無二(堂)

無二会 龍飛水先生編 『自然のくらし』(空外上人語録76)自分が自分を拝む より抜粋

 ナムアミダブツとは、自分とアミダさまがひとつになることです。生きている間は悪いこともするけれども、死んだ後は極楽へ迎え下さいというのは二つになってしまっている、わたくしとアミダさまが二つになっている。

手も足も酷使すると、けがをしたり病気になったりして却って困る。人間は一つになるということほど大事なことはありません。字を書くのも、筆が私そのものになると自在に書けるようになります。格好の良い字を書いてやろうなどと思うと、自分と筆とが別々になって字は書けない。紙とも一つでなければなりません。

人間はなぜ困ったことになるかというと、二つになっているからです二つになっているから、人様はどうでもいいとお互いに自分勝手をする。何事でも一つにならなければ本物の仕事はできません。一つになるのは良いことです。悪口を言われて情けないとか癪に障ると、言われた悪口と自分が二つになって腹が立つ、ぐっすりと眠られない。そうすると寝不足で翌日仕事をしくじったりします。言われた悪口と一つになると悪口の意味がよく解り悪口を言われたのが十のマイナスでも参考にすれば二十も三十ものプラスになる

病気をつまらない、情けないといって病気と自分が二つになるかえって治りにくくなります病気と一つになるとは、病気をしなければわからないことをサトルことです食べてはいけないものを食べたとか、食べ過ぎたとか、もう少し気をつければよかったということが解ると将来参考に出来ます。一つになるとは、マイナスを最小限度にしてプラスを最大限度にすることです。病気をしたのは取り返しがつきませんが、早く治るように心掛ける。マイナスを最小限度にすると、今度からそういう不注意をしませんからプラスになる。人さまに参考にしてもらうことも、子供に教えることも出来ます。

病気になっても、悪口を言われてもいつ何に出会っても自分なりに活かすそうすると、中身のマイナスを最小限度に、プラスを最大限度に出来る。簡単に言えば、如何なる出会いをも自分なりに生かすことです。

一つになるのがナムアミダブツです。病気を嫌ったり、悪口はつまらないでは、いつまでたっても二つです。マイナスが多くプラスが最小になるから、生きてても面白くありません。ナムアミダブツで一つになるのが大切です。

西洋で一番深い考えの人といわれるプロチノス(204~270)は、「一なるもの」(一者)を説かれ合一されました。一つなるものを考えただけではなく、どうして一つになれたのか。私はその頃の大事な本のすべてを何年もかかって何べんも調べましたが、その方法が見つかりませんでした。プロチノスの先生はおシャカさまの系統の方ですから、瞑想や念仏のような方法があったに違いないが、いろいろの本のどこにも出ていませんでした。私はキリスト教のことは詳しく知っていますがそのような方法がない。それを思うと、今、座禅したり念仏したりと、一つになる方法がわかっているのは有難いことです。これは法然上人のおかげです。法然上人がお経のすべてを何べんも読まれて、ナムアミダブツでまとめて下さった。親鸞聖人という偉いお方がお弟子になられてナムアミダブツが日本中に広まって今でも続いている。

要は一者と一つになることです一者はいたる処に存する。ギリシャ語でパンタヒューといいます。パンとは何処にもという意味です。この本堂の中にも外にも、皆さんの内にも外にもどこにでもいる。いたる処に存するはずなのに、且つどこにも存しない。それをウダムといいます。これはプロチノスの著作集の第三編九章四節に出ています、良い言葉でしょう。

アミダさまはどこに居るかと尋ねられても、何処にでも居るのに此処に居ると見せることが出来ない。これを仏教で如来蔵縁起といいます。おシャカさまが縁起をサトッタのが仏教の基になりました。今から千五百年くらい前ナムアミダブツが仏教の総まとめとして結晶する頃に如来蔵縁起の考えが出来ました。如来さまが蔵の中に隠れている。どこへ隠れているか。私たちの煩悩の下に隠れているという考えです。煩悩とは自分勝手ということです

吸う空気を作ることはできない。みんなが飲む水にいつも不自由しないだけの雨を降らすこと等も出来ない。心臓が眠っていても止まらない。そういう大自然のいのちのおかげがあるから、如来さまは皆さまの煩悩の下に隠れているという説明が出来たのです。自分勝手が出来るのも、如来さまが護っていて下さるからだということです。

ナムアミダブツというのはどういうことかというと、皆さんの自分勝手の煩悩という濁った心の蓋をガラス張りにすることです。皆さまが生きられる命、その命の下に如来さまのお護りがあると解ってくると、イライラしたり情けない気持ちはなくなります。そこを決めていくのがナムアミダブツです

プロチノスが言った言葉で一番深い言葉は、「一者は至るところに存するのみならず、且つどこにも存しない」という言葉です。者はいたるところに存するとは、何処に居て何をしていても、いつでも一者と一つになれるということです。悪口を言われても、病気になっても一つになれるそれが解らないのは、我々の煩悩が蓋をしているからでそうするとどこにも存しないということになるが、護ってもらわなければ自分勝手も出来ない。病気をしてもつまらないとか悪口を言われて腹が立つというのは、心に蓋をしているからです心の蓋がガラス張りにすれば、いのちの親であるアミダさまがありがたくなるし、皆さまみんな如来さまになれます此の手は自分でこしらえたものでも買ってきたのでもない。此の手はアミダさまです。だから大事にしなければならない。わたくしは何時でも手をさすっています。足もさすります。夜中に目が覚めてもナムアミダブツと称えます。夜中に目が覚めることを苦にする人がいますが、目が覚めたのはまだ生きているおかげです。わたくしは夜中に目が覚めると勿体ないと思う。アミダさまのおかげだと念仏を称えます

アミダさまとはいのちの親さまです。難しくいえば生命の根源です。根源とは元ということです。わたくしどもが生きられるのは元が無ければなりません。自分で命を造る訳にはいきません。自然に生まれて生きている。どう生きられるかというと、花が咲く、鳥が飛ぶ、そういう大自然のいのちの恵みにつながっているから、人間が生れてきて毎日生きられている。腹を立てたり、威張ったり、羨んだりしていると心に垢がたまって死ぬ時にどちらに往くとよいか分からなくなる。阿弥陀さまとはとにかく、いのちの根源のことです。そこへ還らなければ還るところはありません。悪口を言われた時でも、病気になった時でも、夜中に目が覚めた時でも、心を覆っている煩悩の板がガラスのようになれば如来さまと一つになります。「一者は至るところに在る」が「どこにも存しない」というのは煩悩の板を透明なガラスにすればみな透き通って見えるということです。見えるのがいのちの根源です。判り易く云えば命の親さまです

『華厳経』を読むと、わたし達は仏さまと異ならないと分かります。わたくしたちの手の先から足の先まで皆仏さまです。わたくしどもはアミダさまです。皆さまは自分の手をこしらえたり、買って来たりすることはできません。いくらお金をかけてロボットの手を造ったとしても、自分の手にはかないません。私たちの手はアミダさまの手です。わたくしは此の手が動くだけでお金をどれほどもらうよりも有難い。その様な気持でいると、ひとりでにナムアミダブツ、ナムアミダブツと称えずにはおられない気持ちになる。つまり自分で自分を拝むこと、それが根本です。自分で自分を拝めない方はアミダさまを拝むことは出来ません。それは自分とアミダさまと二つになっているからです。一つになっておれば、自分が自分を拝むということになる。自分で自分を大切にしなけらばならない。自分を粗末にしてはいけません。人さまが自分を馬鹿にしたといって腹を立てていますが、その前に自分が自分のことを馬鹿にしていませんか。

鼻が低いと嘆くが、高い人も低い人も一緒に息が出来るから勿体ない。勿体ないなと思えば、鼻は低いが、穏やかな顔つきとなる。それがマイナスを最小限度にするということです。ナムアミダブツと病気でも拝まなければなりません。病気を情けないと思っていると、病気も長引く。一つになるとはそういうことです。自然は一つひとつ皆違います。花も一輪一輪違います。もちろん人間も一人ひとりが違います。違うからよいのです。

子供の学校の成績が悪いと苦にしている方もいますが、子供の出来が悪いから、寺・宮へ詣ろうという気持ちになった方もいます。出来が悪い子が詣らせてくれたようなものです。出来の悪い子供のおかげで寺へ詣れるから、有難いと拝むとよい。そういう気持ちになると子供もよくなる。病気でも拝まなければなりません。病気を情けないと思っていると、病気も長引く。一つになるというのは、分かり易く云うと拝むことです

『華厳経』には、わたくしたちは仏と違うことはないと書いてあります。『涅槃経』には、「我とは如来蔵の義なり」と書いてあります。損得計算の煩悩の板の下に隠れているのが本当の自分です。ただし見えないから本当の自分がわからない人がほとんどです。隠れている間はお金のことばかり考えて、自分がお留守になっている。だからこそ心に蓋をしている煩悩の板を透明なガラスにして、人はみな自分に出会わなければなりません。わたくしが自分に出会ったのは五十年余り前です。一心にお念仏をしていたら、真実の自分がわかった。それまでは自分を外に求めていましたが、心の中に自分がはっきりした。自分ということがはっきりしなかったら、お金とか出世とか、外にばかり気をとられていたと思います。それでは見苦しい。

『勝鬘経』には、「如来法身は煩悩蔵を離れざる、如来蔵と名づく」とあります。法身とは、法の通り(自然の通り)に動いているということです。地球が回るのも太陽が照らすのも、春になるのも秋になるのも法身です。如来の法身は煩悩蔵を離れないとは、心に損得計算の蓋をしている状態では本当の自分は、どうなっているのかということです。

いくら悪口を言われても、手が動く有難さに目を向ける。悪口を言われたことにだけに気を取られるから腹が立つ。悪口を言われても、手は動くしご飯もいただける。勿体ないなと思いわずにはおられない。

自分が自分をつまらないと決めると世の中もつまらなくなります。心の上に煩悩の板の蓋をすると、困ったことづくめで息がつまってしまいます。それをナムアミダブツでガラスにすると、いのちのおかげが透けて見える。手が動くだけでも歩けるだけでも、多くお金をもらうよりも有難い。夜中に目が覚めるのも有難いと思えるようになる。

日暮をしていく上に、いろんなことに於いてプラスが最大、マイナスが最小になると生活は豊かになります。これは本を読んでいるからとかお金がたくさんあるからとか、高齢とか若いとか、それらとは全く関係ありません。ナムアミダブツを称えていると、煩悩の板で隠れていた如来さまが感じられて、ひとりでにわかってくる。自然というのはそういうことです。ナムアミダブツ、ナムアミダブツと称えるのは自然なのです。ナムアミダブツを称えないのでは心に煩悩の蓋をしているのだから、いのちのおかげがわからない分からないから損得とか、つまるつまらないということばかり考えていると余計つまらなくなります。

いのちの支え、守り、おかげは下に隠れていて表には出て来ません。これがガラス張りになりさえすれば、手が動くだけでも喜べるようになります。そこを心にサトッテ、わかってきたら、今までの文句は半分になります。そういう生活が段々と自然にでき出すと、今までとは大違いの心持が深まる。それを今日からすぐにやれるようになるためには、ナムアミダブツ、ナムアミダブツと称えるのが手っ取り早い。一番やり易い。ナムアミダブツは宗教や宗旨・宗派とは関係のないインド語です。

せっかく生きていくのですから、自分で自分を窮屈にして損を多く得を少なくすることはありません。いつでも自分で自分を拝めるような気持ちを深めていけば、人さまも信用して下さるようになるし、またそういう生活が決まってくれば、お浄土といわなければならないようになる。生きている時から決まっていて、死ぬ時もそれに違いない。死後もそれしかない。そういう日暮しが実ってくる。そこを無量寿・無量光といいます。

お浄土が何処かに存在するわけではありません。難しいことをするから心が深まる訳ではありません。一人ひとりのいのちがナムアミダブツの日暮らしで深まってくる。ナムアミダブツ、ナムアミダブツとよろこびの日暮らしをする間にそうなる。そこを浄土というのです。

無二

『書く、念ずる、生きる 書の浄土』 (小泉秀観師著)

第六章 書と人間

一問一答 山本空外師に聴く

20年近くの縁が熟しての出会い

「人生の目的は人に会うというとだ」といった人がいる。「書は人なり」という言葉に即して言えば、書を書き、或いは観ることの目的も「人に会う」ことだといえる。それも、真の人に出会うことが出来れば本望であろう。私は仏縁と書道の縁で、この真の人に会うことが出来た。空外師である。本書の『不二の美への欣求』に引用させて頂いた西川知雄教授の手紙で言及されていた不二(無二)の哲学者、山本空外博士である。昭和42年2月に師の存在を知り、それから20年近くを経て、機期が純熟して真の人、宗教者、書家としての空外師に出会えたのであった。私は或る時師との一問一答を記録したのであるが、今此処に紙幅の許す限り師の言葉を書き留めておきたい。

筆を生かし紙を生かし墨を生かす

  • 山本先生のおっしゃる「無二的書道」について、もう少しお聞かせ願いたいのです。

空外 書は、誰でもその人なりにかける訳です。筆だけでなしに、紙に書く場合なら筆と紙と私を動かせていきます。紙が古ければ古いように、新しいなら新しいように、掠れや滲みが出る。また、古い筆も善し悪しがあって、上等になればそれが又何ともいえぬ味わいがあり、紙の持ち味が生かされる。墨も同じで、良い古い墨を使っても、新しい墨のようにしか書けなかったら値打ちがない。古い墨には、その味わいを生かす磨り方がある。また、墨の磨り方といえば、墨を生かせるような硯の良し悪し、使い方がある訳ですね。そのようにして書道といっても、「無二の関係」が一通りや二通りではないのです。このような無二的な関係の総合、繋がり合いの上に書は成り立っているわけで、それを私は一口に、無二とか無二的書道というわけです。結局は自分がそれぞれ無二的な総合の根本であって、自分というものが主体になっていく。ただ主体といっても、自分勝手なものじゃなしに、相手を生かし切っていけるような、そういう自分なのです。相手を生かそうとして自分も高まり、そこに紙の良さも筆の味わいも出てくる。そのようにしていくと、それが楽しめていきますね。相手を生かすことで自分も楽しみを深め、進めていける。それが無二なのです。

「書の浄土」は無二的な道において聞かれる

空外 今あなたが言われた「浄土」ということも、そういう無二的な道において開けるものでしょう。自分とは関係なしに、どこかに存在するような浄土じゃない。どこまでも自分なりの生活が深まり、しかも相手を生かしながら楽しんでいける。そういうところに浄土の道が開かれると思いますね。浄土は彼岸と言い換えても良いのですが、自分の毎日の生活が人と繋がって、それを実らせ切っていくべきだと思いますね。その無二的な関係が浄土なのです。立体的に、総合的に、技術とか思想というものに実り合っていく。それが無二であって、そういうところに平和的な文化が成り立つわけです。そういう意味で、無二的文化といえるものが浄土でしょう。ですから私のいう無二的というのは、無二的書道、結局は無二的人間ということなのです。

  • 無二とは、一に対する二ではない、つまり対立がないということですね。そうしますと「無有好醜の願」にございますように、見好きもの、醜いものはない、という世界ですね。

空外 そうですよ。そういうふうな方向に繋がりを持って行く。そして実っていくわけです。理念だけでなしにね。生活上に実っていく豊かさというか、楽しみというか、極楽というのが、楽しみの中身じゃないかと思いますね

  • 「二辺を離れて中道を行ず」といういき方をもう少し展開されたようなことでしょうか。

空外 二辺を離れて中道を行ずるという形式的なことではなく、やはり一人一人がそれで生活できるもので無けりゃね。どういう中身かといえば、共々に生かし合えるものでなくてはいけない。自分だけできれば他人はどうでもよいという別々の多様性では無しに、それぞれ違う人間が自ずとその人なりのものを生かし切っていくというものでなくてはならんでしょう

形の奥に踏み込んで相手を生かせ

  • 臨書についてお聞きしますが、人はとかく形を写すことに囚われてしまいます。

空外 そうですよ。臨書では当てはめ方をどうするかというように、形に重点が置かれますが、しかし、形のその奥に、筆そのものを自分なりに生かしていくことが大事なのです。筆だけでなく、墨でも硯でも同じです。自分が相手を絶えず自分勝手にするんじゃなしに、相手の良さを生かさなくてはいけない。それが生かせる自分にならないと、結局は自分をも生かせないことになるんですね。それが出来るようになれば、世間的な利害関係を超えた喜びや、心に依る繋がりを感応して、有難いと思えるようになるでしょう。具体的に文化としては、それが書道で実るのです。そのようなことを予想しながら臨書をすれば、なお臨書がね、生きてくるのでないでしょうか。

無二的自己は自己教育から

  • そうやって生涯、まだまだこれからだというふうに求め続けていくこと、これが「無量寿の書」ということになる訳ですか。

空外 まったくです。無量寿に生きなければね。

  • 無量寿に生きるとおっしゃいましたが、本来の性に還れば誰もがそういう書が書ける、それに気付けということでしょうか。先生は「行を行ずる」ともおっしゃっていますが。

空外 それはつまり教育の問題で、教育の根本は自己教育ですよ。たいていの人は先生が生徒を教えると考え、かたちからいえばそうなっているけれど、生徒も先生もみんな自己教育だと思いますね。その自己教育を離れると、先生が悪いとか生徒がつまらんといったことになってしまう。そういうことはない訳です。つまらんような生徒に依って、また自分が掘り下げられることもあります。とにかくその主体を自己におかないとね。先生が悪いとか、社会が悪いとかいう考え方は、少し足らんのじゃないかと思いますね。社会が悪いといっているのは、自己の主体性を反省することが足らんのではないかと思いますね。ちょっと考えると無理もないし、社会を恨むようなことは人情としては判りますが、私は結局のところ、社会は良いも悪いもないと思いますね。たとえば法然上人の時代は、頼朝が弟の義経を殺すような時代であった。にも拘らず、その時代に法然という人が出ているのです。ですから矢張り、時代ではなくて、自分の問題に帰するのじゃないですか。

  • その、自分の教育というのは、仏知見に因ることでございますか。仏の智慧に照らされて判るのでしょうか。

空外 仏というのは自己のことですよ。悟りなのですからね。悟るのは自分が悟らにゃ。お釈迦さまがご自分で悟られたようにね。いくらお釈迦さまの話を上手に出来ても、自分が手本を示せなければ、ただ上手に話が出来るというだけのことでしょう。

  • 先生が「お釈迦さまの噂話をしていてもダメだ」といわれるのは、ここですね。

空外 そうですよ。それを原点にせにゃね。

所は自然に肇まる

  • 書道で下手だということも、本来の面目に帰れば、誰も良い字がスッとかけるものなのでしょうか。

空外 そうです。自分で勝手に枠を作っているのです。そうすると、観自在菩薩のようには自由自在にならんですね。不自然になるわけです。ところが、自然界には枠はないですよ。自然のままにして、勝手な枠は作らない方が良いのではないか。だから「書は自然に肇まる」ということなのです。

  • 書道で点と画とかの関係ですが、点と線はどのように連続しているのか、点の一点一点の中に私というものが投入されているのかなどと考えてしまうのですが。

空外 結局、書でも絵でも点と線で書くのですから、点が本当に打てれば線も書けるのです。点がいい加減になっていると、線がどうしても...。

  • 一点一点に今を書くと申しますが、芸術的瞬間を刻々に、今現在、筆が一点一点を本当に書いていれば線が書けるということですか。すると、今に生きるというか、今本当に生きて、これが非連続の連続をしているというのが線なのですね。われわれの生き方も、今瞬間に生きていること、そのものが一つの浄土であり、そこに生きているということですね。

空外 そうです。「一つ」ということは「点が動く」ことでして、その点は普通に静止しているようなのを点だと思いますが、そうではなく、動く点です。今生きているいのちです。いのちの時間というのが、点の中身なのです。

  • そういうところからも「間」ということが解ってまいりますね。非連続の連続とか「前後際断」という道元さんの言葉も、すとんと胸に落ち着きます。

空外 いのちの時間の中身がない場合、嫌だとか不安だとか、上手に書きたいとか、そんな気持ちがあれば間違ったり疲れたりしますでしょうね。ところが、自分が生きて一点に投入していると、疲れも知らずにいられる。それだけでも大事でしょう

  • ありがとうございました。