聖者の生涯

 明治維新の十年前、1859年千葉の鷲野谷に、農業を営み、念仏嘉平と綽名される篤信の念仏者山崎嘉平氏と信心深い母なお婦人の子として生を受けました。幼少の頃より宗教心に目覚め、やがて出家の道を歩むことになります。1879年許しを得て得度、3年後の24歳の時に筑波山に2カ月間こもり念仏三昧を修し三昧発得、すべての生きとし生けるものの現前に如来さまが了了と在(ましま)して、御慈悲を注いで下さっておられる相を目の当たりに感見されました。それ以降亡くなられるまで一所不住で、ただ「目の前に如来さまがいらっしゃって、あなた方を救いに来ておられる」事を、全ての人に知らせることのみに人生を捧げられた、全く以て無私なるご生涯でありました。

聖者の人格

 筑波山山上での念仏三昧により、全ての命が大ミオヤのいのちの現れであり、そのことを知らせるためにミオヤは自ら衆生の現前に姿を顕わし、人々を一人残らず光の世界へ導入されようとされている、その大慈のお姿を目の当たりにして以来自我が砕かれ、あらゆるいのちと一繋がりであることを覚られた聖者の、その慈しみの心は人間だけにとどまらず、あらゆる生命に注がれるようになりました。

 全てに於いて常に自分を後回しにされ、人々の本当の幸せ(ひかりの摂化・霊性開発)の為に尽力することを喜びとされます。他への施しは無際限で、例えば村人から聖者にと捧げられた布施も、一度は有難く受けられるも、人知れずそっとそのままを生活に難儀をしている盲人に差し上げたり、或いは信徒から寄進された白米五升をも、貧苦ゆえに些細な罪を犯して入獄された隣村の者の、家族が困窮しているという噂を聞けば、わざわざその白米を持って行き全部施与されたり、或いは寒い晩、信者から防寒用の胴着を是非お召しになって下さいと施されても、物を乞う人が寒空に震えているのを見れば、すぐに脱いで差し上げられてしまうのです。善光寺建立、インド渡航の為にと集められた募金でさへ、生活に困窮している人を見れば、すべて差し上げてしまわれます。聖者にお金を管理させては、募金がままならぬと取り上げられてしまったほどでありました。

 その慈しみの心はあらゆる生類に向けられていました。古くなった着物にシラミがわいても、決して殺(あや)めず日向に出して去るのを待ち、或いは道を歩くのに、若草を踏まないように遠回りし、また道を這うアリにも気をつけて避けて通られます。子供がアリにいたずらしているところを見れば、優しい声で「アリを殺すと、アリさんの子や兄弟が泣きますよ」と諭され、蚊も決して殺めず、「やみの夜に鳴ける蚊の声かなしけれ 血を分けにけるえにし思えば」とそっと追い払われるのでした。(『善光寺山崎弁栄上人論集』長谷川匡俊氏論稿・『日本のひかり』参照)

 岡潔先生に「一点の私心もない姿に全く頭が下がるのみ 」と言わしめた日常茶飯事の慈悲行も、大ミオヤの聖旨をわが心とされた聖者の人格から、自ずと発せられる慈悲の光そのものの働きなのでありました。

 またミオヤの智慧の光は、聖者に様々な能力(六神通)を発揮させます。ある時には岐阜の宿にて、随行者に「今に人が尋ねて来るから用意しておきなさい、今向こうの松原の陰を馬を引いて歩いている」と言われるのですが、その宿からは松原さえ見えません。しかし暫くすると、果たしてその人が尋ねて来られました。また、聖者は群馬県高崎で身を二つに分かち、半身はただちに新潟県の柏崎へ行き、念仏に行き詰まって悩みをかかえておられた婦人の枕辺に立って、「仏思いの光明を、胸に仏を種とせよ。」と七遍言って安慰を与え、ただちに帰って来られたこともありました。また、ある信者が自然科学書を差し上げると、聖者はその本を左手に持たれ、右手の親指を本の腹に当てて、ピィーと頁を鳴らされました、「はい、これですっかりわかりました」と言われるので、試しに色々難しい質問してみると全てすらすら答えられたということです。また、弁栄上人のお履きになった下駄は、歯がすこしも減らないし、雨にあわれても衣はすこしも濡れていないので、その理由を尋ねてみると、「私はいつも如来様に抱かれて居りますから」とのことでありました。夜、随行者が、聖者の寝ておられる部屋の襖をあけて見ると、聖者の姿はなく、金無垢の如来さまが蓮台の上に端座しておられたのをご覧になられたそうであります。皆の見ている前で両手に筆を執り、一度に両手で別々の字や御歌を書かれたり、小さな米粒に名号や仏画等を描かれたりもされました。此の米粒名号は、安産の御守として所望される方が多く、湯飲みに浮かべて飲むと、生まれて来た子がその米粒を握っていた事がよくあったそうです。 これらは皆大ミオヤの無辺光の大円鏡智や妙観察智のお働きであります。(岡潔先生『神々の花園』参照)

いったいどのようにしたならば、聖者の様な人格が形成され得るのでありましょうか。「聖者の教え」を通して学んでみたいと思います。


弁栄聖者略歴

1859年(安政6)

2月20日、下総国手賀村鷲野谷(現在の千葉県柏市鷲野谷)の農家に父山崎嘉平、母なおの長男として生まれる。幼名啓之助。敬之助の祖母てうは、若いときから信心深く、日々念仏を称えぬ日はなかった。父嘉平もまた、朝は未明に起床し、称名に励み、毎月15日は、白衣白帯を身につけ、日没にいたるまで念仏を称えた。打つ鉦の音は村々にとどろき、いつしか念仏嘉平と呼ばれた。敬之助の母なおは、働き者で、やさしく、静かな人柄で、夫嘉平の感化を受け、農事と家事に忙しいなかも、寝る前には仏壇の前に端座して称名することを怠らなかった。


1870年(明治3)12歳

11月8日、弟恒吉(9歳)病死。

※後年、この年の秋彼岸の中日、沈む夕陽に向かって礼拝したときのことを次のように記している。「幼時十二歳、家に在りし時、杉林繁れる前にありて、西の天霽(そらはれ)わたり、空中に想像にはあれども、三尊の尊容厳臨したまうことを想見して、何となくその霊容を憧憬して、自ら願ずらく、われ今この想見せし聖容を霊的実現として瞻迎(せんごう)し奉らんと欲して欽慕措(お)く能(あた)わざりき。」


1873年(明治6)15歳

この頃より、漢学師匠長谷部氏への通学をやめ、もっぱら家業の農事を手伝うが、一方で菩提寺である医王寺より、仏書を借りて読み、ひそかに出家の願望を抱くようになる。


1879年(明治12)21歳

11月20日、医王寺の本寺、小金(現在の千葉県松戸市小金)の東漸寺(関東十八檀林の一つ)大谷大康老師のもとで得度し、弁栄と改名。入寺早々より、中国華厳哲学の神髄である「事々無碍法界」や「天台四教義」「法華三大部」など難解な仏教書の講義を受ける。


1881年(明治14)23歳

2月、東京に遊学。伝通院大谷了胤老師の「往生論註」「唯識論述記」「倶舎論」等講義、日輪寺卍山実弁老師の「原人論」「起信論」等、翌年に至り、同師より「華厳五教章」の講義を聴講。仏教学の研鑽と念仏三昧の修行により、一心法界の境地を深める。


1882年(明治15)24歳

8月、東京より帰郷。医王寺薬師堂に籠もり21日間、又その直後より筑波山に入山し、二ヶ月に渡る念仏三昧を行じ発得。その時の心境を偈にされる。

弥陀身心遍法界 衆生称念仏還念 一心専念能所亡 果満覚王独了了

11月、東漸寺大谷大康老師より、宗戒の両脈を相承される。

1883年(明治16)25歳

9月、東漸寺末寺、飯島(現在の埼玉県吉川市飯島)の小庵宗円寺に籠もり、一切経七千三百三十四巻の閲読を始める。


1884年(明治17)26歳

5月、東漸寺大谷大康老師遷化。百日間の報恩別時念仏に入る。


1885年(明治18)27歳

6月、一切経七千三百三十四巻を読了し、宗円寺より東漸寺に帰る。初冬頃、大谷大康老師の意を継ぎ、新寺建立の為五香(現在の千葉県松戸市五香)の説教所に移る。


1886年(明治19)28歳

2月、新寺建立のため、五香を中心に勧進の巡行を始める。増上寺福田行誡上人、勧進帳に寄附を要請する付言を記す。


1888年(明治21)30歳

2月から8月にかけ、東京本所鈴木富蔵宅に滞留。知恩院福田行誡上人より、二十五条の大衣贈られる。


1889年(明治22)31歳

五香より、東京、埼玉など近県に巡錫はじめる。


1890年(明治23)32歳

浄土宗本校新築のための資金勧募の協力を茅根学順上人より要請され快諾。新寺建立に加え浄土宗本校新築の責務も負い、勧進の巡行は関東一円から信州方面にまで及ぶ。


1891年(明治24)33歳

松戸新寺本堂落成。善光寺と命名する。


1892年(明治25)34歳

1月、小石川(現在の東京都文京区小石川)の伝通院山内に浄土宗本校落成。両総地方、鎌倉、三河にかけて巡錫。インド仏蹟参拝を支援するための、渡天事務所が浅草徳寿院誓願寺に置かれる。


1893年(明治26)35歳

10月、北陸(金沢、石動、高岡、白石、新湊等)巡錫。


1894年(明治27)36歳

7月、北海道巡錫。8月、新潟巡錫。12月15日、インド仏蹟参拝のため横浜港を出航。


1895年(明治28)37歳

1月24日、ブッダガヤ参拝。3月下旬、帰国。9月、姫路から鳥取を巡錫。11月下旬、三河巡錫。

1897年(明治30)39歳

7月、絵入りの訓読阿弥陀経『阿弥陀経図絵』第一版を印刷。以後、巡錫の先々で頒布され、その総数は25万部に達した。

1898年(明治31)40歳

駿河、遠江、尾張、美濃、伊勢と巡錫。さらに三河から関東へと巡錫。


1899年(明治32)41歳

愛知県新川町(現在の碧南市)篤信家石川市郎氏の、自宅敷地内に建立の法城寺開山勧請を快諾し、法城寺開山上人として尼僧たちの指導教育に携わり、後に近所の子供たちにも音楽などを通して楽しく法の種を撒くようになる。

1900年(明治33)42歳

2月より、東京、静岡、尾張、伊勢桑名と巡錫。4月、千葉行徳等巡錫後、信州巡錫。5月上旬東京に戻り、西下し三河巡錫。その最中死を覚悟するほどの重い肺炎を患い、初冬まで法城寺にて療養する。同年冬、五香善光寺にて棺を用意させ、その中に端座し、30日に及ぶ念仏三昧を行じ、これにより光明道が萌芽する。

1901年(明治34)43歳

6月下旬より、松戸、五香、横浜等主に在家を巡り、岡崎、西尾、新川、小牧等巡錫(小牧光明庵、荻原神宮寺、吉田徳雲寺)。8月9日より30日間、美濃富秋村(現在の岐阜県揖斐郡大野町)心楽庵にて在家20人ばかりに住生論註の講義をする。10月、美濃路から西下し畿内地方を巡錫。東上し東京、常陸、鎌倉(光明寺千手院)を巡錫、原青民師と法談、親交を深める。

1902年(明治35)44歳

おもに関東を巡錫。「無量寿尊光明歎徳文及要解」版行。

1903年(明治36)45歳

おもに三河(荻原神宮寺、吉田徳雲寺、新川法城寺、岡崎大樹寺、岡崎真如寺)を巡錫。


1904年(明治37)46歳

4月、最初の礼拝文(礼拝儀の原型)を発表。千葉県松戸町の各宗合同の青年会を指導する。


1905年(明治38)47歳

1月8日、父、嘉平死去。3月、西下し、新川法城寺他、西尾、佐屋など各地を巡錫。同月、愛知県西尾町(現在の西尾市)にて仏教要理問答第二版を出版、その付録に「如来十二光和偈」「三身讃歌」を掲載する。6月、名古屋から「八相応化頌」「一心十界頌」の二小冊子発行する。このとき、公刊文書としては、初めて「仏陀禅那」の別号を用いる。 近畿地方(大阪長円寺 大宝寺等)巡錫。鎌倉(光明寺千手院等)巡錫。


1906年(明治39)48歳

関東巡錫。西下し三河(刈谷願行寺等)、美濃、尾張地方巡錫。9月、大僧都に叙せられる。


1907年(明治40)49歳

主に東京、鎌倉、東海道筋を巡錫。6月、讃誦要解と題し、新礼拝文とその要義を説いた小冊子を発行。


1908年(明治41)50歳

1月、名古屋で小冊子「如来の光」発行する。3月、指導

する松戸の各宗合同の青年会に、「心光教会」の名称を初めて用いる。尾張、三河巡錫。


1909年(明治42)51歳

秋から年末にかけて美濃巡錫(岐阜本誓寺)。


1910年(明治43)52歳

1月、松戸心光教会にて礼拝文「心の光」発行。5月、三身(法・報・応)、三心(信・愛・欲)、四徳(一切知・一切能・智慧・慈悲)、十二光(無量光・無辺光・無碍光・無対光・焔王光・清浄光・歓喜光・智慧光・不断光・難思光・無称光・超日月光)からなる念珠創案。信州(長野静松寺、真田古城庵)を17年ぶりに巡錫。7月、高崎(沼田正覚寺)巡錫。8月、埼玉県各地巡錫。10月から11月にかけて、常陸、下野各地巡錫。この頃、「如来心光教会主唱者」と名乗る。


1911年(明治44)53歳

美濃(岐阜法円寺、岐阜本誓寺、岐阜折立超勝寺)巡錫。


1912年(明治45・大正元年)54歳

4月3日、九州久留米善導寺に入る。筑前(楠橋専福寺、折尾正願寺)、筑後を中心に、九州各地を初巡錫。九州滞在は翌大正2年9月末まで及ぶ。12月12日、母なお死去。


1913年(大正2)55歳

2月、筑前福間(現在の福津市)大善寺にて、初めて光明主義教学の組織的講義をする。6月、筑前若松(現在の北九州市)善念寺にて、「宗祖の皮髄」と題し法然上人の道詠十二首についての講話を行う。9月27日、九州を離れ、下関(酉谷寺)、山口県熊毛(常春寺)、広島(源光院)、呉(正覚寺)、倉敷(誓願寺)、神戸(願成寺)、大阪を巡錫し、京都に入る。12月、美濃に入り越年。笹本戒浄来訪。


1914年(大正3)56歳

光明会趣意書(一枚刷)、小冊子「大霊の光」、小冊子「浄土教義」発行。
4月末、高崎、越後(長岡法蔵寺、新潟善導寺、亀田円満寺)巡錫。越後、高崎、信州松代、四日市、桑名(光徳寺)、をへて、尾張巡錫。10月下旬より美濃(谷汲明王院)巡錫。揖斐郡大野小学校で講演を行う。


1915年(大正4)57歳

美濃、尾張巡錫。4月、美濃にて「如来光明会礼拝式」発行。5月、伊勢桑名(光徳寺)巡錫。7月、新潟教区教学講習会の講師に招聘され、「宗祖の皮髄」と題し講演(柏崎浄土寺)を行う。

1916年(大正5)58歳

「如来光明会礼拝式」を改訂し「如来光明礼拝儀」発行。2月、宗教大学学生の土屋観道帰依。5月、東京を発ち、信州松代へて越後(新潟善導寺、新発田大善寺、三条極楽寺、寺泊生福寺)を巡錫。新潟教区教学講習会で、「人生の帰趣」と題し講演(長岡)を行う。6月、京都巡錫。知恩院教学高等講習会で「宗祖の皮髄」と題し講演。12月、この講演録を弁栄が添削し、「宗祖の皮髄」として知恩院より出版される。

1917年(大正6)59歳

3月、小冊子「永生の光」発行。京都知恩院勢至堂第一回別時念仏会を指導。7月より9月にかけ、朝鮮半島から中国東北部を巡錫。9月、九州(筑前若松善念寺、筑後柳川光樹寺、鹿児島不断光院、肥前千栗大法寺)巡錫。10月東上し、大阪(一心寺)、大津(念仏寺)、三河(成岩応称院、萩原神宮寺等)、桑名、津など巡錫。


1918年(大正7)60歳

新春、岐阜市内田銕之助宅より東京に向かう。3月、知恩院勢至堂にて第二回別時念仏会を指導。権僧正に叙せられる。6月、京都知恩院高等講習会において「浄土教義」と題し講演。7月23日、時宗当麻派本山無量光寺に入山。10月22日、晋山式。当麻山無量光寺第六十一世法主となる。


1919年(大正8)61歳

4月3日、光明学園開園式。越後巡錫。4月15日、千葉県布鎌教会堂開堂。6月18日、松戸教会開堂。6月下旬、九州(直方随専寺、久留米善導寺、久留米歓喜院、佐賀称念寺、嬉野本応寺、篠栗西林寺、佐世保九品寺、諫早慶巌寺、柳川光樹寺、福津教安寺、北九州市専福寺)巡錫。8月、広島(心行寺)巡錫。広島高等師範学校で講演。名古屋をへて信州(諏訪正願寺、諏訪称故院)巡錫。8月18日より一週間長野県上諏訪唐沢山阿弥陀寺の第一回別時念仏会を指導。9月、東海道を下り、摂津(豊中、神戸)巡錫。10月11日より5日間、山口県大島郡周防大島町の西蓮寺巡錫。西蓮寺住職藤本浄本に初めて会う。同月15日、「ミオヤの光」(月刊)第一回発行。同月16日より20日まで、廿日市潮音寺にて別時念仏会を指導(「念仏七科三十七道品」を講述)。同月25日、東京より転じ諏訪巡錫。続いて越後へ巡錫し、光明学園維持資金勧募の画会を開く。高崎、東京及びその周辺(横浜慶運寺、麻布光専寺、芝西応寺、赤坂浄土寺、浅草浄生院、深川心行寺、小石川一行院)を巡錫。キリスト教者高田集蔵来訪。当麻無量光寺で越年。  

1920年(大正9)62歳

1月、東京(増上寺山内多聞室・弁栄晩年の東京における宿坊)及びその周辺(横浜慶運寺、横浜光明寺)巡錫。2月18日より5日間、静岡市清水町実相寺巡錫。伊勢四日市をへて、3月1日より知恩院勢至堂にて別時念仏会。続いて大阪、京都、福井(泉通寺)、兵庫(安楽寺)巡錫。4月8日、京都光明会発会。5月12日より越後巡錫。同月末、東京、松戸巡錫。伊予松山浄福寺にて6月5日より7日間、「宗祖の皮髄」と題し講演。7月、九州巡錫。8月18日より一週間、信州諏訪阿弥陀寺にて別時念仏会。9月、東京、横浜巡錫。10月5日より一週間、鳥取市無量光寺にて授戒会。同月18日より5日間、知恩院勢至堂にて別時念仏会。同月23日、横浜慶運寺、同月24日より当麻無量光寺で三日間、十夜法要。同月27日、信州諏訪正願寺巡錫。同日夕刻、信州諏訪を越後に向けて出発。11月16日、柏崎極楽寺にて別時念仏会を指導。同月17日より病床に伏す。高熱続き一進一退の中12月4日早朝、木蘭の袈裟を布団の上から掛けさせ説法。同日6時5分、念仏し乍ら遷化。その最後の言葉は「如来はいつもまします、それを知らせに来たのが弁栄である」。