一遍上人
延応元年(1239)2月15日~正応2年8月23日
かように打ち上げ打ち上げ称うれば、仏もなく我もなく、まして此の内にとかくの道理もなし。善悪の境界、みな浄土なり。外に求むべからず、厭うべからず。よろづ生きとし生けるもの、山川草木、吹く風立つ浪の音までも、念仏ならずということなし。
一遍上人語録
興願僧都、念仏の安心を尋ね申されけるに、書きてしめし給う御返事
それ、念仏の行者用心のこと、しめすべきよし承り候。南無阿弥陀仏と申すほか、さらに用心もなく、此の外にまた示すべき安心もなし。もろもろの智者たちの様々に立ちおかるる法要どもの侍るも、みな諸惑に対したる仮初の要文なり。されば、念仏の行者は、かようの事をも打ち捨てて念仏すべし。むかし、空也上人へある人、念仏はいかが申すべきやと問いければ、「捨ててこそ」とばかりにて、何とも仰せられずと、西行法師の『撰集抄』に載せられたり。これ誠に金言なり。念仏の行者は智恵をも愚痴をも捨て、善悪の境界をも捨て、貴賤高下の道理をも捨て、地獄をおそるる心をも捨て、極楽を願う心をも捨て、また諸宗の悟りをも捨て、一切のことを捨てて申す念仏こそ、弥陀超世の本願に尤もかない候え。かように打ち上げ打ち上げ称うれば、仏もなく我もなく、まして此の内にとかくの道理もなし。善悪の境界、みな浄土なり。外に求むべからず、厭うべからず。よろづ生きとし生けるもの、山川草木、吹く風立つ浪の音までも、念仏ならずということなし。人ばかり超世の本願に預かるにあらず。また、かくの如く愚老が申すことも意得にくく候わば、意得にくきにまかせて愚老が申すことをも打ち捨て、何ともかともあてがいはからずして、本願に任せて念仏したまうべし。念仏は安心して申すも、安心せずして申すも、他力超世の本願に違うことなし。弥陀の本願に欠けたることもなく、余れることもなし。此の外にさのみ、何事をか用心して申すべき。ただ愚かなるものの心に立ち返りて念仏したまうべし。南無阿弥陀仏
百利口語
六道輪廻の間には ともなう人もなかりけり
独り生まれて独り死す 生死の道こそ悲しけれ
或は有頂の雲の上 或は無間の獄の下
善悪二つの業により いたらぬ栖(すみか)はなかりけり
然るに人天善所には 生をうること有難し
常に三塗の悪道を 栖としてのみ出でやらず
黒縄・衆合に骨を焼き 刀山・剣樹に肝をさく
餓鬼となりては食に飢え 畜生愚痴の報も失し
かかる苦悩を受けし身の しばらく三途を免れて
たまたま人身得たる時 などか生死を厭わざる
人の形に成りたれど 世間の希望(けもう)絶えずして
身心苦悩することは 地獄を出でたる甲斐ぞなき
物を欲しがる心根は 餓鬼の果報に違わざる
迭(たがい)に害心起こす事 ただ畜生に異ならず
此等の妄念おこしつつ 明けぬ暮れぬと急ぐ身の
五欲の絆につながれて 火宅を出でずは憂かるべし
千秋万歳おくれども ただ稲妻の間なり
つながぬ月日過ぎゆけば 死の期(ご)来たるは程もなし
生老病死の苦しみは 人を嫌わぬ事なれば
貴賤高下の隔てなく 貧富共にのがれなし
露の命のあるほどぞ 瑶(たま)の台(うてな)も磨くべき
ひと度無常の風吹けば 花の姿も散り果てぬ
父母と妻子を始めとし 財宝所住にいたるまで
百千万億みなながら 我が身の為と思いつつ
惜しみ育み悲しみし 此の身をだにも打ち捨てて
たましい独り去らん時 たれか冥途へおくるべき
親類眷属集まりて 屍(かばね)を抱きて叫べども
業にひかれて迷いゆく 生死の夢はよも醒めじ
かかることわり聞きしより 身命財も惜しからず
妄境既に振り捨てて 独りある身となり果てぬ
曠劫多生の間には 父母にあらざる者もなし
万の衆生を伴いて はやく浄土にいたるべし
無為の境に入らん為 捨つるぞ 実の報恩よ
口に称うる念仏を 普く衆生に施して
これこそ常の栖とて いづくに宿を定めねど
さすがに家の多ければ 雨にうたるる事もなし
此身をやどす其の程は 主も我も同じこと
終(つい)に打捨てゆかんには 主が欲して何かせん
本より火宅と知りぬれば 焼け失すれども騒がれず
荒(すさ)みたる処見ゆれども 繕(つくろ)う心さらに無し
畳一畳敷きぬれば 狭しと思うこともなし
念仏申す起き伏しは 妄念起こらぬ住居(すまい)かな
道場すべて無用なり 行住坐臥にたもちたる
南無阿弥陀仏の名号は 過ぎたる此身の本尊なり
利欲の心すすまねば 勧進聖もしたからず
五種の不浄を離れねば 説法せじと誓いてき
法主軌則を好まねば 弟子の法師も欲しからず
誰を檀那と頼まねば 人にへつらう事もなし
暫く此身のある程ぞ さすがに衣食(えじき)は離れねど
それも前世の果報ぞと 営むこともさらに無し
詞(ことば)を尽くし乞い歩き へつらい求め願わねど
僅かに命を継ぐほどは さすがに人こそ供養すれ
それもあたらず成り果てば 飢え死にこそはせんずらめ
死して浄土に生まれなば 殊勝の事こそ有るべけれ
世間の出世も好まねば 衣も常に定め無し
人の著(き)するに任せつつ 煩いなきを本とする
小袖・帷子・紙の絹 ふりたる筵・蓑のきれ
寒さ防がん為なれば 有るに任せて身にまとう
いのちを支うる食物は あたりつきたる其の侭に
死するを歎く身ならねば 病の為とも嫌われず
弱るを痛む身ならねば 力の為とも願われず
色の為とも思わねば 味わいたしむ事もなし
善悪共に皆ながら 輪廻生死の業なれば
すべて三界六道に うらやましき事さらになし
阿弥陀仏に帰命して 南無阿弥陀仏と唱うれば
摂取の光に照らされて 真(まこと)の奉事(ぶじ)となる時は
観音勢至の勝友あり 同朋求めて何かせん
諸仏護念し給えば 一切横難おそれなし
かかることわり知る事も 偏に仏の恩徳と
思えば歓喜せられつつ いよいよ念仏申さるる
一切衆生の為ならで 世を廻りての詮もなし
一年(ひととせ)熊野に詣でつつ 証誠殿にもうぜしに
あらたに夢想の告げありて それに任せて過ぐる身の
後生の為に依怙(えこ)もなし 平等利益の為ぞかし
但し不浄をまろくして 終(つい)には土と捨つる身を
信ぜん人も益あらじ 謗(ぼう)せん人も罪あらじ
口に唱うる名号は 不可思議功徳なる故に
見聞覚知の人もみな 生死の夢を醒ますべし
信謗共に利益せむ 他力不思議の名号は
無始本有の行体ぞ 始めて修すると思うなよ
本来仏性一如にて 迷悟の差別(しゃべつ)なきものを
そぞろに妄念起こしつつ 迷いと思うぞ不思議なる
然るに弥陀の本誓は 迷いの衆生に施して
鈍根無智の為なれば 智慧弁才も願われず
布施持戒をも願われず 比丘の破壊も歎かれず
定散ともに摂すれば 行住坐臥に障りなし
善悪共に隔てねば 悪業人も捨てられず
雑善すべて生ぜねば 善根欲しとも励まれず
身の振舞にいろわねば 人目を飾る事もなし
心計らい頼まねば さとる心も絶え果てぬ
諸仏の光明及ばざる 無量寿仏の名号は
迷悟の法にあらざれば 難思光仏と褒め給う
此法信楽する時に 仏も衆生も隔てなく
彼此の三業捨離せねば 無碍光仏と申すなり
すべて思量をとどめつつ 仰いで仏に身を任せ
出で入る息をかぎりにて 南無阿弥陀仏と申すべし