鎮西上人
応保2年(1162)5月6日~嘉禎4年(1238)2月29日
浄土宗二祖 聖光房弁長上人
幸いなるかな弁阿、血脈を白骨にとどめ口伝を耳底に納め、たしかに以て口に唱うる所は五万六万 まことに以て心に持つ所は四修三心なり
『聖光上人御法語』
前編
第一章 浄教に帰入
それおもんみれば、九品を宿とせんには称名を以て先となす。八池を棲(すみか)とせんには数遍(すへん)を以て基(もとい)となす。念仏とは昔の法蔵菩薩の大悲誓願のいかだ、今の弥陀覚王の広度衆生の船。これ則ち菩薩の利益衆生の約束、これ則ち如来の平等利生の誠言。もっとも憑(たの)もしきかな、ゆえに弟子、昔は天台の門流を酌んで円乗の法水に浴せしかども、今は浄土の金地(こんち)を望んで念仏の明月を翫(もてあそ)ぶ。ここを以て、四経三巻の明鏡をば相伝を証真に受く。三心五念の宝玉をば禀承を源空に伝う。幸いなるかな、弁阿血脈を白骨にとどめ、口伝を耳底(じてい)に納めて、たしかに以て口に唱うる所は五万六万、まことに以て心に持(たも)つ所は四修三心なり。これに依って自行を専らにするの時は口称の数遍を以てなし、正行となし、化他を勧むるの日は称名の多念を以て浄業と教う。
『末代念仏授手印』
第二章 衝動を棄て浄土に帰す
曇鸞・道綽の二師、像法の終わり末法の始めに出て、かたじけなくも釈尊の使者となって、特(ひと)り弥陀の教法を弘む。鈍根無智の我等、たとい聖道の根機に漏れて、即身に断惑すること能わずといえども、すでに念仏の法雨を降らす。誰れ人か甘露の妙味に潤わざらん。然れば則ち、先に聖道を学する人といえども、もし此の旨を知ることあらば、焉んぞ聖道を捨てて、浄土に帰せざらんや。
第三章 聖浄兼学の人
沙門某甲、昔聖道門を学せしの時、いささか彼の浄仏国土、成就衆生の義を習い伝え、今浄土門に入るの後、また此の選択本願念仏往生の義を相承す。二師(善導・法然)の相伝を以て聖教の諸文を見るに、その義、更に以て教文に違わず。ひとえに聖道門の人、ひとえに浄土門の人はこれを知るべからず。聖道浄土兼学の人これを知るべし。此の意を得てより一切の大乗経を披き、一切の大乗論を見るに、随喜の涙禁じ難し。此れ則ち聖教の源底なり、法門の奥義なり、仏菩薩の秘術なり。
第四章 阿弥陀仏の正意
阿弥陀仏は人に幸せを授け、寿命を延べ、官位を施し給うという様々の利益はみな是傍意なり。ただ是れ阿弥陀仏の正意は一切衆生を極楽浄土に往生せしめんと思しめすこそ此の仏の正意なり、本願にて候。阿弥陀仏の本願往生と申すは、いかなる人までも十方の衆生ただ名号を唱うる人、みな浄土へ迎え給うを念仏往生の本願とは申し候也。
第五章 念仏往生の願
阿弥陀仏の凡夫にて法蔵比丘と云われたまう時、世自在王仏と申す仏の御前にて四十八の大願を発したまう時、その四十八願の中に第十八願は念仏往生の大願なり。彼の念仏往生の願の意は、我れ仏に成りたらんに十方の衆生、我が浄土に生まれんと願じて、我が名を称えんに生ぜずと云わば、正覚を成ぜじと立てたまえるなり。此れを一切衆生念仏往生の本願と申すなり。
第六章 彼の仏の願に順ずるが故に
天台の学者円鏡房、円蔵房、巻柱の豎者、専修の行を訪う。先師、三箇国修行の時、彼の学者らに対して教えて云う、善導所釈の文字一つに習い入るなり。謂わく順彼仏願故の故の字是なり。念仏には順彼仏願故あり、これに翻ずるに余行には仏願に順ぜざるの故あり。乃至、光明の摂不摂、化仏の讃不讃、付属の有無、証誠の有無等、皆これ仏願に順ずると順ぜざるとの差別なりと説かるる時、三人みな一帰して毎日六万遍の念仏を請じ奉り畢んぬと。
第七章 末法の無智破壊の人
善導の御心は、世を云えば末法なり、人をいわば破戒なり、智恵を云わば極めて邪智なり。
人口には経を読み参ずれども、心には様々の妄想心を発す身に、修行をすれども心には憍慢あり。わずかに戒を持てども破れやすく、塵ばかりの智恵を以て人に倍(ま)したりと云う邪智を発す。されば法華経よりも生死を出で難く、真言よりも生死を出で難し。善導この旨を 悟り得て、末法に時を得、さて愚かなる無智の人々の機を得て、善導この旨を悟り得て、
かかる浅ましき者どもに、さて生死を得出でずして止むべき事かはとて、ただ深く阿弥陀仏の不思議の願力を信じて、念仏一脈になれと勧めたまえるなり。
第八章 真実心
弟子、弁阿弥陀仏よくよくもろもろの人々に皆心得させんが為、四句を作って末代に送る。内むなしく、外実なるこの人は往生にあらず。内が実に、外がむなしきは往生の人なり。内外ともに実なるは決定往生の人なり。内外ともにむなしきは此れ世間の罪人なり。善導所立の浄土宗の意は、この四句の中に第三、内外ともに実なる人を以て本意とす。内に真実往生の志深く、外には無間に念仏申す。これ真実一向専修の念仏者、決定往生の行者なり。
第九章 至誠心
第一に至誠心と申す文字をば訓に読むには、誠の心を至すと読むなり。偽(いつわ)る心は実の心にあらず、厳(かざ)る心は是れまた誠の心に非ず。誠の心と申すは慥(たし)かなる心を申すなり。誠の心と申すは空しからぬ心を申すなり。誠の心と申すは虚仮の心なきを申すなり。誠の心と申すは雑毒(ぞうどく)の心無きを申すなり。この雑毒虚仮の念仏が往生を得ざる念仏にて候。この雑毒虚仮の心なくして真実の心を以て申す念仏は一(いつ)も虚しき事は無し。まず雑毒虚仮の心無しという事を知りて是れを留むべし。是れを忌むべし。
第十章 雑毒虚仮の人
世間の人その心、偽りかざって誑惑の心持ちたる人侍るなり。かかる心たしかならぬ人の中に謀りごとを構ゆる様は、いざや世の中に不思議の念仏者と思われて、余の人にも勝れて貴く思われ、あるいは情けもある者とも思われなんなどとて、人目ばかりに道心あるように見えて、物の哀れなる気色にて隙もなく念仏申して、声をも貴げにいつくしくつくろい、振舞いも誠しく心にしめたる様に持てなして、その心中には邪見にして露ばかりも後世を思いたる事は更に無し。さればこの人の心中には虚仮にして徒ら事を思い、外の人目には貴く見えて侍るなり。かように謀り事を構ゆる人を誑惑の人と申し、偽りの人と申す。是れを雑毒とも是れを虚仮とも申す。
第十一章 深心
我は何ともあらばあれ、ただこの念仏の一脈(ひとすじ)を深く信じ取って、我が身はかかる浅ましくうたてしき身なれども、忝くおわす阿弥陀仏の本願に値い奉る。この念仏を申さば決定して往生すべしと思いとりて、更に念仏を疑わず、是れ則ち深く信に至って申す念仏なり。
第十二章 深き心
第二に深心とは深き心なり。この念仏は疑いなく決定して往生するぞと信を取って思い定むるなり。その故は阿弥陀仏の発しがたきを発し給える念仏往生の本願なるが故なり。但し究竟の智者たちの中にも疑いをなす人あり、それも道理なり。凡夫なるが故に、況や愚かなる無智の類いは疑いを成さん事うちまかせたる理と覚ゆ。但し念仏を習うと申すは法を習うなり。此の深心をだに習いとりぬれば、三心は自然に具すと習うなり。
第十三章 廻向発願心
第三に回向発願心とは、廻向という文字をば廻し向えとよむなり、発願と云う文字をば願い発すとよむなり。されば我がこの申したる念仏を以て極楽に往生せんと思う志は廻し向ける心もあり、往生を願う心もあり、故に是れを廻向発願心というなり。世の中の人、功徳善根を造って志、願い思い廻らすを回向発願心というなり。
第十四章 臨終正念往生極楽
大般若経・仁王経等を読み奉りて世の常の人は是れ世の中の殃(わざわ)い至らん事をも防ぎ、幸いならん事と思いて、後を祈る。後世の為には読む人更に無き事なり。熊野へ参詣し、三所へ参る人も大様は現世安穏の悦びを賜うらんと祈れども、後世菩提を祈る人は甚だ希なり。また念仏申せども斯様に願わば往生はし損ないつべきなり。いわゆる我が此の申し候念仏を以て阿弥陀仏、福をも賜わいおわしませ、また命をも延べさせ給え、幸せをもあらせ給えと願い志して、斯様に回向せば往生しそこないつべきなり。されば第三の回向発願心と申すは、かく申したらん念仏の功徳を以て、ただ一脈に臨終正念往生極楽と願い志せと云うを回向発願心と云うなり。
第十五章 回向発願心の能障
所修の念仏の行を以て、或いは自身の息災延命を願じ、或いは寿命長遠を願じ、或いは福徳を願じ、或いは勝他名聞を願じ、或いは恭敬供養の名聞を願じ、或いは所知所領を願ず。此の如き種種不定の所求の願は、是れ浄土の回向発願心の能障なり。
第十六章 決定往生せんと思う心
決定往生せんずるなりと思い取って申す念仏は、誠の心を至さんと教ゆる至誠心も此の心に納まりぬ。またこの阿弥陀仏の本願に疑いをなさず、決定往生すべきぞと思えと教ゆるに、深心も此の内に納まりぬ。第三の回向発願心も申したらん念仏を一脈に決定往生せんずるぞと願えと教ゆるに、回向発願心も此の内に納まるなり。明らかに知んぬ、決定往生せんと思い切って申す念仏に三心はみな納まるなりと云う事を。
第十七章 百人百生
此の三心を具足して申す念仏は、百人は百人ながら往生す。千人は千人ながら往生す。もし此の三身具足せずして申す人の念仏は、百人が中に一人も往生せず、千人が中に一人も往生せず。されば念仏申して往生せんと思わん人は、此の三心の所によくよく心を留めて見るべし。
第十八章 自然に三心を具す
よくよく極楽を欣い、よくよく阿弥陀仏を心に染めて申し居たる程に、自然に三心を具足するなり。無知の人の申すは、主は我が身に三心を具したることを知らねども、三心を知りたる人の、此の人に付き副いて見れば、夜はよもすがら(終夜)申し昼はひねもす(終日)に申す。近くよりて問えば此の人の申す様は相構えて此のたび往生せんと思い取りて、此の念仏を申し始めてより、更に怠ること片時も候わず。此の念仏を申しつけられて忘れがたく候なりと。斯く委しく物語するを聞くに、みなこの三心を学ばず倣わず、よくよく習いたる人に少しも劣らず。、此の人は是れ自然に三振を具したる人なりと。
第十九章 三心の具・不具
問う。善導の疏の如き三心とは至誠心・深心・回向発願心等と委しく以て之を釈す。もし爾らば有智の人は之を知るべし。無知の倫(ともがら)は之を知らず。若し知らずんば三心を具すべからず。三心を具せずんば往生を得べからず、いかん。
答う。師の曰く善導和尚の意は、決定往生の信心を発して、一向専修の念仏を行じ、偏に臨終正念を期して退転懈怠無き者は自然に三心を具するなり。経文釈文の意この趣を出でず。
然れば則ち善導所立の一向専修は広大慈悲の支度を構え、正義正理の方便を設け、末代愚鈍の衆生に与えたまえる決定往生の要法なり。
第二十章 安心と起行の疑い
安心疑心と云うは、念仏ばかりにては往生ほどの大事をば如何遂ぐべき。わずかなる六字の名号の童部(わらわべ)までも是れを知らぬはなし。智者学匠めでたき人々こそ往生はせんずれと疑う。是れ往生せぬ疑心なり。是れを安心の疑いと云うなり。次に起行の疑心と云うは、念仏は決定往生の行なりと信じての上に、凡夫なれば我が身の悪きについて疑うなり。疑と云うとも、日行をば欠かさず、随分の止悪修善をも励みて願力を頼めば往生するなり。また是れについて往生せざるあり。我が身の悪きについて身を疑うほどに、やがて行に遠ざかりて、随分の悪をも止めず、往生の心も薄くなりて、厭心(えんしん)も疎なれば、此れ疑いて往生せぬなり。
第二十一章 信心厚き人
誠に往生の志深く信心厚き人は、必ず此の一生に於いて正助二行を専修し、四修に之を修し、命終の時に臨んで阿弥陀、観音の来迎を待ち、志を浄土に運ぶ。此の人を以て専修信心の行人となし、四修三心五念門具足の人となし、此の人を以て如法如説・勇猛精進の行者となし、此の人を以て決定往生の念仏者となす。
第二十二章 心と行
行は必ず心が勧むるなり。行が心を勧むるを知るべし。南無阿弥陀仏と申す時、心を勧むる様は、これは往生せん為なりと思いて、心をなおすなり。心が行を励ますことを知るべし。行が心を励ますこともあり。一向に言うが悪きなり。心が心を勧め、心が行を勧め、行が行を勧め、行が心を勧むるなり。
第二十三章 五種正行
読誦正行のこと。広く通じては三部経を読誦すべし。別しては略して阿弥陀経を読誦すべし。之に依りて上人在生の時、阿弥陀経を長日に三巻これを誦しませり。
観察正行のこと。行者の根機に依りて観門の広略を行ずべし。もし観経に依らば十三観を用うべし。もし観念法門に依らば総想別想の二観を用うべし。もし恵心先徳の往生要集に依らば略して三種の観の中の一観を以て之を用うべし。其の意趣、行者の志にまかす。
礼拝正行のこと。礼拝に上中下あり。行者の根機に依るべし。但し多分は下根の礼これを用うべし。昔上人在世の御時、予に示して云わく、宇治の辺に住せる行者あり、坐(い)ながら礼拝を修して、終に以て往生を得おわんぬと。
口称正行のこと。心には往生の念(おも)いを志し口には南無阿弥陀仏と称す。
讃歎供養正行のこと。もしは二行となすべきか。一つには讃歎正行、二つには供養正行。凡そ五種正行是の如し。但し一人して具さに五種を行じ、もしは一種二種もしは三種四種、行者の根機に依るべし。
第二十四章 往生の正業
正業とし奉る心は、平等の功徳となるが故なり。平等の功徳と申すは、南無阿弥陀仏と申すことは如何なる人の口にも唱えらるる事なり。いわゆる貴き人の口にも貧しき人の口にも、智恵ある人の口にも智恵なき人の口にも、徳ある人の口にも貧窮の人の口にも、幼き人の口にも年老いの人の口にも、幸せある人の口にも幸せなき人の口にも、誠にかかる目出度きと侍りて、普く諸々の万人を極楽に導き渡す、功徳善根の普く衆生を利益し度することは、ただ此の念仏なり。故に往生の正業と申すなり。
第二十五章 念仏の助業
助行にまた四つあり。一つには三部経を読誦す。此れは経を読まんには浄土三部経を読んで念仏を助くべし。三部経を読むは念仏を助くる要業となる。浄土の三部経ならぬ余経を読むは念仏の要とならず。故に浄土の三部経を読むを念仏の助業と云うなり。二つには阿弥陀仏を観念す。此れは阿弥陀仏の極楽を観念するに、念仏を助くる要となる。余の観は念仏の要とならず。故に阿弥陀仏を観念すれば、念仏の助業となると云うなり。三つには阿弥陀仏を礼拝す。此れは阿弥陀仏を礼拝し奉れば念仏の助業となるなり。余の仏を礼し奉れば念仏の助業とならず、故に阿弥陀仏を礼拝し奉れば念仏の助業となると云うなり。四つには阿弥陀仏を讃歎し供養す。此れは阿弥陀仏を讃歎供養し奉れば念仏の助業となり、余の仏を讃歎供養し奉ればん念仏の助業とならず。故に一脈(ひとすじ)に阿弥陀仏を讃歎供養し奉るを以て念仏の助業と云うなり。上件の四行これを念仏の助業と云うなり。
第二十六章 恭敬修
第一に恭敬修とは、先ず念仏とは本尊持経をもうけて貴く道場を荘厳して、その中に於いて東向きに阿弥陀仏を置き奉り、香花燈明、時の菓子を備え、我が身手を洗浴し、口をすすぎ、袈裟衣を着すべし。もし男女は新しき衣を着、もし汚れて不浄に覚えたる着物をば着すべからず。さて道場に入りて仏を見まいらせて畏まりて、もしは手を合掌し、もしは香炉を取り、もしは念珠を持ち、もしは持たずとも申さん念仏は是れ恭敬修の念仏なり。また道場に入らずとも、ただ手を洗いうがいなんどして、西に向かいて申す念仏は是れも恭敬修なり。
またのたまわく、恭敬修とは極楽の三宝を恭敬し、あるいは娑婆の住持の三宝を恭敬す。娑婆の住持の三宝とは、一つには仏宝とは木像画像の阿弥陀、本尊是れなり。二つには法宝とは黄紙朱軸の浄土三部経、持経是れなり。三つには僧宝とは念仏修行の好伴同行なり。善知識是れなり。
さらにまた恭敬修。または慇重修と名づく、憍慢の心を対治す。礼讃に曰く、彼の仏及び彼の一切の聖衆等を恭敬し礼拝す。西方要決に恭敬修に五つあり。一には有縁の聖人を敬う。行住坐臥に西方に背かざれ。二つには有縁の像経を敬う。一仏二菩薩の像を造り尊経を抄写して恒に浄室に置く。三には有縁の知識を敬う。浄土の教えを宣(のぶ)る人。四には同伴を敬う。同修行の者。五には住持の三宝を敬う。今の浅識のために大の因縁となる。
第二十七章 無余修
第二に無余修とは、ただ一脈(ひとすじ)に彼の阿弥陀仏の御名ばかりを唱え参らせて、余の行い勤めを為さざるなり。是れを名づけて無余修と云う、また専修とも云うなり。
またのたまわく、一向専修にして雑行無きを名づけて無余修となすなり。さらに無余修。雑起の心を対治す、是れ疑慮不定の心なり。礼讃に云わく、専ら彼の仏の名を称し、専ら念じ専ら想い専ら礼し専ら讃じて余業を雑えざれ。西方要決に云わく、専ら極楽を求めて弥陀を礼念す。但し諸余の業行をば雑起せしめざれ。
第二十八章 無間修
第三に無間修とは、隙間なく念仏を修するなり。また阿弥陀仏に於て隙間なく仕え奉るなり。或いは香花をまいらせて、阿弥陀経をも見奉り、念仏申して正行助行隙間なく修する、是れを無間修と云うなり。故法然上人の仰せられ候いしは、この無間修が四修の中によくよく念仏を勧めたる修(おさめ)にてあと仰せ候なり。よくよく此の行に心を留むべきなり。念仏を構えて構え多からんに申せなんんどと勧むるは、此の無間修の心なり。一万三万六万辺ならんと勧むるはみな是れ無間修の心なり。是れを云われたる心なり。またのたまわく、念々相続して正助二行を修するを無間修と名づくるなり。
さらに無間修。懶惰懈怠の心を対治す、是れ勇猛精進の心なり。礼讃に云わく、相続して恭敬し礼拝し称名し讃歎し憶念し観察し廻向し発願し、心々相続して余業を以て来たし間じえざれ。西方要決に云わく、常に念仏して往生の心を作せ。一切の時に於いて心恒に想巧(おもいたくす)べし。このゆえに精懃(しょうごん)にして倦(ものう)かざれ。当に仏恩を念じて、報いの尽くるを期となして、心に恒に計念すべし。
第二十九章 長短の無間修
無間修をあしざまに云う人あり。いわゆる凡夫はいかでか此の無間修を修せん。その故は隙間なく申すと云わば、夜は寝ることあり、昼は大小便利、或いは物を食らい、細々の用事どもあり、斯様の凡夫の身には、如何が此の無間修を修すべしと云う人あり。それは安きことを僻める人の僻様に云う事なり。無間修に長短の二つあり。十返の内にも無間の心あり、二十返の内にも無間のことわりあり。或いは一万返の内にも無間のことわりあり。況や二万三万返の内に於ておや。故に十返は短の無間、二十返は長の無間。一万返は短の無間、二万返は長の無間なり。是れを無間修と云うなり。
第三十章 長時修
第四に長時修とは極楽に生れんと願うて、先に明かす所の恭敬修・無余修・無間修、此の三修を命を畢(おわ)るまで修して、長く捨てずして往生する、是れを長時修と云うなり。此の長時修を念仏について心得る様は、我れ極楽に生れんと願じて念仏を三万二てもあれ六万にてもあれ、始めて申すに死ぬるまで念仏を申して、更に怠らず申すは是れ長時修なり。
またのたまわく、正助二行に於いて発心よりこのかた、畢命を期となして誓いて中止せず。即ち是れ長時修なり。
さらに長時修。退転流動の心を対治す。礼讃に云わく、畢命を期となして誓って中止せざるは、即ち是れ長時修なり。西方要決に云わく、初発心より乃ち菩提に至るまで恒に浄因を作して終に退転することなし。私に云わく、余行に准望(じゅんもう)して此の文意を得るに、誓って中止せざれとは、本尊並びに三宝を勧請し奉り、その宝前に於いて香華を弁備し、大誓願を発して往生の行業を始むべきなり。畢命を期となしてこの行に於いては永く以て退転すべからず。もし此の旨に違せば永く以て三宝の冥助を蒙らず地獄の薪とならんと。
第三十一章 畢命を期となす
もし三万六万も念仏を始めて、一月二月も申して、その後は打ち捨てて、一年も二年も念仏を申して、その後は打ち捨つる、長時修にあらず。善導和尚この長時修を釈したまう様は、畢命を期となして、誓って中止せず、即ち是れ長時修なりと。此の文の意はもしは念仏にてもあれ、もしは礼拝にしてもあれ、何れにてもあれ、往生極楽の勤めをし始むる時、本尊の御前にて大いに誓いを立てよ。いわゆる此の念仏もしは勧め、今日の只今始め候、命終わるまで此の念仏、此の勤めをば、し候べきなり。今日より後、いのち終わらざる先、その中に更に怠るべからずと、我が本尊に能々此の事を証せさせ給えと、かくの如く、本尊に懸け奉りて誓を成ずべし。もし此の旨を背きて三万六万を始めて遂げずして、念仏も申さずして、空しく徒らに候ものならば、本尊の愍みを蒙らず、もろもろの仏法守護の夜叉鬼神の御罸を厚く深く蒙るべし。此の誓を立つべし。是れは我が心ながら、我が心の強くなり候なり。
後編
第一章 尋常行儀
尋常行儀とは、尋常という文字をば世の常とよむなり。是れ則ち先に注し申す長時修の行なり。世の常の行と申すは、毎日念仏を一万二万五万六万とも申すを、怠らず申す念仏は是れ尋常の念仏とも云い、または長時の念仏とも云う。又は日料とも云う。是れ則ち尋常念仏と申すなり。
第二章 尋常行儀の三種
弁阿が義は尋常に三種あり。一つには道場に入らず浄衣を着せず、日を限らず、時を限らず、行住坐臥を簡(えら)ばず、時処諸縁を論ぜず、世の中の男女僧尼の日料の念仏三万六万申す、是れなり。二つには三万六万尋常に申し居たる人が、別時の念仏申さうれと云いて、道場を洗い浄め、我が身を清浄にして、一日も七日も余言を交えず、不断に南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と教の如く説の如く申す、是れは尋常の中の別時なり。また一度する人もあり、二度(たび)する人もあり、三度する人もあり、人に随いて替わるなり。また日別にする人もあり。三つには発心より已来(このかた)、命終わるまで月に一度別時する人もあり。此(かく)たるの如くして死するまで月に一度の別時をし、いたる人もあり、また日に一度時を定めて何時にてもし、いたる人もあり、或いはまた一年に一度する人もあり、正五九月に三度する人もあり。尋常の念仏日料のほかにかかる別時する人もあり。これぞ善導の或いは一生を尽しての文の心なり。また相続無間に一期する人もあり、最上根の人なり。
第三章 別時行儀
別時の念仏と申すは、新しく道場を荘厳し、古くあらば洗い浄め、さて目出度く荘(かざ)れ、もしは香花(こうげ)をまいらせて貴くもてなしてまいらせよ。さて我が身は湯水を浴びて新しきものを着し、古からんをば洗い清めて道場に入りて、もしは一日二日三日四日五日六日七日が間、かきこもりて申すべし。
さて志し思わんことは構えて験(しる)し一つ行い出(いだ)さんと思うべし。験しと申すは、もしは仏を見まいらせんと、もしは異香光明かようの目出たからん験し一つ見ばや聞かばやと、思うべし。もし左様の不思議を行い出したらんには、荒量(こうりょう)の人の聞くに語るべからず。もしは注しておくべし。もしは貴からん人には語るべし。それとも口しどけなからん人には語るべからず。同じく念仏申して極楽に生れんと志あらん人には語るべし。同じ流れならぬ人はかかる目出度き事をもあしざまに申し成し候なり。志を至して申すこそ実(まこと)しく、是れを別時念仏と申し候。
第四章 別時念仏の機
尋ねて云う。別時念仏の機とはいかなる機ぞや。答う。念仏は是れ見仏三昧を期と為す。しかるに遅く見え給うが故に、疾く見奉るは是れ見仏三昧の頓機のために之を説くなり。頓機之を受くるなり。尋常の機は漸機なり。また尋ねて云う。尋常の念仏者も別時の念仏を兼ねて之を行ずべきか。答う。爾るべきなり。尋ねて云う。兼ぬる意いかん。答う。頓頓に仏を見奉らんが為なり。急急に法が成就する故なり。また尋ねて云う。此の義の如くならば、尋常の念仏者は仏をえ見奉らぬか。答う。仏を見奉るなり。然りといえども、別時の機に対すれば漸機の見仏なり。無想になる時、仏を見奉るなり。尋常の行者も念仏し居たるほどに、無想に心が成り立る時、仏の見え給うなり。有想の時は見奉らざるなり。
第五章 臨終行儀
臨終行儀と申すは、幡を懸け火を燃やし、よき名香を焼(た)き、本尊を東に向け懸けまいらせ、善知識をかたわらにすえて、一々に善知識の教えを違えぬなり。魚鳥にらき酒、斯様の臭きものをば病人のほとりに近づけず、日ごろ、おしかる妻子、もしは夫、もしは孫、斯様の愛執深きものをば、その貌形(かたち)をだに見せず、音をも聞かせず、善知識小音に念仏を申して声を静かならしめて、鐘うって事静かに持(たも)ち成して、ただ浄土の法門貴く目出たからんを説き聞かすべし。世間の田畠、世の中のよき事、悪しき事をば露塵ばかりも、病人に聞かすべからず。もし病人この世間の事を聞き釣れば、心留まりて永く往生の心を失いて生死に留まりて、悪道に堕するなり。故に是れを臨終行儀と云うなり。
第六章 臨終の行相
臨終の行相とは念仏の行者は西に向かい、極楽の仏は行者の前に来たり給う。之に依りて念仏の行者は、我を迎えんが為に仏来たり給えり、我決定して往生すべしと西に向かい本尊を敬い、本尊は西にまします、我は仏に従いて西に往くと思いて、声を絶やさず無間に相続して申すべきなり。
第七章 臨終の相
聖光上人臨終用意に云う。念仏者の行者臨終の時をかねてより最も用心すべきなり。最後臨終の一念に生処(しょうしょ)の善悪をさだむ。もし悪念を起こして顛倒すれば悪道に堕す。此のたび往生を遂げずんば又いつをか期せんや。故にもろこしの善導和尚・道綽禅師等の往生の先達みな臨終の用心を示し給えり。和尚のいわく、ただちに気消え、いのち尽き、識、冥界(みょうかい)に至るを待ちて、まさに始めて念仏し鐘を鳴らすこと、恰も賊去りて門を閉ざすが如し。何事をかなさん。
およそ臨終の善悪は執愛の有無による。此の執愛ことさらに束(そく)してこれをいえば、三つに過ぎず。一つに境界愛(きょうがいあい)とは男女・子息・夫婦・縁友・処居・住宅・金銀財宝これらの境界に於いて、愛執を起こせば出離をさまたぐるなり。たとえば鉄の縄を腰にまといて、解きがたく切りがたきが如し。二つに自体愛とはその身の器量・学問・才能・官禄・名門・肌膚・容貌等その品(ほん)にしたがい、その分に応じて、己が身に愛執を起こさば出離をさまたぐるなり。たとえば巌をいだいて淵に入るが如し。三つに当生愛とは命終わりて後、生まるべき所を愛するなり。もし堕獄する人も、はじめは地獄と思わずして蓮花池の思いをなして、愛をおこして直ちに赴くと。
往生を願う人は平生あらかじめ、愛執を厭い粗著心(そじゃくしん)を離るべし。愛執の深きは厭離の心なくして、欣求の心弱き故なり。厭欣の心強ければ、自ずから死をおそれざるなり。死をおそれざれば臨終顛倒せず。顛倒せざれば往生の素懐を遂ぐべし。その生因(しょういん)をたずぬれば、弥陀本願の力をたのみ、口称の一行を修するばかりなり。これ易行易修にして凡夫出離の要路、これに過ぎたる無し。かくの如く欣求進修すれば、自然に愛執を離れ、任運に業障を除滅して、仏の迎接に預かり臨終正念にして、彼の国に生まるること疑いなきものなり。
第八章 臨終の念仏
善知識は極楽浄土の法門をよく知り、阿弥陀仏の本願の功能(くのう)をよく知り、病者の病の軽重浅深をよく知れるものなり。これに依りて善知識案じて云う、この人の命は一日の内には死なじ。また一日の内、辰の時に値(あ)いたる人ならば、申酉(さるとり)の時にも死すべし。夜に入らば死すべし。半時一時にも死すべしと思わんには、浄土の法門を説き聞かせ、念仏の功能(くのう)を説き聞かすべし。もし只今と思わん時は、善知識、病者の二つの手を取り合掌し、叉して西方を拝ませ、只今、仏来たり給うと思えと教え、万事を抛(なげう)ちて南無阿弥陀仏申せと教えて、念仏一返に金一つ、また只今ならずして、今一時二時もありと思わんには、西方極楽浄土の教主阿弥陀仏は大願を発し給えり、もし我、極楽に生れんと思わば、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と十返申せと仰せられたり。
第九章 臨終の善知識
凡夫と云うは是れ時に随い物に随い、その心、転変散乱するなり。これに依りて朝(あした)に思う事は夕べに違い、夕べに思う事は朝に違う。もっともこれを用うべし。たとい日ごろは往生を期すれども、重病に沈み苦に逼(せ)めらるる時は、先念忘失して後念顛倒せん。その時、善知識を用いて退屈の心を勧むべきなり。これ則ち存生(ぞんしょう)の思いと最後の思いと相違すればなり。もっとも善知識を用うべきなり。
第十章 尋常と別時
善導の釈を見るに、尋常の行儀を正とす。別時の行儀は傍行(ぼうぎょう)なり。その故は別時の行儀は難行なり。尋常の行儀は易行なり。難行とは衣服は清浄の衣服なり、身は清浄の身なり、食は長斎なり。道場に入りて余言無く念仏申し、睡眠せずして念仏申す。皆これ難行なり。尋常の行儀は浄不浄を簡(えら)ばず、行住坐臥を簡ばず、時処所縁を論ぜず、故に易行なり。故に易行を以て正と為す。
第十一 念仏の機は区々
念仏の一門に約してもその機区々(まちまち)にして一種にあらず。或いは別時の力を打ち捨てて、これを以て往生を待ち至るもあらんずるぞ。或いは別時念仏の機もあり、尋常念仏の機もあり、臨終念仏の機もあり。これら皆往生す。これに依りて諸教諸経に明かす所の念仏の機、この三つを出でず。これに依りて尋常念仏の機、臨終念仏の機の意を以て別時念仏の機を難ずべからず。
第十二 念仏の数多きを勧む
先ず千万の人には故法然上人の御房はただよくよく心に入れて念仏申せ、男女は一万二万返、その外は三万五万申さんずるは沙汰にも及ばず。尼や法師は何ぞ甲斐なく様を替え、尼や法師になりたるしるしに、少なからんは定んで三万返、その外は五万六万返、これ程など申さんずるはまた云うにも及ばず。世に殊勝なることなり。かように念仏の数多く勧めおわしましき。我が御身にも日々の所作は七万返怠ることなく、申し給いしことにて候なり。
第十三 五種増上縁
滅罪増上縁とは下品上生の人を説いて、一念に五十億劫の罪を滅すと説き、下品下生には一念に八十億劫の罪を滅すと説けり。すでに滅罪の多少を論ずる時、念仏のみ此の滅罪あって、余行は爾(し)からざるなり。
護念増上縁とは念仏の行者は仏意に相応して、所化が能化別異の悲願に相応するという時は、殊にその護念が深きなり。
見仏三昧増上縁とは念仏と云うは、所期が見仏にてある故なり。これに依りて存生(ぞんしょう)の時、見奉ざる者は臨終の時、来迎の仏を見奉るぞかし。
摂生増上縁とは引摂(いんじょう)衆生の増上縁なり。仏、娑婆に来たり行者を迎えて極楽に帰り給うが故に引接衆生増上縁なり。娑婆と極楽との間のことなり。
証生(しょうしょう)増上縁とは極楽に往生し終り、仏、引接し終わりて思いなく極楽に安堵し給うなり。
第十四 仏の名と体
仏に名体(みょうたい)と云う法門あり。名とは南無阿弥陀仏なり。体とは三十二相の体なり。仏体を見んと欲する者は、仏名を聞きて仏名を行じ体を念じて見るべきなり。例せば人の名を呼んで、人の形を見るが如し。故に七日の別時念仏と云うは七日の間、口には仏名を呼び奉り、意(こころ)には仏体を見奉らんと思うなり。これ名を念じ体を念ずるなり。
第十五 仏の見参に入る
徒(いたず)らに夜を明かし徒らに日を闇(くら)し、空しく月を過ごし空しく年を運ぶ。後生に於いて一分もその憑(たの)みなし。何に依りてか仏の憐れみを蒙らん。その故は夜六時に於いて枕を傾くると雖も、一時も起きることなし。日(ひる)六時に於いて妄語綺語無益のことを談ずといえども、一称南無の言無し。かくの如き人をば阿弥陀仏、我が為に信ある人と何ぞこれを照見し給うべきや。ただ仏も此の人をば我が為に信心無きの人とこれを見給うべし。我が為に奉公無きの者なりとこれを見給うべし。是の人はこれ自身の為にも無慚無愧の人と為すべきなり。また衆生の為にも慈悲なきの人なり。これを自損損他となするなり。甚だ畏るべし、甚だ疎んずべきなり。其の数遍の人は一称南無の度ごとに阿弥陀仏の見参に入る。
三万六万などの人は一日の内に三万六万度(たび)、阿弥陀仏の見参に入るなり。一念の行は全く以て然らざるなり。また一念の人は信心深きが故に、数遍を申さず、数遍の人は信心浅きが故に一念を信ぜず、数遍を申すと云うこと甚だ以てその謂われなし。仏語を信ずる故に、数遍申すなり。
第十六 念仏者の大切なること
これこそ念仏者の大切なることよ。是れをよく習うべき事にて候。一切の行は所期を思い詰めてこそ行ずれ。ひとことに何とも思わで念仏申すは悪しきなり。念仏三昧発得せんこそ所期なれ。
第十七 見仏の種々相
発得は一種にあらず。現前一種にあらず、種々なり。或いは弥陀仏を見奉りて、極楽を見ざる発得もあるべし。或いは極楽を見て仏を見奉らざる発得もあるべし。或いは依正(えしょう)ともに見るものもあるべし。雙巻経(無量寿経)の三輩の下の文の如きは夢に見ると云えり。華厳経にはまた光明を放つを見仏と名づくと云えり。光明を見るもあるべし、紫雲を見るもあるべし、極楽の樹林池蓮華梟雁鴛鴦(ぶがんおんおう-ふくろう・がん・おしどり)異香みな阿弥陀仏の所変なり。さればみな見仏なり。願成就せば、よも後世は悪しからじ。千日別時の時、未申(ひつじさる)の方に常に香をかぐとありしなり。
第十八 定散ともに見仏
善導和尚の御意は、定散ともに見仏を以て行者の所期と為す。但し行に遅速あり。散心念仏専修の行は遅く仏を見奉るが故に、疾く見ん料にゆかしき故に此れを用ゆるなり。然(し)か云うて、散心の念仏は見仏の望みを絶するには非ず。散心の行も南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と口称の一行、これを励む間、総想に見仏の想いあるが故に、行もし成就すれば必ず仏を見奉るなり。行を以て心を勧る意なり。念々に見仏の想いをなすは、是れ心を以て行を勧むるなり。総じて何れの行も、行を以て心を勧め、心を以て行を勧むるなり。
第十九 念仏三昧は見仏
念仏三昧とは本願、もと見仏を以て所期と為すが故に、口に名号を称え、必ず仏を見奉らんと大誓願を起こす。これ則ち不離仏・値遇仏の義なり。彼の真位の菩薩の浄仏国土の時の不離仏・値遇仏は此れは是れ菩薩深いの念仏なり。凡夫の行有人は仏名を称念して、或いは見仏を期(ご)し、或いは護念を期し、或いは来迎を期し、或いは往生を期す。これに依りて人能く仏を念ずれば、仏還りて念じたもうの故に、既に冥に護持を得ることあり。即見真金功徳身の故にまた現身に仏を見奉る。一念乗華到仏会の故にまた当来の勝利あり。しかのみならず、阿弥陀経の中の如きは六方諸仏の護念あり。これ則ち不離仏・値遇仏の義なり。此れは是れ凡夫浅位の念仏なり。
第二十 念仏行者の所期は見仏三昧
口称名号の念仏行者の所期は、見仏三昧を以て所期とすべし。その故は口称念仏の成就不成就は三昧発得を以て現身念仏の成就と云う。成就とは見仏なり。これに依りて別時念仏と云うは、南無阿弥陀仏と云う称名は是れ行なり。弥陀の本願なり。仏の三十二相の姿を現わし給うことは、行者の志、念ずる所の所期なり。行者現身に三昧発得して証を取らんがために、七日の別時念仏をはじめ、不浄をとどめ散乱を止めて清浄の心に住し、入定の方軌を以て、心に思う所は余念なく見仏、見仏せんとなり。口には余言無く南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏なり。
第二十一 教の如く念仏修行
そもそも教の如く説の如く念仏を修行して、仏を見奉るは浄土宗の意(こころ)なり。教とは善導の教えなり、行とは専修の行なり。此の念仏の行を修するには三心を具し、見仏を以て行者の所期として、善導の教えの如く、道場内には余言無く余念無く、見仏の一念を立てて無間に相続して、これを修せよと云う、是れ教なり。かくの如く教の如く説の如く修する人は、必ず行成就して仏を見奉るなり。是れ釈尊の教えに相応し、弥陀の本願の教えに相応し、善導の教えに相応するなり。これに依りて仏を見奉るなり。
第二十二 不離仏・値遇仏
問うて曰く、念仏三昧とは何の義ぞや。
答えて曰く、念仏三昧とは是れ不離仏の義なり。
問うて曰く、不離仏とは何の義ぞや。
答えて曰く、不離仏とは値遇仏の義なり。
問うて曰く、値遇仏とは何の義ぞや。
答えて曰く、値遇仏とは因地下位(いんじげい)の菩薩は必ず果地上位(かじじょうい)の如来に値遇して、刹那片時も仏を遠離すべからずること、譬えば嬰児の母を離れざるが如し。
問うて曰く、菩薩、仏を離れざることは何の要ありや。
答えて曰く、下位の菩薩は必ず上聖の加護を被るが故なり。
第二十三 不離仏・値遇仏と浄仏国土
問うて曰く、この文の初めに念仏と言うは何らの義ぞやと問うて、答えに不離仏の義なり値遇仏の義なりと言うて、此の二義を以て念仏の義を答え畢(おわ)んぬ。然るに今斯くの如き等の問答は、偏に是れ菩薩浄仏国土・成就衆生の義なり。未だ念仏の義を顕わさず、如何。
答えて曰く、今この造書(徹選択集下巻)の意趣、浄仏国土・成就衆生の義を問答することは念仏三昧の至極甚深の義を顕わさんが為なり。所以(ゆえ)は何となれば、菩薩は仏に遇わずんば、浄仏国土の行を知らず。菩薩、常に仏に遇うが故によく浄仏国土の行を知る。仏が(※)離れざるが故に、仏を忘れざるなり。仏に値遇するが故に、常に仏を念ずるなり。この故に菩薩の浄仏国土の行を以て、甚深の念仏三昧と名づくるなり。 (※)注:原文は「仏に」
第二十四 念仏行者もっとも殊勝
我等無始より生死に輪廻す。この度念仏に遇いて往生を得べし。此れは是れ上上人なり。最勝人なり、好人なり、妙好人なり。また観音勢至の二尊、朋友知識と為りて影護(ようご)を垂れ、増上の勝縁となりて行者を離れず。この現益を思うに、念仏行者もっとも殊勝なり。
第二十五 念仏の利益
常に念仏すれば種々の功徳の利を得。譬えば大臣の特に恩寵を蒙りて、常に其の主を念ずるが如く、菩薩もまた是(かく)の如し。種々の功徳、無量の智慧、みな仏に従いて得ることを知る。恩重きを知るが故に、常に仏を念ず。
第二十六 念死念仏
先師(聖光上人)の如く、経論の中に六念八念九念を明かすといえども、我が如くはただ念死念仏の二念にありと、教示せられ候いき。此の一言千念よりも重し。実(まこと)に此の二念を常に思わんに過ぎたる事あるべからず。念死と云うは終に遁(まぬが)れぬ死を思いて、出る息、入らんことを憑(たの)まざるなり。念仏と云うは仏の御力と憑(たの)もしきを思い出でて、最後の引接を待つべきなり。北芒(ほくぼう)の露の何れの日か消えん、西土(さいど)の台その時を期す。
第二十七 死の一字・死期の近き
聖光上人曰く八万の法門は死の一字を説く。然らばすなわち、死を忘れざれば八万の法門を自然に心得たるものにあるなり。
また曰く、日ごろ随分に後世を思うさまなるものの行業など退転することあらば、死期の近ずきたると思うべきなり。
第二十八 仏祖の御報謝
日々の念仏御相続候が、仏祖の御報謝にて候。此の外に別義なく候。六親万霊は平等施一切等と御回向候時は、弥陀如来の御助けに預かり候と、経に説きたまい候。
第二十九 念仏行者の住所
常の述懐には、人ごとに閑居の所をば、高野・粉河と申しあえども、我が身には、あかつきの寝ざめの床に如かずとぞ思うと。又安心起行の要は、念死念仏に在りてとて、常のことわざには、いずる息、入る息を待たず、入る息、出る息を待たず、助け給え阿弥陀仏、南無阿弥陀仏とぞ申されける。
第三十 先師報恩と念仏興隆
然りと雖も(法然)上人往生の後には其の義を水火に諍位、其の論を蘭菊に致して還って念仏の行を失いて空しく浄土の業を廃す。悲しき哉や、悲しき哉や、いかんがせん、いかんがせん。ここに貧道(聖光上人)齢すでに七旬に及んで余命また幾ばくならず。悩(なげ)かずばあるべからず、愁えずば空しく止みなん。これに依りて肥州(ひしゅう)白川河の辺、往生院の内に於いて二十有の衆徒を結び、四十八の日夜を限りて別時の浄業を修し如法の念仏を勤む。此の間に於いていたずらに称名の行を失することを悩(なげ)き、空しく正行の勤めの廃しぬることを悲しんで、且つは然師報恩のため、且つは念仏興隆の為に、弟子が昔の聞きに任せ沙門が相伝に依りて之を録(しる)してとどめて向後に贈る。よって末代の疑いを決せんが為、未来の証に備えんが為、朱印を以て証となし筆記するところ、左の如し。
第三十一 一切の人々を助く
弟子弁阿弥陀仏は、故法然上人より此(かく)の如き種々に念仏の法門を受け伝えて候なり。日本国の一切の人々を助けたてまつらんが為に、年(よわい)七旬になりて最後の化導と存じて、わななくわななく注し置き候なり。実(まこと)しく往生を願い給わん人々は、様、風流なく、ただ心に極楽を欣(ねが)い、口に南無阿弥陀仏と申して、悪しからん業をなさんをば随い給うべからず。あなかしこ、あなかしこ。
浄土宗鎮西派勤行式
阿弥陀経
無量寿経 歎仏頌
無量寿経 光明歎徳章