天王山法城寺
聖者は全国を遊行しておられたので常に滞在された訳ではありませんが、三河を来錫された際にはしばらく立ち寄られ、尼僧教育や念仏会の指導に当たられました。また子供たちにオルガンで聖歌を弾きながら念仏の種まきをされたり、新川棚尾大浜の婦女子を集め指導をされたりと地元の宗教教育にも尽力されました。
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光明主義の特徴は聖者が考案された新しい経本『如来光明礼拝儀』に表れています。来世の救いのみでなく、現在只今から念仏三昧に依る如来光明 (十二の光の働き)のお育ての中に、大ミオヤに人格を形成して頂く教えであります。
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ただ、三河の保守的な尼僧たちには、新しい法門はすぐには受け入れられず、聖者から離れていく者もあったようでしたが、やがて時間をかけて浸透していきました。それまで聖者は自筆の絵入り阿弥陀経『阿弥陀経図絵』を使って来世の往生を説かれていましたが、明治40年代以降は新しい法門『初期 如来光明礼拝儀』を使って光明の生活を勧められました。
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当寺に現存する経本には『阿弥陀経図絵』の方が『如来光明礼拝儀』よりはるかに多く、新法門は馴染むのに時間が掛かっていたようであります。やがて聖者入滅後、法城寺から如来光明主義の灯が消えていきます。却って当寺から巣立って行った尼僧の寺院、新川の閑楽寺や半田の応称院の方がその法灯を継承していったとも言えます。
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しかしそれもまた不可避な事でありました。聖者は大正9年12月に遷化されましたが、その前年当主石川市郎氏が亡くなられ、更にその前年大正7年には初代庵主法蓮尼が遷化されています、第9代当主喜太郎氏も明治44年に44歳の若さで既に亡くなられており、また2代目庵主法栄尼も、その健康を心配されている聖者の手紙のあることから、病気がちだった事が想像されます。盛り立てていくべき人達が早々と皆いなくなってしまった事が法灯消滅の最大の原因と考えられます。その後は貞照院の末寺寺院としての道を歩んで行きました。