空外上人「茶歌」
玉川茶歌
日高キコト丈五睡正ニ濃ヤカナリ軍将門ヲ扣キテ周公ヲ驚カス 口ヅカラ伝ウ 諫議ノ書信ヲ送ルト白絹斜メニ封ズ 三道ノ印 緘ヲ開ケバ宛モ諫議ノ面ヲ見ルガゴトシ 手ヅカラ月団三百斤ヲ閲ス 聞クナラ新年山裏ニ入ラバ蟄虫驚動シテ 春風起コル 天子須ラク嘗ムル陽羨ノ茶ヲ百草敢テ先ズ花ヲ開カズ 仁風暗ニ結ブ珠蓓ノ蕾 春ニ先ダチテ黄金ノ芽ヲ抽出ス 鮮ヲ摘ミ芳ヲ焙リテ封裹ヲ旋ラス 精ヲ至シ好ニ至リテモ 且ツ奢ラズ 至尊ノ余リハ王公ニ合ウニ 何事ゾ便チ到ル山人ノ家 柴門反リテ閉ザシ俗客無シ 紗帽ノ頭ヲ籠メ自ラ煎ジテ喫ス 碧雲風ヲ引キ吹キテ断エズ 白花光ヲ浮カベ椀面ヲ凝ラス 一椀 喉吻ヲ潤オス 二椀 孤悶ヲ破ル 三椀 枯腸ヲ捜ルニ唯有リ文字五千巻四椀 軽汗ヲ発シ平生ノ不平ノ事尽ク毛孔ニ向カッテ散ズ 五椀 肌骨ヲ清クシ 六椀 仙霊ニ通ズ 七椀 喫スルヲ得ザルナリ
昭和甲寅(四十九年)春 空外七十一才
唯覚ユ 両腋ノ習習トシテ清風ノ生ズルヲ蓬莱山ハ何処ニ在ル 玉川子 此ノ清風ニ乗ジテ帰リ去ラント欲ス 山上ノ群仙 下土ヲ司ル 地位ハ清高ニシテ風雨ヲ隔ツ 安ンゾ知ルヲ得ン 百万億ノ蒼生ノ命 堕チテ顛崖ニ辛苦ヲ受クルアリ 便チ諫議ニ従イテ蒼生ニ問エ 到頭ニ蘇息ヲ得ザルヤ否ヤヲ
【意訳】
日も高く昼も近き頃、ぐっすり眠っていたら軍の武将が戸を叩いて、目を醒まされた。諫議(高官)からの手紙を持って来たと言う。白絹に包まれ斜めに封のされた手紙には三つの印が押してある。開けると諫議の懐かしい顔が浮かんできた。贈って下さった団茶三百個を手に取ってみる。手紙によると、新年になると山へ入るのだそうで、虫が穴から出て動き始め春風が吹く頃には、天子様は陽羨の名茶をお飲みになるそうで、あらゆる草木がまだ花を咲かせる前に、めぐみの風が美しく蕾を結ばせる。春に先立ちて黄金の芽が伸び出し、新芽を摘み火で焙(あぶ)り直ぐに密封する。精を尽して好みを至しても決して奢らない、これ以上なき尊きお茶は王公に最もふさわしい。それが何故この隠遁者の家に届けられたことであろう。柴の門を固く閉ざして、俗客は締め出した。薄絹で頭を包み、自ら茶を淹れ喫(の)む。碧い雲のような湯気が風をよんで立ち上がり、白い花のような泡々が盌の表面に浮かぶ。一盌飲めば喉が潤う、二盌飲めば自我の悶えが消え、三盌飲んで干からびた腸を探れば、中はただ無為自然のみがある。四盌飲めば軽く汗をかき、平生の不平不満が毛孔より散っていく。五盌飲めば肌や骨が清らかになり、六盌飲めば仙霊界に通じていく。七盌はもう有難くて飲む必要がない。
ただ両脇から清風がスーッと出ていくのを感じる。彼の仙人が棲むという蓬莱山はいったいどこにあるのだ、私はこの風に乗ってその山へ今行こう。山上の仙人たちは下界を治めているが、その地位は清らかで高く、風雨にあう事もない。知ってほしい、幾万幾億人民のいのちが崖の下に堕ちて苦しんでいることを。そこで諫議に人民のことをお尋ねしたい、どうか彼らを蘇生させてもらえないだろうか。
黄金芽
新春を迎えるにあたって、黄金の芽ほど願わしいものは少ないであろう。唐の盧同『茶歌』巻首にも、「先春抽出黄金芽」という名句があることは、既に知っている人もある筈である。
如何なることがあっても、もはやミサイルの時代には、戦争をしてはならないものと思うので、その為にはまず自己自身が排他的でない、相手をも生かしながら、しかも各自なりにみのり豊かな平和な日々を全うしていくの外なかろう。自己の生活が自分勝手な、したがって対立的でしかないような事では、国際的な平和の如きは円成するはずがない。この人生の根本問題が、かえって自然界から教えられもするもので、この論題「黄金の芽」に想到する。人心の黄金の芽に喜びを深めさえすれば、おのずと人間形成は平和文化に直結する。なぜであろうか。
弁栄上人もよく引用されて、揮毫までされた道詠の一つに、「空海が心の内に咲く花は 弥陀よりほかに知る人ぞなし」というのがあることは、広く知られているが、これはひとり弘法大師の心境にとどまらず、今後二十一世紀に及んでも、我々が率先して楽しみとすべき平和の原点ではなかろうか。あまり経済的利害に左右されすぎると、たとい経済的大国にはなり得ても、精神的には乞食の域を脱し難いのではないか。これを最も戒めたはずの釈尊仏教も、数の多少がものを言う宗教宗派になると、やはり「世間虚仮」的方面に堕し易いようである。これを照らすものは「唯物是真」しかなかろう。
それがまさに「心のうちに咲く花」のことであり、西洋思想のような「人間中心」の方向では、見失われがちである。しかしなんでも例外ということがあり、西洋古代ではプロ―ティーノス(204~270)、西洋近世ではシェリング(1775~1854)の如き、東洋の「自然本位」の思想を重視する大思想家もあるから、これからはむしろこの自然を破壊する現今の通弊を是正して、自然を生かすように逆転したいものである。西洋文化には欠くが、東洋文化では重きをなす書道・茶道等は、みな自然に根ざし、自然を生かすことが人生を豊かにする平和文化にほかならない。
「春に先んじて抽き出ず黄金の芽」という前掲の句意も、その前後の次のような諸句を連想すると、やはり先の「心の花」を予想しての「黄金の芽」のようである。自然のいのちの根源に還りてこそ文化であり、そうした文化生活を楽しみ深めてはじめて、動物的生活の延長線上に右往左往するだけに終わらずに、人間が人間になり得た所以の人間生誕であり、したがって自己が自己になった心証なので、新年おめでとうと言える。他人がそう言うから、自分もそう言うのであれば、いわば猿真似の類とさほど異ならないのではなかろうか。わたくしは今日のいわゆる技術文化・経済発展の繁栄と享楽の中にも、そうした浅ましさを感じざるを得ないものがある。
「百草敢えて先ず花を開かず、仁風暗に結ぶ珠蓓蕾」というのが、前掲「先春抽き出ず黄金の芽」の直前の句であってみれば、金・銀など七宝の類が経典に繰り返し説かれるのと同じく、単に自然の宝というのでなく、心の真実の宝を適切に表明する言葉が無いので、やむなく自然界で通用する最高の宝としての黄金というような字句があてられるまでであろう。いのちの根源が人生の目的であると断じえたプロ―ティーノスは「一者(トヘン)には、実は適当な名称がない」(著作集エナデス第六篇第九章第五節」と述べ、一者について「我々が言うのは、それが無い処のことであって、それがある処のことを我々は言うのではない」(同前五・三・一四)と力説するゆえんでもある。その一者とは阿弥陀にあたるが、「阿弥陀」という梵語が「無量」と漢訳される、その「無」がやはり上のように語られるわけでもある。それほど一般の生活上では自覚され難くても、人間といわれるまでに進化したからには、やはり「先春抽出黄金芽」の直後にも、「至精至好且つ奢らず、(中略)柴門反関して俗客無し」とあるように、「不奢」とか「無俗客」の不や無にあたる心境の一人ひとりなりの生甲斐に悟入して人生を全うしたいものである。他人や社会を羨んだり批判する前に、不捨・無俗客の心境に徹しさえすれば、百草開花の世間並みの喜び以上に、それより何倍も尊い「珠蓓蕾」が暗に、知らぬあいだに結ばれてくる。
こうした「仁風」を通して実っていく「珠」のような、したがって利害打算だけの次元を超えた幸せが悟れるので、茶席にしても刀掛の如きが設けられるのであろう。軍備のために国を危うくすることもあるし、刀を持つのでかえって人を害したりすることにもなったりする。我々の生きられるおかげの不可思議さえ心中深く悟っていれば、自然に生・死を越えた永久の浄土へつながる。いのちの根源に即して、人生の目的を自分なりに四六時中全うし得る平等の心杖こそ南無阿弥陀仏なのである。物の方以上に、先ず心の上での永遠の楽しみに、おめでとうと誰でも言える光明生活を優先させたい。その「黄金の芽」の花咲くおめでとうを言い続けて私はもう六十有六年にもなる。
不奢
現代は宇宙時代といわれるほどに、機械的には画期的進歩を遂げ、なおこの方面は急速に進むようではあるが、しかしそれはあくまで物としての世界であり、それが少しわかったからといっても、むしろ心の世界の方が重要なのでなかろうか。物にいかほど恵まれても、心が浅ましければ、今日紙上をにぎわしているように、政・財界、いな、学界宗教界までも、上下を通じて、人間としての進歩を疑わしめるものが、あまりに多すぎるようである。物も尊いのであるが、それがわかるのは一人ひとりの心の深さに応じてのことである。したがって各自の心の深まることが、人間として優先しなければならない。そこに「不」ということを論題にもする訳がある。
今頃のように万事がほとんど唯物的に考えられている時では、「不」というと、何のことかわかりかねる人も少なくないであろう。しかしたとえば茶道にしても、なお広く多くの人々の関心を寄せているものであるが、その茶道とは何かをただすことになれば、おそらく唐の廬同『茶歌』中の名句、「至精至好且不奢」の右に出るものはないようである。してみれば、この「不」は、茶道の何たるかに取り組む上に肝心な論点といえる。周知のように「喫茶去」ともいわれるから、ただお茶を頂けばよいかと思うと、そうばかりはいかない。そこに唯物的にとどまらず、人間としての生活があるし、なければならない。即ち文化といえる原点につながる。また念仏にしても、ただ称えていればよいという訳ではないようなものである。茶道文化とか宗教文化といえるからには、人間がただ唯物的に利害打算に左右されるのでなしに、さすがに人間としての生き方の途も開け、心も深まる光が照らすようでありたい。
「奢らず」という茶道の本義については、これから述べていくが、ともかく奢るところから唯物的に傾きもする。宗教にしても、戒律をよそにして成立するわけもないが、その形式化に偏すると、似て非なるものに終わること、既にどの宗教にも窺える通りである。それで戒律の権化のような法然上人自身は、かえって「一戒をも不持(たもたず)」といわれている(『徹選択本願念仏集』)。この「不」こそ、生活の真実を掘り下げうる鍵にもなるようにわたくしは思う。奢るところのないのが、芸術でも宗教でも要点のようである。戒律の根本はもとより殺生戒であり、したがって不殺生に立ってこそ、心の道も開け深まりもするが、動植物のいのちを戴かなければ、どのみち生きられない我々として、如何にしてそうした殺生戒をば自分なりに心の霊化の方にみのらし得るのであろうか。「一戒を持たず」という「不持」がやはり「不奢」とも通ずる心の論点に立ち入ると左の通りである。
廬同の『茶歌』というのは、詳しくは「孟諫議の茶の惠みに謝する歌」として『古文真宝』前集に収載されている。まことに古文真宝と称せられるにふさわしい文献でもある。わが国で言えば参議にもあたる諫議という政府高官の孟という方から、「月団三百斤」ほどの「陽羨の茶」を贈られた礼状に、さすがに学者の盧同だけに、ただ有難うと述べるだけでなしに、茶徳の平等を訴えて、自分がこのお茶を通して仙境になれる仕合せをば、さらに「百万奥の蒼生」にまで及ぼして欲しい願いを述べたものなのである。今日の我が国の参議院に、そうした課題を提出することも、またそれに答え得る人のないことを思うと、いかに宇宙時代と騒いでも、人間自身としては、格段の低下を感ぜざるを得ない。かように低下せずに、むしろ進歩した物の上での宇宙をば、さらに心の上でも生かし得れば、全く、今よりも何倍も豊かで楽しい宇宙時代の円成することであろう。そういえば、心の上で宇宙時代など出来るものではなかろうという人もあるに違いない。否、そういう人の方が多いのではあるまいか。否、その程度で文化とか宗教といっているのであるからこそ、未だに地上で宗教戦争を繰り返したり、文化人といわれるほどの人が武器生産に直結し、自殺までする人の絶えないゆえんでもある。しかし真実の文化は、昔から宇宙時代を生きるといえる永遠の平和文化なのである。ここで詳述できないのは遺憾であるが、一例をあげても、既に江戸時代に流布した明の董其昌(とう・きしょう)(1555~1636)の名著『画禅室随筆』にも、「所謂 宇宙 手に在る者」という。いわゆる宇宙のいのちが手に生動しなければ、書画は真実にはかけないという意味なので、また実際その通りなのである。董 其昌自身、書・画ともに名人でその言う通りに、書も画も、宇宙の大生命そのままの生動を書・画として形づけているのである。
まさにこの事が重要なので、自分自身で出来ないことを、いくら口論しても畢竟するに観念に終わる。今日の政治倫理の口論のようなものである。そうした観念をあくまで退けたのは我が法然上人であり、「もろこし・わが朝に諸々の智者達の沙汰し申さるる観念の念にもあらず」と断じ、「智者のふるまいをせずして、ただ一向に念仏すべし」と結ぶ『一枚起請文』は、わが国名文の随一のものであり、すでにサンスクリット訳もされて、世界的文献でもある。弁栄上人が念仏三昧を強調されるのも、この線上においてである。この線上でないものは、宗教論ではあっても、宗教ではなく、したがって文化論ではあっても、文化とは言い難い。生活の裏付けが予想されないからである。そこに取り組もうとして、「不」と題しているのである。
さて前掲の「至精至好且つ奢らず」という茶道の意味は、先ずその語義から言えばこうである。すなわち「至精」とは、これも詳述すれば際限なく、製茶の方法として、この『茶歌』には「月団三百斤」とあるから、唐代流行の団茶法であり、後に栄西禅師が伝えた宋代の抹茶法、最後に江戸時代、黄檗宗と共に渡った明代の煎茶法など、もとよりそれぞれ相違するものの、通じて万事、精を尽して至上を期するのである。それでこそまた喫茶して味もこの上ない程なのを「至好」という。ところが「且つ奢らず」とは、その茶のよさは、砂糖を加えたりして甘くするとか、醤油や塩を入れて鹹くするとかの外からの調味でなしに、茶そのものの含蓄の自然を生かし切ったよさに他ならない。それを「不奢」というので、茶でもそこまで活かせるからには、人間一人ひとりの自然のいのちの尊さが生かされないはずが無かろう。とはいえそこには「至精至好」に相当するものが予想されるので、ただの自然では文化にはならない。いわんや自然を破壊するようなものは、すべて文化以前といわなければならない。それは皆、結局「奢」るからである。今日の茶道の如き、奢ること甚だしいのではなかろうか。自然を生かすどころか、自然に反するものさえ少なくない。それは茶掛の書を見れば一目瞭然でもある。茶席でも最初に、床前で席掛に頭を下げるゆえんである。すでに書祖、後漢の蔡邕(さいよう)(133~192)が「石室神授筆勢」において、『書は自然に肇まる』という(『書法正伝』巻五、二丁)。この「自然」に頭を下げる訳である。奢っていては、かえって自然を破壊して、自・他ともだおれになるの他ない。千利休の孫の宗旦(1578~1658)も、「一心清浄を器として禅機の茶なり」と断じている(『禅茶録』)。奢るのではなく、「一心清浄」にして初めて、「自然」のいのちの根源にも迫り、照らされ、相通じて、一人ひとりなりに、自然を生かせるようになる。そこを茶祖、村田珠光(1423~1502)は、一休禅師が茶道の極意を尋ねたのに対して、「柳はみどり、花はくれない」と答えたと伝えられるものの、この答えは、既に藤原定家(1162~1241)の書道の要句としても挙げられているものなのである。定家と同時代の法然上人が、当時の文化人から「智慧第一」と仰がれながらも、「およそ仏教多しといえども、所詮は戒・定・慧の三学に過ぎず。いわゆる小乗の戒・定・慧、大乗の戒・定・慧、顕教の戒・定・慧、密教の戒・定・慧なり。然るに我が此の身は戒行に於いて一戒をも持たず(不持)、禅定に於いて一もこれを得ず(不得)、智慧に於いては断惑証果の正智を得ず(不得)」とまで、みな「不」で法然仏教の原点をまとめ上げたのは、三十六歳から四十三歳までの八年間も法然上人に師事し通した碩学、浄土宗二祖弁阿鎮西上人の主著『徹選択本願念仏集』であり、さすがに後継者にふさわしいとわたくしは思う。こうした「不」こそ、枠の型にとらわれないで、心の上で大自然のいのちを平等に呼吸して、一人ひとりなりに人生を全うし得る生き方を実らすゆえんの、いわゆる「無二的人間」の面目とも相通ずるようである。
柴門反関無俗客
「柴門反関して俗客無し」という名句は、わたくしも好むところで、自坊法蓮寺の山門に掲げて久しい。実は、茶道の本義を説いて、その右に出るものなしといえる、唐盧同の『茶歌』(古文真宝前集 謝孟諫議恵茶歌)にある句で、まことに頷けることである。俗客を相手にしていたのでは、茶道どころではなく、生活そのものにしても、誤魔化し、間に合わせしかできるのではなかろう。ために、一生台無しになること、日々紙上で報道されるとおりである。すでに千利休の孫、宗旦(1578~1658)も、「一心清浄を器として禅機の茶なり」と断じている。『禅茶録』の遺著ある所以である。
「俗客」といえば、つい他人事に思い易いが、「柴門反関して俗客無し」といえるからには、まずもって、自己自身のことでなければならない。他人のことに関わる前に、自己そのものに取り組んでこそ、文化の原点もあるようである。茶道にしても、もとより茶道文化といえるところに、まず取り組むの他ないが、自分自身がそのいわゆる「俗客」の類であったでは「柴門反関して俗客無し」という文意もわかる筈はない。ただ辞書でも引いて、その意味を考えている程度では、観念にとどまって、真実の生活とは言えない。今日、宗教論多くして、その論者の生活は宗教的とは思われないようなのが少なくないのと同様である。茶道文化とか宗教文化といえるために、まず以て自己自身が俗客でなくなるのでなければならない。すなわち人間としての心の問題なのである。『茶歌』でも本題の句の直後に、「みずから煎喫す」といって、自分で煎喫する心境として、「一盌、喉吻潤う。二盌、孤悶を破る。三盌、枯腸を捜ぐる。唯あり文字五千巻。四盌、軽汗を発す。平生不平のこと、尽く毛孔に向って散ず。五盌、肌骨清し。六盌、仙霊に通ず。七盌、喫し得ざるなり」とまで列挙したうえ、「唯覚ゆ、両腋習々として清風の生ずるを。蓬莱山は何れの処にか在る。玉川子(著者盧同の号)この清風に乗って帰り去らんと欲す」という。
かように説かれるのであるから、「俗客無し」とは、まず自分の心境に取り組んでのことであり、またそうでないものは、たとい文化論ではあっても、文化には直結しない。それで初めに宗旦の「一心清浄を器として禅機の茶なり」という句を挙げたわけで、その頃はかように茶道文化の面目に接し得ても、今頃は茶道人口のみ多くして、前掲七盌中にもいわゆる「唯あり文字五千巻」の如き風格に接し難いのは、淋しいことである。しかし淋しいだけに、かかる風格こそ文化的光りが周囲をも照らすものであることに留意したい。たとい五千巻、万巻に精通したところで、いわゆる論語読みの論語知らずに終わってはならないので、一心清浄が強調されるわけであろう。光明主義の光明・見仏でも、やはり心の光・自己の心の光が重視されなければならない。すでに釈尊でも、御遺訓に、「自灯明・法灯明」を力説されたゆえんである。列挙された七盌の劈頭に、「一盌、喉吻潤う」という中身にも、重視さるべきものが予想されるので、「潤」ということは、品格はもとより、社会・文化挙げて肝心な要点に外ならない。書道要具の硯・墨・筆・紙の硯にしても、「潤」が重要なので、水岩の尊ばれるゆえんでもある。ために、時には、前夜から水中につけておいた硯を用いることもあるし、紙にしても蓮を画く時など、縁側に出しておいてからにしたりする。芸術に限らない。宗教にしても、法然上人の浄土宗開創の決定的論点は、阿弥陀仏の「平等の慈悲」にあったわけで(『選択本願念仏集』第三章)、これも簡言すれば、「潤」に通ずる。誤解してはならないが、悪人も救われ得ると見られるゆえんでもあろう。そうした平等の慈悲を表現できなけらば、芸術もいのちの表現はおぼつかない。わたしくしが通じて、無二的文化・芸術・宗教が無二的人間形成に根ざすゆえんを説いて久しいゆえんである。そのように難解なところまで述べずに、ただ「喉吻潤う」といっているので、含蓄も深い。一盌いただくお茶にしても、実は説いていけば際限なく大自然のいのちにつながるので、そこを既に『茶歌』前掲文に先立って、
「仁風暗に結ぶ珠蓓蕾 先春抽き出す黄金の芽 至精至好且つ奢らず」などと、僅か数語の内に政治・教育はもとより、文化の諸相の原点が辿られもする論講なのである。ここでは先ず「柴門反関して俗客無し」という、いわば門の入り口にあたるところを手掛かりにして述べているに過ぎない。
七盌で説いても、七覚支でまとめても、ともかく自己自身が光明生活の出来る程度にしかわかりようがない。一盌で喉吻潤うとあるのも、その中に、今挙げた珠蓓蕾・黄金芽・不奢の自然のいのちの含蓄につながるものだけに、恰も南無阿弥陀仏一称にしても全仏教の永遠の含蓄を予想するようなものである。ただ一盌・一称だけを切り離して考えると不自然になって、自分勝手な理解に終わるしかなかろう。一人ひとりなりに自然のいのちが脈打つように潤うてくると、二盌、孤悶を破るというふうに、恰も南無阿弥陀仏の称名を通して心の窓さえ僅かでも開けると、そこから照らすいのちの光は、永遠の中身に感応することになるので、結局自分勝手な「孤悶」の類は無力の雑念でしかないことになる。阿弥陀の平等の慈悲と、ともどもの日々になってくる。今、縷説できないが、斯様にして三盌もいただくと、「枯腸を探る」というふうに、全身を通じて平等の慈悲に支えられてくる。ここに、いかほど五千巻、万巻の古典を精読しても、これ以上はない程の生甲斐をさとれるわけである。したがって四盌になれば、「軽汗を発し、平生不平のこと、ことごとく毛孔に向って散ず」といわれるのは、いわば七覚志の「軽安覚支」にも通ずるわけである。茶道でもそうなのに、念仏者の中に、もし「平生不平のこと」に左右される人があるとしたら、宗教圏内とは言えないようである。いわんや五盌、肌骨清しといわれるからには、「一心清浄を器として禅機の茶なり」と断ぜられる心境であり、「定覚支」の類と見られよう。禅定はかくして宗教圏に予想される。永遠とつながる生活という意味で、それをわたくしは文化の原点とも考える。したがって「六盌、仙霊に通ず」という心境になれば、弁栄上人のいわれる霊性開発にも相通ずるもので、「七盌喫し得ざるなり」に至っては、いわゆる無称光・超日月光にせまるものあり、前掲の「蓬莱山は何れの処にか在る。玉川子この清風に乗って帰り去らんと欲す」に留まらず、さらに政治の課題にまで言及して、「山上の群仙、下土を司る。地位清高にして雨風を隔つ。焉んぞ百万億の蒼生、命、顛崖に堕ちて辛苦を受くるを知ることを得ん。すなわち諫議について蒼生を問う。到頭、命、蘇息を得ずや否や」というところにまで、廬同に「月団三百斤」も届けてくれた当時政府最高顧問の孟諫議への礼状にあたるこの茶歌の結文で正している程である。これでこそ、平等の慈悲に裏付けられた文化の面目も窺えるのではなかろうか。かくして茶道と念仏とのつながるゆえんの詳述は、後日に譲る。
破孤悶
「孤悶を破る」というのは、唐の廬同の『茶歌』の名句で、わたくしは数十年来親しみ、したがって茶掛に揮毫したこともある。孤児といっても、孤老といっても、たよりない思いを伴うので、孤悶にしても、出来る事なら、破るにこしたことはなかろう。しかも茶歌で挙げられて久しいのであるから、況や人生を達観すべき仏道に於いて、孤悶を破れないはずはない。釈尊のご出家も、孤悶にあたる四苦八苦の精算を目指されたようである。孤悶を破れば、縁起の大海が開けるに違いない。いのちの根源の阿弥陀と四六時中、離れないからである。現代は物には恵まれていても、心の孤児、孤老の類があまりに多いのではなかろうか。たといそうは見えなくても、お金本位の離合では、心の方やは矢張り、孤悶を破る訳に行かないのではないか。『茶歌』は中国茶道文献の原点であるが、それに基づく我が茶道の根本も、左に一文におさまるの茶の湯は第一仏法を以て修道得道することなり。ようである。すなわち「小座敷の茶の湯は第一仏法を以て修道得道すること也。(中略) 掛物ほど第一の道具はなし。客・亭主共に茶の湯三昧の一心得道のもの也。墨跡を第一とす。その文句の心を敬い、筆者・道人・祖師の徳を賞翫する也」(『南坊録』)とあり、仏法・一心得道・徳が強調されて、「墨跡を第一とす」といわれるところ、わたくしの言う「無二的人間形成」こそ、書道・茶道を一貫して、否、人間が人間になる所以の原点といえる。
「俗筆のものは掛くることなし」と断ずる茶席の風格は、そのまま人生を真実に生きようということに他ならない。今日、茶席に迎えられても、その俗筆のものが多いのは、どうしたことであろうか。『南坊録』の取り組もうとするのはむしろ人のことよりも、自己自身のことなのである。如何に正義を人に説いても、戦争をして自分が人を殺していたのでは、それでも人間であろうかと考えざるを得ない。自分がまず人間として考えるべきであろう。「考えるもの」(マヌシャ)というのが、梵語で「人間」という言葉の意味である。日本で普及している第一の仏教梵語も、南無阿弥陀仏である。第一に殺生を戒めるのが仏教に他ならない。「孤悶」というのは、もとより心の迷いで、それでは生きていても甲斐がない。悟れるものなら、悟って生きた方が尊い。いわんや旧華厳経中の名句にも、「仏と異なることなし」と我々のことを言われているから(第35巻)、むしろ覚って生きる方が自然なのではないか。「仏」とは「覚者」という意味の梵語の音写である。悟って生きることに他ならない。自分が悟って生きなければ、いくら悟られた釈尊のことを聞いてもわかる筈もないし、また、仏教について何も言えないであろう。日本人が一番多く参詣するのは、おそらく奈良の大仏さまであろうが、その東大寺は華厳宗で、前掲の旧華厳経に基づく。今挙げた「仏と異なることなし」は、仏教学的には如来蔵縁起といわれるので、釈尊のお悟りの「縁起」の帰結にあたる。又「心と仏と衆生と、是の三、無差別」という「唯信偈」も有名である(旧華厳経巻第十)。悟るのは、心で悟る。それなのにいくら参詣しても、金に迷ったり、ために人を殺したり、人に殺されたりしたのでは、物・金・経済のほうが優先することになろう。戦争といっても、古来いつでも経済のために起こったのが多く、今日でもほとんどそうである。それで、人間が経済的動物である間は、いつ戦争になるかもしれないし、戦争をすれば共倒れであるし、戦争しなくても絶えずその危険の前にしか生きられない。むしろこうした環境を助長するような機械や科学の進歩に心まで奪われずに、心のほうが優先する日々を生活したいものである。これならば、たとい貧しくても、病身でも、心の生き方の事であるから誰でも出来る。経済的動物としてでなく、無二的人間としての生活であり、そこに初めていのちの真実が実る。
弘法大師が「即身成仏」といわれるのもそれであり、また称名生活を「念々往生」ともいい、弁栄上人が光明生活を重視されたのもそれしかない。宗教までが枠を作って対立し、議論に終わり、争う様では、世間的としか考えられない。「世間虚仮・唯物是真」(『法王帝説』)という名句の通り、世間の虚仮の方に偏している宗教・芸術が多いのではなかろうか。唯物是真といわれるからには、真実であってこそ仏教なのである。自分が悟って生きる、自分勝手をしない。排他的でなく、むしろ相手を活かし自然を自分なりに実らしていく日々のことであろう。総じて無二的文化という所以である。
さすがに五重相伝の始まりの、浄土宗第七祖聖冏が第八祖聖聡に相伝した、その聖聡は東京芝の増上寺開山上人であるが(1366~1440)、下総の人、幼にして郷の明見寺(真言宗)に出家しただけあって、見識も広く、且つ悟入の体験も深いのであろう。その『一枚起請文見聞』は次のように結んでいる。
「真言宗の妙行も証悟の時に亙っては、必ず浄土の果報を得、華厳禅門の悟入も解脱を遂ぐる日は、自然に法王の家に至るべく、仏土に至るには必ず仏心を念ずる故に、二門皆念仏なり。浄土の中には極楽を最と為し、諸仏の中には弥陀を本と為す。往生とは諸宗悟道の異名なり。ここに知んぬ、未だ悟らざる前には、思、随縁執情に封ぜられ、自力得道を期して、浄土を願わずといえども、得悟の後、還って泥洹の楽邦に入り、道場の妙土に至るなり。三世の諸仏は念仏三昧に依って成等正覚するは此の意なり。此の故に只一向に念仏すべしと勧めたもうなり」
この一文は、繰り返し拝読している内、法然上人の「ただ一向に念仏すべし」と結ばれる『一枚起請文』御遺訓の本意が、弁栄上人の強調された「念仏三昧」に直結する所以も窺える次第である。光明会でも、ここに「未だ悟入の前には、思、随縁執情に封ぜられ」といわれる域の者、少なくないためのことが進展を妨げているのではなかろうか。否、仏教そのものにしても、諸宗諸派の排他・対立さえ解消すれば、心の悟入は速やかで、ために真実の生活は日々に深まって周囲を照らすに違いない。今日の宗教の大半が観光とお祭り行事に終わっているのは、まことに惜しいことである。
いのちの根源や目的が一つであることは、当然で、ただ昇り口はいろいろ無ければ、初めから頂点に達するわけにはいかない。昇ってみれば、「孤悶を破る」ので、四苦八苦は、自縄自縛でしかないことも、すぐ悟れるわけである。同じ鎌倉時代の社会の中で、弟義経を殺す兄もいれば、また復讐を考えずに悟入を願った父の遺言通りに、平等往生をみのらしきった法然上人もいられる。それなのに、未だに社会が悪いと万事を人ごとに思うのを新しいぐらいに信じている風潮は、むしろ狂っているのではないか。いつまでも「孤悶を破る」ことはできない。いつでも自分が悟らなければどうにもならないことは、すでに釈尊以来「唯我独尊」で周知のはずである。社会や財に執われた人々の哀れさは、高級老人マンションにさえ歴然としている。
七盌喫不得也
「七盌喫不得也」と断じて、唐の廬同の『茶歌』中に列挙する一盌から二盌、三盌、四盌、五盌、六盌に及び、七盌で結ぶのに、「喫不得也」といわれるゆえんを少し考えてみたいと思うのが、この論題の要点である。題中の「不」の字に留意したいので、敢えて漢文の句のままにしたわけである。この文句をそのままに読めば、既に六盌の処で、「仙霊に通ず」と説くので、七盌になると、あまり有り難くて頂けないという意味にとれる。それではお茶を喫(の)まないだけなのかというと、そうではないから、仙霊に通じた心境の裏付けとして、すぐ続けて次のように生活態度が掘り下げられているのである。つまり平等の慈悲として、いわば彼岸の論点になる。それが実は「不」にあたる訳なのである。
「七盌喫し得ざるなり。ただ覚湯、両腋習々として清風の生ずるを。蓬莱山は何れの処にかある。玉川子(廬同の号)、この清風に乗って帰り去らんと欲す」というふうに述べた後、続けて「百万億の蒼生」、つまり大衆の多くは四苦八苦して、仙霊界の彼岸には到りようがないのを、何とかできないものでしょうかと、「月団三百斤」も送られた孟諫議への礼状にあたる茶歌の結語としているのである。自分だけがそのお茶を頂いて、仙霊のように蓬莱山中の生活が出来ても、それが期待されない人々にも、平等の慈悲の及ぶ道のあるものならこの上ないと贈り主の大政治家孟諫議にただしているわけである。わたくしが無二的茶道をも力説して久しいゆえんでもある。
無二的の「無」と、「七盌喫不得也」の「不」とは同類なのである。彼岸(パーラ・波羅)を説く『般若波羅蜜多心経』でも、ここでは詳説しないが、「是諸法空相 不生不滅 不垢不浄 不増不減」と述べ、また続けて「是故空中 無色 無受相行識 無眼鼻耳舌身意 無色声 香味触法 無眼界 乃至無意識界 無無明 亦無無明尽 乃至 亦無老死尽 無苦集滅道 無智亦無得」と説かれることは周知の通りである。
このように不も無と相通じて、彼岸に直結するので、ただ否定しているわけではない。お茶を喫んでさえ、彼岸の心に通わなければ、ただの喫茶に終わることになるのを戒めていることにまず留意したい。それで古くは本より、利休居士前後にも、茶道が仏道に直結するゆえんもわかる。仏教といえば、キリスト教と対立的に見たり、また仏教や茶道でも各派で対立的になったり、否、その同派の中でさえ対立した諸流のあることを思うと、そうなれば中身はむしろ文化以前の俗域としか謂えない。文化的民族と自称しながら、戦争までしているようなことになる。それで、斯様な一切の俗域に関わることはないから、既に本題の『茶歌』でも、一廊から七廊までを以て茶道の本義に取り組む直前に、「柴門反関して俗客無し」と断じている。さすがに茶道の原点、否、文化の原点を洞察している。私自身もそうした生活を堅持し続けた。
茶道でもその達人 松平不昧公(1751~1818)の如きは、「我が流儀立つべからず、諸流皆我が流にて、別に立派在るべからずと可覚悟なり」とまで強調する。芸術に限らず、宗教でも相手と対立せず、相手を活かして自己を全うしていかなければ、無二的とはいえない。その「二」とは自分と相手のことで、自・他、主・客が対立せず、生かし合える生き方を実らすのでなければ、動物的生活の延長でしかなく、文化とはいいがたい。機械が発達するから、文化が進歩したような気がするだけで、人間そのものは進歩してはいない。文化の原点は人間にあり、それでわたくしは無二的人間の形成を重視して、力説すること久しいのである。兎も角、今人類は、大自然のいのちの原点に即応する無二的人間の本来の面目としての光明生活を一人でも多く自己自身なりに実るようにお互い精進したいものである。仏教は本来自分がサトレなければならない宗教なのに、仏という梵語が自分がサトレタという意味なのに、どうして後ろ向きに教祖や宗祖を敬うことに帰して、自分自身は迷うて利害に左右される人が多いのであろうか。法然上人も明瞭に、「釈迦一大の聖教を、みな浄土宗におさめ候か、又三部経にかぎり候か」という問いに答えて、「八宗九宗、みないずれをも我が宗の中に一代をおさめて、聖道・浄土の二門とは分つ也。(中略)かくして聖道は難し、浄土は易しと釈しいるるなり。宗を立つるおもむきも知らぬものの、三部経にかぎるとはいうなり」(東大寺十問答の第一、全集本634頁)と断じていられるのであるから、対立的な枠を固執するにあたらないようである。わたくしが西洋哲学を専攻しながら、終始浄土宗的念仏生活を深め続け得たのも、こうした無二的原点に立ちうるからである。東寺の「八宗九宗」は全仏教のことにもなるから、「釈迦一代をおさめる」といわれるので、今日いえば、本より東西文化に通ずることになろう。
宗教でも芸術でも、いやしくも文化として人間生活の光たりうるには、無二的原点に立つの他ない。その点、我が国体思想であろうが、また東洋思想であっても、さらに世界人類の哲学としても、無二的文化として一如のものでなければならない。自分勝手なことでは、自・他ともどもマイナスに終わるしかなかろう。外見こそ一人ひとり別であり、民族・国家みな異なっても、同一の日・月のもとで同一の地球上で生かされているのであるから、各人なりにその大自然のいのちの根源を実らし得る生き方さえしていれば、その日から何倍も幸せが各自の心中深まるのを、梵本般若心経は、「空こそ色なれ」と述べ、この論結の中身を誰もが日々生活上実らせる心の杖が南無阿弥陀仏の称名念仏に外ならない。そうなのに外形の別に執われるので、いのちの根源に迫り難くなるだけであろう。根源しか人生の目的のないことは、まさにプロ―ティーノス(204~270)断じた通りであり、またその決定的影響を受けたアウグスティヌスによってキリスト教にも相通ずる原点である。弁栄上人が晩年になって、漸く著述として刊行された『宗祖の皮髄』(大正5年12月)も、やはり外形に留まらず、中身に徹することを力説されたのである。それでこの要約が「七覚支」となって、三年後、大正8年3月の浄土宗総本山知恩院勢至堂第三回如法別時念仏三昧会の講材とされた。これが上人最後の思想のまとめで、翌年12月、遷化された。
心経と茶歌
『般若心経』は梵本、唐の盧同の『茶歌』は漢文、その梵漢両本をここで論題にするのは、如何なる意義のためか。人生、たとえ長寿を得ても百歳、無量寿に比すればまことに一瞬の短命、何を好んで四苦八苦するのであろうか。人をにくみ、世をのろうて、相争うのであろうか。もの好きにもほどがある。しかも空気も心臓もその他すべて、内外みなおかげでしか生きられないのに、動物時代の業に左右されて、目前の利害打算に迷い、一生を台無しにする。人間が何のために生きているかは、すでに釈尊もキリストも明言しているのであるから、少しはそれに従う者もあってよいのに、世界最多数のキリスト教徒、それに次ぐイスラム教徒、併せば十五億にも及ぶのに、まるで強い者勝ちの内紛や戦争の指揮者の如き現状では、自滅の道を辿るの他ないのではなかろうか。わずか二億五千万の仏教徒までそれに追随するが如きは、もってのほかというしかない。わたくしは自己が悟って周囲をおのずと照らし、自他平等に「安楽国に往生せん」という生活理念に立つ仏教とこそ、率先して各人各様に一人として落伍することのない、いのちのみのりを全うする社会、すなわち極楽浄土を円成すべき道を精進しなければならないように思う。その意味で、そういう中身を説く仏教経典の要訣『般若心経』と、その仏前献茶して自己の生活浄化を期する茶道の原点に取り組む廬同の茶歌とを併説したい。いわんや仏教と茶道を除けば、日本文化は半減するほどの重要な分野であり、しかも仏教・茶道の文化の中心京都・奈良の爆撃は、第二次世界大戦でも免れ得たほどの世界文化の至宝でもある。
これを将来に生かし実らす道を進むところ、世界平和の光も照らし得るように考えられる。
釈尊は何のためにこの世に出られたかという問題は、キリストのその問題と同じく、そのまま我々自身に当てはまることなのである。ところがその様に考える人は少なく、たいていは口でその問題を説くのに止まり、自己自身は名利を追うているのは何故であろうか。如何に釈尊やキリストの説話が上手でも、自分が少しでも釈尊やキリストの様にならなければ、それは仏教でもキリスト教でもなく、ただ芝居に終わることになろう。それで茶道でも昔から座禅や念仏をするので、茶祖村田珠光(1423~1502)は、若うして念仏に縁あり(浄土宗西山派奈良市称名寺法林庵)、諸国行脚後、一休和尚に参禅して、足利義政の茶道師範になった。外の名利に迷わずに、自己のいのちを全うする以外に、宗教も芸術も無かろう。
すなわち「諸仏世尊は衆生をして仏の知見を開き、清浄なることを得しめんと欲するが故に、世に出現し給う。衆生に仏の知見を示さんと欲するが故に、世に出現し給う。衆生をして仏の知見を悟らしめんと欲するが故に、世に出現し給う。衆生をして仏の知見の道に入らしめんと欲するが故に、世に出現し給う」というふうに、「諸仏が一大事因縁を以ての故に世に出現された」わけが説かれる(妙法蓮華経巻第一、方便梵第二)。してみると、衆生の我々自身がこうした四仏知見の開・示・悟・入を全うしなければ、諸仏が出現されても意味を失うことになるのである。主体はどこまでも自己が悟る心に徹していくの他ない。どの程度悟れたかは、人に尋ねるまでもなく、自己の書いた書を見れば一目瞭然なので、古来、書は「心画」と言われるゆえんである。いわば心を鏡に映したようなものである。したあって書論としても、「筆法は筆法にして置、書く時はただ心と書くべし」(『鳳朗集』)というしかない。議論はいくら出来ても、それでは何も決まらない。それで茶席に入る時には、刀類は外にかけるところあり、帯刀などできない。心の浅深で決まる。まず床の書幅拝見で、亭主の心の程度もわかる。揮毫者の心の程度はもとよりである。これが茶道具の取り合わせのもとにもなるから、書道芸術と茶道とは不可離のつながりを持つ。すなわち仏心が根本なのである。今、其の四仏知見の開・示・悟・入、すなわち般若波羅蜜多の諸相に立ち入る前に、キリストは何のために生れて来たかに論及しておきたい。
釈尊がこの世に出現された訳を知って、はじめて仏教とは何かに取り組めるように、やはりキリストが何のために生れられたかをただし得て、キリスト教にも取り組める道がつくのではなかろうか。世界的宗教の代表として、それぞれ特色もあり、また簡言し難いものがあっても、そのことがすなわち我々自身の生きる値打ちを決める心の鍵でもあるとすれば、取り組むべき事のように思われる。キリストの生れたわけを究明したものとしては、中世最高の思想家ともいわれるニコラウス・クザーヌス(1401~1464)が1439年のクリスマスの説教の右に出るものはないとわたくしは考える。それほど重要な文献なのに、クザーヌスのこの原稿が1929年にはじめてドイツのハイデルベルクの学士院から公刊されるまで、ドイツのクースにあるニコラウス病院の図書館書庫に死蔵されていた。ドイツに留学していたわたくしは、これをドイツ語訳もしてラテン語原稿と共に公刊した、当時ヨーロッパ屈指のプラトーン研究家ホッフマン教授は、そのお宅でプラトーンのギリシャ語原典を読んで頂いたりしていたので、その宅のあるハイデルベルクの「哲学者の路」で、散歩途上の同教授に会い、ご一緒にお宅へ行く時が何度もあり、「誰がクザーヌスを読んだか」と繰り返し言われたこともあったのを懐かしく想起する。つまり西洋でも自身で原典に取り組まずに、史的論議をしている者もあると評された訳である。
それで帰朝すると、わたくしはそのラテン語の全文を和訳して、東大の『哲学雑誌』(昭和10年3月号)に掲載し、その10年3月授与の学位論文『哲学体系構成の二途 — プロ―ティーノス解釈試論』を翌11年2月出版の際に付録とした。今これについて詳述していけば、実に我々一人ひとりの生きていくべき命のみのりについて論究することにもなり、実に有り難いが、それだけで一書になるほどなので、ここでは出来ない。ただ要目に言及するに止めるのほかない。すなわち『新約聖書』の名句に、「われは途(ホドス)・真理(アレーティア)・生命(ツオーエー)なり、われによらないでは何人も父の御許にいたりえない」(ヨハネ伝福音書14・6)とあることは周知の通りである。おそらく聖書中屈指の名句の一に数えられるであろうが、これがクザーヌスの説教のモットーとされると共に、また彼の全学説を支持するものとまで見られる。しかしここでわたくしが特に留意したいのは、この説教のはじめに投げかけられる次のような句の意味するものである。
「今日はしかし真実の日 — 自ら浄化され、神聖性そのものであり、すべての過去のまた未来のに対して比較の出来ぬ日 — が輝きあらわれた。輝きあらわれた、わたくしは言う、何らの暗闇もなしに、かえってすべての暗闇を遠くに追い払いながら、また諸星の或る一つのようにではなくして、優越せる根源的な輝きにおける真の太陽そのもののように、— いな、その輝きにおけるのでもなくして、すべての感性的な眼には見えず、また内に如何なる暗闇も存しないところの無限の光そのものとしてである。
かの日がわれわれに輝きあらわれたのは、目的への途が我々に一層明白であらんが為であり、すべての虚偽が真理によって 放逐されんが為であり、死が生命によって一層死滅せんが為である、そうしてこれらは全く統一的ではあって多様的にではない。何となれば光そのものは途であり、真理であり、また生命であるからである」(前掲『哲学体系構成の二途 — プロティノース解釈試論』付録367—368頁)
この最後の「光そのものは途であり、真理であり、また生命である」という「光」の見方は、他方、力の宗教としてイスラム教徒もに今なお戦争の歴史につながる宗教観自体の革命ともなり得るであろう。戦争を闇といえば、平和は光である。平和の光が心を照らしていのちのみのりを各自各様に全うしていく「日日是好日」以外に、宗教的人生はなかろう。したがって人生の「途・真理・生命」がそこに統一する。尤もキリスト教はギリシャ哲学から基礎概念を借用するから、これら三概念の使用の由来を歴史的に遡って、「途」はヘラクレイトス(前535—475)に、「真理」はパルメニデース(前540—470)に、「生命」はプラトーン(前427—347)に帰せられる(同前404頁)。それに反して仏教の哲学的諸概念は仏教自身に基づくものであるが、念仏の三方面なる所求・所期・去行(浄土宗三祖記主禅師『選択伝弘決疑鈔』2)にも相応する。「所求」
の極楽浄土への途を精進せずしては、結局四苦八苦に終わるのみで、人生は全うし難く、それには「所期」の阿弥陀仏の本願にそう永遠の智・悲に照らされるのほかなく、「去行」の称名念仏こそは、この真理を生き抜く生命行なのである。したがってこうした所求・所期・去行を通じて生活の光におさまる。あくまで「般若波羅蜜(多)」に徹する龍樹(150—250)も、「慈悲は是れ仏道の根本なり。(中略)一切諸仏の法の中にて慈悲を大となす」(『大智度論』巻第27)といい、また
光明神力に下中上あり。(中略) 諸の三昧に入り、今世の功徳心力を以て、大光明を放ち、大神力を現ずるは上なり。是を以ての故に仏、三昧王三昧に入る」(同前、巻第7)という。
「三昧」とは梵音で、今それを詳説することになれば数百種にも及ぶほどで、ここでは到底できないが、西洋思想史上、最深の思想家に数えられるプロ―ティーノス(204―270)の著作集『エネアデス』全巻にわたり「光(フォース)」を説きながら、やはり西洋哲学史上はじめて主体概念を確立しただけあって、
「感覚へ散乱せずして、自己の同一点へ統一する」(第1編第4章第10)と力説する、その原語「シュンアゲスタイ」というギリシャ語をキリスト教最高の思想家に属するアウグスティヌス(354-430)が「コリゴ」とラテン語訳して、このエジプト人アウグスティヌス倫理の一中心概念となった。自己へ帰るという思想は彼がプロ―ティーノスから受けたものである。これも一つの三昧といえよう。いったいこうした三昧に入らずして、人生何一つ、ものになるものはなかろう。自己に帰らず、名利に迷えば、誰でもおしまいで、ただ名利に左右される使用人に終わるしかない。光るのはその名利に過ぎない。しかしここで「光」というのは、物の光ではなく、主体的な心の光である。唯物史観的社会革命も、やはり前者の域を出でないこと歴史の示す通りであり、これをさとらなければ自滅の外なかろう。現代の危機もそこにある。
「心経と茶歌」と題して述べるゆえんもそこにある。いずれもそうした主体的三昧に根ざす所は共通するのである。もとより仏教や茶道が企業なり政治などに類するところがもしあるならば、わたくしの全く関知しないものである。従来も何ら関知したことがない。かような類は精神文化として無価値と思うからである。いな、プラスにならないのみでなく、まさにマイナスである。そういう名利に左右される心があれば、書にもすぐあらわれて、もし斯様な書を床にかけた茶席に入った際、まず最初にその前に頭を下げるのでは、すなわち「南無する」のでは、(この梵語の原意は「曲る」、それで「頭を下げる」、「帰命する」という意味になる) 茶席の万事がまるで漫才のような事になりかねない。時にはそういう茶席もあろう。しかしさすがに、『茶歌』は、そこにとどめを刺して、「仙霊に通ず」と断じているのである。仙霊に通ずべき茶道に、名利の介入するすきはなかろう。あれば邪道に違いない。また『心経』にしても、梵本では劈頭「南無一切智」とある。一切智とは、いのちの根源の智慧のことで、したがって我々の生きられるおかげに頭を下げるところに、自然に展開するいのちの光が『心経』にほかならない。してみれば、「仙霊に通じた」茶道での心で、さも仏前献茶の思いのうちに、心経の心解が可能でなければならない。私がここで両者を併せ論ずるゆえんでもある。尤も『心経』の心は、こころではなく、心臓(梵語は「フリダヤ」)であり、心解の心はこころ(梵語は「シッタ」)である。かようにして、今後どうしても梵文の心経に取り組む必要も生ずる。