弘法大師
宝亀5年(774)~承和2年(835)3月21日
空海が心のうちに咲く華は 弥陀より外に知る人ぞなし
『声字実相義(しょう・じ・じっそうぎ)』
意訳(加藤精一先生編)参照
【※愚衲思 此『声字実相義』は其侭南無阿弥陀仏にも相通ずるか】
一には大意を述べる。二には名と内容とを解釈する。
一 大意
初めに大意を述べる。大日如来の説法は必ず「文字」によって行わわれる。「文字」は何処にあるかと云えば、六根の対象となる六塵(色・声・香・味・触・法)が本体となっており、六塵の本体は何かと云えば、法身大日如来の身口意の活動であり三密である。此の法身の平等の三密は此の世のあらゆる場所に行きわたっていて、しかも常に変わらぬものである。大日如来の所有するあらゆる智慧(法界体性智・大円鏡智・平等性智・妙観察智・成所作智)、示現されるあらゆる仏身は此の世のあらゆる場所に行きわたっており、欠落しているところは一つもない。人間に於いてこれを見れば、真実を悟った人が仏陀と呼ばれ、迷っている人を衆生と呼んでいるだけで、その違いは悟っているか迷っているかだけである。
あらゆる人間は大日如来と同等の仏性を本来所持しているが、多くの人はその仏性に気付かず、是に気付くには自力ではとても間に合わない。そこで仏陀は加持力を示され、人々に真実の教えを与え気付かせようとされている。
その為に仏陀の教えと云う形をとるが、それには「ことば」と「文字」を用いて伝える以外道はない。「ことば」や「文字」が明確であって初めて真実の教えが伝わる。真実の「ことば」と真実の「文字」、それによる真実の道を伝える「大日如来」、この関係は法身大日如来の活動そのものであり、衆生が本来所有している内心の種々の相そのものと云える。大日如来はここで云う「声字分明にして実相あらわる」という真理を説き,迷い沈んでいる衆生の心を奮い立たせる。顕教・密教、仏教・外教、あらゆる教と云うものはすべて例外なくこの法によって弘まって行く。今此処に、大日如来の教えによって声字実相の議を説いてみたい。
二 釈名体義
釈名体義に二あり、一には釈名、二には出体の義なり。初めに名を釈す。身体の内にも外界にも、空気が少しでも動けば必ず「響き」が生じる、これが「声(しょう)」である。「響き」は必ず「声」から生じる、「声」は「響き」の本である。「声」が起こると、それは必ず物の「名」を現わす。これを「文字(字)」と云う。そして「名」があれば必ずそこに「本体(実相)」が顕われる。「声」と「字」と「実相」の三つがそれぞれ別のものであるという事を義というが、実際には此の三は別々のものではない。
地・水・火・風の四要素がお互いに触れあって「音響」となることを「声」と云う。五音八音などの様々な音や七例八転などの種々の音の変化は総て「声」によって起こる。「声」が物の「名」を明かすには必ず「文字(字)」に依る。「文字」が生ずる本は色声香味触法の六塵である。認識の対象となる六塵は総て「文字(字)」で顕わすことが出来得る。「声」に由って「字」が生じ、「字」はこの「声」の「字」であり、また「実相」は「声」「字」に由って顕われる、故に「声」の外に「字」なく、「字」即ち「声」也、「声字」の外に「実相」なし、「声字」即ち実相也。「声」と「字」と「実相」は別のものではあっても、極めて近く離れ得ること能わぬものである。
第二に体義を釈す。
『大日経』に曰く、
等正覚真言 言名成立現 如因陀羅宗 諸義利成就 有増加法句 本名行相応
この頌の「等正覚」とあるのは法身大日如来の、あらゆる方面に平等に作用する活動のことである。此の大日如来の活動は大日如来の「実相(実在)」を示す。また頌の「真言」とあるのは「声」を現わす。「声」は三密の内の語密のことである。次に「言名」というのは「字」を現わす。「言語」によって「名」の内容が明らかになる。よって「名」は「字」である。以上『大日経』の此の頌の中に「声字実相」の意が示されていることが解る。この頌を拡げて経全体を見るに、諸尊の真言は「声」に相当す。阿字門等の四十二字門、字輪品、転字輪品、布字品、百字成就品等は「字」に相当し、具縁品、秘密曼陀羅品に説かれる諸尊の相を示す文は総て「実相」を示す。また一字に就いてこれを解釈すれば、「阿」字は、口を開いて発音した時は「声」であり、この声は法身大日の「名字」を呼ぶ「声」である故、「声字」となる。また法身に何の義あるかと云えば「諸法本不生(諸法は本来生ぜず)」の義で、是は「大日如来の実相」を表わす。
また、頌に曰く、
五大皆有響 十界具言語 六塵悉文字 法身是実相
地水火風空の五大に皆それぞれ「響き」があり、また下は地獄から上は仏界迄あらゆる世界に各々「言語」があり意志を表現している。目耳鼻舌身意の六根を対象とする色声香味触法の六境(六塵)も広く理解すればすべて「文字(メッセージ)」であると言え、いわゆる「声字」の当体としての「法身」が実在することを現わす。こうした五大に皆「響き」があり、此の世の一切の「音響」は五大を離れざる、つまり「大日如来」を離れない。五大は「声」の本体だと言えるし、すべての「音の響き」は「大日如来」の活動であり、「大日如来」の「声」と云う事になるが、その中「仏界の文字」だけが真実であり、その如義言説を「真言」と云う。諸法の実相を謬(あやま)りなく妄(みだり)なく表わすので「真言」と云う。その根源は大日如来のさとりの内容である海印三昧を示す「真言」で、それ以上のものはない。『金剛頂経 釈字母品』『大日経 字輪品』に説かれる「字輪字母」のことである。ここで云う「字母」とは、梵語の「阿字」ないし「呵字」、是等の「字」は「法身大日」の示現する様々な姿の諸尊の「名字」を意味する秘密の呼び名である。天竜鬼なども「大日の応化身」と観るので、それぞれの「字」で表すが、すべての諸尊の根源は「大日如来」であり、すべての「言語」も「大日如来」より流出し、さまざまに転変して世間に流布している言語となる。此の真実を理解するのを「真言」と云い、理解していない場合の言語を妄語と云う。妄語を耳にしていたのでは長夜の如き果てのない苦しみを受けることとなり、「真言」を耳にすれば我々は苦を離れて楽を得ることが出来る。