南無観世音菩薩

南無至心歸命禮西方阿彌陀佛

彌陀身色如金山 相好光明照十方

唯有念佛蒙光攝 當知本願最爲強

六方如來舒舌證 專稱名號至西方

到彼華開聞玅法 十地願行自然彰

顧共諸衆生 往生安樂國


南無至心歸命禮西方阿彌陀佛

觀音菩薩大慈悲 已得菩提捨不證

一切五道内身中 六時觀察三輪應

應現身光紫金色 相好威儀轉無極

恒舒百億光王手 普攝有縁歸本國

願共諸衆生 往生安樂國

心を至し すべてを捧げ奉る 西に在(まし)ます阿弥陀仏

弥陀の姿は 金山(こんせん)の如(ごと) まばゆく光り 世を照らす その身光りは 声となり 我等の口から 顕われ給う 弥陀の願いに 勝るものなし あらゆる仏 舌をのべ 専(もは)らに 聖名(みな)を称うれば 西に 到ると あかさずや 識(こころ) 蓮台に 生じなば さとりの 願い 実を結ぶ

願わくは すべて生きとし生くものと ミオヤの御許(みもと)に 今往かん



心を至し すべてを捧げ奉る 西に在(まし)ます阿弥陀仏

観音菩薩の大慈悲は すでに己はさとりを得ても 敢えて仏の位を捨てて 一切(すべて)の迷えるものたちを たった一人の我が子のように 自身の中に包み込み 決して離れず 寄り添って 時に姿を現わさば 苦しむ我が子を抱きしめたまう あらゆる手段を尽くしては ミオヤの御許(みもと)へ導く大悲

願わくは すべて生きとし生くものと ミオヤの御許(みもと)に 今往かん

観音経

弁栄聖者御書


訓読観音経

観音菩薩

 観音菩薩は、頭頂の宝冠に阿弥陀如来(大ミオヤ)像を頂戴している相で描かれる場合が多いですが、それは観音様が常に阿弥陀さま(南無阿弥陀仏)を念じていることを表現しています。

 観音菩薩が慈悲の菩薩と言われるのは、大ミオヤ(南無阿弥陀仏)の深い大悲を念じている為で、その大悲(母性)を表わすのに女性的な姿で描かれますが、本来は男女の性別ではなく、只々いのちの深い深い母性(大悲)があるだけで、それはまた宇宙に遍満する慈悲の働きを霊格として表現しているのです。

 また、ミオヤを常に念ずる衆生は全て、一人一人が小さな観音さまとして頭頂に南無阿弥陀仏(大ミオヤ)を安置し、聖旨を実現していく身となるのです。

善導大師も『往生礼讃』に、観音様の霊性を

「心を至し阿弥陀如来に全て捧げる観音菩薩の大慈悲は、

已(すで)に己(おのれ)は悟りを得ても、敢て仏の位を捨てて、

一切(すべて)の迷える衆生(ものたち)を、たった一人の我が子のように、

自身の中に包みこみ、決して離れず寄り添って、

時に姿を現わさば、苦しむ我が子を抱きしめ給う、

あらゆる手段(てだて)を尽くしては、ミオヤの御許(みもと)へ導く大悲、

ああ願わくは、すべて生きとし生くものと、

命の根源(いのちのみもと)へ帰りなん」

(南無至心帰命礼西方阿弥陀仏 観音菩薩大慈悲 

已得菩提捨不証 一切五道内身中 六時観察三輪応 応現身光紫金色 相好威儀転無極 恒舒百億光王手 普摂有縁帰本国 願共諸衆生 往生安楽国 )

と無償の母性として讃め称(たた)えておられます。

 弁栄聖者(1859―1920)と同世代で、近代浄土真宗の父、清沢満之師(1863―1903)も、時を同じくして碧南の地に御縁がありました。直接会われた記録はありませんが、満之師の日記『臘扇記(ろうせんき)』の明治三十一年に、法城寺開基 石川市郎氏が西方寺を訪ねている記録があります(最初の聖者招聘の発願は明治二十七年以前のことです)ので、聖者とも互いにその存在を認識しておられたであろう事は十分考えられます。その満之師が終焉の地、碧南大浜の西方寺で記された『他力の救済』に

「我、他力の救済を念ずる時は、我世に処するの道開け、 

我、他力の救済を忘るる時は、我が世に処するの道閉づ。
我、他力の救済を念ずる時は、我物欲の為に迷わさるる事少く、

我、他力の救済を忘るる時は、我、物欲の為に迷わさるる事多し、
我、他力の救済を念ずる時は、我が処するところに光明し、

我、他力の救済を忘るる時は、我が処するところに黒闇覆う。
 ああ、他力救済の念は、よく我をして迷倒苦悶の娑婆を脱して、悟脱安楽の浄土に入らしむが如し。我は実に此の念によりて、現に救済されつつあるを感ず。もし世に他力救済の教なかりせば、我は終に迷乱と悶絶とを免れざるべし。しかるに今や濁浪とうとうの暗黒世裡に在りて、つとに清風掃々の光明界中に遊ぶを得るもの、その大恩高徳あに区々たる感謝嘆美の及ぶ所ならんや」

とあります。

 満之師の他力の救済と言われるのは、大ミオヤの大悲のことであり、その他力の救済を念じて処する道が開けるのは、一人一人が頭頂に大ミオヤ(南無阿弥陀仏)を頂いて観音菩薩の慈悲の道を歩む事であります、両者には宗派を越えて通い合うところがあります。