米沢英雄先生

明治42年(1909)5月31日~平成3年(1991)3月3日寂

日本の医師、浄土真宗の伝道者。福井県福井市生まれ。旧制第四高等学校文科を経て、日本医科大学を卒業。医学博士。開業医のかたわら、親鸞聖人の教えに深く帰依し、多数の著作、全国各地での法話・講演などで、多くの念仏者を生み出した。

米沢英雄先生「自我を超える道 仏の足音」

昭和50年(1977)6月14日 福井短期大学にての収録講話

私は福井の生まれで、今も福井に住んでおりますが、福井の近くに永平寺というのがあります。ご承知かもしれませんが、これは曹洞宗の寺で、道元禅師という方が開かれた所であります。道元禅師という方は曹洞宗のお寺さんでありますけれども、私の考えによりますと、道元禅師は「人間というのはどういうものか、どうあらねばならんか」、そういうことを生涯かけて追及された方であると思います。道元禅師の『正法眼蔵随聞記』の中に、「学道には須らく、吾我を離るべし」という言葉があります、「吾我を離れなければならん」と仰っておられます。また『正法眼蔵』の「現成公案」の巻ですか、「仏道を習うと云うは自己を習うなり」と仰っておられる。という事は、道元禅師は「人間の心に二つある。吾我の心と自己の心とである。吾我は離れなければならんものであり、自己というのは自分の中に在りながら、習って明らかにせねば明らかにならない心である。そして自己こそ人間の本質である」とお考えになっておったように思うのです。私はこの吾我のことを自我と言い換えております。近代とは自我の目覚めの時代であると言われております。自我というものを押し進めて現代まで来まして、現代の行き詰まり、或いは混乱というものは自我を押し進めて自己を忘れていた為の行き詰まり、混乱であるのではないかと思うのですね。ですから道元禅師がやっておられたお仕事とは、現代が深く反省して目指さねばならぬ人間の方向を、道元禅師が700年の昔に明らかにしておられたということが言えるのですね。先に申したようにこの永平寺というのは福井県にございますが、福井県は是を観光資源として利用しているだけで、道元禅師の目指されていたことが現代にとってどういう意味を持っているのか、そういうことを福井県に住んでいる方たちもお考えになっていないのではないかと、こう思うのです。日本の現代ばかりでなく、世界の現代が行き詰まりを来しておりますが、その行き詰まりの打開には「自己を明らかにする」、これ以外にないんじゃないかと思いますし、仏法というのは「自己を明らかにするのが仏法である」と言えますので、世界全体が仏法というものを大切にしないと、仏法を学ばないと、仏法の目指している所を目指さないと、人類の滅亡というものにつながるのでなかろうかと思われます。

道元禅師は「吾我を離るべし」、「自我を離れなければならない」とこう仰いましたが、「この自我がはたして離れられるものかどうか」ということを深く追及されたところに親鸞という方がおられたと思うのです。親鸞さまは「自我というものは絶対に離れる事の出来ないものである」と見極められた御方であると思います。ご承知であろうと思いますが、親鸞さまが晩年にかかれた和讃『愚禿悲嘆述懐』ですか、あれは86歳以後の作品だと思いますが、その中で、「悪性さらに止め難し」とか「心は蛇蝎の如くなり」とか「浄土真宗に帰すれでも、真実の信は有難し」、そういうふうに自分を深く見つめて嘆いておられますが、あれは結局自分の中に巣食うております自我というものを、道元禅師は離れなければならんと言われましたが、離れなければならんものにしても離れることが出来ない、そういうことを見極められて深く自分自身を悲しまれた、こういう所に、悲しむということに於いて自分の自我を見つめ、自我をもちながら自我を超える道、そういう道を見つけられたところに親鸞さまの歩まれた道があるのではないかと思うわけでございます。自我というものは確かに我々は持っている、その為に自分自身も悩み、家庭の争いから、町や村、国の中の争いから、国と国との争いまで一切がこの自我から起こっておると、こういうことが言えます。皆さまも御承知の『歎異抄』の中で「父母の孝養の為に一遍も念仏」しないとこう言われました。この場合は個人的な父母を対象にして居られますけれども、結局血の克服と申しますか、血のつながりを超えられた、こういう点で民族的自我をも超える道、それが仏法というものであろうと思います。また「一切は世世生生の父母兄弟である」とこういう言葉が『歎異抄』にありますが、これも地球上の全人類はみな「世世生生の父母兄弟である」になりませんと、全人類が生き延びることは出来ませんでしょうし、この「世世生生の父母兄弟」といわれたのは単に人間ばかりでなくて、一切衆生、この一切衆生の中には草や木や鳥や獣も入る訳ですけれども、それが皆「世世生生の父母兄弟である」と、それに間違いございません。何故なら、働きそのもの、法身仏の世界から一切のものが産まれてきて、われわれも縁あって人間として生まれてきたわけですから、地上に存在するもの、宇宙に存在するものの一切は「世世生生の父母兄弟」であるとこう言えます。言えますと申しましたが是は真実なのです。あんまり真実過ぎて我々のような近視眼的な、目の前のものしか見えない、目は肉体の眼というより心の眼ですけれど、そういう近いところしか見えない眼しか持っておらぬ私等には、余りに真実過ぎて解らないのではないかと思います。この真実を見る眼(まなこ)を持たんことには、心のまなこ、魂のまなこと申しますか、これを真宗では信心と申し、禅では悟りと申すのではないかと思いますけれども、皆が悟りを開かないことには、皆が信心の眼(まなこ)を開かんことには、全人類は生き延びられないと、こういことであると思います。宮沢賢治という人が、「世界中が幸福にならなければ、個人の幸福はあり得ない」ということを言われました。宮沢賢治は昭和8年ごろ亡くなられましたけれども、その昔私が宮沢賢治の言葉を読みました時、これはいい言葉だなぁと思いました。いい言葉だなぁと思ったくらいで済んでしまったけれども、現代ではこれが皆の心にならねば全人類が生き延びられない地点に来ておるのではないかと思われます。宮沢賢治という方は、法華経によって開眼と申しますか、信心のまなこを開かれた方でありますけれども、宮沢賢治の言われたことは真実であると世界の現状が証明しておると言えるのではないかと思います。先ほど道元禅師は「吾我を離れなければならん」と言われましたし、親鸞さまは「自我を離れることが出来ん、しかし自我は離れることが出来んけれども、自我を持って真実の世界に背いている私であると、そういう私を悲しむことに於いて、自我を持ちながら自我を超えることが出来るという道を開かれました、我われが親鸞さまの道を歩むことによって自我を持ちながら尚且つこれを越えていく、つまりその超える道は「自己を明らかにする」という道でありますけれども、自己を明らかにする道を我々が歩んで行かなければならんのではないかと思う訳でございます。仏法というものは決して昔のものではなくて、むしろ未来に於いてこれから世界の全人類が聞かなければならん教えである、もしこれを聞かなければ全人類が滅びる以外にないと、これほどまでに思う所の道であろうと思うわけです。