今月の言葉
令和2年2月2日
弁栄聖者のお言葉
21歳の時に筑波山で三昧発得をされた時に、全ての人の現前に了了と在す大ミオヤを感見されてから、61歳で亡くなられるまで、この事のみを自らも喜び、我らに何とかして知らせようと奮闘された、唯それのみの無私なる御生涯でありました。
令和2年2月16日
弁栄聖者のお言葉
聖者は、たとえ身はどのような艱難辛苦の中にあっても、心は常に極楽浄土にすみ遊び、大ミオヤと共に居る限りなき歓びの中に生きておられました。ただ、目先の苦しみや悲しみに心執らわれ愚痴に彷徨っている我らに、念仏三昧を通し心の光(遍一切処の光)に目覚めるよう、唯それのみを勧められました。
令和2年3月1日
昭和大和の妙好人、松並松五郎師の他力に徹せられた御言葉
私が仏を念じ、仏名を称えるのであれば、それを長く続ける事は不可能です。念仏とは、仏さまが常に私を念じて下さっておられる事であり、その大御心が口に現れて称名となるのです。念仏を称えられるのも大ミオヤの御働きであり、心臓の動きや呼吸の働きと同じです。どこまで行っても私の力では有り得ません。
令和2年3月18日
弁栄聖者御聖歌「聖意の現れ」」より抜粋
称名の声する所に、大ミオヤは現れ、
大ミオヤと共に、お浄土そのものが来臨する。
極楽へ往くために念仏を称えるのではなく、
一遍上人も仰っておられるように、
すでに称名そのものが実は来迎の姿なのです。
令和2年4~5月
コロナ感染症拡大防止の為、4月5月はすべての行事を中止いたしました。その間、お念仏の中に自己を深める尊い貴重な時間を頂きました。聖者の五戒を噛みしめております。
1、殺すことなかれ 己が霊性を
2、偸むことなかれ 努力の光陰を
3、淫することなかれ、天魔の使いと
4、酔うことなかれ 肉と我とに
5、欺くことなかれ 己が良心(内在の仏)を
令和2年5月15日
覚醒剤で捕まった、元ラッツ&スターの田代まさし氏の保釈中の言葉
結局また覚せい剤に手を出してしまいましたが、「何年止めていても、自分は完全に更正したと言える自信がない、ただ言えることは、せめて今日一日だけは止めておこう」と毎日決意し、その日だけは頑張ってみる。「その積み重ねが自分の人生なのだろう」といっていました。それは田代氏に限らず、すべての人に当てはまることだと思います。明日の事は誰もわからない、だからこそ、今日一日精一杯生きてみよう。
令和2年6月~8月
弁栄聖者直弟子 藤本淨本上人のお詠
藤本上人は聖者の晩年にお会いして弟子となられ、後に光明会の上首になられますが、元々は浄土宗学の先生です。浄土宗では、念仏を称えるその声は自分の声であるとする立場 (当たり前) ですが、その称える一声さえ、本当は仏さまの御声であるとのお言葉は大変有り難く、一寸長い間の掲示になりました。
次回の江戸時代の真宗学者原口針水師の御詠と共に味わうと大変尊く感じます。
令和2年8月21日
江戸時代の浄土真宗学者 原口針水師のお詠
南無阿弥陀仏の一声の中に、啐啄同時 (親が卵の殻を啄む、ひなが呼声をあげる、両者が一つになって)、親子の対面が実現いたします。南無阿弥陀仏の声は卵の殻が砕け、親子が名乗りをあげる声そのものなのです。
南無阿弥陀仏を
浄土宗では、衆生の側からの「助け給え」と、親を呼ぶ声に解釈し、
浄土真宗では、仏の側から迎えに来た、親の姿と解釈します。
一声の南無阿弥陀仏に、実はこの両方の意があります。
宗派宗教を越えて、南無阿弥陀仏のミオヤの御迎えに、ただただ身を委ね、間違いなく私を抱く大悲にめぐり逢えるのです。否、抱かれていた事に初めて気付けるのです。
令和2年9月彼岸日
インド渡航を発願された時の聖者の御詠
お釈迦様への思慕の念止まず、ついに念願叶って明治27年から28年にかけて3か月に渡り聖者は渡印されました。
この御詠には聖者のお釈迦様観が表れています。
お釈迦様は聖者にとって、教えのオヤ様であります。
また、阿弥陀如来は、育て(救い)のオヤ様であり、
大日如来は、生みのオヤ様であります。
此の三様のオヤ様は、実は一体のオヤ様の別々の側面であり、そのオヤ様を私たちは「大ミオヤ」とお呼びしてお慕い申し上げております。
この「大ミオヤ」は、仏教の仏だけでなく、キリスト教の神、イスラムの神、日本の天照太御神など、全ての神仏を包括した呼び名です。いのちの光そのものの、得も言われぬあたたかさを人格としてお呼びする時は、この「大ミオヤ」というより他に表現の言葉がないのであります。
令和2年10月4日
弁栄聖者のお言葉
「あみだぶつ」とは永遠の生命の永遠の光が、大慈悲の故に、人格として現われた「大ミオヤ」であります。私たち生きとし生きる物はすべて、此のミオヤ(法身)の子であり、大ミオヤの命を離れては一時たりとも生きることが出来ません。またミオヤ(報身)の慈悲に依らなければ、そのことに気付く事すらできないのです。人間は、そのミオヤの慈悲に出会い(気づかされ)、各々がその大慈悲を一人一人なりに実現していく(応身)ために、私たちは生を受けたといえるのではないでしょうか。
今日一日という時間は、「生かされているいのちの貴いお陰」を頂いていることに気付く為に存在する、「大ミオヤ」が与えて下さった慈悲の光の流れのことであります。
そんな光の時間を無駄に過ごしてしまうことは、本当に勿体ない罪作りなことであるのかもしれません。
令和2年11月4日
弁栄聖者百周忌を迎えて
令和2年12月
弁栄聖者没後百周年を迎えて
十一月二十八日(土)より十二月四日(金)まで一週間、法城寺内にて聖者百周忌報恩別時念仏会、並びに遺墨展を開催いたしました。
令和元年は、為先会の若い僧侶を中心に二十数名が寺内に泊まり込み、聖者百回忌報恩念仏会を一週間お勤め致しましたが、今回はコロナ禍の状況下でもあり、多くの方には声をかけず、地元の方を中心に少人数で報恩別時会を勤めました。総勢八組十名が入れ替わり立ち替わり参加して下さいました。宿泊も食事も用意せず、自由参加という事にして頂きまして、お念仏は午前九時からの二時間、十二時からの二時間、十五時からの二時間の三座、休憩はそれぞれの合間の一時間ずつを二回、休憩室でお茶・食事等を各々ご自由にとって頂くという、通いでの別時念仏会となりましたが、それでも必ず誰かが参画して居て下さり、大木魚一人きりの念仏会となる事は一座もありませんでした。簡素な念仏会でご迷惑を掛けてしまいましたが、それでも皆様に支えられ、昨年の百回忌念仏会以来ずっと、御導師にお迎えした聖者の聖霊にそのまま鎮座頂いておりますので、其の御指導の下、尊い念仏会が勤まりました事を深く感謝しております。
遺墨展は、書院と裏堂三部屋と本堂内に、所蔵品の聖者の御軸等七十点余り、額十一点、複製画等も入れれば百点ほどの作品の展示となりました。念仏会の始まる前の一時間と、合間の一時間ずつ二回、計三時間を拝観時間に充て、またその間に一室を使い、聖者開山の松戸市善光寺様の作られたDⅤD『聖者の道』を三度上映いたしました。遺墨展は総勢三十余名の方々が拝観していただいたようであります。
但し、念仏中は本堂に入るのを御遠慮頂きましたので、拝観時間以外にいらっしゃった方には、中途半端な遺墨展になってしまったかもしれません。やはり、本堂を遺墨展と別時念仏の両方に使うのには無理があったようです。ただ恐らくそうなるであろう事は予想しておりましたので、今回は図録を制作し、図録による結縁念仏会を企画致しました。
図録『弁栄聖者遺墨集 ―如来に心奪われて―』
法城寺は、聖者の教えを頂く為、篤信家石川市郎氏が愛知県碧南の自宅敷地内に庵を建立し、明治三十二年に聖者を開山上人として招聘したお寺ですが、聖者入滅後は法灯が消えてしまい、『日本の光』にも、聖者開山のお寺である事の記述はありません。関係者以外殆どの人が御存知ないのです。そこで初めて、図録で市郎氏の嘆願書と聖者の開山書を公開致しました。それだけでも此の図録には意義があるかと思います。是非皆様にも、ご興味のある方にご覧頂きたいと念じております。
ご希望の方は下のメールからお申し込みください。
令和3年1月2月3月
弁栄聖者の好まれた明治天皇の御詠
謹賀新年
弁栄聖者がたびたび引用される明治天皇の御製三首
1.罪あらば我をとがめよ天津神 民は我が身の生みし子なれば
2.朝な夕なミオヤの神に祈るなり わが国民を守り給えと
3.眼に見えぬ神の心に通うこそ 人の心の誠なりけり
令和3年4月7日
弁栄聖者のお言葉
『仏教要理問答』の礼拝儀原型 にあった幻の「随喜の祈祷」の一節で、結局『如来光明礼拝儀』に採用される事の無かった偈文ですが、真理を説いて下さっておられます。
「永遠の光なる如来よ。
我等は常に瞋恚(いかり)、憎悪(にくみ)、妬忌(ねたみ)、復讐(しかえし)、害意(そこない)、凌辱(はづかしめ)、讒謗(そしり)等の悪意を以て他を傷(そこな)い、亦た人に為さしめて自ら喜びたりき、今は恩寵の光に依り、一切(すべて)の人類(ひとびと)は如来の同一聖子(おなじみこ)にして 所有人(あらゆるひと)の栄と霊福(さいわい)とは如来の光栄(みさかえ)が人の身に実現(あらわれ)に外ならざることを知れり。これに依り今より後は人の幸福に於て嫉(ねた)み 羨(うらや)む事なく、 人の躓(つまづき)に於ては傷(いた)み慈しむことを誓い奉る。
願わくは常に慈心を以て相い向い 霊化の行いに於て相い励み 相い扶(たす)け得るの聖寵(みめぐみ)を与え給え」
此の世に存在するものは、天地いっぱいのすべてが、ミオヤの御栄(みさかえ)の現われであります。他人の繁栄も、人の成功も、飛ぶ鳥も、地に美しく咲く花も、空も大地も、生きとし生けるものすべてが美しく輝いています。なぜ自分だけが日の目を見れぬかと思うと情けなくなるかもしれませんが、決してそうではないのです。私が生きていることすらも、活かされている事も、これまたミオヤのみさかえの現れであります。凡てが一つに繋がっているのだから、取り敢えず自分のことは後回し、ミオヤのみさかえが総てに顕われて下さっておられることに感謝を捧げ、共に悦びましょう。
令和3年5月2日
旧暦3月21日弘法大師縁日
弘法大師御縁日の日に
大師御作伝とされるお歌
空海がこころの内に咲く花は 弥陀より外に知る人ぞなし
を掲げました。
決して弘法大師のみでなく、我ら凡夫の一人一人の心の中、煩悩だらけの泥のに中には、私の力だけで咲かせられる花はありません、ただ、大ミオヤの尊く深いお慈悲の御心を念じている中に、大ミオヤの光と、大ミオヤの種と、大ミオヤの清き糧とにより、知らず咲いて下さる花は、ミオヤ以外に知る人はないのであります、大ミオヤ御自身が私の中に、南無阿弥陀仏とミオヤの花を咲かせて下さっておられるのであります。なんと尊い事でありましょう、なんと美しい華でありましょう。ただただ仰ぎ頂くばかりであります。決してこの花を無駄に枯らせてしまってはいけません、私なりに精一杯お育てさせて頂きたいと常に心に念じて、今日も一日、悔いないようにミオヤの花を自分なりに生かし切っていきましょう。
令和3年6月 / 7月
山本空外上人のお言葉
『阿弥陀経』は、詮ずるところ此の「今現在説法」の五文字に収まります。それはただ経典の話のみでなく、実際に此の命の世界の出来事はすべて、阿弥陀仏(大ミオヤ)の御説法であります。大空も大地も、野に咲く一輪の花も、地に生い茂る、人に雑草と呼ばれるような草花も、ゴミをあさり空を舞うカラスさえも、すべては法身の阿弥陀様(大ミオヤ)のいのちの顕現であります。
そして、自然の奏でるそよ風の音、降りやまぬ雨の声、鳥の鳴き声など、みな大ミオヤ(報身の阿弥陀様)の五根五力七菩提分八正道分の御説法なのであります。また、その声を聞いた者は皆、自然に仏に感謝を捧げ、その御法に報いて、あらゆる人々の幸せを念ずる思いが生じてきます。
人間から大事なものを奪い、恐怖を与える地震や洪水や土砂崩れでさえ、また病気すらも自然現象である以上、それらは皆大ミオヤの今現在説法なのであります。
その御説法は私たちに何と聞こえますでしょう。鬱陶しく煩わしい不愉快な声と聞こえるのでしょうか、今活かされる いのちの光と感じさせられるのでしょうか。
時宗を開かれた一遍上人は、それらすべての説法をみな「南無阿弥陀仏」の声と聞かれたようです。南無阿弥陀仏という「今現在説法」です。
南無阿弥陀仏の声とは、「汝を助けに来た、迎えに来た、仏にする」という阿弥陀如来(大ミオヤ)の直々の御呼声であり、世界中のすべてが挙(こぞ)ってその説法を、私に向けて発して下さっているのです。
令和3年8月
施餓鬼案内
お盆とは、
「盂蘭盆」の事であり、「魂たま祭り」「精霊祭」とも呼ばれる行事です。盂蘭盆会は、中国において梁・大同4(538)年に行われたことが記録されており、日本においても推古天皇14(606)年に始まっています。
『盂蘭盆経』によると、目連尊者が亡き母は今どこに居るのかと六神通を働かせ垣間見ると、何と亡き最愛の母が餓鬼道に堕ちていることが判明しました。目連尊者は餓鬼道に堕ちた亡母を救うための方法を釈尊にお尋ねしますと、釈尊はその方法として、夏安居(げあんご)の終わる七月十五日の自恣(じし: 雨期の三ヶ月間を過ごした安居の最終日である陰暦七月十五日に、安居を過ごした出家者全員が集まり、規則に抵触した事項を互いに確認し懺悔しあう、終わりの会)の時に、多くの僧に百味飲食(ひゃくみおんじき)を供える功徳を積みなさい、供養を受けた衆僧の呪願により過去現在の父母が餓鬼道から救われ、また未来世の衆生も同じように仏と僧に供養することで現生父母が無病長寿を得られ、過去の父母は餓鬼の苦しみを逃れることができるとのご教示を下さいました。日本では、この報恩・孝順を勧める教えが故事となって七月・八月の特定の期間に精霊棚などを設置して供養を行います。「盂蘭盆」の語源については「ご飯をのせた盆」の意味であるとする説が有力となっているそうです。
施餓鬼とは、
餓鬼道に堕ちて飢えに苦しむ衆生に飲食(おんじき)を施し苦界から救うことで、修者もまたその功徳により長寿を得ることです。
『救抜焰口(くばつえんく)餓鬼陀羅尼経』によれば、阿難尊者が迦毘羅城(カピラヴァスツ)で瞑想修行をしていたところ、喉が針のように細く口から炎を吐いた、恐ろしい形相の焰口餓鬼が現れ、「すべての餓鬼に飲食を施して三宝に供養しなければ、汝の命は三日後に尽き餓鬼道に堕ちるであろう」と脅迫されました。そこで阿難尊者は釈尊に餓鬼を救う法を請います。釈尊は、自らの前世において観世音菩薩と世間自在威徳如来から授かった「無量威徳自在光明殊勝妙力陀羅尼」等による施餓鬼の行法を教示されます。阿難尊者は教えに従いその法を修し、さらに人々が、浄水を入れた器に盛った飲食にこの陀羅尼や諸如来の名号を誦して加持を施し、浄地に灌ぐとそれが施しとなり、無限大の数に及ぶ餓鬼が飽満して天界に生じたばかりか、百千俱胝(くてい)に及ぶ多くの如来を供養するに匹敵する功徳が生じ、阿難尊者自身も寿命延長、増益色力、善根具足などの利益も得られたと、説かれていることに由来します。
施餓鬼は、本来時期を選ばず僧侶が毎夕勤める法会ですが、盂蘭盆の時期に行われることが多く、本来は各別の行事であるはずの先祖供養の盂蘭盆に同化され、古来多くの地域で盆施餓鬼として勤められています。
-- 以上浄土宗大辞典より抜粋 --
盆も施餓鬼も、自己の利益の為にあるのではなく、施しの大切さを知って行ずる法会です。その本意は「自分さえ良ければ良いという自己中心の餓鬼の心をミオヤの無上大悲の光の中に解き放つこと」にあります。当山では弥陀大悲誓願の本願念仏「南無阿弥陀仏」を自他共に皆で分かち合い、感謝を捧げ、一切の餓鬼心諸共にミオヤ清浄の聖国(みくに)に生まれさせて頂く、念仏中心の施餓鬼会を勤めています。
令和3年9月
本来無一物
中国禅宗 ( 南宗 ) 六祖慧能禅師のことば
達磨大師から伝わる中国禅宗の五祖弘忍禅師が、その後継者を定めるため自らの心境を詩にせよと弟子に命じられた時、神秀禅師 ( 北宗六祖 ) は「身是菩提樹(身はこれ菩提樹)心如明鏡台(心は明鏡台の如し)時々勤拂拭(時々につとめて拂拭し)莫使惹塵埃(塵や埃を惹かしむることなかれ)」と詠まれたのに対し、すかさず「菩提本無樹(菩提もと樹無し)明鏡亦非台 (明鏡また台にあらず)本来無一物(本来一物も無し)何處惹塵埃(何れの処にか塵や埃の惹かんや)」と返されたそうです。
自己の中にある仏性(さとり)を顕現させるため常に精進して煩悩を払う道に立脚する神秀禅師に対し、本来清浄で無一物(無自性)である、つまり自己の手柄などというものは何一つないのだから払うべき自己の煩悩もないとする慧能禅師の詩であります。
本来清浄無一物というのは宗教的な言い方をすれば、すべて如来様のものである、すべてがおかげさまであるという事です。
「すべてはおかげさま、良きも悪しきも私の手柄は何一つありません」
明石家さんまさんの座右の銘である「生きているだけでまるもうけ」にも通じているように感じました。
令和3年12月~
シンガーソングライターの岡村孝子さんが「徹子の部屋」に出演された時のことばです。2019年に急性白血病にかかられ長期休養されていましたが、2年ぶりに芸能活動を再開されたようです。死を覚悟されたこともあっただけに、生かされていることの喜びを語られるその言葉には、深い命の光が溢れ出ていました。
真ん中の「つないで頂いたいのちを大切に生きる」というのは、孝子さんの娘さんのお手紙のことばです。母の病気を通し、母が今そこに生きて居てくれていることの有難さを、彼女なりに受け止めた言葉です。
改めて、今生きていることは決して当たり前ではないといこうことを、一日一日を、一瞬一瞬をもっともっと大切に大切に、今生かされているいのちを無駄に浪費せずに、南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏と一声一声、生(活・往)かさせて頂きたいと心底より思いました。
令和4年1月
永井辰次郎尊者百周忌報恩念仏
令和4年1月12日夜~1月18日夜
法然上人の一枚起請文と善導大師の発願文そのものを生きられた三昧発得の行者であり、極楽から帰ってきた還相の本光菩薩永井辰次郎尊者は、令和4年1月15日に没後百周忌を迎えます。尊者が極楽で阿弥陀様から直接勅命を受けた「唯称(必得生)」を院号として頂いた当庵では、御命日を中心に一週間の念仏会をライブ配信させて頂きます。千載一遇の至福の一週間であります。
令和4年2月
聖徳太子1400周忌報恩念仏
令和4年2月16日夜~2月22日夜
太子の御命日は、推古天皇30年 (622年) 2月22日 であり、本年令和4年 (2022年) 2月22日は、没後1400周年に当たります。聖者の如来光明主義を標榜する当山でも、正当の日に向けて1週間の報恩念仏 (※コロナ禍の為ライブ配信別時会 になります)を勤めます。
弁栄聖者は聖徳太子のことを「我国に於いて霊の光明を以て国民の精神を闇の中より救い出せし神人(しんじん)である。...太子は西方浄土より来生(らいしょう)して全てをミオヤの光明に誘引(みちびき)給う権化の聖者である。光明主義の主唱者である。さればミオヤの光明を仰ぎて光の生活を希う者は、太子の行伝を知(し)るべきである 」と、和国の光明主義の祖であるとお考えになって居られます。
「聖徳太子」(574~622)とは没後の呼称であり、本名は厩戸皇子(うまやとのおうじ)。また、「上宮之厩戸豊聡耳命(うえのみやのうまやとのとよとみみのみこと)」(古事記)、「上宮厩戸豊聡耳太子(かみつみやのうまやとのとよとみみのひつぎのみこ)」(推古紀)、「豊耳聡聖徳(とよみみとしょうとく)」「豊聡耳法大王(とよとみみののりのおおきみ)」「法大王(のりのうしのおおきみ)」(以上用明紀)、「上宮聖徳法王(かみつみやのしょうとくのりのおおきみ)」(上宮聖徳法王帝説)など、数多くの呼称がある。父は用明天皇、母は皇后穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのおうじょ)。推古天皇元年(593)、厩戸は推古天皇によって摂政に任命され、冠位十二階制定や十七条憲法作成などを行った。また仏教興隆にも熱心であり、四天王寺や法隆寺を建立するのみならず、高麗僧恵慈(えじ)に仏教を学んだ結果、三経義疏(さんぎょうぎしょ)を執筆できるほどの高度な仏教理解を有したとされる。平安時代以降は伝説化・神格化が著しく進展し、法隆寺や四天王寺など太子ゆかりの寺院を中心に「聖徳太子信仰」が盛んになっている。
― 浄土宗大辞典より ―
令和4年2月 ~
永井辰次郎尊者のおことば
必堕無間の此の我に
南無阿弥陀仏が降り潅ぐ
南無阿弥陀仏
一声ごとの「見仏聞法」 弥陀の摂取のお呼び声
南無阿弥陀仏
一声ごとに「即得往生」 我らを抱えて連れて往く
これ弁栄庵 唯称院のみ教えなり
「仏勅唯称」
腹を立てるは地獄の罪業
計らい心は輪廻の絆
自然の三途の業により
必堕無間の此の我に
南無阿弥陀が降り潅ぐ
南無阿弥陀仏
一声ごとに「見仏聞法」
迎えに来たぞの御勅命
南無阿弥陀仏
一声ごとの「即得往生」
吾を抱えて連れて行く
往生は信ずる者の功ならず
称える者の手柄にあらず
大悲願力の不思議ゆえ
機の善悪が不問なり
堕獄の凡夫、
南無阿弥陀仏に転ぜられ
現世に無量の霊化を受けて
今も浄土に生れては
真実まことの親元で
百千無量の楽しみに
三明六通無礙を得て
百千万に身を分ち
心のままに
有縁の衆生を済度する
ああ皆人よ
この仏恩深きを思いつつ
常に念仏相続すべし
これ弥陀「唯称」の
聖意(ほんい)なり