新川 閑楽寺
東山庄屋鈴木嘉兵衛家の分家喜造家隠居所であったが、西尾市法厳尼寺で得度修行した喜造氏の息女、聖海尼を迎え入れ閑楽庵と号するようになった。
弁栄聖者と坂部家と貞月法尼
西尾市の功労者である坂部孫蔵氏は、西之町旦那衆坂部家の四代目当主であった。江戸の末期に生まれ、昭和三年八十二歳で亡くなられた孫蔵氏は、若い頃より不動明王を深く信仰して居られた。或時夢定中に不動尊より、今東京に山崎弁栄なる偉大な高僧が居られるから、是非にもお逢いすべしとのお告げを受ける。お告げに従い孫蔵氏は東京へ足を運び聖者に初めてお会いするが、その御威光に打たれ帰依の念深く湧き、それより晩年に至るまで、自宅に聖者を招いては御講話念仏会を度々開くなど、熱心な念仏者となられた。折しも弁栄聖者は、明治二十八年インド仏蹟参拝帰朝前後より、その布教先を三河まで延ばし始めたころであった。その都度聖者の御滞在は長逗留にわたり、その折々に書画・原稿などを認められた。此処には大変丁寧に書かれたものが多く、また晩年の『宗祖の皮髄』や『七覚支』の草稿も坂部家にて出来上がったものである。西尾市三代目市長 坂部亀太郎氏は孫蔵氏の孫にあたり、同じく孫娘に坂部菊という長子が居られた。菊女は明治二十八年の生まれ、それは聖者と坂部家との御縁が結ばれ始めた頃の事でもあった。幼少より自然に聖者の薫陶を受けた菊女に、長ずるに随い、出家して聖者の弟子になりたいと求道の志が生じたのは決して不思議ではない。しかしその願いは叶えられず、家族の勧められるまま一度は嫁いでみた。而るに求道の誠を抑え切る事が出来ず、翌朝に実家に戻り(三日説・一年説もあるが)涙ながらに胸中の真実を告白する。その至誠の前に誰もそれを咎め諭すことが出来ず、漸く聖者の弟子となることが許された。 碧南新川の法城寺は弁栄聖者開山の尼衆道場であり、当寺に於いて聖者の指導の下、僧名を貞月と直に授与され得度修行が始まる。法尼十八歳の時であった。三十四歳まで法城寺で修行念仏し、その後やはり法城寺出身の称説法尼が住職をされていた新川閑楽寺に入山、聖者入滅時にはお二人で新潟柏崎極楽寺へ駆けつけている。