松並松五郎師の事


松並松五郎師 橿原市念仏堂にて
松並松五郎師 橿原市念仏堂にて

 1979年1月11日の読売新聞より

松五郎さんの子供のころ、隣村へ使いに行かされたことがあったそうだ。母は「山道やさかい、ぞうりを履 いて行き」と言う。ぞうりで出かけようとすると、庭先にいた 父が「雨が降りそうや、げたを履いて行け」と命じた。母は「ぞうり」父は「げた」。松五郎さんは、片 足にぞうり、片足にげたを履いて、人の笑うのも意にとめず、 ヒョコヒョコと歩いて行った。 江戸小咄を地でゆく話だ。

 通称"大和の松五郎"奈良県橿原市城殿町、 皮革裁断業、松並松五郎さん(69)は、妙好人である。妙好人とは、特に信仰の厚い淨土系の在家信者で、徳行に 富んだ人を言い、故鈴木大拙博士も、その幾人かを紹介した ことがある。しかし、著名な妙好人は、昭和初期で絶えた感があり、松五郎さんの存在を知って、はじめてその系譜が続いていることに少しばかり驚かされた。

 松五郎さんと接して、信仰上の大転換をした人が数多い。三重県四日市市中浜田町 東漸寺の東見敬住職 (68)もその一人。昭和24年、松五郎さんから、ある和上 さんの詩の一節を聞かされて、「でんぐり返る思いをした」と 語っている。その詩とは、「我れ称え我れ聞くなれどこれは これ大慈招喚の声なり」というものである。

 「南無阿弥陀仏」という一声、これは 自分が称えると思っていたのに、この一声が如来様のよび声であったのか!以来、見敬住職は、自力の念仏から親鸞聖人 の絶対他力念仏へと目覚める。竜谷大学の研究科まで出たプロが、小学校卒の学歴しか無いアマチュアに教化された、と率直に謙虚に公言してはばからない。余談ながら、三重県は淨土真宗 高田派の盛んな土地で「東漸寺」の隣の「崇顕寺」は作家丹羽文雄の生家である。

 松五郎さんは「私は無学じゃで、なんもお話し出来る人間で はありません」が口癖だ。「何か話してほしい」と頼んでも固辞するので、一計を案じた見敬住職は、酒を用意する。 酒好きの松五郎さんは酔うほどに口が軽くなり、歌や法語があふれるように飛び出す。見敬住職は 「心を針のごとくとがらせて」一心に速記する、こうして刊行され たのが『松のしずく』という題の松五郎さんの一言行録である。 膨大な法語集から抄録すると。

よびづめ立ちづめ招きづめ弥陀はこがれてあいに来た その御姿が南無阿弥陀仏 現世利益は、子供にオモチャを持たせたようなもの。 魚を釣るエのようなものである。宗祖は御利益目当ての御念仏ではない。念仏しているまま、現世の御利益は 味わわれる。

 語彙は豊富、書は達筆、比喩も巧みで、当意即妙の話や歌が多い。例えば仲の悪い嫁と姑が訪れ白扇を出して、「何か歌を」と所望した。松五郎さん、すかさず筆を取って

  竹と紙仲よくなるのも糊(法=のり)のため あおぎあおがん骨になるまで

「念仏をやると、宗祖様の教行信証もスッと入れますんや」 「浄土系は易行言うけど、やさし過ぎて難しい」

今年古希を迎える松五郎さんは、これまで3冊の本しか 読んでないが、8人のやくざ者を更生させた。

 「こうしてお会いしたのも、何かの御縁じゃ。念仏は強いる もんじゃあないが、あんたも一声称えなされや」と言われた。


東禅寺 東見敬住職著『松のしづく』に曰く

松並松五郎氏

1、明治42年、大和高市郡飛弾に生まれる。父、増蔵、母、みつゑ。3、4歳の時、常に母に抱かれて就床。その子守歌を聞いて眠る。母の歌声が、氏の生涯に大影響を与える。母は、懐妊の時から念仏を喜ぶ身になったとか。

2、13歳、3月方向10日の「日めくり」の「忠孝は人の行く道、守る道」を見て大いに驚き、親孝行を決心。

3、15歳、2ケ年間親孝行を努めたが、思うように出来ず。思案した結果、まず親の仰せを、そのままハイと聞くことを習う。最初は、内心で反対の時もあったが、その心を押し切って進む。と、次第に親の命令を、そのままハイと受けられるようになる。

4、17歳の正月1日、大阪へ奉公に出る。母より、「主人の命に服し、よく働くように」と言われる。朝は5時起床、夜は11時まで一心不乱に働き、奥さんの腰巻までも洗う

5、18歳、得意先の人が「何故そんなに働くか」と問う。「母の言いつけゆえ、親孝行のために、母の命に従うのみ」と答える。客は、「親孝行がしたくば、寺まいりせよ。」と。早速、その夜、近所の説教所へ参詣。しかし何のことやらわからぬまま、親孝行と思い、説教参りを続ける。

6、18歳の5月、大阪南御坊にて、江州の説教師、護知寿師より、宗祖のお言葉「弥陀の本願ともうすは、名号を称えんものをば、極楽へ迎えんと誓わせたまいたるを、深く信じて称うるがめでたきことにて候なり」(末灯鈔)を聞いて感激。それより、すべてを捨てて念仏相続に入る。朝は3時起床、夜は11時まで仕事しながら念仏相続に専念。いろいろの疑問が出ても、人には質問をせず、それを心に持ったまま念仏していると、いつか必ず解決す、と。

7、29歳、昭和12年1月16日夜、叡山に登り、黒谷の経堂に入って、ただ一人徹夜念仏す。その夜、不思議の感得を受けて純粋他力念仏に入る。(詳細は後述します。)

8、33歳、昭和16年、皮革統制会社に働く。

9、同年7月31日召集。満州、南方ニューギニア方面に転戦。

10、昭和19年6月帰還。以来、故郷飛弾に住して念仏三眛。 (後略)



松並氏の回心体験

 松並氏、昭和12年(29歳)1月15日、主人と共に西本願寺の報恩講に参詣。同夜、主人は総会所の説教に、氏は一人宿屋にて念仏相続。翌16日、氏はただ一人比叡山に登る。その故は、当時の氏は、昼夜不断(同輩のいわく、夜寝ている時も口は動いていたと)のお念仏相続であった。しかし人様のように慚愧の心もなく、また歓喜の心もなく、ただ口の動くままのお念仏であった。こんなお念仏でよいのか、間違った念仏かもしれん、という疑問があった。その疑問を、人にも質問せず念仏していた。そんなわけで、その解決を求めるために「叡山黒谷の経蔵に入って、妄念を断ち、静かに徹夜念仏したならば、この疑問も晴れるであろう」との希望を抱いて登山す。なぜなら、自分が今お念仏できるようになったのは、御開山聖人の御恩。その親鸞聖人のお念仏は、法然上人のおかげ。その日本での念仏の元祖法然上人は、この叡山黒谷の報恩蔵において、善導大師の『一心専念弥陀名号、行住座臥不問時節久近、念々不捨者、是名正定之業、順彼仏願故』(観経疏)の文で獲信され、聖道自力の門を捨てて、他力念仏の門に入られたのである。叡山黒谷こそ、実に思い出深き有縁の地と思い定めたからである。

 寒さ厳しき真冬の叡山は、訪れる人もなく、道を問う人もない。初めての登山なれば、全く黒谷への方角もわからず、お念仏しながら、足の動くにまかせて歩いた。フト足の止まった所に堂があり、そこが黒谷であった。午後3時頃。雪は一尺程も積もっていた。堂守に経蔵を開けてもらい、決死の覚悟で入堂。出られぬよう外から錠をかけてもらい、一本の線香の火のみにて、他に全く火の気のない板の間に座して、一心不乱に念仏す。

 最初1、2時間は事もなく過ぎたが、厳寒の候とて、山の寒さは身を刺すごとく、夜の更けると共に、その苦しさは言語に絶す。しかし、いよいよ励んでお念仏していると、下界での予測とは正反対に、妄念妄想が、恐ろしく次から次へと出てきて、気も狂わんばかりであった。何故このように苦しんでまでも、念仏せねばならぬのかとさえ思われた。(世間の人は、寒さにあえば、御開山の越後ご流罪のご苦労をしのぶというが、それは、我が身に温かさが残っている内の思いである。極寒に会えば、とてもそんなことは思えぬ。)

 だんだんと夜は更け、苦しみの中より、ますますお念仏に精進すると、妄念妄想が全部出尽くして、胸中が空の気持ちになった。その時、不思議にも自分自身の口より、「慚愧も嘘、歓喜も嘘、御恩の恩の字もない。まさしく逆謗の死骸とは見えたり!」との言葉が、突然ほとばしり出た。その声に勢いづけられて、いよいよ勇み念仏す。

 ややしばらくして急に頭の中に電光がひらめき、雷電の轟くがごとく、「クワッ」となって声ともなく、念ともなく、不思議の感得あり。

 「本願の念仏には独り立ちさせて、すけさせぬなり。歓喜も約束ではないぞよ。慚愧も誓いではないぞ。たとえ一声も南無阿弥陀仏と称える者、必ず間違わさぬは、弥陀の誓いであるぞよ!」とのお言葉。それを聞いて、寒さも苦しさもすべてを忘れて、一心不乱にお念仏していた。

 すると、またしばらくして非常な苦しみが身に迫ってきた。その苦しさが約30分ほども続き、それを乗り越すとまた少し楽になって、夢中にご相続ができた。深夜にまた不思議の声あり。

 「それそれ、南無阿弥陀仏が弥陀じゃぞや。声が弥陀じゃぞや。声となって、お前を迎えに来た。弥陀直き直きの 迎えでも、もの足りぬかや!」と。その声を聞いて歓喜の極。最早やじっと座っておられず、板床に伏して感泣する。

 すると今度は、自分の口より、次の言葉がほとばしり出た。

 「天に踊って喜ばん、この度弥陀の本願に会えること。地に伏して喜ばん、この度弥陀の本願に会えることを!」

すると、また不思議の声あり。

 「このような事があったので、これで往生と思うではないぞよ。往生は誓願の不思議、弥陀の計らいであるぞよ!」

と感得し、もはや言葉もなく、すべてを忘れ、いよいよ強盛に念仏して夜を徹す。そして喜びにあふれ、翌朝下山す。

 これまで10年余の念仏は、自分自身では、自力の念仏と思っていなかったが、今にして思えば、私が称える念仏、自力の念仏であった。他力念仏と思いながら、実のところは自力の念仏であった。永年の間、私は称えることにこだわっていた。もっと称えねばならぬ、ならぬと、常に心に重荷を負っていた。しかし叡山の感得あって以来は、もはや心の重荷は全く氷解。称えねばならぬという気持ちさえも無くなって、誠に誠に、気楽な、口の動くままのお念仏に入って今日に至る、と。 


松並松五郎師ニューギニヤ物語  『松並松五郎語録』より

 ニューギニヤ戦線にて、隊長の命令によりマラリヤ患者の付き添いに病院へ行った。病院とは言葉だけで、ヤシの葉を屋根に、竹の柱、床はヤシの葉の芯を並べてソロバンの様に痛い。衛生兵は五十人に一人、とても忙しいので中隊から付き添いを出すようになった。それも下士官以上との事、曹長が入院、付き添いにと命令。病院はマラリヤの製造場で、蚊に刺されるとマラリヤになる。一カ月で退院された。隊長に報告に出た。「休めよ」と言われたとて、私の仕事が一か月分溜まっている。働く、働く。

 また軍曹が病気になり、命令により付き添いに一カ月、治ったのでまた報告。「二度までご苦労、休めよ」。また仕事が溜まっている。

 三度目に新兵が入院、また付き添い。隊長は「三度までも済まぬが、一人助ける為に付き添いまで死なせてはと思って命令した。お前は死なぬと思ったから。今度はお前が病に倒れるその時は、報告に来るに及ばぬ。そのまま入院してくれよ」と。「ハイ、南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏」。この新兵は死ぬと感じた。新兵は「古年兵殿、私はこんなところで死なぬ。死なぬ。内地へ帰って、坊やの顔見るまでは絶対死なぬ」と。親心である。しかし、その心が死を招く。生は望むところ、されど病人なるが故に病人になり切ればよいのに、なり切るとは病気に勝つことでなく、負けることである。心に無理がある。第一仏縁に遠い。気分の良い時は元気があってよいように見えるが、ちょっと熱でも出ると、自分で自分を倒す。思った通りちょっとの熱で自分から「アカン」というて世を去った。南無阿弥陀仏 隊長に報告。「再三ご苦労であった、体をいとえよ」。「ハイ」。

 数日後に熱が出た。40℃との事、一週間熱が下がらねば入院となった。下がらない。報告に出た。「松並松五郎、本日付を以て入院いたします。自分の不注意から病に倒れ、申しようもありません。一日も早く全快して、元気で中隊に帰って来ます。報告終り」。隊長は、南無阿弥陀仏と笑いながら、「いらざることよ。回れ右と言われたら回れ右をすればよい」と。

 第百十一野戦病院へ入院した。何隊の何兵、何病棟とすぐわかる。善きことも悪いことも自分の事、自分が行なっている。三人の付き添いで、衛生兵とよく顔見知りで、次から次へと良くして頂きました。体温41℃、気温は100℃、三度の食事はドラム缶で炊くおかゆ、飯盒(はんごう)の中皿に顔が映る。油臭くて三日食べずにいましたが、空腹で四日目からすするようになりました。空襲日は日に二回で、壕に入らねば戦死にならぬ。蚊に食われると熱が高まるので、袖の長い下着上下、毛布、頭だけの蚊帳。水は無く、体温40℃、七十日続きました。南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 

 体質により、38℃一週間続くと、口の中にウジが発生して、頭の毛が一本もない兵もいました。幸いに私、毛が一本もウジも無く、口が乾くので、ヤシの実が落ちる、それを拾って飲む。日に三個以上飲めばチブスになるので飲めないが、辛抱が出来ない。私は幸い便秘が遠かったので、何ともありませんでした。四個は飲みました。洗い物もいつに一度やら、壕に出たり入ったり体が苦しい。

 ある日大空襲あり、二里四方に百五十機、低空なれば話し声も爆音で聞こえない。壕の中で病兵五十人、南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏と称える声に、三千世界に響き渡った南無阿弥陀仏。別に死は恐ろしい感じもなかったが、豆粒ほどに聞こえてくる爆音が、妙に私に響く。胸に鋭くこたえるので、ハハ―、この飛行機にやられるなーと直感した。それまでは、死ぬとも、生きるとも思ったことは一度もなかった。ただ命令のままに動いていた。軍隊は仏法そのままでしたので、何事も念仏の助行でした。いよいよこれが此の世の最後と決めた時、瞬間、全身、ことに胸と腹が鏡の如く、ガラスの様に透き通って見える。死が恐ろしいとも、お慈悲が有り難いとも、故郷の親も、妻も、兄妹が懐かしいとも、何とも思わなかった。ただ、今ここに三十円の金がある。この金一体どうすればよかろうと思った。妙なものですなー、別にお金に執着がある訳でもないのに、国家から預かったお金を葬ることが気がかりであった。かくして、二~三分の時刻が過ぎた。

 その時、声有りて、「お前はここで死なさん。帰す。帰ったなら一週間山で念仏せよ」と。この声を聞いて、無事帰国することを知った。それまでは、死ぬとも、帰るとも思ったことは一度もなかった。仰せのままに動いていた。その爆音がだんだん大きくなり、敵機はいよいよ迫って来た。爆風に備えて両目と両耳、手で押さえ、口を開いてナアーナアー念仏聞いていたら、体が急にボーとなって、エレベータ―の上がる様な気持がした。その時、空に南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏と三声聞こえ、その念仏と私の口から出ます念仏と、一つに相通じている。称える念仏でなく、回向から通じる念仏である。その時私は吹き飛ばされていたのである。そしてドーンと地上に落ちたらしい。初めて「やられた」と気がついた。しかし妙なことに、直立の形で落ちたらしい。その途端に壕の砂が崩れて、首から下は全部砂に埋もれた。少しでも傾いて落ちたら、全く命がなかった筈である。一時間の空襲である。その時の痛さは言葉に掛からぬ。血を吐いた。敵機が帰った後、病棟の衛生兵が、タンカを持って来た。「ああナンマンダ仏、やられたか、よしよし一番に掘り出してやる」と運んでくれた。

 病院は影も見えず、雨は降る降る、火の手は上がる。口にかからぬ。私は早かったので、一張りのテントの中に入れられたが、後より送られる負傷兵はテントも無く、露天に雨にさらされてウンウン唸ってころがっている。テント内は二十人ほど。何百の負傷兵は、雨ざらしの惨状はとても表現できない。身震いするほど。それを実地に体験した兵隊の思いは、いかばかりか。戦争は悲惨の極みであり、呪わしい。病院と言うても、手当もなく、痛み止めの薬一包、その日の手当はそれで終わり。食事にありつけぬ。ショックで気が狂い大声でわめく兵、浪曲をうなる兵、手足のちぎれた兵士、地獄もかくやと思う光景、水をくれと叫ぶもの、痛い痛いと泣く者、お母あお母あと呼ぶ者、子供の名前を呼び、雨に叩かれながら走り廻る者、雨で炎は消え、煙は大地を這う。私も体の痛み一方ならず、ハエ一匹止まっても毛穴が立つ。歯を食いしばって、小声で念仏聞いていた。そこへ衛生兵が来て、「ナンマンダ仏、どこや」。私は返事も出来ず、ナマンナマンと。「そこか、えらい目に遭うた、手を出せ」と言われるままに手を出す。あーイタ、と思ったら注射一本、「熱も大分下がっている」と帰った。一時間、痛みが止まる。また泣き叫ぶ者、黙れ黙れと叱る者、叱った者がまた痛い痛いと泣く。そこへ「ナンマンダ仏、どこじゃ」と。「うーん、そこか。脈を診てやる」。あーイタ、また注射、苦しみが消える。灯火がないから他の兵に分らない。その空襲で目をやられて、右眼今でも視力がほとんどない。

 ふと横を見ると、将校の口からウーンウーンと漏れていた。不思議に思って顔をのぞくと、その将校もまた私の顔をのぞく。私たまりかねて、「あなた、念仏しなさるな―」。将校も「お前も念仏するなー」と、その一言で意気投合して、もう何も遠慮はいらぬ。南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏と。それはそれは有難かった。すると真ん中にいた兵士が悲しい声で、「もう念仏は止めてくれ、止めてくれ、念仏の声を聞くと心細くて死ぬかと思う」と哀願する。それを聞いた私は身の痛さも忘れて座し、その兵に向って、「お前は何を言うか。国出る時、七度生まれかわって国に報いん、と教えられたではないか。そんなことで生まれかわることが出来るか。念仏は死ぬ声ではなく、生れる声であるぞ」と。その声聞くや、兵は驚いて「どんな悪人でも生まれるか」。「必ず助かる」。兵はそれを聞いて、苦しき中より自分のこれまで歩んだ悪の生活を全部告白した。そしてまた問う、「こんな悪人でも助かるか」と。「おれのような悪人でも助かる。お前が助からいでか」。兵はそれでもまだ不安であったか、「きっと助かるか」と念を押す。その時「そんなこと、俺は知らん」と突き放す。また「きっと助かるか」と聞き返した瞬間、「仏説なるが故に」という言葉が飛んで出た。その声を聞いて、重症の兵士、驚喜してその場に端座して合掌、南無阿弥陀仏、と一声称え、そうしてまた、南無阿弥陀仏、と念仏称え、今度は直立不動の姿勢になり、合掌、南無阿弥陀仏、と一声大きく念仏してそのまま、バッタリと地上に倒れ、そのまま息絶えた。

 その夜は、隣の将校と共に念仏称えながら、足を撫ぜ、肩を撫ぜながら念仏。「ああ、この足で幾千里苦しかったなー。この肩で、重い背嚢、かつぎ苦しかったなー」と涙を流して、共にさすりながら通夜した。涙、南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 「よかったなー」涙、涙、涙。夜明け前に我にかえり、静かになったなー。あたりを眺めたら、三分の二は重なり合って死んでいる。南無阿弥陀仏 

 あくる日、手術にかかった。板を一枚置いて傷兵を並べ、お前は右足か、お前は左足か、お前は手か、お前は目かと、大根を切るように。後は赤チンとホータイだけ。なんとまー。南無阿弥陀仏 食事は出ない。全部焼けて無い。焼け残りの倒れ掛かった病棟で横になっているだけ。私は幸いに衛生兵に頂いたミルクで満腹しました。将校は別室にかわった。別れる時に、今生では会えぬ、また会うと手と手を握り合い、南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏。

 二日間、倒れ掛かった病棟で、私の隣の戦友が一回も小便していないのに気付き、「お前、小便したくないのか」と尋ねたら、「体がえらいので寝たまましている」。「えー、それはあかん」。衛生兵を呼んできて、着類を切ってみたらウジがいっぱい、洗い取ったら何もない。夕方死んだ。南無阿弥陀仏 

 その後病院が移転して、二里四方を病院とした。真ん中ほどに食事所がある。かわるがわる二名づつ食糧を貰いに行く。熱病兵、一テントに二十名。大地に毛布一枚敷くだけ。食糧を貰いに行った兵が、帰りが遅いと途中で戦死している。一食たべるものがない。一週間過ぎて護送があった。私は二回目であった。

 同じニューギニヤでウエハークの病院、そこに二十五日入院して二十三日、毎朝八時に空襲に遭う。壕の入り口で念仏していたら、目の見えぬ兵がぬかるみで歩けない。弾は飛んでくる。私は手引きにと思って壕を出て、兵の手を持った時、壕に爆弾が落ちて、影も形もない。手引きに出たおかげで助けられました。南無阿弥陀仏 

 その病院でチブスになり、一日に便所二十回ぐらい。食事はおもゆ。空腹、熱40℃、百熱の中で、今口に何か食べなかったら死す。動くことも出来ず、寝たまま念仏を聞く。無意識のまま歩く。足の止まったそこに果物がある、空腹、もう体がもたぬ。今死すとなる。うーんうーんと唸りながら、また無意識に歩く。また食物にありつく。そうしたこと三回。いよいよパラオへ護送となる。一週間後に白衣に着替えて、船中の人となる。初めて弾は飛んでこぬ。船中で聞けば、マニラへ護送。また弾の中かなーと。途中で命令が変更になり、高尾へ行くと聞いて嬉しかった。台北に兄妹がいる。顔でも見えると思った。高尾へ着けば、寒くて寒くてたまらない。早速兄に手紙を出して着類を頼んだ。ともに喜んだ。十日後に台北へ送られた。

  南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏


松並松五郎師と北海道の老人 『松並松五郎語録』より

 ある夏の午後でした。見知らぬ老人が、「松並さんのお宅ですか」。「ハイそうです。どうぞお上がりくださいませ」。「私は北海道旭川から参りました爺でございます」「ええー、それはそれは遠方から有難うございます。終戦間もない折、大変でしたでしょうに」「実は一言お聞かせに預かりたくて詣りました」「いいえいいえ、私はその様な者ではありません」と申して念仏していましたが、腹の中では、尋ねて頂く私は何もわからず、〈おのおの十余カ国の境を越えて〉とありますが、この老人が、こんな時代に、ようこそようこそ、私でしたらそんな熱心はありません。尋ねて頂いた者より、はるばる北海道から尋ねて下さったお方こそ、尊くてよっぽど聞いたお方。余程念仏申しなさった御方。そんな御方に、いたらぬ私が、こんな口で、何を語らん。術なく「有難うございます。南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏」老人も「南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏」。夕食後また「北海道の爺が来ました。どーぞ御一言」と手をついて。「はいはい、有難うございます。南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏」と十時まで。翌朝食事後また、両手をついて「北海道の爺が来ました。御一言お願い致します」「はいはい、有難うございます」と念仏ばかり。昼ご飯後また「お一言を」「はいはい、南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏」。その間何も申さず念仏、五日。一週間あたりからは、涙を流して両手をついて「どうぞご一言」。「はいはい、有難うございます。南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏」。十五日間、その夜涙を流して「明日帰ります。どーぞご一言を」「はいはい、南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏。十時です、お休みくださいませ」と。十五日間一言もなく、念仏ばかり。翌朝食後に「帰ります。どーぞお一言」「はい、南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏」。合掌して私は台所で、おにぎりを作っていましたら、おじいさんは上がりかまちに腰掛け、地下足袋のこはぜを掛けつつ独り言。「あーあ、十五日間もお世話になりましたが、亦また手ぶらで帰るのかなー」と、つぶやいてござる声が、台所で弁当作っている私の耳に、つつぬけに聞こえてくる。そうしておじいさんの前に出て立ち、「おじいさんは耳が聞こえませんのですか」。「いいえ耳はよく聞こえます」「それなら十五日間も、南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏と、私やおじいさんを呼んでござったのが聞こえませんでしたか。助けるぞよ南無阿弥陀仏、ここに居るぞや南無阿弥陀仏と呼んでござる声を聞こえませんでしたか」。「ええっー」と私を見つめ、コンクリートの上に座って大きな涙をぽとぽとと、両手をついては頭を上げては合掌し、南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏。私知らず知らずに涙ぽたぽた南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏。「おじいさん有難う 南無阿弥陀仏」。おじいさんは何も言わず顔を見つめては、南無阿弥陀仏。頭を下げては南無阿弥陀仏。手と手を握りしめて南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏。「帰ります」。涙と涙。その後一カ月余り過ぎて手紙を頂きました。何にも書いてありませんでした。念仏ばかり、所々に巻紙に涙に涙のシミが点々と。

  南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏