定散の色どりは皆失せ果たる白木の念佛六字の名号ばかり世には住すべきなり。其の時聞きて一念せんもの皆まさに往生すべしと説けり。此の機の一念十念して往生するは佛法の外なる人のただ白木に名号の力にて往生すべきなり。然るに当時は大小の経論のさかりなれば、彼の時の衆生には殊の外にまされる機なりと云う人もあれども、下根の我等は三宝滅盡の時に人にかわることなく 世は猶佛法流布の世なれども、身は独り三学無分の機なり 。大小の経論あれども勤め学せんと思ふ志もなし。かかる無道心の機は佛法にあえる甲斐のなき身なり。 三宝滅尽の世ならば力及ばぬ方もあるべし。佛法流布の世に生れながら戒を持たず定恵(じょうえ)をも修行せざるにこそ機の拙く道心なき程も顕われぬれ。斯る愚かなる身ながら南無阿彌陀佛と唱うる所に佛の願力尽く円満する故に、ここが白木の念佛のかたじけなきにてはあるなり 。機に於いては安心も起行も真(まこと)少なく、前念も後念も皆愚かなり 。妄想顚倒の迷いは日を追うて深く、 寝ても覚ても悪業煩悩にのみほだされいたる身の中よりいづる念佛は、いとも煩悩にかわるべしとも覚えぬ上に、定散の色どり一(ひとつ)もなき称名なれども、前念の名号に諸佛の万徳を摂する故に心水泥濁(しんすいでいじょく)に染まず、無上功徳を生ずるなり。なかなかに心を添えず申せば生まると信じてほれぼれと南無阿彌陀佛と唱うるが本願の念佛にてはあるなり。これを白木の念佛とはいうなり」とぞのたまいける。念仏の行は、機の浄穢を言わず、罪の軽重によらず、貴きも卑しきも、智者も愚者も、申せば皆往生する行なるを、自力根性の人は定散の色どりを指南として、採色なき念仏をば往生せぬいたずらものぞと思える事しかるべ自力根性を捨てて他力門に向えとなり。さればとて、大乗の覚りある人、深き領解のある人、戒をたもてる人などの申す念仏は、悪しとには非ず、よくよく此の分別をわきまうべきものなり。