弁栄聖者の教え
謹んでおもんみるに、われら何の幸いにか宗祖(法然上人)の如き霊的人格を備えたまえる大偉人の末裔として聖(きよ)き血脈を相承し、清き吉水の流れを汲むことを得たる。われらは宗祖の聖き生命、霊的人格を欣慕して止まず。ついては宗祖の霊的人格の内容実質はいかなる要素をもって形成なされしか。いかに安心を立て、いかに起行して、かかる霊的人格に倣い得らるるか。
宗祖の後裔として血脈を伝承せるわれらの日常は、宗祖に稟けたる霊的生命として生活せざれば何の面目かあらん。宗祖の霊的内容の豊富なる如く、われらは信念を養い、宗祖が霊的実質を充実する如く、われらは宗教心を充実せんことを期せざるべからず。
けだし宗祖は弥陀の聖意(みこころ)をもって意志とし、如来の慈悲をもって内容とし、弥陀の本願をもって願望とし、弥陀の人格がそのまま現じたる宗祖なるとともに、宗祖は応現の弥陀なり。されば時の人が「形を見れば法然房、実をおもえば阿弥陀如来」と称賛せしもむべなるかな。
願わくばわが同侶衆よ。ともに範を宗祖に軌(よ)り、宗教的人格の実質を形成せんことにつとめ、自ら成して他に領(わか)ち、大悲普く衆に及ぼされんことを欲す。
これを本講演の大意とす。 『宗祖の皮髄』より。
『宗祖の皮髄』
大正五年の事であります。浄土宗門内で、聖者の説かれる所は法然上人の教と違うのではないか、異安心ではないかという批判の声が上がっておりました。時に知恩院の管長は、三昧発得者としての誉れ高い山下現有猊下であります。巷説に惑わされず、実際聴いて確かめてみれば良いではないかという事になり、六月、知恩院夏安居講習会に、二百余名の浄土宗僧侶が集う中、聖者を講師に迎え、四日間に渡り『宗祖の皮髄』と題した七席の講義が行われました。浄土宗の布教師には、『法然上人行状絵図』『和語灯録』『一枚起請文』等法然上人の御法語を中心に説教される方が多い中、聖者は法然上人の御道詠を十首あげ、「和歌にこそ、自己の実感、自己の内容が自ずから詞として顕われるもので、弥陀に霊化されたる教祖の霊的人格は、御詠を通して味わうべきもの」であると御道詠から、浄土宗宗祖の真髄が念仏三昧にあることを説かれたのでした。最初は批判的な目で眺めていた僧侶達も、今の世に宗祖法然上人を拝する思いを抱き始め、殆どの僧侶が、批判どころか真剣に傾聴され出したのです。遂に衆議会でも、この講話を是非後世に残すべきだという結論が出て同年十二月には初版本が知恩院から出版され、多くの浄土宗寺院や仏教学校に配られました。
その十首とは
一、阿弥陀仏というより外は津の国の 難波のこともあしかりぬべし
二、往生は世にやすけれと皆ひとの まことの心なくてこそせね
三、われはただ仏にいつかあおい草 こころのつまにかけぬ日ぞなき
四、かりそめの色のゆかりの恋にだに あうには身をもおしみやはする
五、阿弥陀仏と心は西にうつせみの もぬけはてたる声ぞすずしき
六、阿弥陀仏と申すばかりをつとめにて 浄土の荘厳みるぞうれしき
七、阿弥陀仏に染むる心の色にいでは 秋のこずえのたぐいならまし
八、月影のいたらぬ里はなけれども ながむる人の心にぞすむ
九、極楽へつとめてはやくいでたたば 身のおわりにはまいりつきなん
十、生まれてはまづおもい出んふるさとに ちぎりし友の深きまことを
法然上人が出離生死の道を求め、御年四十三の歳、善導大師の『観経疏』一心専念の文の、「順彼仏願故」の語にミオヤの聖旨を覚られて以来、自他共に唯一向念仏の道を歩れました。浄土宗の教えは、元祖上人のその時の御心、み教えを基にしているのですが、法然上人はその後専修念仏の功が積もり、大霊光の霊育を受け、活き如来と仰がれる程に霊応身が開花し、円満なる霊格が実られたのです。その霊格の深まりが順を追って此十首には詠まれていますので、その御心を味わい乍ら、我らも法然上人に倣って念仏三昧の中に、小法然・小釈迦たるべきであるというのが聖者の教えです。
道詠の最初の四句は、法然上人が入信から一向専修の身になられていく相が表れています。聖者は ここに光明主義の安心起行を明かしていますが、その中で一番大切な心が、ミオヤへの恋慕の心であります。信心の深まりは、衆生の知情意の中で、感情がどれだけ恋慕の心に占められるかによって決まって来ます。法然上人の「み仏にお逢いしたい」霊恋の心が深まっていく相が順に詠まれています。
次の三句は、愈々念仏三昧によって霊化されていく法然上人の御心が、身体は娑婆に在り乍らも、心は御仏の世界に染まっていく相で、遂に元祖はミオヤの大霊に同化して、元祖の霊応身が円満に成就された相が表れています。親鸞聖人をして「阿弥陀如来化してこそ本師源空(法然)と示しけれ」と、法然上人は阿弥陀如来の化身であるとまで仰がれています。
残りの三句は、実はこの講義では説かれなかったのですが、往相回向・還相回向の二相の姿を詠まれているのではないかと私釈しています。
三昧発得された聖者だからこそ法然上人の追体験ができたのだと思います。このような法然上人解釈をされた方は未だ曽ておりません、実に前代未聞の講義であったのです。
その念仏三昧の行法は、『如来光明礼拝儀』に明かされています。
『弁栄上人御法語(お慈悲の便り)』
― 善光寺開山 山﨑弁栄上人百回忌記念出版 ―
前編 第一 念仏三昧門
受けがたき人身を受け、遇い難き仏法に遇うことを得たるの幸い、ひとの頭脳(あたま)の奥に秘(ひそ)める如来の子たる霊性を開発し、現在より通じて永遠不滅の生命を発得せられんことを祈り候。その霊性開発する時は、絶対大霊なる無量光にして無量寿の如来と合一す。ここに於いて如来は真実の父なることを悟らん。極楽は本来わが故郷(ふるさと)なることをも覚らるれ。如何にしてここに到らん。即ち是れ仏法なり。仏法に門多しと雖も、要中の要なるものは念仏三昧門なり。
念仏三昧にまた方面多なりと雖も、口に聖名(みな)を称え、意(こころ)に慈悲の聖容(みかお)を憶(おも)い、愛慕して止まざる時は、面(ま)のあたり慈悲のみ姿は想念の中に拝むことを得べし。行住坐臥一切の作務に拘わらず憶念常に繋って忘れざる時は、必ず業事成弁すべし。
もし成ずる時は常に如来と共に在って離れざるの観あらん。弥陀と共に在らば、此処もまた浄土なり。いよいよ命終の時には弥陀と共に報土に生ず。まことに快ならずや。頼みても頼むべき如来なり。
前編 第二 心本尊
心本尊と申すことは、我らが心中に何時も離れることなき活ける本尊様をおすえ申し置くことにて候。
例えば本堂の中心中台に御尊像を安置する如くに、私どもの頭の中台に弥陀世尊を安置して、常にその活ける本尊の威神と慈悲との光明に照らされて、邪と悪とを捨て正と善とに御導きに預かるなり。
我らが心本尊には、我らの面前の如来は万徳円満なる絶対人格にして、我らが真正面に在まして円かに照らさるるを想えば、我らが如き浅ましき心も自ずと清くまた高く霊に有難き心も湧き出で候。
前編 第三 一切の行は仏の行
三昧とは仏我無二、生仏一致(衆生と仏が一つとなる)の心理なり。光明讃称の時は、讃声に神(こころ)が入って、声と心と共に仏となるなり。無量光の声に心も仏心と相応することなり。讃礼の時は、即心仏と一致して、無二となることなり。
日光を見れば日と心と冥合す。然らば日光もミダの光明と観じられる。風の音と融合すれば、松風即浄土宝樹の音と調べを和するなり。一切の行として仏の行ならざるはなし。行住坐臥、着衣喫飯、放尿放屎(ほうにょうほうし)として菩薩の行ならざるはなし。一切の衆生の所作が即ち念仏三昧となるなり。先ず以て三昧を学びたまえ。
前編 第四 人格的如来
如来は神聖と慈悲の尊容(そんよう)を真向きにして、一切の時一切の処にまします。今も此の身を照鑑したまうなりと憶(おも)いあげれば、自ずから恭敬の念生じ候う。私どものような気ままな者には、ただ口に称名するばかりであると、尊敬の念も生じ難く候えども、絶対人格のいと尊き如来現に尊く厳臨したまう、神聖なる尊容を瞻(おが)む想いの中には、自ずから頭(かしら)を垂れて崇敬の念が起こり候う。されば人にすすむるにも、やはり人格的の如来さまに離れぬようにすると、その方が宗教心が確かになると存じ候。
前編 第五 病気も恩寵
いつでも大ミオヤの大きな広い広い慈悲のふところの中に在るということを思い給え。そして病気のことを思い出したならば、すぐに南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と称えてオヤ様護り給えと祈りなされよ。むかし永観律師という高僧は天子様の御戒師となりなされた御方であったけれども、平生は御病身であった。それにつきて自ら言いなされた。病は善知識である。全く自分の信仰の強く発ったのは病気の為であった。ために無量永劫、助かる心の発りしも、病気の故と思えば、病気もまた恩寵であるといわれしとぞ覚ゆれ。
前編 第六 人生航路
人生の航路に大なる助けとなるものは、人間以上の偉大なるものの力に依るの外なし。その偉大なる力なるものは、吾が仏教にいわゆる真の神、宇宙唯一の尊きもの、阿弥陀如来にまします。阿弥陀如来は宇宙の命なり、世の光明なり。この光明に依りて自己の精神を霊化するにあらざれば、人生の真の幸福は得らるるはずなかるべし。人の苦と感ずるも楽と観ずるも、帰するところは其の人々の精神にあり。他人より観れば彼は如何に苦るしからんと思うも、その人は内心平和に満足に日を暮らすものあり。また他人が見なす所は彼は如何に幸福ならんと思うも、その自身には自己の心より悩みに悩みの子を産み、憂いに憂いの友を集めて、我が胸は安からず日をおくる人あり。而していかに悩み多き人もまた心安からぬ人も、自心を力としてはとても平和に入ること能わぬ故に、そこで偉大なる力を有する阿弥陀如来に帰して、而して如来の光明によりて自己の精神が霊化せられ、ここに至りて初めて真の平和、真の歓喜は得らるべし。
前編 第七 悲喜劇の俳優
喜びも悲しみもみな夢、苦しみも楽しみもことごとく幻のほど。実に人生は造化翁が仕組みせし一場の演劇なりとは。しかるに世の人は押しなべて、他人の悲劇は好んで見まくほしきように在りながら、自ら人界の舞台に登る活劇には、悲劇の主人公となることを欲せざるは何故ぞ。人は生涯に於いて自ら悲劇をも演じ喜劇の俳優ともなりて、老婆の役を経験するにあらざれば、人情の秘奥は悟られぬものとは聞き侍りて候。老若男女、貧富貴賤のへだてなく、この人界に生を受けたる者はことごとく、天の大ミオヤよりその身分に応じて役割を命ぜられし役者としてみれば、何人も自己の役を忠実に一心に力を尽くして勤むる時は、必ずその報酬は世の終りの日に於いて、大ミオヤより与えらるべし。
前編 第八 心霊の名刀
艱難困苦を経て精神を養わざれば、真実に鍛錬し難し。いかなる艱難も経れば経るほどに、自己の気ままなる垢滓(あか)が除けて、心霊の光明を発すべし。如来の慈悲を力として、如何なる苦難をも甘受するにあらざれば、心霊の光は発揮せざるものなり。
人の心霊は名刀の如し。刀剣にして若し錆ある時は、これを研ぎてその錆を除き去るならん。甚だしき錆に至っては荒砥を用いて、その錆を除き去ることあるべし。若し刀剣にしてその荒砥を厭い嫌うてこれを避けなば、ついに錆を去りて名刀の真価を顕わすに由なからん。人の心霊にして能く錬磨して気質の錆なければ、如何なる困苦も、如何なる境遇にも泰然として不動の心を以て安んずることを得べし。
事ごとに対して、非常に憂愁し煩悶する如きは、出来事のその性質において苦たるにあらずして、これに対する人の精神中の煩悶そのものに煩悶と感ずるなり。
前編 第九 子の母を思う如く
如来はまことのミオヤにてましませり。衆生の子は一たび本覚真如のミオヤの許を迷い出て、久しく六道の巷にたたずみて、ミオヤましますことをも露知らず、あまり世の儚さに御法を聞き侍りてより、はじめて如来のミオヤなることを知りてより、今はミオヤは高きみ空のあなたに、こなたはつたなき煩悩の垢に汚れ見るだに浅ましき身とはなれども、さすがは親と子の親しみは、我が身のほどを忘れ、ミオヤを慕うこと限りなく、寝ても醒めても思い煩う如来を憶念することの断ゆる間もなかりしに、如来は殊に大慈悲深くましませば、常に衆生を愛念したもうこと、しばしも遑(いとま)はましまさぬにぞ。あくがるる子の憶念の中に、如来のさながら聖き霊なる御姿は、心眼の前に顕われたまうことの如何に有難きぞや。これを念仏三昧と名づく。但し行住坐臥つねに如来を憶うこと、子の母を思う如くにてあれば、現在・当来遠からず仏を拝見し奉る。
前編 第十 真の師
いたく喜び得たることは、あなたが単に大ミオヤの御慈しみを悦びなさるのみでなく、大きな苦しみに出遭いなされても却ってそれを心霊を研く器として、人生を修行の道場とみなす信念の安心をつけなされた事の出来たのは、実に随喜に堪えませぬ。即ちこれぞ菩薩の心であります。経にかように示されてあります。「菩薩にはこれという決まりたる師は無し。自分の欠点を見つけて、これを指摘して謗(そし)り毀(やぶ)る人こそ真の師である。それに気付き改めて、ますます良き方に向って進む時必ず自己を利益すること大なり」と。
実に人生は一生を通じて、永遠に向上すべき菩薩の修行の道場であります。何時になったからとて、もう修行は卒業したということはなし。どこまでも向上すべき修行道場にて、大ミオヤの光明の中に無上道に進むべき学園であります。
前編 第十一 炭と火
念仏三昧とは真黒なる炭に火がつきて真紅になる時は、炭と火とは一体となる。我らが煩悩の黒炭も如来の慈光に霊化して、光明態となりて霊感極まり無きを感ずるに至る。炭に火をおこさんとするに扇ぎて酸素を送るに、火かすかなる時は風強ければ火は却って消ゆ。これを扇ぐは火を炭におこさんが為なり。我らが称名は風の如く、心に如来の恩寵を感ずるのは炭に火の点じたる如し。若し火と風とのよろしきを得れば、火はますます盛んなるが如し。須らく知るべし。
前編 第十二 追孝報恩
就いては御一族衆の御哀慟(おかなしみ)の ほど察し上げ候。誠に生者必滅は娑婆の習い、会者定離は此の世の掟とは知りながらも、今更の感に打たれ候。しかしながら、此の有為の身を受けてよりは、大聖釈尊さえも鶴林の雲に隠れ、赤栴檀の煙に化したまう。されば何人も一度生を受けたる者の免れがたき常則(きまり)とは存じ候えども、愁傷(かなしみ)の禁じ難きは、これまた情の遁(まぬが)れ難き事と存じ候。然れども御亡父生前中篤き信仏家、ことに念仏して念(おも)いを後生に掛けなされたる至誠心、弥陀の本願にかなうて九品蓮台の中に神(たましい)を遷したることは必せりと信じ候。就いてはご遺族の衆より籍を浄土に転じたまう御亡霊の為に、専ら名号を称え候わば、如来の光明によりて早く蓮華の台も開け見仏聞法の日も速やかならんと信じ候。願わくは追孝報恩の志を以て、光明名号を称えて御亡父に手向けなさらんことを。なお更に進んで御勧め申し候ことは、皆様の信念いよいよ増進せられんことを。
前編 第十三 ふり落されるもの幾千万
つらつら思えば、端ても知らぬ昔より廻りていつを限りと末のわからぬまでに巡りつつある、此の球の面(おも)に生れ出し、この身の契り、我々の愚かなること絶えず巡りつつある球に置く身の必ずや振り落とされる我が運命(さだめ)を、然迄(さまで)に心にも止めず、永遠(とわ)に朽ちぬ玉の緒を以ていともいとも固く繋ぎけるもののように思うて、今日も空しく暮らし今夜も徒に暮らしぬることの浅ましさ、よくよく己が身を省みれば、巡る球の上に置く身には、此の球にササガニの蜘蛛の糸ばかりなる緒をだに繋ぎかねたる我が身…。世の同胞たちの未だ救いの御手を頼ることもなく、危うき我が身を自ら悟らずして居りし事のいたわしさ。此の球の面に戯れる子達が一巡りに幾千万を以て数うるほどに振り落とさるるを思えば、実にわが同胞の為傷ましさ云わん方なく覚え候。
前編 第十四 自ら火を点ぜずして
最も急務なるは、自己の本務たるところの如来の光明宣伝に候。自らまだ光明獲得せずして他に伝うるという理あることなし。自らのロウソクにまだ火を点ぜずして、その火を他のロウソクに伝うるという理なければなり。先ず寝ても醒めても、念じても念ずべきは光明名号なり。念々常に光明名号を憶念する時は、薫習久しくして麝香(ジャコウ)と共の同器の物に香気が薫ずる如く、常に如来の光明を念じて休まざれば、やがて我が心中に如来のいと清らけき霊(く)しき光明は赫々(かくかく)として照耀しぬべし。その清らかさ、その麗しさ、そのかぐわしさ、その悦ばしさ、その聖(きよ)さ、何とも名伏すべからず。心広く体ゆたかに、かかる光明の常に心中に輝ける人を是れ人中の分陀利華と名づけ、観音勢至の友というならめ。
前編 第十五 無量寿仏と同年
絶大無限なる宇宙はことごとく大ミオヤの身心なのである。宇宙間毫厘もミオヤの身心ならざるものはない。その無限の大ミオヤは吾人の信仰の心水に全身を容れて余す所なし。親のものは子のものである。宇宙大の我とする大ミオヤの有(もの)が即ち子たる吾がものである。宇宙に比すれば一塵(いちじん)たたる地球なる、その地球の一塵たる我が身、うたかたの寄る辺なき者にはあれども、心と云う実(げ)に不思議の我を以て全宇宙に斉(ひと)しき吾である。阿弥陀仏を念ずる吾が心即ち是れ阿弥陀仏である、阿弥陀仏たる我が心である。古人云わずや、一念弥陀を念ずれば一念の仏、念々弥陀を念ずれば念々の仏との言葉、常に仏心と相応する時は我が心是仏心。古人曰く、なんじが齢いくばく、答えて曰く、無量寿仏と同年と。然らば無量寿仏は幾ばくぞ、曰く、我と同年と。実にここに到って徹底したのである。
前編 第十六 尋常(へいぜい)退慢
今人常に顛倒の思いに委ねて、自ら下根と称し、或いは病身と謂い、はなはだ睡眠をたしなみ、朝寝昼寝して元(げん)を養い神(こころ)を養うという者多し。然れども己が名利の為、わが嗜好する五欲の境の為には夜もすがら瞑(ねむ)らず、又よしなきわざには寝食をも尚忘るる程に身心を費やし、かつ出離の修行に臨む時は、ついに半時と云えどもあくびす。尋常(へいぜい)退慢にして得益なきことを恨む。ああ謬(あやま)れるかな。ああ去り去りて来たらざるは盛んなる年、来たり来たって去ること無きは衰えたる齢(よわい)、世間春来の夢、栄花何ぞ実ならん。人身水上の泡、浮世誰か留まらん。光陰限りあり、時、人を待たず、生死無常にして呼吸定めがたし。過去の流転漫々として斯くの如し。未来の輪廻永々(ようよう)としてまた爾(しか)ならん。
前編 第十七 此土一日は浄土百歳に勝る
人の天然、即ち生まれたままの意識はもとより劣等なり、無明なり、罪悪なり。心光獲得して初めて霊格となる、光明中の人と更生す。更生即ち往生なり、精神の更生である。更生したる後と雖も煩悩無きにあらず、然れども光明に由りて自己を制するの力あり。また苦憂(しんぱい)無きにあらず、苦悩あればこそ歓喜光を仰ぐの要あり。常に罪悪苦悩と健闘して不断光に依りて勇気を鼓舞し、此の生涯は煩悩と奮闘の生活である。既に霊化しぬれば、昨日までの苦もまた苦と感ずるほどのことなし。此土一日は浄土百歳より勝れたり、なんぞそれ何の苦かある。今は理想(こころ)の浄土に在りて生活し、然していよいよ命終わらば実在の浄土に生ず。斯くの如きは是れ精神的光明主義である。佛陀禅那は光明主義の預言者である。
前編 第十八 束の間も忘れず
いつもいつも弥陀の大光明は念にかけて忘れたまうな。口称一行三昧の三昧も日に三十分ばかりにても勤められる限りは御勤め候わば、その功徳積もるにしたがって三昧楽を得る。その快楽は自ずから無為にかなう。世にたとうべくもあらじ。
なるべく因縁のある人々には御勧めあるべく候。たとえ仮の身は在家にありというとも、念仏心に安んずるかぎりは、是れ当座道場、即ち弥陀の尊前にして、たとえ身は空閑定静(くうげんじょうじょう)に処すといえども、心を世に希望するときは、六道のさ迷いものにて候えば、よしや此の仮の身の為には、兎にも角にもなしぞかし。かえすがえすも阿弥陀仏ばかりは、束の間ほども忘れたまいそ。
前編 第十九 光明家庭の心得
1.父母は慈悲と正義の観音勢至にて実行の範を以て子女を光明に指導すべき事
1.各自(めいめい)に闇黒の気質を淘汰し光明の本心に基づき平和たるべき事
1.忿恨等(いかりうらみ)を発し衝突をなすは光明を失う故なりと覚知すべき事
1.光明に充たされては如何なる場合にも麗しき色を変えざる事
1.光明の時間を貴重し徒らに過ごすべからざる事
1.日々の業務は如来の命令と信じ潔くつとむベき事
1.如来の試験は日常行為の上にあることを記憶すべき事
晨(あした)には今日一日、如来に身心(みこころ)を献げて事(つか)えまつることを告白し、夕(ゆうべ)には一日如何に行為せしやを吟味し、益々向上せんことを要す。闇黒の家に犯罪の卵子(たまご)は発生し、光明ある家庭に善良の士女育成(そだちま)す。聖典に「悪人は悪をなし冥(くらき)より冥(くらき)に入り苦しみより苦しみに入る、善人は善をなし明るみより明るみに入り楽しみより楽しみに入る」と示したまえり。
前編 第二十 光明に接触する
光明三昧ということは、若し念仏三昧という時は、如来の相好等を見る見仏を所期(しょご)となすことなれば、これに簡(えら)みて光明三昧という時は、本より宇宙遍法界に照りわたる光明なれども、若し信心もしくは三昧開発せざれば、本より弥陀の光明中に在りながら自ら識(し)らず覚らず、人生を闇黒の中に葬り去るに至る。この三昧を得るには、やはり常に阿弥陀仏の大光明中にある身なることを念じて、常恒に憶念して止まざる時は、発得(ほっとく)して光明中なる身なることを自覚するに至らん。
この光明を発得して霊に復活して、初めて光明の生活に入るものとす。
もし見仏三昧という時は、仏の相好円満なるを見るに至らざればならぬという時は、人によりては難きなり。光明に浴し亦光明に接触することは易し。しかし見仏と云うも、光明獲得というも実は同じことなれども、仏の相好を見ざれば見仏にあらずと思うて難しく取る故に難きことと思う。
前編 第二十一 無明・苦悩・罪悪
人は天然精神は無明と苦悩と罪悪との皮殻(から)が必ず被ってあり。人は自ら智ありと思うも其の実は痴(おろか)なり。自らの生の従来するところ、死の趣く理を明らむること能わず。心は無明である。また心の憂悩(しんぱい)と身体の苦毒(くるしみ)とは、何人も免れること能わず。すなわち老病死の苦、愛別離苦、怨憎会の悩みは人につきまとうて捨てられぬ。次に罪悪は人の胸は蝮(まむし) の集まる処、経に煩悩の毒蛇眠って汝が心にあり、黒マムシの室にあって眠るが如しと。実に人の胸には罪悪の毒蛇は常に睡(ねむ)って潜伏し、縁に歷(ふ)れ境に対して常に顕動す。…(中略)… かかる罪悪の主たる主我を執して自ら是とす。是れ罪悪にあらずや。
前編 第二十二 法身
法身は初めもなく終りもなく、何れの処にも満ち満ちて有らぬ処は無いのであります。其の法身の本体から出ました天地万物ですから、私共の身もいのちも心も、みな其れを離れては生れ来ることも出来ず、こうして活きていることも出来ず、何一つとして法身の本体を離れたるものありませぬのです。それで天地万物の大なる備え付けを以て生まれて活かされている。此の一切の人と云うものは、目的なしではありませぬ、体を備え、いのちを与え、心を備え下されたので、就いては此の心を生きておる間に、先ずそのことを深く心に掛けて大なる恵みを受けて、此の心霊がいと霊(きよ)き限りなきいのちと限りなき光の、ただ光栄(みさかえ)のみの聖(きよ)き処に到るのが、こうして此の世に生まれ出て人という身を受け魂を受けたるものの目的であります。しかれば如何してその目的を達するのでしょう。如何なる御方がこれを助けるのでありましょう。
前編 第二十三 報身
報身。前の法身というも報身と云うも本は一の阿弥陀如来にましませども、法身の力にて生れて保存せられ居りしものを救う時に、報身と云う徳を表わして下さるのです。報身の如来はいと聖(きよ)き、貴き処にましまして、限りなき慈しみと限りなき光と威力(みちから)を以て、あらゆる処を照らしましてこれを信仰するものを可愛(かわゆ)く思召して御守り下されて、心の悩みと悪きかすを取り除きて、霊化とて、心をよく治して下されて、いと潔き生活をなさしめて、そうして此の世の終りには親しく尊きミオヤの許にゆくのであります。そのミオヤが即ち報身のアミダ如来にてまします。
前編 第二十四 応身
応身と申しますのは、前の報身如来は、夜も昼も何れの処にても、いと大いなる恩寵の光を以て、すべてのものを慈しみて救い上げようとして、照らしわたらぬ処はなけれども、如何にせん私共の凡夫の目と心にはわかりませぬのです。そこで聖(きよ)き処にまします報身如来より此の世界の人々を助けんがために、聖き魂を分けて御出ましになりましたのは、即ちアミダ如来の分身にまします釈迦如来にてあります。あなた(お釈迦さま)はアミダ如来すなわち私共のミオヤの御わかれでありますから、あなた(お釈迦さま)の御生涯は唯々愛というもの一つであります。
前編 第二十五 心に宿りたまいて
真に如来を信じ、深く愛して如来の御心を欲(のぞ)みますると、如来(あなた)は常にその人の心の宮にましまして、嘆きには慰めの声となり、怒りの炎には清き雨となる。憂きが中には安かれよとの御手を賜われ、善きことには為せよ為せよ、いさみてせよ、退くなと云うように思われる。悪き事には、我が心に宿りたもう霊の御声は為すな為すなと思わる。闇きにも心に明るきを与え、恐ろしきにも安きを与え、すべての真(まこと)と、いと高き善と、いと美(うるわ)しき徳とは是より生じて来ますのです。これを得れば身は此処に居ながら魂は聖聚(しょうじゅ)であります。如何なる事でも痩せ我慢でなく、喜んで忍ぶことが出来ます。悩みにも憂きにも、それは浮き身にあること、心の奥には聖(きよ)き光りに慰められます。古人の「うきことのかさなる身こそうれしけれ 聖(きよ)きめぐみのたよりとおもえば」ともいわれし人さえあります。善きにも悪しきことにも、憂きにも喜びにも皆如来の聖き光り、尊き思し召しと思うて、それに引き換えてしまうのであり、聖き御名を称えて其の尊き思し召しが自己の心に顕われるように御祈りなされ候ことが最も肝要にて候。
前編 第二十六 忍び通す
ああミオヤよ、如来よ。あなたの聖なる御心を以て我にそそぎたまえ。あなたの温かなるお慈悲を以て我に安慰を与え給え。あなたの聖き光りを以て我が罪を清めたまえ。あなたの、天地万物に残らず持ちたまう強き威力(みちから)を以て私共の弱き心に力を与え給え。我々如き心の弱きものに力を与えんが為にあなたは大願を発(おこ)し給う。ああミオヤよ、如何なることをも忍ぶことを得る力を与え給えと、尊き御名を称えて祈る時、あなたの御力は此方の心を助けたまう。尊き御名を称えて御慈悲を感じ、如何なる事も忍び通して後にこそ、誠に誠に、深き深きミオヤの御慈悲は確かめられるのであります。
前編 第二十七 精神に病なし
精神を大いなるミオヤ、即ち真神と合する時は、身体に病いありても精神に病いなし。身の病いは自然より借りたるもの、身の内の自然と外界の自然との調和の出来ぬところから、傷(いた)めらるるは據(よんどころ)なし。ただ調和の出来る策を講ずる外なし。大ミオヤの威力を以て力としてあれば精神は健全にてあり、精神健全なれば精神を以て身体を保護し助力す。身体若し病む時、精神共に病む如くば、身を保護し助力するものあるなし。必ず斃(たおれ)るか、しかざれば長く病むに至る。大ミオヤは天地万物の備えを以て衆生を活かす。心を以て進んで一任するもの、何ぞ夫れ快に向わざるを得ん。
前編 第二十八 宗教的貞操
生命すなわち魂を献(ささ)げて、此の世後の世すべてをお任せ申し上げ、我が生命もはや如来のものと捧げてこそ、此の罪深き凡夫地獄一定の族(やから)なれども、一心一向に魂を捧げて御頼み申し上ぐればこそ、ミオヤお慈悲憐れに思し召し御助け給うことにて候。
すでに生命を捧げて御頼み申し上げもせぬで、ただに称名唱えれば助けて下さる事位ななまじいの安心にて、如何にミオヤの御慈悲でも助け下さる因縁は無きことに候。殊に他の神や仏に一心をかけて御頼み申すなどと云う事は全く如来さまを軽しめることになり、他の神や仏を御頼み申した時に如来さまの聖意から捨てられたことに候。忠臣二君に仕えず、貞女両夫にまみえずであります。命にかけての安心をかりそめ事の様に思い込んでは、真の信心は出来る筈なきことにて候。真の信心なれば、災難があろうとも、命にかかわる事があろうとも、本より命を捧げての上のことなれば、如何なる事情のためにも、他の神仏に頼みをかける筈はあるべきはずなく候。
前編 第二十九 心を研く器械
月日の過ぎゆくことの早き、もはや今年も一月は何時の間にやら過ぎ去りぬ。早く光明の中の日暮しとなりて、雨降れば降れ、風吹かば吹け、如何に世の中は何は兎も角、憂き世の風は烈しくも荒波は甚だしくも、大ミオヤの大悲の船に乗り得たる身は敢て恐れるに足らず。如来には如何なること如何なる大難にも大安慰の力あり。もはや精神は大悲のふところの住まい、形の上に如何なることに出遇うとも、それも心を研く器械であると勇気を奮ってことに当れば、却って安心にやれることにて候。形の上には如何に寒くとも心は温かなる御慈悲のふところ住まい、たとい暗き闇の夜も心は如来の光明中にと思いて、一心不乱執持名号、光明名号を称えれば自ずから心は光明輝くようになり申し候。
前編 第三十 二人が一つになった心
だれでも愛せぬ者はない。炭が独身であった時には本当に嫌われものであった。それがサア火と結婚して二人が一緒になったところが、まるで反対にすべてに愛されるようになった。炭は火をわがもの顔にしておれば、火は炭を自分のものとして食い込んでゆく。炭と火と二人が一つになったところが念の字の相(すがた)である。私どもの真黒な炭の様な煩悩の心でも、如来の智慧や慈悲の火が加わると、炭に火がついたように娑婆の憂き世の寒さも忘れて、大慈悲の火のように温かに日々に愉快にありがたく日暮しが出来る。如来と我と胸の中に二人が一になった心、念仏心である故にありがたく温かに日暮しが出来る。
前編 第三十一 亡き子は善知識
昔、和泉式部は一人の愛子、小式部の内侍(ないし)に先立たれ、何とも悲しみのやるせなく歎きて、「もろともに苔の下には朽ちずして ひとり憂き目を見るぞ悲しき」と詠まれた。とても死ぬならば諸共に死ぬがましである。ひとり残されて憂き目を見ることのうたてさよと、堪えぬばかりに悲しまれたが、性空上人の教えに基づきて後に、弥陀の本願に乗じて念仏三昧の信念を一つにして、遂に如来の慈悲の光明に照護せられ光明に触れてからは、従来の心の闇も晴れて心も生まれ更(か)わる程に有難き心となりて光明の日暮しになられた。その頃の歌に「夢の世にあだに儚き身を知れと 教えて帰る子は仏なり」と。よく自分の信仰の目を覚まして真実に如来の御慈悲が解るようになって顧みれば、自分が全く真の信心も現われ、光明の日暮しになることができたのも、その本はと云えば、我が子が知識となりて我を導いてくれたから全く信仰に入ったのである。してみれば、我が子とは云うものの彼の小式部は如来のお使いとして我を信仰に入れてくれたのであると。
『弁栄上人御法語(お慈悲の便り)』
― 善光寺開山 山﨑弁栄上人百回忌記念出版 ―
後編 第一 人間歴史の始終
人間というものは歴史的生活をなすものであると。生涯の歴史を過去すでに閲(けみ)し、現在に読みつつあり。未来に閲せんとしあり。一人一部の春秋は単純な様なものの随分複雑なものにて、吉凶禍福種々(いろいろ)の転変の世の流れの七転八起と云うのも、人間歴史の始終にて、盛衰の編もあれば、平和もある戦争もある。栄華の夢を見る春の夜もあれば、獄の中に長き秋の夜を呻吟しつつ暮らすもあり。また小説的生活もあれば、活劇を演ずることもあり、昨年は無事といえば今年は多事、笑うて暮らすもあり、泣いて暮らすもあろう。されば世のことわざに、「苦は楽の種、楽は苦の種」と。
後編 第二 歴史の飾り
苦は楽の種にしあれば、今日の苦、明日の楽の因なるを知りたまえよ。無事と平和は何人も好む所、然れども無事でばかり過ごしていれば、歴史に記すことはなし。種々の艱難・憂悲・困苦・快楽等はみな自己に記する所の歴史の飾りにてぞあり。実に耐うるべからざるとても耐え、万難に勝ちて辛くも通り抜けたる事実は、老いて後、価値の高きものなる故、衆人の唱うるところ、まあそれでもよくやり通して来たりし事と、自ら老いて後いかに慰謝を与うるものぞと。
後編 第三 藁と米
この頃の暑さについて、あなたは如何に感じなされ申し候や。この酷い暑さにて私共の一年の命をつなぐいのちね(稲)の実を充分に実らしむる大ミオヤの御恵みが暑さにて候。この御恵みの暑さより出来たる米を食うて我らが命を続くる目的は何の為でありましょう。此の身体はやがて藁のようになって、此の霊こそは稲の果(み)の如くに未来の命の本となるのでしょう。然るに身体の藁を造るためには、毎日毎日何万粒の稲米の実を犠牲に供せしめて、ただ骸(むくろ)ばかりを肥らしても、もしも心霊に弥陀の種子(たね)によりて弥陀の子として生まるる種子が充分に実らざれば、人生何の価値がありましょう。
後編 第四 人は愛する人格に同化す
宗教は人格向上を宗とする宗教が高尚である。ただ極楽の楽しみを動機とする宗教は、悪いとは云わぬまでも、人格向上の動機がない。弥陀の霊的人格を心の底から愛楽して、弥陀大人格が常に真正面にましますと信じて、その円満なる光輝ある大人格と常に離れず、これを愛慕し信楽して心に念仏する時は愛楽する人格に同化して自分も如来に似合ってくるという所に、宗教の価値がある。されば二祖上人も念仏三昧は不離仏・値遇仏と申して、常に仏と離れず仏に値遇すというところに、われ人を指導して常に光明中に生活せしめ、光明中に行為せしむる大なる力がある。されば如来を愛楽して常に念々念仏して離れざれ。これ念仏の宗教なり。
後編 第五 仏作仏行
大ミオヤの在(い)まさざる処なく、御恵みの加わらざる時なく、御力と御恵みに依りて活き働きある御子(みこ)なれば、家庭の灑掃(さいそう)・応対・進退・裁縫・浣濯(かんたく)・擣 染(とうせん)ないし、すべての作為として、聖(きよ)き命令のつとめならざるはなく、必ずしも三昧道場の所作のみならず、日々三業の作す処、ことごとく念仏ならざるはなし。口に称うる念仏は狭義の念仏にて、一切三業の所作ことごとく仏作仏行、しかしながら是れ念仏三昧にあらざるはなし。されば勇み勇みて、つとめつくしてよ。
後編 第六 仏性の卵
我等は本、如来法身の子として仏性の卵なり。仏性の卵は卵殻(から)の中に在りて、自ら大ミオヤの中なるを自覚せざりし。如来は法身としては本来のミオヤ、我等はその卵なり。我らが仏性の卵は自然に孵化(ふか)して、霊(きよ)き人となる事はできぬ。我等が仏性の卵を温めて孵化したまうは、すなわち報身如来の大慈悲である。報身の大悲光明は常に徧く照りわたれども、念仏衆生のみ摂取せらる。我ら仏を念ずる故に、心つねに如来の慈光の中にあり、念々に称名して称名する如くに、心つねに如来を念ずる時は、能念の心と所念の弥陀の恩寵と常に和合するが故に、心霊があたたまりて信心開発す。
後編 第七 心霊の大慈父
良(まこと)に惟(おもん)みれば、弥陀は今に初めて御名を聞き奉ると思うものの、実には久遠劫来の我が心霊の大慈父、久しくお別れ申して已降(このかた)、慈父のいますともおぼほえで、ただ六道輪廻の迷い子となりて幾ばくの劫数を経にけん。宿命通なき凡夫のことなれば、遠々(えんえん)たる過去の久遠を知るに由無くも、遇い難くして今遇うことを得たりし。もしこの度空しく経もせば、無窮の生死出離の期なかりしを、大慈父の子を哀れむの遣る瀬なさにや、昔は法蔵比丘と名のりてミオヤの慈悲の子を思うまことを示し給い、また近くは釈迦牟尼と号して慈父の情け、貧里にさ迷う窮子(ぐうじ)をあわれみ、慈父の御許によばい寄せてあらゆる無尽の宝を悉く附属したまわんと思し召し給う。釈迦の教えに依りてつらつらおもんみるに、弥陀は我らが心霊の大慈父にして久遠劫来別れし子等を、しばしも念じ給わざることなきを仰ぐ。然れども子等はさりとも思わで、自ら空しく貧里にさ迷いける愚かさを思えば、実に浅ましきことよ。
後編 第八 十二光(一)
無量光。宇宙の本体、諸仏の本地、万物は本体にもとづきて存在す。この本体を悟らざるを衆生と云う。この如来心を体得するを諸仏と名づく。
無辺光。相大。如来蔵に一切万法、無辺の徳を具して欠くることない。しかしてこの光にて万法を照らす。これを証(さと)るを諸仏一切智という。
無礙光。如来の一大霊力である。一方には天地万物の造化の大用(はたらき)にて、一面には衆生を摂取の為に応・報の仏身土を現じ衆生を度したまう。
この三大光が宇宙に遍くわたりて常に大活動を為し天地万物を開展し、また一切衆生を仏界に摂(おさ)めとりて成仏せしむるのである。
後編 第九 十二光(二)
無対光。本覚の大ミオヤの許を迷い出し、真に背き妄に随い光を失い闇にある衆生を憐れみ、絶対威力を以て衆生を摂(おさ)めてミダ同体のさとりを得せしむ。如来に同化する時は、彼と我との相待でなく絶対的に同体不二の身となして下さるから無対という。
炎王光。喩えば大火炎を以て諸々の不浄物を焚(や)き尽くすが如く、如来大威神の光は衆生の煩悩と業と苦とを焚き尽くして、諸仏の功徳を与えたまう故に炎王光という。
後編 第十 十二光(三)
清浄光。汚れの心を浄めて美化する光。私どもの六根は外界(そと)の色声香味触法の六塵のために汚染(けが)され、六慾のために卑劣に流れ肉慾に溺れ、ついに悪しき習慣はその性質までも汚すことになる。然るに六塵の汚れを浄めて、日に新たにして六根清浄に快く潔くして下さるはこの光である。
歓喜光。苦を抜き楽を与う。人生苦悩多し。生存競争の激しき世に、種々の苦悶は逼り来る中に於いても、春風駘蕩、ときわの春に心の花開き、身は此土(ここ)にありて神(こころ)は浄土に逍遥(すみあそぶ)。法喜禅悦の楽しみはこの光の賜である。
後編 第十一 十二光(四)
智慧光。迷いを転じて悟りを開かしむ。無明癡闇(こころくらき)の凡夫、一寸先が闇である。然るに、さかしき智はかえって己を欺きて、断常二見の坑(あな)に陥りやすい。喩えば日光出(いず)れば万境(すべて)一時に照らす如く、仏日の光明の下に真理にかなう智慧も生じて、一切の仏法をさとることを得るはこの光である。
不断光。私どもの悪しき意(こころ)を転じて善き心に霊化して、道徳的の行為をなさしむるの光である。人間、一日八億の念が、私慾の悪意より衝き出す念は、ことごとく悪道に向って盲動するのである。もしこの光にて心意(こころ)一転して、如来の聖意(みむね)より出る心として、身と口と意に於いて作す業(わざ)は、皆おのずから仏身と相応し仏行となりて、日々に光明中の働きをなさせて下さる。
後編 第十二 十二光(五)
難思光。喚起の位。初心の輩(はらから)は、如来の光明とはいかなる状態なるかは未だ経験せざはることなれば、量り知ることができぬ故に難思という。もし光明の真理を聞きて専ら称名し、または冥想・観念・讃美・祈祷等を以て信念を養う時は、早晩(いつしか)機熟して微かに霊光に接して心の曙(あけ)となる。これを喚起の位とす。
無称光。開発の位。信念やや進み、内に薫発の因あり、如来慈愛の光に催されて、歓喜の一念に如来心と融合し、信心花開きて光明を実感す。その妙味は自ら証知するも、他に説き詮(あら)わすこと能わぬ故に無称という。
超日月光。体現の位。すでに光明中の人となりてからは、日々三業になすことは、ことごとく光明を身の行為(おこない)に現わす故に体現とす。如来は心霊界の太陽なれば超日月光という。霊光の下に生活活動することである。
後編 第十三 南無の三心
信は如来の不思議の霊力(ちから)を信じて全心を献げて信頼するので、信に三位あり。仰信(こうしん)は一心一向に不思議の力を信じて疑慮なきものは自ずから仏心と相応して救わる。解信(げしん)は如来大願の意義を領解(りょうげ)して信を立つ。証信(しょうしん)は実習の功果として光明を実験して信を得。いづれにしても実に信じて疑いなきを要す。
楽(ぎょう)は愛楽(あいぎょう)。感情の奥に仏心と融合し、全く如来を我がものとなるは愛である。如来を愛するに三位あり。一に親の如くに愛慕し、二に異性に対する恋愛のように一心に仏を恋愛し、三に如来を大なる真の我として愛す。これを愛楽とす。
欲望。宗教心の欲望。真善美の極みなる霊国(みくに)に生じ仏と成らんとの望みである。これに三位あり。一に願作仏心、仏の子とならんとの欲望(のぞみ)、二に正しく更生(うまれかわ)りて仏子となりし時と、三に聖子(みこ)の職(つとめ)たる衆生を度せんとの望みである。
この三心は知と情と意とに於いて、如来心に合すべき衆生の心である。
後編 第十四 心眼の前に仏
念仏三昧の修行、最も急務にて候。無常迅速、念々に時光遷流して須臾も止まることなし。もし一日空しく過ごさば、また再びあい難し。念仏三昧とは、口に専ら仏を称え、意(こころ)に一(もっぱ)ら仏を念じ、念々常に弥陀を忘れず。弥陀は本より以来、常に衆生の前に在(まし)ませり。自ら未だ心眼開けずしてこれを観ること能わざるなり。衆生心水澄む時は、如来の霊月とこしえに感応せん。愚衲昔二十三歳ばかりの時に一(もっぱ)ら念仏三昧を修しぬ。身は忙(せ)わしくなく、事に従うも意は暫くも弥陀を捨てず。道歩めども道あるを覚えず、路傍に人あれども人あるを知らず。三千界中、ただ心眼の前に仏あるのみ。
後編 第十五 娑婆と浄土
光明照らさぬ処なく、如来を離れて娑婆の実体はない。然して衆生も本如来の子である故、仏性具えている。而して本願の光明に摂取せられ同化せらる時は、身は娑婆に在りて神(こころ)は光明の生活である。然れども身は自然に縛せられて娑婆に在る。理想(こころ)だけに光明中の人、浄土にすみあそぶ想いあり。然していよいよ命終わる時は、今まで理想(こころ)に観じておった光明界が、今度は実現となるのである。であるから形から見れば娑婆と浄土と異なれども、精神(こころ)から見れば何れも同じ如来大光明中である。大光明中にありながら肉眼は娑婆を見ている。宇宙同一の如来中にて、娑婆と浄土の実体に変わりはないのである。
後編 第十六 念仏と仏行
念仏行者との比較、もし心が已(すで)に弥陀同化した上は、たとい口に称名せずとも、その一切の作為ことごとく念仏ならざるなし。事業すなわち弥陀の聖意(みこころ)が業に現れたることなれば、かえって立派な仏行であり候。念仏といわば、口に称うるばかりにあらず、如法(念仏)の心よりなす業(わざ)は、仏を身の業(わざ)に現わすことなれば、それは口以上の念仏にて候。いったい従来の念仏者は、ただ口ばかりを重く見て、身に仏行をなすを敢てせざるは、発展の度低きなり。
後編 第十七 三昧実行
実に光陰は疾(はや)し。うかうかできぬ。発心者によく練修させよ。共に共に何事でもよく鍛えねばゆかぬ。目的は疾く光明中の人となりて、大ミオヤの子としての勤め、世の同胞(はらから)をミオヤの子たる人とするところにあり。自ら人間の子のみではゆかぬ。自ら仏の子となりて、世の同胞を導くにあり。朝は早くから、少なくとも大薫香一本の一心不乱の念仏せねばゆかぬ。愚衲などが発得するまでには、青年時代には山に入りて、昼夜声のあらん限り唱え続けたのである。力のあらん限り。どうしても、ただ理屈ばかりこね回したのではダメである。農業でも理屈だけでは、一粒の米も獲られぬ。自己の人格に結ぶ果(み)も三昧実行にあり。
後編 第十八 雨も風も常の天地の働き
今日は良きお天気と思えばまた翌日は風が吹き出で、風が静かになりたりとすればまた曇りとなり雨となる。本当にうるさき世といわばいうものの、その中に娑婆の変化極まりなき趣きがあるのである。この世の中に生存するほどは、この心配が漸く片付いたと思えば、また次に一つの心を使わねばならぬ事わき出てくる。本当にいつになりたならば、何の心がかかりもなき真にのどかなる心の春になるであろうと、大かたの人は思うのであろうけれども、それは風も雨も曇りも暑さ寒さもなき一年中を望むようなもので無理な要求である。風も雨も暑さ寒さもみな常の天地の働きとして見なければならぬので、ただ人間の都合や勝手の為に天地は働きなしているのではない故に、自分の方から天地の気にかなうようにしてゆかなくてはならぬと存じ候。
後編 第十九 強忍と安忍
この世間を娑婆というのは、娑婆とは梵語にて訳すれば堪忍土。堪忍土とはこの世界自然にも、また人間同士の中にも、相互(たがい)にいかなることにも堪えこらえ、どういう事にも忍ばねばならぬ世界というのである。いかなる憂き艱難にあうても、それを勇ましく大丈夫に戦いて打ち勝つ力を以て忍ぶのが強忍(ごうにん)というので、どのようなことに対しても、甘き物を食べるように安んじて忍ぶのを安忍というのである。けれどもそれは並々の人にはかなわぬことで、実に絶対的に偉い力あるものの助けによって、いかなることにも偉い偉い慈悲と御力(みちから)とによりて非常な力を加えて頂き、たすけてもらうて、光明の日暮しを得らるるのが即ち念仏者の精神生活である。
後編 第二十 真実の幸福
人は金銀財宝は蔵にみち、位も尊く、いかほどの栄耀栄花にも何不足なく、また無病にして長寿をたもつとも、仮の幸福とは申しましょうけれども、真実の幸福とは申しませぬ。なぜならば、栄耀もみな夢幻の中なれば、ついに消えはつべきものにして、生者必滅・盛者必衰の天則はまぬがれ難きものなればなり。たとい六親眷属百千あるも、会者定離とて会う者は必ず別離すればなり。故にそれは真実の福とは申しません。然らば何が真実の幸福でありましょうとなれば、この真実無漏の妙なる法によりて安心を得、全く弥陀のめぐみに霊化せられたる精神なり。人は真実に弥陀の信心得たる上は、いかに困難の中にも喜ばれ、貧しきにも安んじられ、夢の世の中の不幸(ふしあわせ)も精神には幸福を感じらるる。
後編 第二十一 お米の犠牲
折角人間という学校に選び入らされて、十二光の光明によって信心開発の生活に入って、大ミオヤの子としてこの学校を及第せねばならぬ。現在の生活は日々の二三万の米が生命を献(ささ)げて、我らに食(じき)となってくれるので、この人間の肉と血となって、大ミオヤの光明生活に入るべき身にならんために、米は犠牲となっている。もし日々二三万の米の生命を己が血肉となしておって、日々に餓鬼の精神生活をなせば、食われたる米まで餓鬼道に堕ちてしまう。我が責任は重い。この重い責任はとても自分の力では担われぬ。無限の力ある大ミオヤの光明を仰ぐ外はない。
後編 第二十二 感応道交
衆生心水浄(す)む時は、仏日の影中に宿る。月は天に照らして影水に映ず。月如何に皎々(こうこう)たるも、水無き時は影を現わしがたく、また水は満つるも、月なければ反映せず。衆生の信心と如来の恩寵の和合する処に感応道交し、この双方の関係は実に親密なるを要す。如来の大慈悲心と衆生心の和合する処に感応道交、初めて真の宗教は成り立つ。しかしてこの双方の関係は、恰も両手の相拍子のところに拍手の音は聞こゆる如し。故に自心が弥陀に合して感応道交の妙音を聞くことを得て、始めて真実の信仰は得たるものとす。ただこの感応道交を言語の上にのみ会する如きは、いまだ真の拍手の音を聞くというに足らず。須らく三昧発得して真の拍手の妙音を確(しか)と聞き、また弥陀の答を聞くべし。
後編 第二十三 重荷を負うての道
人の生涯は重荷を負うて遠き道を行くが如しと、家康公がいわれし如く実に然り。重荷を負うてゆく道中にいつも平地ばかりではなく、山坂もあれば随分難渋なところもあります。しかれども坂を越え峠を過ぎれば平地ありでありますから、やがて来る平和安穏の日もあるものにしあれば、それを楽しみてお暮しなされ。山坂の難儀あればこそ、平地の安らぎを覚ゆるのであります。難儀も辛苦もしませぬものは、まことの幸福も感ぜぬものであります。
後編 第二十四 困苦は精神を鍛える道具
聖(きよ)きみひかりを以ていつも照らさるる身のほどを忘れたまうな。夜も昼もいつくしみの深きミオヤなる如来は、目に見えねど愛護したまうことを思い、忍びがたきを忍び、耐えがたきをよく堪う御身のために、御めぐみの深きミオヤは如何に御慈悲の心をかけなさるのでありましょう。ただ尊き御名を称えて御めぐみにあたためられんことを祈りなされ。艱難困苦は精神を鍛ゆる道具であります。鉄を見たまえ。鍛冶屋に百たび千たび真っ赤に焼かれてはまた叩かれて、鍛え上げられたる鉄は名剣となって宝とせられ、火にも焼かれず叩かれもせぬ鉄は腐れてしまう。ミオヤの深き御慈悲は、深き悩みとまた頼みを深くするところに、かかることまた深し。
後編 第二十五 人生の目的
如来は何の為に此の身を活かしたまうのでありますか。その目的の如何なるところにあるかを思考したまえよ。人の親たるもの、その子を養うて已に年齢に至らば学校に就かしむ。児のために日に三度の食より万般のことに至るまで心を配り思いを煩わして養うことは、ただに子供の形ばかり育てさえすればよいというのでなく、願わくはこの子を教育して、なるべき限りは善き人にせんというは、親が子に対する養うところの目的でありましょう。もし人あって私の子供は三度の食だに食らうてゆきさえすれば、知識の方はどうでもよいというような親は恐らくなかろうと思う。いまもその如く、如来の大なるミオヤは私どもに日々三度の糧をも空気も天地間に与えたまいて、この身体を養うようにして下さるは、ただに身体ばかりのためでなくて、その命のあいだに如来の聖(きよ)きみ心、ふかき御めぐみを以て我が心霊を養いて、なるべくはよき聖子(みこ)として此の世に成長せしめて、無上の霊福を賜わんためでありましょう。
後編 第二十六 千辛万苦を経ても
生れたままの鉄は決して名刀になりませぬ。百度火に焼かれ、千たび鍛えられてこそ、初めて正宗の名刀とも称せられるのである。如来さまはあなたを良き器にせんとの思し召しより、さまざまの機会を与えたまうのであることを喜びたまえよ。若き時に種々の千辛万苦(せんしんばんく)を経ざるものが、いかにしていと良き女丈夫となりましょう。賢婦烈女も鍛えし結果であります。気ままに日暮しすることを夢にも見たまうなかれ。活ける如来の中にありて、万苦を安忍する志気を聖き御名によって祈り給え。
後編 第二十七 信仰の目的
一、所求とは、信仰の要求する所は、ミオヤの光を獲得(え)て光明生活に入るを目的とす。光明を被る時は、従来の盲目的生活より覚醒して、ミオヤの光明中の人となり、現在を通して永遠の光明に入ることを得る。人の天性は六根は染汚にて、感情は苦悩である。知は無明にて、意志は罪悪である。我等が生まれつき持っておる弱点は、自分の力にて除くことができぬ。唯ミオヤの清浄と歓喜と智慧と不断との光明の摂化を被りて光明中の人となることを得る。光明中にも肉体ある間は精神的に光明中に生活し、命終わる時は現実的に光明土の人となり得る、即ち浄土に生るることである。
後編 第二十八 信仰の本尊
二、所帰の本尊。弥陀尊は絶対的の中心本尊にましまして、現在未来を通じて唯一のミオヤにましませば、無量無碍の光明を照らして念仏の衆生を摂取し給う。我等が肉体は太陽の光にて活かされてある如く、我等が心霊は弥陀の光明によりて活かされてある。如来は見と不見とにかかわらず、真正面にましますことを信じて、その照鑑の下に、精神指導されつつあることを信ずべきである。かくの如くに帰命する本尊を確信すべきなり。
後編 第二十九 信仰の方法
三、去行(こぎょう)=方法。とはいかなる方法を以てミオヤの聖意(みむね)にかない光明におさめらるるかとなれば、ただ本願の名号を称え即ち念仏三昧を以てす。如来の慈悲は我等が心に入り、我等が信念の心は如来の中に入り、見と不見とにかかわらず、一心念仏して、如来の慈悲に同化せられんことを要す。常に如来の中に在り光明の生活を得、肉体終われば報土に生ずることを得。
要する所、光明王を本尊とし、光明名号を称え、光明中に生活するを宗趣とす。
後編 第三十 時間は宝
時間は宝なりと知るべし。古人云えり。今日学ばずとも明日ありと思うて、今日を楽しむことなかれ。今年つとめずとも来年ありということなかれ。今年空しく過うるときは来年もまた空しく経(ふ)るにいたらん。今日より別に勉むる日なしと思うて、時間を千金よりも重きものと知るべし。寸陰を貴(とおと)みてよくつとむる人は、後に必ず国の宝というべき人となるなり。時間の宝を積み重ねて尊き人となり得たりしなり。時間を浪費する者はとても世に功を立つべき人となること能わず。寸陰を惜しみ能く学びよくつとめよ。月日は再び復(かえ)り来るものにあらざればなり。この尊き時間は聖(きよ)き如来の賜なれば、猥(みだ)りに捨てては罪はなはだ重し。如来は貴(とうと)き時間を与えて、尊き人を作らん為の聖慮(せいりょ)にましますことゆめゆめ忘るべからず。
後編 第三十一 称名忘れたまいそ
この娑婆世界にてまぬがれがたきは老病死の苦、思えば、何事もみな夢幻の境、いかなる栄華も春の世の夢、名誉とか光栄とかも同じくかげろういなづまの光の間。ただ忘るまじきは一大事にて候。幸いに弥陀超世の本願にあいたてまつり、かの本願を一(ひと)えに信じて、名号だに称えなば、このいのち尽きぬる日には、直ちに七宝荘厳の浄土に往生することの幸福を得ることを思えば、余の夢の世のことは何事か心に掛けるほどのものかあらん。先ずはお称名のみな忘れたまいそ。なむあみだ佛
『弁栄上人御法語(み教え)』
― 善光寺開山 山﨑弁栄上人百回忌記念出版 ―
前編 第一 目的・本尊・行法
人生の大事たる自己の宗教心を立てんには、先ず安心(あんじん)と起行(きぎょう)とを定むべし。目的定まらずしていずれにか行かん。歩を運ばずしていかでか目的の地に達せん。これ信仰の安心起行を定むべき所以である。
これに就いて三条あり。一に求むる所の目的、二に帰する所の本尊、三に修する所の行法。この三条が確定したるを安心起行の立ちたる信仰とはいう。
前編 第二 所求=目的
一、求める所とは、信仰の要求する所は、ミオヤの光を獲得(え)て光明の生活に入るを目的とす。光明を被るときは従来の盲目的生活より覚醒して、ミオヤの光明中の人となり、現在を通じて永遠の光明に入ることを得る。人の天性は、六根は汚染(けがれ)にて、感情は苦悩である。智は無明にて、意志は罪悪である。我らが生まれつき有(も)っている弱点は、自分の力にて除くことが出来ぬ。唯ミオヤの清浄と歓喜と智慧と不断との光明の摂化を被りて、光明中の人なることを得る。
光明中にも肉体ある間は精神的に光明中に生活し、命終わる時は現実的に光明土の人となり得る、すなわち浄土に生まれることである。
前編 第三 所帰=本尊
二、帰する所の本尊とは、弥陀尊は絶対的の中心本尊に在(ましま)して、現在未来を通じて唯一のミオヤに在(ましま)せば、無量無碍の光明を照らして念仏の衆生を摂取し給う。我らが肉体は太陽の光にて活かされある如く、我らが心霊はミオヤの光明に依りて活かされてある。如来は見える見えざるとに係わらず、真正面に在(ましま)すことを信じて、その照鑑の下(もと)に精神指導されつつあることを信ずべきである。かくの如くに帰命する本尊を確信すべきなり。
前編 第四 去行(こぎょう)=方法
三、修する所の行法とは、如何なる方法を以てミオヤの聖意(みむね)に称(かな)い、光明の中に摂(おさ)められるかとなれば、只本願の名号を称え、即ち念仏三昧を以てす。ミオヤの慈悲心は我らが心に入り、我らが信念の心はミオヤの中に入り、見える見えざるとに係わらず、一心に念仏して、大ミオヤの慈悲に同化せられることを要す。常にミオヤの中に在り光明の生活を得て、肉体終われば報土に生ずることを得る。
要する所は、光明王を本尊とし、光明名号を称え、光明中に生活するを宗の趣旨とする。
前編 第五 献身(帰命)
献身とは、先ず第一に己が無智無力を自覚し、己を空しくして全幅(すべて)をささげて如来につかえ奉る。文に四あり。
1.宗教の要たる独一(みひとり)の本尊に対して、始終(いつも)心を一にし、無上の尊敬をなすこと。
2.一切処(いづこ)に存在(いま)し給う活ける如来を信じて至誠心を以て恭敬(うやま)うべきこと。
3.この身心は如来に由りて生存(いけ)る故に、アナタに献げて仕え奉ること。
4.身の行為と口の言語と意(こころ)の思想に於いて、光栄(みさかえ)を現わすべきこと。
解.在(いまさ)ざる処なきは経に「如来は是法界の身、一切衆生の心想の中に入る」と録せり。
前編 第六 勧請
勧請。如来の分身たる霊応身を我が身心に請じて常住の指導を祈る。
1 .此の身は如来の霊応身を安置し奉る聖なる宮と信ずべきこと。
2.霊応の常住を請うこと。
3.聖意(みこころ) の指導を仰ぐこと。
解。霊応とは小乗の五分法身(ごぶんほっしん)、即ち戒・定・慧・解脱・解脱知見と同じ。彼(かなた) にはたとえ肉身の釈迦仏陀は已に滅したまうとも、五分法身は羯磨(かつま) の法に依って発得し、人の身内に常住して滅する事なしと。大乗教にては即ち如来真法身として、その霊能(みちから) は本より法界に遍在し、人の信念ある処に随って発得す、是を応身と名づく。この感応を得て初めて霊の生命として活ける信仰と成り得るなり。
諸々の聖者とは、観音・勢至・文殊・普賢等の法身の菩薩、龍樹・天親・善導・法然等の生身の聖者、これらの聖者には如来の分身たる霊応が其の身心に存在し智悲兼備し、自他並べ利し、如来の聖旨(みむね)を其の身の行為(おこない)によりて現わしたまう。観音の宝冠(かんむり)に一の化仏を戴けるは、即ちこれ弥陀の分身たる霊応が其の脳裡(みこころ)に存在せるを表わし、而して何人の信仰もこれに倣うべきことをしめしたまえるなり。
前編 第七 進徳(発願)
進徳。聖意(みこころ)を体して霊的行為(よきおこない)を成就せられんことを祈る。
1.道徳の原動力(もと)は如来の霊応(れいおう)なること。
2.教祖釈迦ムニは弥陀の人格現なること。
3.釈迦ムニは教主にしてまた完徳の鑑たること。
4.霊応に充たされて如何なる場合にも動かざるを誓うこと。
5.弱き我に至善の国に進むべき道徳行為(よきおこない)を成し得る様に聖恵(めぐみ)を仰ぐこと。
解。麗色(うるわしき)とは、この経の序に「爾時世尊諸根悦豫し姿色清浄にして光顔巍々たり」とは、世尊がこの経を説き給うに先立ち、いと麗しき相(すがた)を示し給う。故は此の経に説く処の如来を信じ、その慈悲を得たる時は、何人もみな内心が霊に充たされ、内外ともに清浄になり得べきを表わし給いしなり。
前編 第八 感謝
感謝。夕べには今日己が身と意(こころ)とに行為(おこない)のいかなりしやを反省し、善事は悉く恩恵(みめぐみ)によるものとして深く感謝し、悪事はみな己が過ちなるが故に懺悔すべし。
感謝に二意あり。
1.我が身心の生存活動(いきはたらく)は全くあなたの賜(たまもの)として、先ずその恩徳を謝し奉り。
2.我が身は人間として生存したりしも、若し聖(きよ)き道に向上(すすむ)べき生活にあらざれば将(は)た何の貴(とうと)きかあらん。然るに如来は弱き我に聖なる恩寵(めぐみ)を加えて、恩恵(めぐみ)を他人(ひと)にまで頒(わか)つことを得さしめ給いし其の恩広大なり。依って深く感謝し上(たてまつ)る。
前編 第九 懴悔
懴悔。今日の犯したる罪悪は、全く己が至らざるより起こりしものなれば、深く慚愧して悔い改むべし。罪悪を犯したる原因に二あり。一に己が肉を恣(ほしいまま)にせしより。二、如来の恩寵(めぐみ)を忘れしより。懴悔の時、己が罪を吟味すべし。罪の目録に三あり。
1.如来に対し、如来を忘れざりしか。また祈念を怠らざりしか。祈念の時、邪(よこしま)なる思いを起こさざりしか。
2.他人(ひと)に対し、軽侮(あなどり)憤怒(いかり)嫉妬(ねたみ)害意(そこない)等のすべて人の生命財産名誉自由等に害を与えざりしか。
3.己に対し、傲慢(ごうまん)懶惰(らんだ)汚染(けがれ)不摂生(ふようじょう)不忠愛(ふしんせつ)等をもて徳を損ぜざりしか。
これらを能く吟味し、己を尅(せめ)て悔い改め、再び犯さざることを要す。
前編 第十 発願(回向)
発願とは最終(なにより)の目的とする遠大の希望(のぞみ)なり。
1.従来(これまで)我れ真理に向うべき目的を過(あやま)りしは、全く心の無明(やみ)に起因(もとい)す。
2.如来の恩寵(めぐみ)によりて我は覚醒(さめ)たり。
3.終局(なにより)の要求として永遠の生命(いのち)と常住の平和を望むこと。
4.大乗菩薩の志願なる上求菩提下化衆生(じょうぐぼだい げけしゅじょう)を遂げんこと。
5.邪(よこしま)を避け正(せい)に進むこと。
6.一切(すべての)衆生と共に平等の安寧(やすき)を求むること。
文に「彼の国に到り已(おわ)って六神通を得て十方界に入(かえ)って苦の衆生を救わん、虚空法界尽きんや、我が願もまた是(かく)の如くならんと発願す」
前編 第十一 三身即一
アミダ如来に三身一体とて、もとは独一(みひとり)にして三の身と分れてあらせらるるのです。三身と申します。一には法身、二に報身、三に応身と申す。この三身は本、一体にてましますのです。
法身と申しますのは、天地万物のすべてのもとにして、かたちあるものも、かたちなき心も、みな此の法身をもととするのであります。実に天地万物は日月や地球のめぐることにしても、その他の地球の万物が起きたり隠れたりするすべてのものが、ちゃんと決まりがあって毫(すこ)しもその規則を違(たが)えませぬのは、唯ひとりでにめくらめっぽうにこうなるのではありませぬ。この大本が即ち如来の法身であります。法身とは、形もなくすがたも無けれども、すべてのすがたも形もみな此の法身から出来るのであります。
前編 第十二 法身
法身。梵に毘盧舎那(ビルシャナ)といい、翻ずれば偏一切処の義にして、宇宙全体を身となすの謂いである。前に宇宙大心霊と云いしを宗教的に表せば法身仏とす。故に宇宙は永遠に活ける法身仏とす。形式としては天の日月星辰(にちげつせいしん)の運行より、乃至地上の一切生物の生成に至るまでの、万法の大原則の故に法身と名づけ、内容としては此の毘盧遮那の胎内に無尽の性徳(しょうとく)を具有して万物を生み出す故に如来蔵性と名づく。
また法身より生み出されたる衆生も悉く小法身小造物である。それと共に仏になり得らるる性(しょう)を有(も)っている。然るに人々の具せる仏性は、喩えば卵のようなものにて、これを孵化せば雛子(ひな)となる如く、衆生の仏性を摂取し霊化して仏となして給うのは即ち報身仏である。
前編 第十三 報身
報身。梵に盧舎那(ルシャナ)といい、訳すれば浄満、また光明徧照いう。浄満 とは如来は智慧慈悲万徳円満して宇宙最上の位に在(ましま)し、紫金(しこん)の身に無尽の相好を備え、衆宝荘厳の浄土に常楽我浄の園に、真善美妙(みみょう)の花匂う裡(うち)に、法身もろもろの菩薩の為に、他受法楽を施し給う故に浄満と名づけ、また光明徧照と云うは、即ち如来は心霊界の太陽とす。例えば太陽の光熱化を以て生物を化育(かいく)する如くに、如来は智慧慈悲威神の光明を以て衆生の心霊を霊育し給う。天に太陽なかりせば一切の生物が生存できぬ如く、如来の光明を離れて一切衆生成仏すること能わず。
前編 第十四 応身
応身。浄界の報身より身を分って此の世界に出でたまう釈迦牟尼仏なり。釈迦世に出でたまう本懐は、衆生が闇に迷い生死に沈むを憐れみ、衆生をして無限の光と永遠の生命に入るべき真理を教えんが為である。仏陀は八十歳にて入滅したまえども、神(みこころ)は無量寿の本土に還り給う。
前編 第十五 無量寿(本仏と迹仏)・法身仏・現身仏
如来に本仏と迹仏(しゃくぶつ)の二身あり。法性法身と方便法身の二身を以て本・迹を顕わし、また法身仏と現身仏の名を以て如来の徳を表明す。二面をあらわす。もと法身仏は実に無量劫の寿命、時間に徧在せる佛陀、迹仏は衆生界に現ずる応化の身。法華寿量品の久遠実成(くおんじつじょう)の如来は、如来実に成仏して已来、無量無辺阿僧祇劫五百塵点劫(じんでんごう)已来の古仏、之を久遠実成の如来という。本来本仏は諸仏如来の一大本体真実無量寿如来、常住に大般涅槃界に在(ましま)して、三世諸仏の本体にして、無始無終の霊体なり。本有無作(ほんぬむさ)の法身は自然に無量無辺の功徳具わりて、一切諸仏の依(え)なり。如来自性清浄の実在する方面は凡夫には覚知思慮分別を以て測窺(そくき)すべきにあらず。一度生死界に迷い出したる衆生の為に、時々衆生の為に応現するを迹仏とす。
名号功徳因縁経に法蔵菩薩無量の行願を成じて今現に安養界に在すといえども、その実は本有法身久遠実成の無量寿仏なりと。
前編 第十六 無量光
無量光仏は十方三世諸仏の本地にて諸仏の根本にてまた終局であることを明かす。仏教は汎神(はんしん)教であるから、一切衆生に悉く仏性が具備してある故に、その仏性が円満に顕わるれば覚行円満の佛陀となりて、三千大千界の教主としてその中の衆生を救度(くど)する霊格となるので、衆生も無限なれば成仏したる佛陀もまた無量である。それはみな釈迦牟尼の如くにその佛陀にはいずれもみな法報応の三身が備わりて異なることはないと。かく諸仏は無量に在(ましま)すなれども、一切諸仏を統一する本地の如来在(ましま)す。即ちこれ無量寿仏である。一切の佛陀は弥陀の法身より出でて、竟(つい)に弥陀の心光に摂取せられて竟に仏陀の大覚位を証す。故に弥陀は諸仏の本地にて、諸仏は弥陀の分身なり。
弥陀は諸仏と万法の宗致なれば、➀独尊(どくそん)と➁統摂(とうしょう)と③帰趣(きしゅ)との三義あり。則ち➀根本と➁中心と③終局とも云うべきなり。
前編 第十七 無辺光(大智慧の相)
如来四智(しち)の大光明徧ねく十方の法界を照らして、衆生の為に知見を与え、一切智を得せしむ。四智とは、
一、大円鏡智、この智光は我等が無明を照破す。喩えば太陽昇りて山河大地悉く顕現する如く、この光に依りて一切の色心依正(しきしんえしょう)悉く知見するを得。
二、平等性智、この智に我等が吾我分別(ごがふんべつ)の迷いを照破せられて、各自の自性は本来清浄にして諸仏と同一平等なりと自覚す。
三、妙観察智、如来我に入り、我如来にいる時、我等が迷いの意識は転じて仏智と相応し、また如来の身と口と意と我等が三業と冥合して一切種智を与えたまわる。
四、成所作智、凡夫の麁末(そまつ)なる眼耳鼻舌身はこの光に霊化せらるる時に、仏眼乃至仏身と成るが故に、諸仏の如き相好及び清浄荘厳の国土を感ずるに至る。
この四智は凡夫の無明の阿頼耶を転じて、仏の四智に同化し給う作用にてある。
前編 第十八 無礙光(解脱の徳)
この光は衆生の弱点なる煩悩を解脱して至高の道徳とし、聖(きよ)き人格即ち仏となし給う徳用(とくゆう)である。如来は宇宙最高なる真善美の霊界に在(ましま)し、神聖と正義と恩寵との三徳を以て衆生に儼臨(げんりん)したまうこと、太陽の光熱化を以て万物を化育(かいく)するが如し。
一、神聖、如来は神聖としては道徳律の光として至善の霊界に在(ましま)し、道徳の原則となり、また至善の標準となり、衆生の行道を照鑑し、且つ行為の正知見を与えたまう。
二、正義、如来は我等に邪と悪とを捨て、正義と善とを選びて向上せしむる勢力を与えたまう。悪を捨て善を取り給う選択本願とはこれである。
三、恩寵、如来は衆生の慈母として一切を愛し、仏性の卵をあたためて我らを長養(じょうよう)したまう。
この三徳は如来が衆生父母として、道徳上の聖(きよ)き人格即ち仏となしたまわる霊用である。
前編 第十九 無対光(衆生に正覚と涅槃を証せしむ)
この光の一切衆生を摂取したまう終局目的は、衆生をして諸仏と同じく正覚を成じ大涅槃に入らしむるにあり。如来と衆生とは本来親と子たるに拘わらず、現に正反対に立っておる。如来は絶対無限真善美等にして、衆生はその反対なる有限罪悪闇黒である。然るに此の光に摂取せられたる終局は、無明を変じて正覚の光となり、本体は浄土に在りて身を分って生死の中に入りて、生死を転じて涅槃の常楽となる。涅槃とは真善微妙の園に常楽我常の花匂う処、常寂光土、また蓮華蔵世界などを以て表せられる。
涅槃に三種あり、有余と無余と無住処とである。有余涅槃とは此の身有余の肉身を有(も)ちながら神(こころ)が浄土に安住する位、無余とは肉体を脱して永恒の浄土に入るを云う。無住処涅槃とは、本体は浄土に在りて身を分って生死の中に入りて衆生を度する位、これ究竟成仏する時は一切諸仏、即ち弥陀に帰趣するものとす。
前編 第二十 炎王光(衆生の煩悩を脱却する力)
一切衆生に斉(ひと)しく脱却せざればならぬ弱点を持っておる。通じて煩悩という。見思(けんし)と塵沙(じんじゃ)と無明(むみょう)とである。衆生は煩悩という動物欲及び意識的の罪悪を有(もっ)ておる。煩悩から悪業を造り業に依りて報いを受く。一心に念仏して仏光に触るる時は、衆生の煩悩及び罪障自ずから脱却す。喩えば一切の汚物も大火炎に焼かるる如く、光明の作用を喩えに名づけたるものとす。
前編 第二十一 無対と炎王の二光
無対と炎王の二光は、如来に背き反対せる迷いの衆生を摂取して本源に還し、煩悩を翻して菩提となし、生死を超えて涅槃に入り、絶対円満の仏と為す能力(ちから)である。
無対光は衆生もと如来蔵性の分れなれども、本覚の光に背きて無明の闇黒に向かい、真理に反して妄悪となり、すべて仏とは反対の方向に向えり。大御親は迷い子を憐れむの本願の光を以て衆生の真心(しんじん)を開き、本覚の城に還し諸仏平等の位を証し四智円(まどろ)かに照らし、清浄法身常寂光土に在りて絶対円満の身心土と為す時、我と彼との相なし、故に無対光という。これ畢竟成仏の位なり。
炎王とは衆生の煩悩と業と苦とを除滅すること、大火炎の諸々の不浄物を梵焼するに喩う。
前編 第二十二 清浄光
この光は人の感覚の垢をそそぎ、而して清く美しくする妙用(はたらき)である。感覚とは眼に視、耳に聴き、鼻に嗅ぎ舌に味わい、身に触るる感覚作用にて、凡夫の心は外界(そと)の美食美味などの欲の為には衛生や道徳も顧みずして之が奴隷となり、また堕落の淵に沈む輩(ひと)が少なくない。この五欲は益々昂進(すす)む時は、ややもすれば病的に陥り易い。… この光は人の五塵に汚され、また病的に陥ることの弊害を自覚させ、而して之をそそぎ浄めしむるは消極の方面にて、積極的に清浄化する時は自己の霊性を八面玲瓏として身心皎潔(こうけつ)なるを感じ、また美化したる感心(こころ)は天地新しく霊日(れいじつ)麗しきを覚え… 清浄光化(きよくなり)したる心眼を用いば、処として清浄霊界(きよきみくに)ならざるはなし。これらはこの光に依って美化したる感心(こころ)の心相(すがた)を明かしたりき。
前編 第二十三 歓喜光
この光に遇うものは、一方には感情の憂悩(なやみ)恐怖(おそれ)の苦を安らげ、積極には平和と歓喜とを感じらる。全体人間の天性はその心が顛倒しているから、憂悲(しんぱい)や苦悩(なやみ)を感ずる度が強い。何となれば、人生は肉の快楽を受くべき舞台と思い、ただ物質の幸福のみを怖求(もと)めている。還ってそれが不満と憂苦(ゆうく)を感ずる本因(もと)となる。また我慾の強き為、名誉や財産などを飽くまでに怖求(むさぼ)り、それが不足と煩悶の種となる。此の世界はかかる人々の欲望を満足させる為に出来ておらぬ。故に強いて物質に満足を求むる心を止(や)め、精神的に真実の霊福を得んと欲せば、還って人生の満足が得らるるのである。そこで宗教心を発(おこ)し、如来の恩寵を仰ぐことになる。… 心機一転して見れば、ここもまた如来の光明中、たとい身は八苦充満の娑婆に在るも、神(こころ)は歓喜光裡に住す。然してこころを静め慮(おもい)を止めて如来と融合する時は、神(こころ)は常住安楽の園に遊ぶ。如来の法楽を我が楽しみとするは禅悦である。一たび開きて永(とこ)しえに咲き匂いける心の花を如来と共に眺めつつ暮らすは法喜と云う。
前編 第二十四 智慧光
日光は照らしあれども盲者は見ることが出来ぬ。如来の光明の中に在りながら知見することの出来ぬのが吾らの無明である。… 仏知見を開きて真理を示さるとは、基督(キリスト)教に教ゆる黙示即わち聖霊を感じること、禅家に見性と云うも同じことである。…
知見を得るに二面あり、形式と内容と似て、形式とは禅家の見性のように先天自己の最根底なる自性を発見するので、而(そう)すると横に十方、竪に三世を徹通(とお)す、絶対の自性が顕現(あらわ)れることになる。之を形式という。内容とは例えば自然界に太陽が在りて、その光と熱の中に照らされ居る如くに、心霊界の大日輪の如来真金色にして円光徹照して、端正無比(うるわしいすがた)なるを想うと、はじめには想像であったのが竟(つい)には霊感深刻にして想見を超えるに至る。その如来の慈悲の聖容(みすがた)に対して温かなる霊気、無限の法悦を感じ、これに霊的生命の聖(きよ)き霊(いのち)となりて活ける信仰とはならん。
前編 第二十五 不断光
人の善と悪と二つに分るるも、意志の向方(むきかた)の何れかにあるので、肉慾や我慾を目的として他人の迷惑を顧みざるが如きは悪なので、仏教に人の意向を十界に分類して、迷悟善悪を区別している。… 我らは如来を仰ぐ子なれば親の全き如くに全からんとを意志の願望(のぞみ)とす。これを願作仏心なのであるが、これには常に如来を離れては子は成人できぬ。聖意(みむね)を己が意(こころ)として不断に向上的に努めねばならぬ。肉と霊とは不断の健闘、不断の改革、日に新たにしてまた日に新たに往励勇進(すすみ)て不断に努力し持続して止まねば、霊的電力は益々熾(さか)んに発る。もし光明失う時は闇闘(やみ)となる。如来と共に発動している霊的信念の電灯は、これを以て他人に感伝すべし。これを願度衆生心と云う。他人に対して信念の電力を注ぐは相互(たがい)の中に電力は弥(いや)盛んなるを覚えん。此の身は如来の一枝葉に外ならず。身の行為(おこない)を以て如来の光栄(みさかえ)を現わすのである。
前編 第二十六 難思光(喚起の位)
初心の輩(ひと)には如来の光明と云うも未経験のことなれば、いかがに感ずべきものかは識量(はかる)ことが出来ぬ故に難思という。先ず信心を喚起する次第はこうである。喩えば良田が雑草の為に荒蕪(あらさ)れるも、之を開墾して良種(よきたね)を播く時は好果(よきみ)を獲べき如くに、人に本具(まこと)の霊性あり、我侭の煩悩に覆わるるも、業障懴悔に心地を墾(たがや)し、如来光明の聖種(きよきたね)を素因(もと)とし、師友知識(よきひと)の保護を受け、殊に自ら至心不断に信念を運び、堅く執持して止まざる時は、信心の萌発(めばえ)せんこと何ぞ疑うべきぞ。… また朝夕の讃美礼拝は心霊を養うの糧である。至心不断に念じ信念内(うち)に増長し、恩寵の和気に催され霊(きよ)き心の種は、萌発(めばえ)し信念の曙光(ひかり)とは成りぬべし。
前編 第二十七 無称光(開発の位)
已に信心喚起したる人の心地(こころ)に播きし心種(たね)から初めて萌発(めばえ)したる位にて、是よりは恩寵を蒙りて信心の花が開発(ひらく)の位に進む。微(かす)かなる光に接して従来(これまで)の己を反照(かえり)みる時は、自分勝手の甚だしき自ら慚恥(ざんち)に耐えぬ。然して罪障懴悔の念が切に起こり、改善せんとすれども難きに、弥々(いよいよ)己が弱きを信認(みとめ)らる。罪悪の我は聖(きよ)きに更生(かわ)らざれば浮かぶ瀬がなきと想えば、ますます慈悲の御親が恋しくなる。如来と共に在りて離れざる身にならざれば、真の安心はできぬ。如来と不可離(はなれぬ)の関係は心の花開くに依る。心の花は七覚の枝に咲き匂う。七覚とは心念の心作用(しんさよう)である。… かくの如き霊感は従来(これまで)の罪悪我(わるきが)を降伏して清き我となり、人の子が仏の子と生まれ更(かわ)りしを開発の位とす。
前編 第二十八 超日月光(体現の位)
已に信心開発し更生(かわり)し後は仏子である。如来と精神的に合一不可離(はなれぬなか)の身と成りし、これよりは光明(ひかり)の生活(くらし)、新人として、一方には大霊(みおや)日光の恩寵を被り、一面には聖意(みむね)を現わす霊的活動(きよきはたらき)を為すにある。智悲の日月は霊界の太陽なので、肉体が太陽の能力(ちから)に依って活ける如くに、心は如来光明(みおやのひかり)に依って聖(きよ)き生活(くらし)を為す。常に如来の恩寵なる衣食住を受けて、これを着、これを食らい、大いに力となって、これを身と口と意の行為(おこない)に依って聖きを現わすべきである。已に此処に至れば、身(からだ)は昨日と変わらねど神(こころ)は浄土の人である。大悲の懐に在って世の毀誉(そしりほめ)など八風(はっぷう)の為に動かされぬ。自己心中(おのれのこころ)の霊性の声は如来の命令である。… 四儀とは行住坐臥に仏と共に在りて仏行を為すにあり。
前編 第二十九 本迹不二
本有法身の無量寿如来は常恒に自性宮(じしょうぐう)にましませど、無明に迷う衆生は永く父のもとに還ることを知る無し。ここにおいて本有の無量寿仏より方便法身なる法蔵比丘の身を現じ、無量の大願を発(おこ)し十劫正覚の身を示して、衆生大慈の父を念じて至心なれば、衆生を摂取して浄土に還らしむ。大慈父(みおや)のもとに遷(かえ)りて見れば、十劫正覚の弥陀は実には本有常住如来にましませり。論註に如来に二種の法身あり。法性法身と方便法身とである。法性法身より方便法身を出し、方便法身によって法性法身を顕わす。法性法身とは光明名号経(無量寿仏名号利益大事因縁経)にいわゆる本有法身常住無量寿仏にして無始無終の本地身である。
前編 第三十 法報応の本地
如来は絶対にして空間時間を超絶し永劫の存在なり。本有常住の無量寿仏なり。十方三世一切の法報応変化身の本地なり。その本有の弥陀が本来絶対の大霊界にましましてあれども、相対生死の衆生に対して、三身を現わす。天則秩序を統一し担保する原則としては法身と名づけ、また如来自性の霊界に摂取せんが為には報身の大光明者と現じ、衆生を教化の為には応身と現われ、… 西方の弥陀、娑婆の釈迦ことごとく本有常住無量寿仏の示現にあらざるなし。宇宙の本体に永恒存在あり、弥陀すなわちその本体である。真実如来である。今も現に此処に存在(ましま)したまう永劫常然としてましましたもう。
前編 第三十一 法蔵菩薩と釈尊
報身無量光は永恒(つね)に十方を照らし衆生を霊界に摂取したまう。しかれどもこの地上の衆生には知るに由無い。そこで大ミオヤの慈悲迷没(めいもつ)の迷い子を愍(あわ)れみ、釈迦以前には往昔(むかし)、法蔵菩薩の身を受けて一切衆生をして常住の平和なる涅槃の光明界に入るべき道を発見せんがために、無量の苦難を嘗(な)めて、ついに衆生大安の真理を発見なされた。… 近くは教祖釈尊が菩提樹下に無上道を得なされば、正覚の眼を以て見れば、蓮華蔵世界(きよきみくに)に相好円満の麗わしき如来が法身大菩薩の為に説法するを観ず。… 釈尊の正覚の大精神は報身と一体にて形は応身である。
『弁栄上人御法語(み教え)』
― 善光寺開山 山﨑弁栄上人百回忌記念出版 ―
後編 第一 往生=更生(一)
精神の更生とは従前(まえ)の肉我(まよい)を転じて真我(まこと)の生命(こころ)と化(かわ)り、情操(こころばえ)一変するところ、便(すなわ)ち新しき人となる。光明界裡の者として昨日の我と異なれる観あり。有余の穢身(えしん)は変わらねど神(こころ)は浄土に棲(す)み遊ぶ。聖懐(みふところ)の中に安立する真情は毀誉八風のために動搖(うご)かされず。既に精神更生し去って現世界を観じる時は、昨日のそれと異なれり。かつて蔑視したるが如き厭穢(いやな)の魔郷(ところ)にあらで、これよりはいよいよ向上し目的なる真理の霊界に進むべき、菩薩が天職を果たすべき方便修行土なりし。…
もし現世界を以て目的ある階梯なる修行土と観じ来たる時は、菩薩六度万行を修すべきもろもろの器具が全備せるにあらずや。経に此土一日の修行は浄土に於いて百歳するに勝れりと。吾人はかかる大利なる此土なることを自覚するが故に、寸陰を宝とし、己の本務を尽くさんとすべく、然り而して方便土(このよ)のつとめを全く卒(おわ)る日には、必ず目的たる実在(まったき)の報土(ごくらく)、すなわち無余(ときわの)涅槃界(みくに)に帰る期(とき)あるを信ず。
後編 第二 往生=更生(二)
身体の更生。すでに更生したる精神は如来大心光中に、理想の浄土に逍遥(すみあそぶ)ものの、肉のあらん限りは自然の約束を全く脱する能わず。いよいよ方便(よ)の業(つとめ)を率(おわ)る暁には、無明生死の夢醒めて大ネハン城にて無上菩提(さとり)の宮に住し、真善美妙の園には常楽我浄の華鮮やかに、四智円満の灯は明らけく、三身一如の月清らかなり。然る時は、即ち体は本覚の都にあって、化を百億に分ち、ここに於いて一切諸仏は即ち本覚の弥陀。弥陀すなわち一切諸仏たるの真理は自ら証(さと)らん。
後編 第三 極楽浄土
心霊界。心眼開きて覩ゆる方面にて、これ宗教の目的とする涅槃無量寿(きよきみくに)の霊界である。仏教にて浄土と名づけ、自然界に超勝したる霊妙の境界、…
釈尊自ら発見なされた極楽は無明生死の夢醒めて、正覚(さとり)の暁に顕われたる、光明常に輝く涅槃界のことである。故に釈尊はその徒に教ゆるに常住の涅槃に入るを目的とす。しかして全く修行すでに成就して心霊界を発見し、そこに神(こころ)を安住するを有余涅槃とす。心は極楽無為に住し身は自然の約束をもっている。而してこの命終わる時は全く涅槃常楽(きよきみくに)に帰るを無余涅槃とす。
後編 第四 至誠心(しじょうしん)
至誠は本来弥陀と衆生との根本的因縁によって、自然に合致すべき性(しょう)なり。弥陀は自性の本体を以て我(が)とし、衆生もと自性を根底としながら、迷妄虚仮を我(われ)と思うて六道に流転す。真実を体とする父と、虚妄我の奥底にひそめる本心は、如来の聖意(みこころ)と同性相吸引するの勢能を有するを以て、実には本覚の父の許に往き易し。しかるに衆生ひとたび本覚に背き、虚妄我に執(とら)われ、虚栄虚偽自ら非なるを覚知せざるをもって往く人少なし。大師が「念仏して往生するは法爾の理(ことわり)なり」とのたまいしも、弥陀と衆生との本心に本来合致すべき性(しょう)を有すればなり。
後編 第五 至誠は内容を要す
誠は形式にて必ず内容を要すべし。かの如来の本願に「至心に信楽(しんぎょう)して我が国に生れんと欲し、乃至十念せんに、もし生ぜずば正覚を取らじ」と。しかれば誠を充実せしむる内容は、弥陀の聖意(みこころ)に相応する信、愛、欲、これなり。いわく、至心に如来を信じ、至心に如来を愛し、至心に浄土へ生れんと欲するなり。誠の本体は如来の法身にして衆生は法身の一分なり。奥底には大法身と連なれる法身なる誠の性(しょう)を有す。信と愛と欲との内容を充実せしむるは、報身仏の智慧慈悲等の本願力なり。
後編 第六 至心に深く信ず
信は如来の実在と霊力とを承認(みとめ)て疑わぬこと。信に二面あり。一に現在(この)我は自ら返照(かえり)見るに、実に自分勝手なる動物に選ぶ処なきのみか、かえって悪知悪意地(あくちわるいじ)、しかして大霊の大なる恩をも顧みず、現在(いま)の生存も御恩に依ることを思わず。よくよく己を返照(かえり)見る時は、全く己が罪悪深重(つみのふかき)なるを自覚し、初めて大なる恩寵を至誠心(しじょうしん)に仰ぐことになる。二に如来は大御親(おおみおや)にして大慈悲にましませば、己が罪悪(つみ)を悔いて如来に帰命する時は、必ず摂取して下さる。また己が霊性はもとより如来の子なれば、霊の御親に頼る外なしと信じて帰命(たのむ)べきである。
後編 第七 信の三位
仰信とは、理性いまだ発達せざる天性の人が、単直一向に救いを仰がば、法爾の感応ありて功果の実(じつ)を得。譬えば労働夫は食したる穀菜(こくさい)等を消化し、人の血肉と成り得べきやは理学の知識なくとも、食する時は必ず血肉と化すべき如く、宗教学の知識なくとも一向に仰信して一心念仏せば救霊(きゅうれい)の功あること必然なり。解信とは如来の実在の真理を理論的に解して、理性の承認する所に立つ信仰なり。証信とは、一心念仏して霊性開発し、如来の霊応もしくば如来の相好光明等の種々の霊相を感見し、実験証得に依りて立つ信仰なり。
後編 第八 愛の三位
宗教的の霊(きよ)き愛を発達さするにも順序あり。...母子的の愛の如くに、慈愛の親を慕う心を発(おこ)すに至る。... 肉の感情に於いて異性に対する愛は最も馥(かぐ)わしき生命を有せり。... 霊性が永劫の生命を共にする大愛の権化たる如来に対して、神的霊味に触れ、無上の霊界の美人に接せんと、恋慕の念を生じ、一心に如来を見んと欲する恋慕の情の深き、身命(いのち)を惜しまざるに至るは、あえて怪しむに足らず。これを愛仏的恋慕という。... 相愛(あいあい)する異性を得れば、その愛する者を我がものとして夫婦同棲し、それと生命を共にせんことを望む性情(せいじょう)あり。... 霊性が如来を愛慕し霊応(みこころ)に感触し、神秘冥合の妙用(みょうゆう)よりして霊(きよ)き生命を生み、かくして聖子(せいし)となる。
後編 第九 至心に深く愛す
愛、感情の信仰。宗教の中心真髄は感情にありと。全く如来を信頼して、我がものとして親密なる関係となり、熱誠(ねっせい)が血に躍り歓喜が涙に溢れ、大霊(みおや)に恋念(あこがれ)して忘るる能わざる等の信念は感情である。...
愛は感情の信仰。愛は如来の霊応と感応融合を切望するの動機なり。宗教の中心真髄は人の感情にあり。如来を信楽(しんぎょう)して、全く我がものと思うは、感情の奥なる愛の念なり。憶念して忘れ難きは愛あればなり。愛というも肉の愛にあらず。高妙なる霊的恋愛なり。
後編 第十 至心に深く欲す
欲、意志の信仰。人は欲望あり志願ありて、そが為に我を忘れ力を尽して働くことが出来る。しかして劣等なる人は欲望(のぞみ)も卑賎(いやしき)である。肉慾や我慾の動機の為に生活が支配されている。いま宗教は天性我の罪悪と非霊なるを自覚し、如来の恩寵を仰ぎて霊(きよ)き我にならんと欲する意思なれば、高等なる人格と更生するなり。...
もし仏を愛し仏と親しむことを得れば、共に在って離るるに忍びず、また深く愛する仏と共にせんと欲し、仏心を我が心とし、仏行を我が行とし、すべてを同じからんと欲し、仏と共に居る、仏の居ます処はこれ浄土である故に、我もまた仏と共に浄土に居る。仏によって精神生活し、仏によって行為す。
後編 第十一 欲の二位
霊的動機の欲望は願作仏心(がんさぶつしん)と願度衆生心(がんどしゅじょうしん)となり。
願作仏心とは自己の奥底なる法身の分たる霊性は発展せられ、報身の心光に霊化せられ、己を円満に完成し、現世を通じて永遠の浄土を実現せんとの欲望たり。この欲望が声を発して称名となる。称名すなわち弥陀の聖意(みこころ)なり。一心念仏し弥陀我にあれば、此の土も浄土なり。弥陀ありて活動する作為(おこない)みな仏道修行なり。...
願度衆生心の望みの前には、縁なき衆生は度し難し。悪言罵辱(あくげんばじょく)も彼を導くの縁とせん。いわんや好意を以て己を持するものをや。共に念仏して同生(どうしょう)を求め、法喜禅悦の味を領(わか)たん。一切は悉く同胞なり。共に如来の聖意(みこころ)を体して慈心を以て相い視、同情を以て相い念(おも)い、諸々の衆生と共に安寧を得んことを願うを度生の欲望とす。
後編 第十二 五種正行
「称説」(如来光明歎徳章の称説) に五聖行(しょうぎょう)あり。
1,救世の福音なる聖典をよみ如来の聖徳(しょうとく)及び浄土荘厳等を識(し)り以て信念を修養す。
2、懴悔と感謝の誠心を表せる朝夕等の拝礼を以て信念を修養す。
3、如来の相好・浄土の荘厳の相、及び如来の智悲聖徳を知見せんが為に冥想観念を以て修養す。
4、一心に聖名(みな)を称え聖旨(みむね)の現われを祈り、恩徳感謝をして信念を修養す。
5、聖歌(せいか)を以て聖徳(しょうとく)を讃頌(さんじゅ)し、また香華珍膳等の供え物を以てしかも修養す。...
五行は信念修養の材料なり。修養の宗とするところは、自己の心意と如来の恩寵との投合にあり。即ち自己を如来の光明に投帰没入し、肉我に死し霊我に復活するにあり。要する所、若しは口称、若しは憶念、一行三昧を以て一に如来に心意を注ぎ、心々相続して止まらざる時は、若しは頓速に、若しは漸次に、如来の心光と感合し、恩寵喚起の機熟し、信心覚醒し、心霊の曙(あけ)となりぬべし。これを恩寵の喚起となす。
後編 第十三 読誦正行
三部等の聖経をよみて霊眼を開き霊性を養う。聖経は教祖が自ら霊感せる内容を詮表したるものなれば、よくこれを信解(しんげ)し如法に実行する時は、心霊の料(かて)となる。聖霊の糧を廃して心霊あに活くべけんや。また聖経は霊界の甚深神秘の奥をもらせり。これを読み如実に修行する時は秘密の神界を開くの霊鑰(れいやく)となる。これ霊を養う資料たり。
聖経を読みて自己の心霊を開導するにあり。浄土教は釈尊が自己の心霊界の実験を啓示したものなれば、しばしば読む時は自己の心が開かれて霊界に導かるる。... 経を読むもまた師友知識から如来の真理を聞き得て信を取るも、要する所は自己の信念を開発し成就せしむるを目的とす。
後編 第十四 観察(かんざつ)正行
如来甚深の境界は玄妙難思はるかに感覚を超絶す。冥想観念・凝神熟考(ぎょうしんじゅっこう)して霊眼を開かざるよりは窺い知るべきにあらず。神秘の室に入りて聖霊を感ぜんと欲せば、須らく三昧門を修すべし。... 冥想観念を以て、或いは仏の相好光明を観察し、または浄土の荘厳の相を憶念し、行住坐臥に観念する時は、初めには想像に見え、又は常に如来と共にあって離れざることを想い、水を静めて月浮かぶ如く、明境を以て画像を映し見る如くに、仏の慈悲のみすがたを映現せしむるを観察正行という。
後編 第十五 礼拝正行
正しく朝には至心に拝礼し、如来無上権威と恩恵とに帰命し、自己の言葉と思いと行いとを捧げて霊を養い、聖旨(みむね)を現すべきつとめを以て礼し、昏(くれ)には如来の霊光に依りて一日のつとめ来たりし三業の行為、如何なりしやを吟味し、その過ちを悔いて、至心に霊性の養いを祈る礼拝にて、自己の傲慢などの悪徳をくじき霊感を祈る。... 礼拝の時は親(まのあた)り如来の慈悲の温容に接し、如来の大慈愛がわが心に充たしめたまうことを念じ、要するところは如来の聖意(みこころ)と御力(みちから)とがわが心に充実するところにある。己(おの)がすべての汚れたる心を捧げて、如来の清き聖心(みこころ)に換えて頂くことにある。
後編 第十六 称名正行
如来の真相は甚深玄妙にして、思議を超えたり。聖名(みな)を以てその徳を詮表するにあらざれば表わし難し。故に一(もっぱ)ら聖(きよ)きみ名を称えて、聖旨(みむね)の自己の心霊に現れんことを祈るべし。無上の尊敬と無限の恩寵を感謝して如来の摂取を仰ぐ。一(もっぱ)ら常に聖名を称え自己を投じて霊海に帰入する時は、念々ことごとく如来薩婆若海(さつばにゃかい)に流入す。日夜不断に霊感を祈って霊性を養うべし。
称名にも三つの意がある。請求(しょうぐ)と感謝と讃歎とである。請求というは如来の救いを仰ぐこと。また光明の摂取を求むること。感謝とは如来の本願力に救われてお慈悲の懐に抱かれあることを、ありがたく感じて謝すること。称名また念仏三昧ともいう。衆生一心に仏を念ずれば、仏心がわが心に入りたまう。わが心は仏心の中にあり。衆生心と仏心と融合して三昧の妙境に入る。
後編 第十七 讃歎供養正行
如来は無上の霊にましまし、無限の愛にましませば、全く心を尽くし言葉を尽して讃美すべし。新しき聖(きよ)き頌(うた)を以て霊徳を讃し、至真至善至美の徳を称(たた)え、真理の光と無上の智慧と霊能の徳を称(たた)えよ。思いと言葉とに於いて讃美するのみにあらず、聖旨(みむね)の現われんように実行し、如来の光栄(みさかえ)を顕わす、これ讃美の実行といいつべし。
供養とは珍膳美饌(ちんぜんびせん)および香華奏楽(こうげそうがく)も自己の至誠(しじょう)を表わす供養に外ならず。しかれども真の供養は、己が心を捧げ身命財を犠牲にして如来奉事(ほうじ)的事業をなすは、これ供養の中の真意なり。至心に讃し供養を以て心霊を養うべし。
新しき讃歌を以て如来の聖徳を讃歎し、讃歎するに自己の心も如来の妙境に自ら逍遥するに至る時は、情調に於いて不思議の霊感を得らる。… 供養は自心をすべて献(ささ)げる心を以て仕え奉るにある。
後編 第十八 四修
不断に四修あり。1.如来に対して無上の尊敬を捧げて 2.一行三昧に専ら如来を念じて余想を雑(まじ)えず 3.聖意(みこころ)を体信し相続して断ぜず 4.聖意を体得して終身中止せず。不断とは修養の用心、自己の意思を献(ささ)げて専精(せんしょう)ならしめ、終局に列達すべき規矩(きく)たり。
後編 第十九 恭敬修・無余修
1.恭敬修(くぎょうしゅ)。如来の絶対無限の真に合せんには、自己の主我を捨て一に帰命信頼せんには如(しか)じ。無上の権威なる如来に対し無上の尊敬を呈せざるべからず。是れ全く如来の神聖正義恩寵に対する意思を表わす。古人常に西方を背にせず、西に向って合掌恭敬を表わすと。想いを西に傾けしめば、念々自ら如来の霊海に帰入す。
2.無余修。唯一の独尊に帰して、一(もっぱ)ら礼し、一ら祈り、また観念し讃美し供養して、自余の神および仏に帰せず。真の如来の外に全く一切衆生を摂取し霊化する権限あるものあらざればなり。また意志一(もっぱ)らなるは心霊なり。心霊は如来の一大心霊とつらなり、心霊は金剛の如く動ぜず変ぜず。
後編 第二十 無間修・長時修
3.無間修。無余は空間的に専一を守り、無間は時間的に変動せずして一貫するなり。意志無間に一貫する時は、如来の霊を感ず。人初めは雑念にしてしばらく如来を感ずるも、たちまち消失す。一たび開きて真に入る時は、始終一貫、任運無作にして自ずから霊なり。しかれども未だ喚起の季節なれば、作意的に如来を念じて捨てざることを要すべし。
4.長時修。この四修は初め発心すなわち恩寵の喚起より実行の終りに至るまで、常恒不断の注意的作用にして、三心五正行を以て不断の過程に作用して、途に於いて廃止せざるを要す。故に長時修と名づく。如来は無上にしてまた無限の霊態なり。これが中の進化向上の過程なれば、必ず策進して中止せざるべし。
後編 第二十一 念仏三昧㈠
念仏三昧 - 起行の用心はここにあり。三昧は等持定(とうじじょう)という。口に聖名を称え、意を専注して弥陀を念じ、漸々(ぜんぜん)に世の雑念を薄らぐ。念ずる所の弥陀に神(たましい)を投じ、弥陀が我か我が弥陀かと、離れぬ精神状態に入りて、完(まった)き調和の成りしところを即ち三昧という。三昧をまた直調(じきちょう)とも訳す。直調とは対象とする弥陀の霊中に直覚的に集中して、完(まった)くよく調和し合一したる所なり。思うに人は意馬心猿の如く、常に騒がしくして暫くも止(とど)まらず、然れどもただ一心に口称三昧に入りて意(こころ)を用うる時は、自ずと直調となるなり。要するところは一心にあり。
後編 第二十二 念仏三昧㈡
すべてを大ミオヤにお任せ申し上げて常に大ミオヤを念じ、大ミオヤはいつも離れずあなたの真正面に在まして慈悲の面(おも)をむけて母の子をおもうごとくまします。あなたはそれのみをおもうて、専らにしてまた専らなる時は、だんだんと心が統一できて、あなたの心はミダの御慈悲の面(おも)にうつり、お慈悲の面はあなたの心にうつり、而(しか)するとそれがだんだん深く入るに随いて、あなたのこころはなくなりて、唯のこる処は御慈悲の如来さまばかりとなり候。
後編 第二十三 見仏㈠
見仏には二の義ありて、念仏者の宗致となす所なり。一には見仏は念仏者の全生命の復活したる徴候として顕わる。念仏して全く真の仏子たらんには、全生命の復活ならねばならぬ。弥陀の仏子と生まれたる兆(しるし)には、信仰(心霊)の眼が開けるなり。例えば人の赤子が産まれ出て暫く眼も見えざれども、小児が体が育つにしたがってその兆候としてまず眼が視ゆるに至る。そもそも眼の視力が発達して視ゆるに至るは、全体の発育したる兆(しるし)である。念仏者心眼開きて仏を見るとは、是れ霊的全生命の発達したる兆候である。全生命の復活にあらざれば、真の仏子たるにあらず。故に見仏とは心霊的全生命の活きたるの謂いである。ただ眼のみ発達したる事にあらず。云い換えれば、活きた信仰の状態に外ならず。
後編 第二十四 見仏㈡
二には、実には仏は見える見えざるにかかわらず、如来常に行者の真正面にましますとの信念が最も大事にて候。我ら衆生は、如来の我と共に常にましますという信念の確乎たる処、我如来と共に在りとの信仰が是れ生命にて候。されば釈尊入滅の時に徒(でし)に示すに、如来の法身汝らと共に在りとの遺言、我ら如来を離るる時は闇黒の生活の止むなきに至る。聖善導の「仏身円満にして背相なし 十方より来たる人みな対面す」の讃文、実に有難く感じ申し候。見不見にかかわらず、我如来と共に在りとの確乎の信念こそ宗教の第一義にて候。
後編 第二十五 光明主義
見仏有難く候えども世に往々もし見仏せざれば往生できぬとか、また現在より如来と共に在る如来光明主義とは、見仏以後にあらずやとの疑いの為に、光明主義は普遍的に一切衆生を摂取する能わずとの疑惑を招き候により、見不見にかかわらず、光明生活を以て如来によって活きたる信仰という主義なれば、即ち一切を普遍的に念仏三昧を以て光明に摂取し、光明生活を以て一切と共に、現在を通じて永遠の光明を期する安心を立つることを主義とせば、普遍的に行わるるものと信じ候。よって見仏を面(おもて)に表わさず、光明主義を標榜して、すべてを摂取し、大ミオヤの慈光に接することを願わしく存じ候。
後編 第二十六 あなたの前にまします
大ミオヤは天地間いずれの処にも、いまさざるところなき大ミオヤなれば、今現にここにましまして、大慈悲の面(おも)をあなたに向けたもうてまします。あなたは信じていますか、また信じませぬか。釈尊は如来是法界身、一切衆生の心想の中に入り給うと仰せられた。宇宙全体に周遍するところの霊体にましませば、いずれの処とていまさざる所なく、一切衆生の心想の中に入り給うなれば、君はいかに注目して如来を見奉らんと思うも、如来を見奉ることは、太陽または月を拝むように、初めから外界に心を注いでも拝めませぬ。もと、如来は絶対の霊体にして、大智慧の心として一切処に遍満し給う。ただあなたが一心に念仏する時あなたの心霊に入り、しかしてこれを投映する時に客体化して現じたまう。
後編 第二十七 宗祖入神のところ
自性は十方法界を包めども、中心に儼臨(げんりん)したまう霊的人格の威神(いじん)と慈愛とを仰ぐもあり。真空に偏せず妙有に執せず、中道にあって円かに照らす智慧の光りと慈愛の熱とありて、真善微妙の霊天地に神(たましい)を栖(すま)し遊ばすは、これ大乗佛陀釈迦の三昧、また我が宗祖の入神のところなりとす。冀(こいねがわ)くば識神(たましい)を浄域に遊ばしむることを期せよ。
後編 第二十八 年頭法語㈠
大なるミオヤは十劫正覚の暁より、可愛ゆき子を待ち侘びたまうとは、仮に邇(ちか)きを示せしものの、実には久遠劫の往昔(むかし)より今時(いま)の今日(いま)に至るまで、可憐(かわ)ゆき子の面(かお)の見たさ、また子を思う親の心の知らせたさに、番番出世の仏たちを御使わしなされて、苦心慇懃に子らに諭して、ミオヤの大悲の御手に渡したまわんとせし、久遠劫来の思念がかかり、大悲召喚の御声に預かりし田中道士の、至心信楽の心を注ぎて慕わしき吾が大ミオヤ、ナムアミダ仏と呼ぶ声を、毫も遠からぬ道士の前に在(ましま)す大ミオヤは、さぞ限りなき歓びを以て、これに報答しますらんと信じられて候。
道士よ、御名を呼べば現に聞きたまい、敬礼(きょうらい)すればアナタは覩(み)そなわしたまい、意(こころ)に念ずればアナタは知りたまい、こなたより憶念し奉ればアナタは幾倍か深く憶念し下さるるとの、導師の指導にして誤りなからば、今現に念仏三昧を修しぬるに、大ミオヤの慈顔(じげん)に接することを得られぬ事とかくな思いたまいそ。また今現に大慈悲の懐の裡(うち)に在ることをゆめな疑いたまいそ。
後編 第二十九 年頭法語㈡
此の肉体に於いても分娩せられてまだ幾日の間は、母の懐に抱かれていながら、懐かしき母の容(かお)を見ることが出来ぬことにて候。しからば如何にせば、吾が母の容(かお)を見ることを得るにいたらんとなれば、啼(な)く声に哺(ふく)ませらるる乳を呑(ふく)む外には育くまるる道これなきことにて候。念々弥陀の恩寵に育まれれ、声々大悲の霊養を被る。十万億土遥なりと愁うること勿れ。法眼開く処に弥陀現前す。
今宵は大晦日の夜である。世人(せじん)多くは債鬼(さいき)を逃るるに苦しみ居り、同士は無始以来の債を除いて、久遠劫来の親に逢いたさに泣いている。道士よ、今宵は無始以来迷いじまいの大晦日にして、明くれば本覚の無量寿にして無量光なる元旦に候えば、萬歳(ばんざい)を以て未だ足れりとせず、無量寿のみ名を称えて、道士の聖なる元旦を祝し上げ候。
後編 第三十 人生の宗趣
念仏三昧を宗と為す。宇宙の主なる弥陀と三昧交感、または光明獲得を宗とす。
往生浄土を趣と為す。光明の生(せい)に復活、又は更生。現在は理想的涅槃(光明生命)、未来は実在的涅槃。
宗。宇宙絶対的主なる如来、衆生心想中に霊応身を以て交感す。この霊応すなわち宗教的生命なり。如来霊応常に衆生の心殿にましまして、中心本尊として指導したまう。
趣。すでに復活して霊的生活として光明中に在りて、如来照鑑の下に活ける如来を本尊として、一切の時・一切の処に於いて、その神聖なる統治の下に霊(きよ)き生命としてつかえまつる。
後編 第三十一 再び得がたき今日
大ミオヤなる如来は、我ら一切衆生の心霊を麗しく染めなされんが為に、清浄・歓喜・智慧・不断の光明をもって永(とこ)しえに照らしたまうも、我らはその霊光中に在りながら、ただ世の五塵六欲に、眼に耳に汚染(けが)されて、幾年月を経ても弥陀の霊光に浄化せらるる光栄をなすこと能わで、来る秋も来る秋も空しく過し、再び得難き今日を徒(いたず)らに暮しゆくこと、実に慚愧に耐えざる処。