行如来徳 

空外語録88号

南無阿弥陀仏

「阿弥陀」の三語が、インド仏教1000年に渡る教・行の深化により名号として結晶した

如来の徳を行ずる

「徳」とは「はたらき」という意味です。

また、南無阿弥陀仏という言葉は、大自然のいのちを我々は生きているのですから、アミダさまのいのちが、自分の心と一つながりにハマリが付いた、という意味の言葉です。

心臓は勝手に動いているのではありません。空気を吸える、それで心臓も回ってくれる。止まってもおかしくないのに、不思議に寝ていても回っている。それも各々、一人ひとりに、一一に大自然のいのちの恵みがその様につながって、そのおかげで我々は生きられているのです。太陽が照らすのも、雨が降るのも大自然のいのちの働きであり、そのあらゆる繋がりを総称してアミダさまというのです。

それを有り難いとも思えないようなら、それでは人間の値打ち「徳」というものがありません。人間が人間になるはたらきを「徳」といいます。「徳」が人間形成の原点ですから、まず第一に自分が「徳」のはたらきを生きていくことです。

親鸞聖人は29歳の時に、69歳の法然上人に出会われて、その「お徳」を「生きて在(まし)ますアミダさま」とまで敬仰されました。それは法然上人がナムアミダブツ、ナムアミダブツで、アミダさまのようになっておられたということです。

アミダさまとは本当は自然ということです。われわれ人間が、今日まで生きられているのは、太陽が照り、月が地球を回り、その地球に雨が降る。心臓も動く、肝臓も働く、みなことごとく受け身なので、自分の手柄ではないのです。つまり「おかげ」ということです。

大自然のいのちのおかげを受けて、その大自然のいのちの恵みを、人さまには出来ない、自分にしか出来ないはたらきで、自分なりの「徳」として生きていくのです。そうなって初めて人間は本当にいのちを楽しむことが出来るのです。生き物のいのち、花のいのちが本当に感じられるほどにサトれて来るのです。山を見ても、雲を見ても、花を見ても、鳥を見ても、そのいのちを計ることは出来ないのです。眼があるから見えたというのでは、見えたうちに入らないのです。人間の眼なら、人間としての徳、その人でなければならないはたらきを実らせて見ていかなければなりません。

太陽が照るのも、地球が回るのも、阿弥陀さんの智慧のおかげで回っているのです。自分たち一人ひとりが、生まれて来て、生きられているのも阿弥陀さんの智慧のおかげです。

 法然上人が「万徳」といわれるのも、その中の四智、三身、十力、四無畏等の一切の内証の功徳、相好、光明、説法、利生等の一切の外用の功徳というのも、皆いのちの「徳」のことです、いのちの功徳を列挙しているのです。

わたくしは、毎朝お勤めをして親しかった方たちのご回向を致しますが、その後、自分が生きられるおかげを毎日拝んでいます。

目が見えるだけでも、この手で仕事が出来るだけでも、何はさて置き、阿弥陀さまのおかげである事を拝まずにはおれません。それがナムアミダブツということです。

法然上人が日本人で初めてナムアミダブツを、43歳から80歳まで37年間、喜び通されて、最後に『一枚起請文』を口述筆記せられましたが、その結語に「智者のふるまいをせずして、ただ一向に念仏すべし」で締められたのは、ナムアミダブツで自分の心が深まって、今までより何倍も深く、広くわかるようになって来られたからです。 

ナムアミダブツを称えると、老人は老人なりに、青年は青年なりに、男子は男子、女子は女子なりに、学者は学者なりに、お金の有る無しに関係なく、心がズバリと自然のいのちにハマリが付く、そうすると、自然(阿弥陀さん)の智慧や慈悲のいのちに照らされる、それを光明というのです。

「阿弥陀仏」とはアミダさまのお名前ですが、その中にいのちのあらゆる「徳」が皆ことごとく収まっているのです。ですからナムアミダブツで、そのいのちの根源にハマリが付きさえすれば、それは各々の心の光になります。

環境も教養も生活も年齢もみなそれぞれ違いますが、その各各性に於いて、いのちの根源にハマリが付くことが大事です。そういう体験をした人との出会いや語り合いは、この世の光、宝です、それを「徳」というのです。人さまを見ても、うらやましがらないことです。うらやましがることは間違いの元です、外で決めるからそうなるのです。

仏知見とは仏の「徳」の一つですが、「開示悟入」と言って、その仏知見を開かせるため、示すため、悟らせるため、入らせるために、開くのも「徳」、示すのも「徳」、悟らせるのも「徳」、入らせるのも「徳」、そういう阿弥陀さまの「徳」のはたらきを心で受け取っていけば間違いはありません。『般若心経』の「般若波羅蜜多」とは、サトリの智慧で彼岸に到ったという意味ですが、その般若波羅蜜多も仏の「徳」です。彼岸をただ単に言葉として取り上げるだけでなく、心のはたらきとして「彼岸に到った」ということにならなければ、それは「彼岸」ではありません。般若波羅蜜多は仏教の根本ですが、その般若波羅蜜多を行ずることは、般若波羅蜜多を生活することです。自分が「徳」を生きていくことです。

皆が皆なりに、一人は一人なりに、自分のいのちの実りを全うして、幸せな楽しい生活を、共々に助け合えるような社会にしていきたいものです。それにはどこまでも深くどこまでも大きな、みんなが繋がり合える智慧、いのちの「徳」、そこに重点を置いて精進してまいりましょう。